聖書の言葉 使徒言行録 4章32節~5章11節 メッセージ 2024年10月13日(日)熊本伝道所朝拝説教 使徒言行録4章32節~5章11節「神の憐みと裁き」 1、 今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 先ほど読みましたみ言葉は、使徒言行録の4章の32節から5章11節までであります。いつもよりも長く、また珍しく章をまたいでお読みしました。皆様のなかには、今朝は、いつもより長く聖書を読んだとお思いになられた方もおられると思います。確かに一回の主の日に聞くみ言葉としては、長いみ言葉です。普通なら二回に分けて学ぶところですし、説教者によっては、ここから三回説教している人もおられます。4章32節から5章11節まで、今朝のみ言葉を思い切って長く取りましたのは、理由があります。それは初代教会の内部の有様、霊的な有様と経済的な様子が、また、良いことと良くないことが、ここに合わせて描かれているとおもったからであります。 わたくしは、経済的なことは教会にとって大変重要だと思っています。もちろん経済のことばかり考えている訳ではありません。経済のことよりも、教会員ひとり一人のことや教会全体の霊的な状態により大きな関心を抱いています。そちらの方がいっそう根本的なことです。だからといって牧師は経済の問題を考えなくてよいということではないと思います。なぜならば、教会員や教会にとって、経済の問題と霊的信仰的なことは、実は深くかかわっていると思うからです。 今朝のみ言葉は、聖書自体が教会員と教会の経済の問題という二つのことを大切なこととして記している個所です。具体的にいうと、ここに書かれている一つの主題は、捧げもの、献金のことであります。一人一人の信仰と献金の問題であると言って間違いではないと思います。わたしたちの信仰生活にとって、献金も問題は避けて通ることが出来ないことが記されていると思います。 さて、今朝のみ言葉の前半には、生まれたばかりの教会の恵み溢れる有様が記されています。32節をお読みします。 「信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」 「心と思い」、直訳すれば、「心と魂」ですけれども、二つはどう違うのかという区別を追求するよりも、ここは同じような意味の言葉を重ねて記していると考えたほうがよいと思います。同語反復的に強調されています。群れの人々の内面において強い一致があったのです。そして同時に経済的なことにおいても、そのこと、つまり群れの心が反映していたのです。 そして、ここには教会の大変麗しい様子が記されている、そのすぐ後に、大変悲しいこと、恐るべきことが記録されています。理想的に見えた教会の中で、人間の罪がいっそう顕わになっているのであります。説教題を「神の憐みと裁き」といたしました。ここでは、神さまの憐れみは間違いなく前提とされていますが、神の裁きのほうがいっそう強調されているように思いました。神の憐みを知ることと、自らの罪を知って神を畏れることは切り離すことが出来ないのだと思います。 2, さて思い起こすことは、ペンテコステ、聖霊降臨のすぐあとですが、2章のおわりにも、恵みにあふれる教会の有様が、記されていたことです。 少し長くなりますがお聞きください。2章43節から47節です。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは、皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので民衆全体から好意を寄せられた。こうして主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである。」 「一つ」になる、「心一つに」と言うように一つという言葉が繰り返されていました。また「喜び」と言う言葉と共に「畏れ」という言葉も記録されています。礼拝と交わり、神を賛美すること、また御言葉と礼典が重んじられ、その中で伝道が進展していったことが記されています。 実は、今朝のみ言葉は、この初代教会の理想的な有様をさらに具体的に記したものです。 3章から4章にかけてペトロとヨハネの美しの門の奇跡をきっかけにして起きた、いくつかの事柄が記されていました。驚きあっけにとられた人々を前に、ペトロが立って、説教をしました。そして、男性だけで5000人の人が主イエス様を受け入れたと4章4節に記されています。これを見たユダヤ教の当局者によってペトロとヨハネは捕らえられ、裁判にかけられました。これ以上主イエス・キリストの名を語ってはならないと脅されましたが、「わたしたちは見たこと聞いたことを語らずにはおられない」と言い残して、仲間のところに帰って来たのです。一同は、声を合わせて神に祈り、いよいよ福音を宣べ伝える決意を新たにしたのです。 今朝のみ言葉は、そのような中でいよいよ成長していった教会の姿であります。このとき、教会の会員数は1万人を超えていたであろうと思います。 彼らの心、思い、霊的なものは一致していました。一つでありました。つまり主イエス・キリストにあって一つに結びあわされていました。そして、そのそこには、互いを配慮し合う愛の交わりがそこにあったことが示されています。 「一人として、持ち物を自分のものだと言うものはなく、すべてを共有していた」 持ち物を自分のものと言わないということは、そのすべては神のもの、キリストのものであると信じていたことです。すべてがキリストのものであるならば、キリストが教えたように用いる。それが彼らの共通理解であり、その思いは一つであったのです。 そのような教会員に支えられて、教会には貧しい者がおらず、また使徒たち、つまり主イエス様と聖霊によって立てられた12人伝道者、主の証人たちは「大いなる力をもって」、主イエスの復活を証しし続けたのです。 それに続いて教会の経済に関わる具体的な様子が、34節35節に詳しく記されています。 そこでは、貧しい者への配慮がなされていました。一万人を超えるであろう会員たちの中に誰も貧しいものがないように、必要な物資やお金が配られたということです。信者の中で、土地や家を持っている者がそれらを売って捧げました。「使徒たちの足元に置き」と言う言葉は文字通りのことではありません。12使徒たちは、いつも献金を受けるために、決められた場所に座っていた、あるいは立っていたということではないのです。彼らは、あちらこちらに出かけてみ言葉を語り、また祈り、礼拝を導いていました。足元に置いたということは、捧げられたものが12人の使徒の管理のもとに置かれたと言いうことです。そのころは彼らが献金の配分を決めていと思います。使徒たちを助けて物資や金銭を届ける実際の働きをするものたちも組織されていた可能性があります。 人生のすべてを福音のために捧げた使徒たちに加えて、同じように、いわば出家をして、教会の働き手となった人々も多く与えられたと思われます。また、洗礼を受けたのちも、それまでと同じように社会の中で働き、自分の家や畑を持ちながら、信仰生活を送るものもの多くいたことでしょう。 33節の終わりの方に「皆、人々から非常に好意を持たれていた」とありますが、実は原文には「人々から」という言葉はありません。翻訳者が補ったものですけれども、他の翻訳では、「人々からの好意」ではなくて単に「恵み」、それも「大きな恵みがあった」と訳されています。新しく出ました聖書協会共同訳では「神の恵みが豊かに注がれた」と訳されています。 ここで、好意と訳されている言葉はカリスで、聖書の用い方では圧倒的に神の恵み、神の賜物をあらわす言葉です。宗教改革者のカルヴァンは、ここを「人々からの好意」と訳していて、新共同訳はカルヴァンの解釈と一致しています。けれども、ほかの多くの翻訳のように、ここは、人々からの好意ではなく、上からの大きな恵みを神からいただいた、それゆえに、イエスの復活の力強い証しも、信者たちの愛の交わりも行うことが出来たと理解するほうふさわしいと思います。麗しい理想的な教会の姿、それは上からの神の恵みの結果だったのです。しかしそれにもかかわらずアナニアとサフィラの悲劇が起きたのです。 3 36節と37節に、献金に関して、多くの信者たちの中で特に際立った人、模範となった人の例が記されています。キプロス島生まれ、つまりユダヤではなく異国で暮らすユダヤ人の子であったヨセフです。レビ族は、祭司の務めをする部族です。彼の父も、また彼自身も祭司であった可能性があります。キプロス島からユダヤに出て来て、おそらくキプロス島にもっていた畑を処分し代金を教会に捧げました。彼は使徒たちからバルナバ、慰めの子と呼ばれたとあります。実はこのバルナバは、後に教会の専従の働き手、伝道者となりました。使徒言行録11章では、バルナバは異邦人伝道のためにアンテオキア教会に派遣されます。そこで回心したパウロに会いにタルソスに行き、、アンティオキアに連れ帰って共に暮らしました。やがて、バルナバとパウロは、二人してアンテオキア教会から彼の故郷であるキプロス宣教に送り出されています。その様子は使徒言行録13章にその詳しく記されています。まさに教会の慰めとなった弟子、それがバルナバでした。 バルナバが畑を売って代金のすべてを捧げたのは、彼自身の自由な意志によるものです。統一教会やオウム真理教、あまたのカルト教団のように、イエス・キリストを信じるなら、財産をすべて処分して捧げよと強制されたのではありません。 このバルナバの模範例と対照的に記録されておりますのが、5章1節から11節のアナニアとサフィラの夫婦です。二人の罪は、二人で示し合わせて主の霊、聖霊を試したことだと9節に書かれています。またペトロは、アナニアに向かって、あなたは聖霊を欺いた、人間を欺いただけでなく神を欺いたのだと判決を下しています。 確かに、二人は土地を売って、その代金の全部ではなく一部だけを捧げました。しかし、そのこと自体は罪でもなんでもありません。ペトロははっきりと言います。 「売らないでおけばあなたのものだったし、また打っても代金は自分の思い通りになったではないか」 何が何でも全部を捧げなければならいということはないのです。あくまでその人自身の思い通りにしてよいのです。問題は、彼らが、一部を自分のために残してきながら、自分たちは全部を捧げましたと偽りを言ったことです。なぜ二人は、偽ったのでしょうか。それは教会の中で人々からまた使徒たちから栄誉を受けるため、賞賛されるためでした。彼らが、その一部であるにせよ、持っている財産を捧げたこと自体は良いことです。しかし、二人は何のために、それをしたのかという動機、その心が問われているのです。 主のためではなく自己満足のために持っているものを用いたのです。なによりも、信仰の行為という名目で、嘘をつき、自分を誇り、また賞賛されようとしたのです。 アナニアは、ペトロが罪を指摘しているさなかに倒れ、そのまま息を引き取りました。若者たちと呼ばれている使徒のもとに働く人たちが、そのなきがらを運び出して、おそらくエルサレムの街の外にある犯罪人用の墓に葬ったと考えられます。後から来た妻のサフィラも、同じように倒れて、息絶えてしまいます。 多くの注解者は、このアナニアをサフィラに対する神様の厳しい処罰、過酷な裁きは、初代教会に与えられた、一つのしるしであると言います。つまりこういうことです。通常は誰も見ることのできない神様の本当の裁きの有様をあえて見えるようにしてくださったというのです。 わたしたちは、アナニアとサフィラの夫婦を自分とは関係ないと言い切ることが出来ないように思います。わたしたちの捧げものと奉仕は、なによりも主イエス様のために、なされるものです。わたしたちは、わたしたちの捧げる捧げものが、本来、すべて神から来たものであり、神のものであるという信仰によったものかどうか、改めて吟味しなければならないと思うのです。捧げものは、その金額の大小ではなく、信仰による感謝の捧げもの、主のための捧げものである時だけ、主に喜ばれるのです。 4 わたくしは、洗礼を受けてから47年、また牧師になって24年です。教会に生きる生活をしている中で、わたしたち一人一人の信仰のあり方と経済の問題とは、深くかかわっていることをいつも思います。神様は、わたしたちが、どれ程お金を持つことが出来るかということよりも、わたしたちが与えられた経済的な恵み、富、それが沢山あってもそうでなくとも、とにかく与えられたその富をどのように用いるかに関心があるのだとわたくしは信じています。 そして主イエス様とその体とも言われる教会を愛して捧げる献金や奉仕は決して何か人々に誇るためにするものではなく、ただ神様への信仰によってすることだと思います。アナニアとサフィラは違っていました。すべてご存知の神様の前で、人間的な思いで教会を欺いて自分の信仰を誇ろうとしたのだと思います。 熱心に奉仕し、良い働きをしていた人が、自分よりも他の人が活躍しはじめたときに、良い思いを持たないということがあります。自分がないがしろにされたような気持ちに陥って、奉仕をやめてしまうのです。わたしたちは何のために、どのような動機で奉仕や捧げものをするのでしょうか。 私たちは、まだ罪の残りを背負ったものであり、途上のものです。わたしたちは、絶えず悔い改め、清めをいただきたいと思います。その中で、心も思いも主イエス様に向けて、主イエス様にあって一つになりたいと思うのです。 私たちは神様の前に立つとき、誰も完全な人ではありません。それをわきまえつつ、しかし互いに比較し合うような、人間的な思いを少しでも神様によって清めていただきたいと願います。 神様は、わたしたちの献金や奉仕が清い心でされることを求めています。わたしたちが心も思いも主イエス・キリストにあって一つになることを喜んでくださるのです。 今朝のみ言葉の最後の5章11節にこうあります、「教会全体とこれを聞いた人々は、非常に恐れた」当然のことであろうと思います。 2章の、教会の様子をまとめたみ言葉にも「恐れ」という言葉がありました。恐れは清さを生み出します。わたしたちは感謝と讃美、喜びが教会に満ち溢れように、いつも祈ります。それと同時に、わたしたちは「神様への恐れのこころ」も神様からいただきたいと願います。お祈りを致します。 祈り 神さま、今朝は初代教会の恵みに溢れる姿とその中で顕わにされた人間の罪について想いを新たに致しました。感謝を致します。上からの恵みの中で、わたしたちは、主にあってよい捧げものと奉仕が出来ますよう導いてください。主イエス様の名によって祈ります。アーメン。
2024年10月13日(日)熊本伝道所朝拝説教
使徒言行録4章32節~5章11節「神の憐みと裁き」
1、
今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
先ほど読みましたみ言葉は、使徒言行録の4章の32節から5章11節までであります。いつもよりも長く、また珍しく章をまたいでお読みしました。皆様のなかには、今朝は、いつもより長く聖書を読んだとお思いになられた方もおられると思います。確かに一回の主の日に聞くみ言葉としては、長いみ言葉です。普通なら二回に分けて学ぶところですし、説教者によっては、ここから三回説教している人もおられます。4章32節から5章11節まで、今朝のみ言葉を思い切って長く取りましたのは、理由があります。それは初代教会の内部の有様、霊的な有様と経済的な様子が、また、良いことと良くないことが、ここに合わせて描かれているとおもったからであります。
わたくしは、経済的なことは教会にとって大変重要だと思っています。もちろん経済のことばかり考えている訳ではありません。経済のことよりも、教会員ひとり一人のことや教会全体の霊的な状態により大きな関心を抱いています。そちらの方がいっそう根本的なことです。だからといって牧師は経済の問題を考えなくてよいということではないと思います。なぜならば、教会員や教会にとって、経済の問題と霊的信仰的なことは、実は深くかかわっていると思うからです。
今朝のみ言葉は、聖書自体が教会員と教会の経済の問題という二つのことを大切なこととして記している個所です。具体的にいうと、ここに書かれている一つの主題は、捧げもの、献金のことであります。一人一人の信仰と献金の問題であると言って間違いではないと思います。わたしたちの信仰生活にとって、献金も問題は避けて通ることが出来ないことが記されていると思います。
さて、今朝のみ言葉の前半には、生まれたばかりの教会の恵み溢れる有様が記されています。32節をお読みします。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」
「心と思い」、直訳すれば、「心と魂」ですけれども、二つはどう違うのかという区別を追求するよりも、ここは同じような意味の言葉を重ねて記していると考えたほうがよいと思います。同語反復的に強調されています。群れの人々の内面において強い一致があったのです。そして同時に経済的なことにおいても、そのこと、つまり群れの心が反映していたのです。
そして、ここには教会の大変麗しい様子が記されている、そのすぐ後に、大変悲しいこと、恐るべきことが記録されています。理想的に見えた教会の中で、人間の罪がいっそう顕わになっているのであります。説教題を「神の憐みと裁き」といたしました。ここでは、神さまの憐れみは間違いなく前提とされていますが、神の裁きのほうがいっそう強調されているように思いました。神の憐みを知ることと、自らの罪を知って神を畏れることは切り離すことが出来ないのだと思います。
2,
さて思い起こすことは、ペンテコステ、聖霊降臨のすぐあとですが、2章のおわりにも、恵みにあふれる教会の有様が、記されていたことです。
少し長くなりますがお聞きください。2章43節から47節です。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは、皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので民衆全体から好意を寄せられた。こうして主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである。」
「一つ」になる、「心一つに」と言うように一つという言葉が繰り返されていました。また「喜び」と言う言葉と共に「畏れ」という言葉も記録されています。礼拝と交わり、神を賛美すること、また御言葉と礼典が重んじられ、その中で伝道が進展していったことが記されています。
実は、今朝のみ言葉は、この初代教会の理想的な有様をさらに具体的に記したものです。
3章から4章にかけてペトロとヨハネの美しの門の奇跡をきっかけにして起きた、いくつかの事柄が記されていました。驚きあっけにとられた人々を前に、ペトロが立って、説教をしました。そして、男性だけで5000人の人が主イエス様を受け入れたと4章4節に記されています。これを見たユダヤ教の当局者によってペトロとヨハネは捕らえられ、裁判にかけられました。これ以上主イエス・キリストの名を語ってはならないと脅されましたが、「わたしたちは見たこと聞いたことを語らずにはおられない」と言い残して、仲間のところに帰って来たのです。一同は、声を合わせて神に祈り、いよいよ福音を宣べ伝える決意を新たにしたのです。
今朝のみ言葉は、そのような中でいよいよ成長していった教会の姿であります。このとき、教会の会員数は1万人を超えていたであろうと思います。
彼らの心、思い、霊的なものは一致していました。一つでありました。つまり主イエス・キリストにあって一つに結びあわされていました。そして、そのそこには、互いを配慮し合う愛の交わりがそこにあったことが示されています。
「一人として、持ち物を自分のものだと言うものはなく、すべてを共有していた」
持ち物を自分のものと言わないということは、そのすべては神のもの、キリストのものであると信じていたことです。すべてがキリストのものであるならば、キリストが教えたように用いる。それが彼らの共通理解であり、その思いは一つであったのです。
そのような教会員に支えられて、教会には貧しい者がおらず、また使徒たち、つまり主イエス様と聖霊によって立てられた12人伝道者、主の証人たちは「大いなる力をもって」、主イエスの復活を証しし続けたのです。
それに続いて教会の経済に関わる具体的な様子が、34節35節に詳しく記されています。
そこでは、貧しい者への配慮がなされていました。一万人を超えるであろう会員たちの中に誰も貧しいものがないように、必要な物資やお金が配られたということです。信者の中で、土地や家を持っている者がそれらを売って捧げました。「使徒たちの足元に置き」と言う言葉は文字通りのことではありません。12使徒たちは、いつも献金を受けるために、決められた場所に座っていた、あるいは立っていたということではないのです。彼らは、あちらこちらに出かけてみ言葉を語り、また祈り、礼拝を導いていました。足元に置いたということは、捧げられたものが12人の使徒の管理のもとに置かれたと言いうことです。そのころは彼らが献金の配分を決めていと思います。使徒たちを助けて物資や金銭を届ける実際の働きをするものたちも組織されていた可能性があります。
人生のすべてを福音のために捧げた使徒たちに加えて、同じように、いわば出家をして、教会の働き手となった人々も多く与えられたと思われます。また、洗礼を受けたのちも、それまでと同じように社会の中で働き、自分の家や畑を持ちながら、信仰生活を送るものもの多くいたことでしょう。
33節の終わりの方に「皆、人々から非常に好意を持たれていた」とありますが、実は原文には「人々から」という言葉はありません。翻訳者が補ったものですけれども、他の翻訳では、「人々からの好意」ではなくて単に「恵み」、それも「大きな恵みがあった」と訳されています。新しく出ました聖書協会共同訳では「神の恵みが豊かに注がれた」と訳されています。
ここで、好意と訳されている言葉はカリスで、聖書の用い方では圧倒的に神の恵み、神の賜物をあらわす言葉です。宗教改革者のカルヴァンは、ここを「人々からの好意」と訳していて、新共同訳はカルヴァンの解釈と一致しています。けれども、ほかの多くの翻訳のように、ここは、人々からの好意ではなく、上からの大きな恵みを神からいただいた、それゆえに、イエスの復活の力強い証しも、信者たちの愛の交わりも行うことが出来たと理解するほうふさわしいと思います。麗しい理想的な教会の姿、それは上からの神の恵みの結果だったのです。しかしそれにもかかわらずアナニアとサフィラの悲劇が起きたのです。
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36節と37節に、献金に関して、多くの信者たちの中で特に際立った人、模範となった人の例が記されています。キプロス島生まれ、つまりユダヤではなく異国で暮らすユダヤ人の子であったヨセフです。レビ族は、祭司の務めをする部族です。彼の父も、また彼自身も祭司であった可能性があります。キプロス島からユダヤに出て来て、おそらくキプロス島にもっていた畑を処分し代金を教会に捧げました。彼は使徒たちからバルナバ、慰めの子と呼ばれたとあります。実はこのバルナバは、後に教会の専従の働き手、伝道者となりました。使徒言行録11章では、バルナバは異邦人伝道のためにアンテオキア教会に派遣されます。そこで回心したパウロに会いにタルソスに行き、、アンティオキアに連れ帰って共に暮らしました。やがて、バルナバとパウロは、二人してアンテオキア教会から彼の故郷であるキプロス宣教に送り出されています。その様子は使徒言行録13章にその詳しく記されています。まさに教会の慰めとなった弟子、それがバルナバでした。
バルナバが畑を売って代金のすべてを捧げたのは、彼自身の自由な意志によるものです。統一教会やオウム真理教、あまたのカルト教団のように、イエス・キリストを信じるなら、財産をすべて処分して捧げよと強制されたのではありません。
このバルナバの模範例と対照的に記録されておりますのが、5章1節から11節のアナニアとサフィラの夫婦です。二人の罪は、二人で示し合わせて主の霊、聖霊を試したことだと9節に書かれています。またペトロは、アナニアに向かって、あなたは聖霊を欺いた、人間を欺いただけでなく神を欺いたのだと判決を下しています。
確かに、二人は土地を売って、その代金の全部ではなく一部だけを捧げました。しかし、そのこと自体は罪でもなんでもありません。ペトロははっきりと言います。
「売らないでおけばあなたのものだったし、また打っても代金は自分の思い通りになったではないか」
何が何でも全部を捧げなければならいということはないのです。あくまでその人自身の思い通りにしてよいのです。問題は、彼らが、一部を自分のために残してきながら、自分たちは全部を捧げましたと偽りを言ったことです。なぜ二人は、偽ったのでしょうか。それは教会の中で人々からまた使徒たちから栄誉を受けるため、賞賛されるためでした。彼らが、その一部であるにせよ、持っている財産を捧げたこと自体は良いことです。しかし、二人は何のために、それをしたのかという動機、その心が問われているのです。
主のためではなく自己満足のために持っているものを用いたのです。なによりも、信仰の行為という名目で、嘘をつき、自分を誇り、また賞賛されようとしたのです。
アナニアは、ペトロが罪を指摘しているさなかに倒れ、そのまま息を引き取りました。若者たちと呼ばれている使徒のもとに働く人たちが、そのなきがらを運び出して、おそらくエルサレムの街の外にある犯罪人用の墓に葬ったと考えられます。後から来た妻のサフィラも、同じように倒れて、息絶えてしまいます。
多くの注解者は、このアナニアをサフィラに対する神様の厳しい処罰、過酷な裁きは、初代教会に与えられた、一つのしるしであると言います。つまりこういうことです。通常は誰も見ることのできない神様の本当の裁きの有様をあえて見えるようにしてくださったというのです。
わたしたちは、アナニアとサフィラの夫婦を自分とは関係ないと言い切ることが出来ないように思います。わたしたちの捧げものと奉仕は、なによりも主イエス様のために、なされるものです。わたしたちは、わたしたちの捧げる捧げものが、本来、すべて神から来たものであり、神のものであるという信仰によったものかどうか、改めて吟味しなければならないと思うのです。捧げものは、その金額の大小ではなく、信仰による感謝の捧げもの、主のための捧げものである時だけ、主に喜ばれるのです。
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わたくしは、洗礼を受けてから47年、また牧師になって24年です。教会に生きる生活をしている中で、わたしたち一人一人の信仰のあり方と経済の問題とは、深くかかわっていることをいつも思います。神様は、わたしたちが、どれ程お金を持つことが出来るかということよりも、わたしたちが与えられた経済的な恵み、富、それが沢山あってもそうでなくとも、とにかく与えられたその富をどのように用いるかに関心があるのだとわたくしは信じています。
そして主イエス様とその体とも言われる教会を愛して捧げる献金や奉仕は決して何か人々に誇るためにするものではなく、ただ神様への信仰によってすることだと思います。アナニアとサフィラは違っていました。すべてご存知の神様の前で、人間的な思いで教会を欺いて自分の信仰を誇ろうとしたのだと思います。
熱心に奉仕し、良い働きをしていた人が、自分よりも他の人が活躍しはじめたときに、良い思いを持たないということがあります。自分がないがしろにされたような気持ちに陥って、奉仕をやめてしまうのです。わたしたちは何のために、どのような動機で奉仕や捧げものをするのでしょうか。
私たちは、まだ罪の残りを背負ったものであり、途上のものです。わたしたちは、絶えず悔い改め、清めをいただきたいと思います。その中で、心も思いも主イエス様に向けて、主イエス様にあって一つになりたいと思うのです。
私たちは神様の前に立つとき、誰も完全な人ではありません。それをわきまえつつ、しかし互いに比較し合うような、人間的な思いを少しでも神様によって清めていただきたいと願います。
神様は、わたしたちの献金や奉仕が清い心でされることを求めています。わたしたちが心も思いも主イエス・キリストにあって一つになることを喜んでくださるのです。
今朝のみ言葉の最後の5章11節にこうあります、「教会全体とこれを聞いた人々は、非常に恐れた」当然のことであろうと思います。
2章の、教会の様子をまとめたみ言葉にも「恐れ」という言葉がありました。恐れは清さを生み出します。わたしたちは感謝と讃美、喜びが教会に満ち溢れように、いつも祈ります。それと同時に、わたしたちは「神様への恐れのこころ」も神様からいただきたいと願います。お祈りを致します。
祈り
神さま、今朝は初代教会の恵みに溢れる姿とその中で顕わにされた人間の罪について想いを新たに致しました。感謝を致します。上からの恵みの中で、わたしたちは、主にあってよい捧げものと奉仕が出来ますよう導いてください。主イエス様の名によって祈ります。アーメン。