聖書の言葉 使徒言行録 5章12節~16節 メッセージ 2024年10月20日(日)熊本伝道所朝拝説教 使徒言行録5章12節~22節「初代教会の成長」 1、 主イエス・キリストの恵みと祝福がお集まりの方々一同の上に豊かにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。 今朝の説教題を「初代教会の成長」としました。先ほどお読みしました、5章12節から16節はエルサレム神殿の中に拠点を置いている初代教会、それも初代も初代、まさに生まれたばかりの教会の成長と恵み溢れる働きの有様であります。 あらためて読みますと、二つのことに気が付きます。一つのことは、ここの記された初代教会の盛んな様子が、すぐ後に記されている教会へのエルサレム当局からの大きな迫害の原因となってなったということです。次のページの初めの17節の冒頭には「そこで」という言葉があります。「すると」と訳している聖書もありますが、初代教会の恵み溢れる有様が大祭司と仲間たちの嫉妬心を呼び起こして、使徒たちが逮捕されると言う迫害につながりました。良いこと、素晴らしいことの次には、悲しいことや苦しいことがある、これを繰り返しながら教会は歴史を刻んで行くと言うことだと思います。 二つ目のことは、使徒言行録の著者ルカは、ここではあたかもカメラをぐっと引いて遠くから教会の様子をやや客観的に見ていることです。 先週お読みした5章前半のアナニアとサフィラの物語とか、4章の美しの門の奇跡やそれに続く裁判のところは、そうではなくて、カメラを近づけて、個別の登場人物の動きとかセリフを描いていましたので、それとは明らかに違っています。 こんな風に、教会の様子を、いったん遠くから眺めるように取りまとめている個所をまとめ聖句と言いますが、それは、今朝の個所の前にも二か所ありました。聖霊降臨、ペンテコステとペトロの伝道説教に続く、2章の最後の部分でありますし、また逮捕されたペトロとヨハネが釈放された後の祈りに続いている4章の最後の部分です。そういう意味で、今朝のみ言葉は3回目のまとめ聖句です。 2回目のまとめ聖句の4章の最後の部分には、おもに教会の経済生活と互いの献身、分かち合いの様子が記されていました。その33節にはこう記されています。「使徒たちは大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から好意を持たれていた。」。最初の迫害にもめげず、使徒たちが大胆にみ言葉を語り続けている様子が記されていました。 今回のまとめ聖句の中心は、使徒たちによる言葉による伝道ではなくて、「しるし」と「不思議な業」であります。病気で苦しむ人々や悪霊に悩まされる人々が、使徒たちの手によって次々と救われています。使徒たちの手と言いますのは、ちょうど主イエス様が病の人に手を癒されたように、使徒たちもまた自らの手を用いて、主イエス様の恵みがあるようにと祈ったのだと考えられます。力は使徒たち自身にあるのでは、主イエス様から来ます。また、この恵みの業を見守るエルサレムの町の人々の様子も記されています。 生まれたばかりの教会は、あの美しの門の奇跡をきっかけとした最初のユダヤ人たちからの迫害を経験したあと、心を一つにして神に祈りました。その祈りは主に二つのことでした。 第一は、4章29節にあるように、「これからも大胆にみ言葉を語ることが出来るように」と言う祈りです。祈りが終わると、神の聖なる霊の臨在があり、その場所が揺れ動いたことが記されています。そして、そのあと使徒たちが聖霊に満たされて継続的に神の言葉を語り、そして今に至ることが書かれています。 第二の祈りは、4章30節です。彼らはこう祈っています。「どうか御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒され、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」 今朝のみ言葉が語るのは、この第二の祈りが具体的に応えられたということです。宣教の業のキックオフのように行われた祈祷会で祈った通りのことが、成し遂げられているということです。初代教会は大胆に主イエス様の復活とその力を語り、それだけでなく、病気や悪霊によって苦しめられている人々を癒し続けました。言葉による福音の宣教と愛の業による人々の救済、世界の救済、この二つのことは、今も昔も変わらない教会の使命であると思います。 2、 今日のみ言葉は、アナニアとサフィラの悲劇的な事件を経験した教会のその後の有様をまとめたものです。そして、この恵みの有様が、後の5章後半のユダヤ人からの大規模な迫害のきっかけとなりました。 最初の迫害では、主イエス・キリストの名によって足の不自由な人をよっていやしたペトロの堂々たる伝道説教が引き金でした。多くの人々が十字架に死んだ主イエス様の復活と恵みを信じたのです。これを見た神殿祭司長やサドカイ派が、ペトロとヨハネを捕らえました。今朝のみ言葉に続く5章後半の迫害は、ペトロとヨハネだけでなく、「使徒たち」とありますように使徒たちが根こそぎ捕らえられたのです。教会の目ざましい働きと人々の反応が、大祭司とその仲間の嫉妬を引きおこして、第二次の、更に大きな迫害の引き金となったのです。教会の恵み溢れる有様をもう一度見てみましょう。 12節の後半から13節をもう一度お読みします。「一同は、心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかのものは誰一人としてあえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし民衆は彼らを賞賛していた」。一同が心一つになって集まること、それは大きな喜びであり、神様の目にかなうことです。 さて、ここには三種類の人びとが存在してます。「一同は」と呼ばれている12使徒、そしてまた彼らと共に愛の生活を送る人々、つまり信者たちです。その集まる場所はエルサレム神殿のソロモンの廊でした。ソロモンの廊とその周りにいつも集まり、また生活も共にしていました。「ほかのもの」とは、エルサレム神殿にいるそれ以外の人々でしょう。彼らは、仲間に加わりません。そこには、使徒たちを憎んでいる祭司やレビ人、神殿警備隊、そしてまた、遠目で信者たちを見ている一般の人びとも含まれています。そして「民衆」と言われているのは、イスラエルの民という言葉で、彼らを取り巻いている多くの人々のことです。 ここで起きたことの特徴は、使徒たちによる癒しの奇跡です。「使徒たちの手によって」と書かれているのは、文字通り、使徒たちが手を置いて祈ったことを示しています。連れて来られた人、また連れてきた人が信者の集団に加わろうとしなかった人であっても、病人や穢れた霊に悩まされている人に対して、使徒たちは積極的にその人たちをいやしたのです。あの生まれながらに足の不自由な人のように、そのことをきっかけに神を信じるようになり、使徒たちの仲間に加わった人もいたと思います。またそうではなく、癒されてそのまま家に帰った人、つまり信者にはならなかったけれども、信者たちを賞賛する人々となった人もいたと思います。つまり、ここでは癒しは、人々を信仰に引き入れる手段とはなっていないのです。ただ癒し助けることが目的です。 災害支援や様々な事情で生活困難な状況にある方々を助ける働きが多くの教会によって行われています。わたしたちが関わっています「九キ災」や「能登ヘルプ」の働きは、純粋に助ける働きであって、人々が主イエス様を信じるようにさせるためのものではありません。そんな下心のあるものであってはならないのです。信者を増やすというような直接的な伝道と一線を画しているのです。それはふさわしいことであり、意味のあることであると思います。 15節に、使徒たちの影だけでも病人にかかるようにした行動が描かれています。使徒たちを特別の奇跡の力を持つ人として崇める人が現れたことを示しています。使徒たちは、あくまで自分の力ではなく、主イエス・キリストの名が人々をいやすと言っているのですが、ここでは、人間の神格化が起きてしまっています。聖書は、ここではそのことの是非には触れず、当時の民衆の使徒たちへの賞賛ぶりをあらわすエピソードとしてこれを語っています。 ユダヤ人たちによる三回目の迫害は、このような人々の賞賛に対して既存の宗教指導者が嫉妬したことです。妬みが原因であったと17節に記されます。前回の迫害は、ペトロとヨハネが神殿の秩序を乱したことが表向きの理由でした。また彼らは、主イエス様復活の証しに、自分たちがしたこと、つまりスイエス様の処刑への批判を見たのだと思います。今回は妬みと言う、感情的なものがそこに加えられましたので、迫害は前回よりも激しくならざるを得なかったのです。 3、 初代教会の成長ぶりは目覚ましいものでした。14節には「そして多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」とあります。すでに、ペトロのペンテコステ説教の際には、一日に3000人が洗礼を受けて仲間に加わっています。また、美しの門の奇跡の時には、男だけで5000人が仲間に加わったと書かれていました。その後の伝道の結果、それに加えて、更に多くの人々が主イエス様を信じる信仰を頂いたのです。ここで初めて、女性がこの群れに加えられたことが記されます。12使徒は、イスカリオテのユダの代わりに立てられたマッティアも含めて全員が男性でした。しかし、それほかの主イエス様の弟子とされる人々の中に多くの女性がいたことが明らかになっています。主イエス様が昇天、天に帰られた後の連続祈祷会に集った人々は1章14節によれば、11名の使徒以外に、男性の弟子たちと婦人たちと呼ばれる弟子たち、そしてイエスの母マリアを含む120名であったと記されています。初めから共にいた女性たちにさらに多くの女性たちが加わりました。 ユダヤ教では、女性は、エルサレム神殿の「婦人の庭」と言うところで足止めされて、そこから奥に入ることは出来ませんでした。しかし、初代教会では、主イエス様が地上で旅をしている時から、女性たちも主イエス様と行動を共にしましたし、主イエスご自身が、男性の弟子たちの消極姿勢と反対に、自ら、いろいろの立場の女性たちと語り合い、福音へと招いてくださいました。そのため、女性たちが教会に次々と加わることは全く当然のことであったのです。 15節には、人々が病人を大通りに運び出したと記されています。使徒たちの働きが、エルサレム神殿の中だけではなく、大通り、つまりエルサレム市街地にまで広がっていたことが分かります。 さらに、16節には、多くの困難な状況に置かれた人々が、エルサレムだけでなく、付近の町々からも連れて来られたと書かれています。 福音宣教と癒しの働きは、エルサレム神殿の中のソロモンの廊と言う神殿の一角から始まり、やがて神殿に集ってくる人々皆が、彼らのことを知るようになり、ついにはエルサレムの町全体、さらには近郊の町々まで拡大して行きました。使徒たちはまだ、エルサレム神殿を中心に活動しているようですが、彼らのことは、エルサレムの町以外の付近の町の人々にまで伝わっていたのです。 このあとの8章まで行きますと、ファリサイ派時代のパウロ、その当時はサウロですが、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らして、人々を牢に送ったと書かれていますから、このあと、たくさんの家の教会がエルサレムの町や近郊に広がって行ったことが分かります。 4, 今朝のみ言葉の最後にこう書かれています。「またエルサレム付近の町からも、群衆が病人や穢れた霊に悩まされている人々を連れて集まってきたが、一人残らず癒してもらった」 「一人残らず」とあります。例外はなかった、どんな人も癒されたということです。使徒たちが手を置き、天におられる主イエス・キリストの名によって祈るとすべての人がいやされました。使徒たちの手は、主イエス・キリストの働きをもたらす道具でした。主イエス・キリストの力が働く時、不可能なことはなく、癒されないと言うことはなかったのです。 わたしたちの教会は、小さな教会です。しかし、わたしたちが、このところに毎週集って礼拝を捧げる時、そこに主イエス様は確かにいて下さいます。一人の例外もなく主イエス様の働きがある、このことを信じて、主により頼んでまいりましょう。祈りを致します。 祈り 天の父なる神さま、生まれたばかりの初代教会のように、わたしたちの小さな群れにあなたの恵みを注いでください。心一つにして集まり、御言葉の宣教と人々を助ける愛の働きにあずかることが出来ますよう、同か導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2024年10月20日(日)熊本伝道所朝拝説教
使徒言行録5章12節~22節「初代教会の成長」
1、
主イエス・キリストの恵みと祝福がお集まりの方々一同の上に豊かにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。
今朝の説教題を「初代教会の成長」としました。先ほどお読みしました、5章12節から16節はエルサレム神殿の中に拠点を置いている初代教会、それも初代も初代、まさに生まれたばかりの教会の成長と恵み溢れる働きの有様であります。
あらためて読みますと、二つのことに気が付きます。一つのことは、ここの記された初代教会の盛んな様子が、すぐ後に記されている教会へのエルサレム当局からの大きな迫害の原因となってなったということです。次のページの初めの17節の冒頭には「そこで」という言葉があります。「すると」と訳している聖書もありますが、初代教会の恵み溢れる有様が大祭司と仲間たちの嫉妬心を呼び起こして、使徒たちが逮捕されると言う迫害につながりました。良いこと、素晴らしいことの次には、悲しいことや苦しいことがある、これを繰り返しながら教会は歴史を刻んで行くと言うことだと思います。
二つ目のことは、使徒言行録の著者ルカは、ここではあたかもカメラをぐっと引いて遠くから教会の様子をやや客観的に見ていることです。
先週お読みした5章前半のアナニアとサフィラの物語とか、4章の美しの門の奇跡やそれに続く裁判のところは、そうではなくて、カメラを近づけて、個別の登場人物の動きとかセリフを描いていましたので、それとは明らかに違っています。
こんな風に、教会の様子を、いったん遠くから眺めるように取りまとめている個所をまとめ聖句と言いますが、それは、今朝の個所の前にも二か所ありました。聖霊降臨、ペンテコステとペトロの伝道説教に続く、2章の最後の部分でありますし、また逮捕されたペトロとヨハネが釈放された後の祈りに続いている4章の最後の部分です。そういう意味で、今朝のみ言葉は3回目のまとめ聖句です。
2回目のまとめ聖句の4章の最後の部分には、おもに教会の経済生活と互いの献身、分かち合いの様子が記されていました。その33節にはこう記されています。「使徒たちは大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から好意を持たれていた。」。最初の迫害にもめげず、使徒たちが大胆にみ言葉を語り続けている様子が記されていました。
今回のまとめ聖句の中心は、使徒たちによる言葉による伝道ではなくて、「しるし」と「不思議な業」であります。病気で苦しむ人々や悪霊に悩まされる人々が、使徒たちの手によって次々と救われています。使徒たちの手と言いますのは、ちょうど主イエス様が病の人に手を癒されたように、使徒たちもまた自らの手を用いて、主イエス様の恵みがあるようにと祈ったのだと考えられます。力は使徒たち自身にあるのでは、主イエス様から来ます。また、この恵みの業を見守るエルサレムの町の人々の様子も記されています。
生まれたばかりの教会は、あの美しの門の奇跡をきっかけとした最初のユダヤ人たちからの迫害を経験したあと、心を一つにして神に祈りました。その祈りは主に二つのことでした。
第一は、4章29節にあるように、「これからも大胆にみ言葉を語ることが出来るように」と言う祈りです。祈りが終わると、神の聖なる霊の臨在があり、その場所が揺れ動いたことが記されています。そして、そのあと使徒たちが聖霊に満たされて継続的に神の言葉を語り、そして今に至ることが書かれています。
第二の祈りは、4章30節です。彼らはこう祈っています。「どうか御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒され、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」
今朝のみ言葉が語るのは、この第二の祈りが具体的に応えられたということです。宣教の業のキックオフのように行われた祈祷会で祈った通りのことが、成し遂げられているということです。初代教会は大胆に主イエス様の復活とその力を語り、それだけでなく、病気や悪霊によって苦しめられている人々を癒し続けました。言葉による福音の宣教と愛の業による人々の救済、世界の救済、この二つのことは、今も昔も変わらない教会の使命であると思います。
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今日のみ言葉は、アナニアとサフィラの悲劇的な事件を経験した教会のその後の有様をまとめたものです。そして、この恵みの有様が、後の5章後半のユダヤ人からの大規模な迫害のきっかけとなりました。
最初の迫害では、主イエス・キリストの名によって足の不自由な人をよっていやしたペトロの堂々たる伝道説教が引き金でした。多くの人々が十字架に死んだ主イエス様の復活と恵みを信じたのです。これを見た神殿祭司長やサドカイ派が、ペトロとヨハネを捕らえました。今朝のみ言葉に続く5章後半の迫害は、ペトロとヨハネだけでなく、「使徒たち」とありますように使徒たちが根こそぎ捕らえられたのです。教会の目ざましい働きと人々の反応が、大祭司とその仲間の嫉妬を引きおこして、第二次の、更に大きな迫害の引き金となったのです。教会の恵み溢れる有様をもう一度見てみましょう。
12節の後半から13節をもう一度お読みします。「一同は、心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかのものは誰一人としてあえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし民衆は彼らを賞賛していた」。一同が心一つになって集まること、それは大きな喜びであり、神様の目にかなうことです。
さて、ここには三種類の人びとが存在してます。「一同は」と呼ばれている12使徒、そしてまた彼らと共に愛の生活を送る人々、つまり信者たちです。その集まる場所はエルサレム神殿のソロモンの廊でした。ソロモンの廊とその周りにいつも集まり、また生活も共にしていました。「ほかのもの」とは、エルサレム神殿にいるそれ以外の人々でしょう。彼らは、仲間に加わりません。そこには、使徒たちを憎んでいる祭司やレビ人、神殿警備隊、そしてまた、遠目で信者たちを見ている一般の人びとも含まれています。そして「民衆」と言われているのは、イスラエルの民という言葉で、彼らを取り巻いている多くの人々のことです。
ここで起きたことの特徴は、使徒たちによる癒しの奇跡です。「使徒たちの手によって」と書かれているのは、文字通り、使徒たちが手を置いて祈ったことを示しています。連れて来られた人、また連れてきた人が信者の集団に加わろうとしなかった人であっても、病人や穢れた霊に悩まされている人に対して、使徒たちは積極的にその人たちをいやしたのです。あの生まれながらに足の不自由な人のように、そのことをきっかけに神を信じるようになり、使徒たちの仲間に加わった人もいたと思います。またそうではなく、癒されてそのまま家に帰った人、つまり信者にはならなかったけれども、信者たちを賞賛する人々となった人もいたと思います。つまり、ここでは癒しは、人々を信仰に引き入れる手段とはなっていないのです。ただ癒し助けることが目的です。
災害支援や様々な事情で生活困難な状況にある方々を助ける働きが多くの教会によって行われています。わたしたちが関わっています「九キ災」や「能登ヘルプ」の働きは、純粋に助ける働きであって、人々が主イエス様を信じるようにさせるためのものではありません。そんな下心のあるものであってはならないのです。信者を増やすというような直接的な伝道と一線を画しているのです。それはふさわしいことであり、意味のあることであると思います。
15節に、使徒たちの影だけでも病人にかかるようにした行動が描かれています。使徒たちを特別の奇跡の力を持つ人として崇める人が現れたことを示しています。使徒たちは、あくまで自分の力ではなく、主イエス・キリストの名が人々をいやすと言っているのですが、ここでは、人間の神格化が起きてしまっています。聖書は、ここではそのことの是非には触れず、当時の民衆の使徒たちへの賞賛ぶりをあらわすエピソードとしてこれを語っています。
ユダヤ人たちによる三回目の迫害は、このような人々の賞賛に対して既存の宗教指導者が嫉妬したことです。妬みが原因であったと17節に記されます。前回の迫害は、ペトロとヨハネが神殿の秩序を乱したことが表向きの理由でした。また彼らは、主イエス様復活の証しに、自分たちがしたこと、つまりスイエス様の処刑への批判を見たのだと思います。今回は妬みと言う、感情的なものがそこに加えられましたので、迫害は前回よりも激しくならざるを得なかったのです。
3、
初代教会の成長ぶりは目覚ましいものでした。14節には「そして多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」とあります。すでに、ペトロのペンテコステ説教の際には、一日に3000人が洗礼を受けて仲間に加わっています。また、美しの門の奇跡の時には、男だけで5000人が仲間に加わったと書かれていました。その後の伝道の結果、それに加えて、更に多くの人々が主イエス様を信じる信仰を頂いたのです。ここで初めて、女性がこの群れに加えられたことが記されます。12使徒は、イスカリオテのユダの代わりに立てられたマッティアも含めて全員が男性でした。しかし、それほかの主イエス様の弟子とされる人々の中に多くの女性がいたことが明らかになっています。主イエス様が昇天、天に帰られた後の連続祈祷会に集った人々は1章14節によれば、11名の使徒以外に、男性の弟子たちと婦人たちと呼ばれる弟子たち、そしてイエスの母マリアを含む120名であったと記されています。初めから共にいた女性たちにさらに多くの女性たちが加わりました。
ユダヤ教では、女性は、エルサレム神殿の「婦人の庭」と言うところで足止めされて、そこから奥に入ることは出来ませんでした。しかし、初代教会では、主イエス様が地上で旅をしている時から、女性たちも主イエス様と行動を共にしましたし、主イエスご自身が、男性の弟子たちの消極姿勢と反対に、自ら、いろいろの立場の女性たちと語り合い、福音へと招いてくださいました。そのため、女性たちが教会に次々と加わることは全く当然のことであったのです。
15節には、人々が病人を大通りに運び出したと記されています。使徒たちの働きが、エルサレム神殿の中だけではなく、大通り、つまりエルサレム市街地にまで広がっていたことが分かります。
さらに、16節には、多くの困難な状況に置かれた人々が、エルサレムだけでなく、付近の町々からも連れて来られたと書かれています。
福音宣教と癒しの働きは、エルサレム神殿の中のソロモンの廊と言う神殿の一角から始まり、やがて神殿に集ってくる人々皆が、彼らのことを知るようになり、ついにはエルサレムの町全体、さらには近郊の町々まで拡大して行きました。使徒たちはまだ、エルサレム神殿を中心に活動しているようですが、彼らのことは、エルサレムの町以外の付近の町の人々にまで伝わっていたのです。
このあとの8章まで行きますと、ファリサイ派時代のパウロ、その当時はサウロですが、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らして、人々を牢に送ったと書かれていますから、このあと、たくさんの家の教会がエルサレムの町や近郊に広がって行ったことが分かります。
4,
今朝のみ言葉の最後にこう書かれています。「またエルサレム付近の町からも、群衆が病人や穢れた霊に悩まされている人々を連れて集まってきたが、一人残らず癒してもらった」
「一人残らず」とあります。例外はなかった、どんな人も癒されたということです。使徒たちが手を置き、天におられる主イエス・キリストの名によって祈るとすべての人がいやされました。使徒たちの手は、主イエス・キリストの働きをもたらす道具でした。主イエス・キリストの力が働く時、不可能なことはなく、癒されないと言うことはなかったのです。
わたしたちの教会は、小さな教会です。しかし、わたしたちが、このところに毎週集って礼拝を捧げる時、そこに主イエス様は確かにいて下さいます。一人の例外もなく主イエス様の働きがある、このことを信じて、主により頼んでまいりましょう。祈りを致します。
祈り
天の父なる神さま、生まれたばかりの初代教会のように、わたしたちの小さな群れにあなたの恵みを注いでください。心一つにして集まり、御言葉の宣教と人々を助ける愛の働きにあずかることが出来ますよう、同か導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。