聖書の言葉 使徒言行録 4章23節~31節 メッセージ 2024年10月6日(日)熊本伝道所朝拝説教 使徒言行録4章23節~31節「福音宣教の祈り」 1、 今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 10月入りました。9月は大変な残暑に苦しめられたのですが、先週からめっきり秋らしさを感じる季節となりました。季節の変わり目ということで、皆様の体調が守られますようお祈りします。 今朝与えられましたみ言葉は、使徒言行録第4章の後半のみ言葉です。今朝のみ言葉の次の32節からは、同じ4章でありましても全く新しい段落に入って行きます。そこに描かれていますのは、初代教会の麗しい共同生活と、しかしそこで生じた恐ろしい闇のような出来事です。それは次回学ぶことといたします。 今朝のみ言葉は、この前の章の3章1節から始まっていた「美しの門癒しの奇跡」に端を発した長い物語がここで完結しているところです。 「美しの門」の傍らで長く物乞いをしていた足の不自由な人が、ちょうど神殿に入って来たペトロとヨハネに出会い、彼は主イエス様の名によって完全に癒されました。これが始まりです。エルサレム神殿は、このことをきっかけに大騒ぎになりました。そこで、ペトロとヨハネが集まって来たユダヤ人たちに語り始めます。 「あなたがたが十字架につけて殺してしまった主イエス・キリストは復活して天に昇り、今は天の父なる神の右の座におられます。その方の名が、この人を癒しました。どうか悔い改めて主イエス様を信じ、真の神に立ち帰ってください、神はご自身の独り子によってあなた方すべてを祝福してくださいます」、こう語りました。 この事態を見ていました、主イエス様を十字架に架けた張本人のエルサレム神殿の当局者やファリサイ派や民の長老たちは、、ペトロとヨハネを逮捕して投獄し、裁判にかけます。これは生まれたばかりの教会に加えられた最初の国家権力による迫害となりました。 4章の前半には、その裁判の様子が記されています。二人は間違いなく主イエス様の弟子であること、しかもその主イエス様の名によって、あの毎日美しの門に置かれていた足の不自由な人が癒されて神を賛美する者に変えられたことも事実でありました。また大勢の民衆の支持もあるので、サンヘドリン、エルサレムの律法評議会はペトロとヨハネを罰することが出来ません。お前たちは、これ以上、主イエス様のことを語るなと命じて二人を釈放せざるを得ませんでした。しかしペトロとヨハネは、「わたしたちは見たこと聞いたこととを語らずにはいられません」と言い残して、意気揚々と仲間たちのところに帰って来たのです。 心配していた仲間たちは、二人を迎えて大いに喜び、改めて福音宣教の熱心を掻き立てられました。 今朝のみ言葉の最後31節に、この物語のまとめの言葉が記されています。31節をもう一度お読みいたします 「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」 2 今朝のみ言葉の大部分は、ペトロとヨハネを迎えた仲間たちの祈りであります。生まれたばかりの教会が心を一つにし、声をあげて祈った祈りが記されています。「祈りが終わると一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」と書かれています。 これは、最初期の教会の有様を端的に示すみ言葉であると思います。神の御臨在は明らかであります。そして皆が聖霊に満たされています。そして教会は大胆に神の言葉を語りだすのであります。「語りだした」と訳されている、もとの言葉は、少し文法的な話になりますが、ギリシャ語の動詞のかたちとして継続反復する過去の行いを表わす言葉です。ただ一度だけのことではない、この弟子たちの祈りに神様が答えられた、そのしるしが与えられた、つまり彼らのいた場所が揺れ動いたという驚くべき出来事から始まって、弟子たちは、繰り返し継続して絶えず神の言葉を大胆に語っていたという意味であります。 この「大胆に語る」ということは、新約の教会の伝道の特徴であります。「大胆に」と訳されている言葉は、新約聖書には31回使われていますが、主に主イエス様や弟子たちについて、ときには迫害するものたちにも使われます。実は、これは現代においても学問的な哲学や社会学の大切な用語としても使われているギリシャ語となっています。元のギリシャ語は「パレーシア」と言う言葉です。1960年代から70年代に大活躍したミシェル・フーコーと言う人がいます。彼はクリスチャンではなくフランスの現代哲学者ですが、古代ギリシャ以来用いられているパレーシアと言う概念を大切にしました。物事を語り、また行う人の言葉や行いの内容や様子を表現する言葉です。多くは「大胆に」と訳されます。ときには「臆することなく」、あるいは「憚ることなく」、「公然と」と訳されることもあります。語源的は、「すべてを自由に語る」という意味になります。 「大胆に」「臆することなく」といいますと、これは語ったり行ったりする人の態度や心意気のことでしょう。勇気をもって、恐れずに、と言うことです。一方で「はばかることなく」と言いますなら、これは態度と言うよりも、その語ったり行ったりすることの中身に関わることではないかと思います。「はばかることなく」。初代教会の大伝道者である使徒パウロは、テモテへの手紙2の1章7節でこう書いています。「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」。この神様が下さった霊によって語る、臆病ではない語り方、それがパレーシアに語ることです。 わたしたちが、イエス様について語る時に、世の人々が普通に思っているような範囲で、なるべく抵抗がないように、つまり人々に忖度して、慮ってこれを語るならば、それは「パレーシア」、臆することなく、あるいは憚ることなく、大胆に語るということにはなりません。「イエス・キリストは愛に満ち、真実なお方です、このお方を信じ従いましょう」というだけならば、それはとても大切なことですけれども、誰も反対する人はいないと思います。しかしまた、それは別段、イエス様でなく、仏様でも、ヘレンケラーでもマザーテレサでも良いわけです。 そうではなくて、「主イエス様は、かけがえのない神の独り子です。罪に堕ちたこの世界をすくうために、人として世に来てくださり、十字架にお架かりになって、わたしたちの罪を赦し、贖い、滅びから救い、あらゆる良いものをくださる方です」といえば、これは人々の反対や抵抗を恐れずに教会がパレーシアをもって語ったということになります。 人間の思いではなく、聖霊が導き、助けてくださるならば、教会はパレーシアをもって語り、また行うことができます。教会は聖霊によって大胆に福音を語る、神の言葉を語るのです。キリスト者が聖霊に満たされて語るならば、初代教会の弟子たちのように、必ず大胆に、臆することなく、憚ることなく福音を語ることが出来るのです。 3、 今日のみ言葉は、数えてみますと全部で11節あります。そのうち最初の23節と最後の31節以外の、9節、あるいは10節分が、弟子たちの祈りの言葉になっています。祈っておりますのは、使徒でありますペトロとヨハネとその仲間たちです。 この時点では、主イエス様を信じて洗礼を受けた信徒の数は8千人以上、一万人程度いると思いますが、ここでは、そのような大勢ではなくて、12使徒たちを中心に共同の生活をしていた仲間たちでしょう。おそらく、あのペンテコステの日に、聖霊降臨の働きに与かった120人ほどの弟子たちであると思います。 迫害から帰還したペトロとヨハネは仲間たちのところに行きます。4章23節に、「さて二人は、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」とあります。これは裁判の判決だけではなく、裁判全体のことをつぶさに報告したということでしょう。 仲間たちは、これを聞いて喜び、いよいよ勇気づけられ、一致団結して、神に祈りをささげました。 「心を一つにして声を上げて祈った」というのは、どういうことかと言いますと、いずれも声を上げて祈ったことに変わりはありませんが、具体的には三つのことが考えられると思います。 一つは、祈祷文のようなものを作って、これを見ながら、声を合わせて祈ったということです。全員が文字通り同じ一つの祈りをささげたのです。次に考えられるのは、聖霊の不思議な導きで、皆がそれぞれ自分の心に導かれて祈ったけれども、不思議に内容が一致して、一つの祈りになったことです。これも考えられることです。もう一つは、やはりここは、一人の祈り手が立てられて、その人が祈る言葉に、皆がアーメンと言って心を合わせて祈ったということです。これがもっともふさわしいと思います。今もわたしたちが捧げている祈りです。アーメンと唱和して、心を一つにして祈ります。 彼らの祈りは、まず神への賛美から始まります。24節の後半です。お読みします。 「主よ、あなたは天と地と海とそこにあるすべてのものを造られた方です」 「神よ、あなたは創造主であります。天地万物すべてのものを造られた方です」と言うのです。わたしたちの祈りもまた、このように全能の父、天地万物の主である方を賛美することから始めることが多いと思います。他の教派から改革派教会に移ってこられた方がおられまして、その方から、まず天地創造の神を賛美することから祈る祈りを聞いて新鮮に感じたと言われました。このような祈りは、人間の側の思いではなく、神様の主導権、主権、神様のめぐみを第一に置くカルヴァンの流れをくむ改革派教会、長老教会の祈りに受け継がれている一つの特徴であると思います。 次に、弟子たちは、主イエス様の十字架と復活、そして権力者たちの迫害、これらのことの一切は、神のご計画の内にあったことですと祈ります。だからこそ、わたしたちは少しも驚きません、戸惑いません、あなたを信じますと告白するのです。いわば信仰告白の祈りです。 25節の「ダビデの口を通して」と言いますのは、旧約聖書の詩編によってという意味です。律法はモーセ、詩編やダビデ、預言書は預言者たちと呼ばれることがあります。そして、ダビデの口を通して聖霊が語ったと言います。他の聖書の言葉と同様に、詩編の言葉の一つ一つは神の霊、聖霊による神の啓示の言葉なのです。そして詩編第二編の一節二節を正確に引用します。 「なぜ異邦人は騒ぎたち、諸国の王は空しいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して主とそのメシアに逆らう」 この詩編が、今、実現し、ヘロデ王とローマの王の名代であるポンテオ・ピラトが、油注がれたイエス、つまりメシア、キリストであるイエスに逆らった、しかし詩編二編4節5節が告げるように、「天を王座とする方は笑う」「主は、聖なる山シオン、つまりエルサレムで本当の王、を即位させた。主イエス・キリストこそ、その王です」と讃美告白して祈るのです。 このような神賛美、そして信仰の告白に続いて、弟子たちは二つの祈願、願いを祈ります。 第一は、御言葉を大胆に、パレーシア、語らせてくださいということです。この世の王たちの脅しにも関わらずあなたのしもべたち、つまりわたしたちキリストの教会が大胆にみ言葉を語るようにしてくださいと言う願いです。 わたしたちが普通しているような祈り、つまり、まずわたしたちが安全で恵みを頂くというような祈りではなく、何よりも、み言葉を大胆に語ることが出来ますようにお願いします、と祈ります。迫害が明らかになった今こそ、神の言葉、あなたの言葉を「思い切って」、つまり、隠すことなくすべてを大胆に、パレーシア、語ることが出来るようにしてください。こう祈るのです。 第二の祈願は、あの生まれながらに歩けなかった人が癒されたように、これからも、どうか主イエス・キリストの名によって、癒しの御業、しるしと奇跡が行われますように祈ります。それらは神様によってなされますが、あの美しの門の奇跡のように、御力をあらわしてくださいと祈るのです。 考えてみますと、これらの二つのことは、ペトロとヨハネが、裁判の判決として、これからしてはならないと言われたことに一致します。ユダヤ人たちの禁止命令にも関わらず、神様、どうかこれからもそれらを行うことが出来るようにしてくださいと祈っているのです。 4, この後、4章の後半と5章前半では、弟子たちの経済生活のことが語られますが、それを挟み込むようにして、5章の12節から16節にはこの祈りが神様によって聞き上げられ、完全になされたことが記されています。 彼らは、大胆に、御言葉を継続反復して語りました。31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」パレーシアであります。そして、5章12節から16節には、エルサレム神殿に集う人々に対して、使徒たちにより多くのしるしや不思議な業が行われたことが記されています。 ユダヤ人の議会、その裁判の判決は、これからは、御言葉を語ってはならない、イエスキリストについて話してはならないというものでした。伝道を禁止された弟子たちでありました。しかし、その判決のその日から、彼らは御言葉を語り、主イエスの名による癒しとしるし、奇跡の御業を行い続けたのであります。 迫害に負けない彼らの大胆さ、パレーシアの根本には、心を一つにした祈りがありました。使徒たち、弟子たちの祈りと聖霊の応答は、結びついています。 わたしたち、熊本伝道所にもいつも祈りの時が与えられています。わたしたち夫婦は毎朝、教会の玄関を開け、灯りをともして、早天の祈祷をします。主の日の礼拝において、わたしたちは心を合わせて祈ります。また水曜日の祈祷会でも心を一つにして祈ります。神様はこの祈りに必ず答えて下さり、わたしたちを聖霊で満たして下さり、そして力を与えてくださると信じます。 教会の全体の働きを自動車が走る姿に例えますと、祈祷会はエンジンであると言われます。エンジンが止まる時、自動車は止まってしまうのです。集う人々が祈りを共にして、祈りにおいて一つになって祈るとき、神様は、必ず答えて下さり、その群れを豊かに祝福してくださいます。 祈ります 天の父なる神様、どうかわたしたちが福音を大胆に、憚らず、はっきりと語ることが出来るように、神様がわたしどもの祈りと言葉と行いとにパレーシアの恵みをくださるようにお願いいたします。そして教会が主イエス様の恵みに生きることが出来るように、大胆に福音を宣べ伝えて行くことが出来ますようお願いいたします。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。
2024年10月6日(日)熊本伝道所朝拝説教
使徒言行録4章23節~31節「福音宣教の祈り」
1、
今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
10月入りました。9月は大変な残暑に苦しめられたのですが、先週からめっきり秋らしさを感じる季節となりました。季節の変わり目ということで、皆様の体調が守られますようお祈りします。
今朝与えられましたみ言葉は、使徒言行録第4章の後半のみ言葉です。今朝のみ言葉の次の32節からは、同じ4章でありましても全く新しい段落に入って行きます。そこに描かれていますのは、初代教会の麗しい共同生活と、しかしそこで生じた恐ろしい闇のような出来事です。それは次回学ぶことといたします。
今朝のみ言葉は、この前の章の3章1節から始まっていた「美しの門癒しの奇跡」に端を発した長い物語がここで完結しているところです。
「美しの門」の傍らで長く物乞いをしていた足の不自由な人が、ちょうど神殿に入って来たペトロとヨハネに出会い、彼は主イエス様の名によって完全に癒されました。これが始まりです。エルサレム神殿は、このことをきっかけに大騒ぎになりました。そこで、ペトロとヨハネが集まって来たユダヤ人たちに語り始めます。
「あなたがたが十字架につけて殺してしまった主イエス・キリストは復活して天に昇り、今は天の父なる神の右の座におられます。その方の名が、この人を癒しました。どうか悔い改めて主イエス様を信じ、真の神に立ち帰ってください、神はご自身の独り子によってあなた方すべてを祝福してくださいます」、こう語りました。
この事態を見ていました、主イエス様を十字架に架けた張本人のエルサレム神殿の当局者やファリサイ派や民の長老たちは、、ペトロとヨハネを逮捕して投獄し、裁判にかけます。これは生まれたばかりの教会に加えられた最初の国家権力による迫害となりました。
4章の前半には、その裁判の様子が記されています。二人は間違いなく主イエス様の弟子であること、しかもその主イエス様の名によって、あの毎日美しの門に置かれていた足の不自由な人が癒されて神を賛美する者に変えられたことも事実でありました。また大勢の民衆の支持もあるので、サンヘドリン、エルサレムの律法評議会はペトロとヨハネを罰することが出来ません。お前たちは、これ以上、主イエス様のことを語るなと命じて二人を釈放せざるを得ませんでした。しかしペトロとヨハネは、「わたしたちは見たこと聞いたこととを語らずにはいられません」と言い残して、意気揚々と仲間たちのところに帰って来たのです。
心配していた仲間たちは、二人を迎えて大いに喜び、改めて福音宣教の熱心を掻き立てられました。
今朝のみ言葉の最後31節に、この物語のまとめの言葉が記されています。31節をもう一度お読みいたします
「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」
2
今朝のみ言葉の大部分は、ペトロとヨハネを迎えた仲間たちの祈りであります。生まれたばかりの教会が心を一つにし、声をあげて祈った祈りが記されています。「祈りが終わると一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」と書かれています。
これは、最初期の教会の有様を端的に示すみ言葉であると思います。神の御臨在は明らかであります。そして皆が聖霊に満たされています。そして教会は大胆に神の言葉を語りだすのであります。「語りだした」と訳されている、もとの言葉は、少し文法的な話になりますが、ギリシャ語の動詞のかたちとして継続反復する過去の行いを表わす言葉です。ただ一度だけのことではない、この弟子たちの祈りに神様が答えられた、そのしるしが与えられた、つまり彼らのいた場所が揺れ動いたという驚くべき出来事から始まって、弟子たちは、繰り返し継続して絶えず神の言葉を大胆に語っていたという意味であります。
この「大胆に語る」ということは、新約の教会の伝道の特徴であります。「大胆に」と訳されている言葉は、新約聖書には31回使われていますが、主に主イエス様や弟子たちについて、ときには迫害するものたちにも使われます。実は、これは現代においても学問的な哲学や社会学の大切な用語としても使われているギリシャ語となっています。元のギリシャ語は「パレーシア」と言う言葉です。1960年代から70年代に大活躍したミシェル・フーコーと言う人がいます。彼はクリスチャンではなくフランスの現代哲学者ですが、古代ギリシャ以来用いられているパレーシアと言う概念を大切にしました。物事を語り、また行う人の言葉や行いの内容や様子を表現する言葉です。多くは「大胆に」と訳されます。ときには「臆することなく」、あるいは「憚ることなく」、「公然と」と訳されることもあります。語源的は、「すべてを自由に語る」という意味になります。
「大胆に」「臆することなく」といいますと、これは語ったり行ったりする人の態度や心意気のことでしょう。勇気をもって、恐れずに、と言うことです。一方で「はばかることなく」と言いますなら、これは態度と言うよりも、その語ったり行ったりすることの中身に関わることではないかと思います。「はばかることなく」。初代教会の大伝道者である使徒パウロは、テモテへの手紙2の1章7節でこう書いています。「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」。この神様が下さった霊によって語る、臆病ではない語り方、それがパレーシアに語ることです。
わたしたちが、イエス様について語る時に、世の人々が普通に思っているような範囲で、なるべく抵抗がないように、つまり人々に忖度して、慮ってこれを語るならば、それは「パレーシア」、臆することなく、あるいは憚ることなく、大胆に語るということにはなりません。「イエス・キリストは愛に満ち、真実なお方です、このお方を信じ従いましょう」というだけならば、それはとても大切なことですけれども、誰も反対する人はいないと思います。しかしまた、それは別段、イエス様でなく、仏様でも、ヘレンケラーでもマザーテレサでも良いわけです。
そうではなくて、「主イエス様は、かけがえのない神の独り子です。罪に堕ちたこの世界をすくうために、人として世に来てくださり、十字架にお架かりになって、わたしたちの罪を赦し、贖い、滅びから救い、あらゆる良いものをくださる方です」といえば、これは人々の反対や抵抗を恐れずに教会がパレーシアをもって語ったということになります。
人間の思いではなく、聖霊が導き、助けてくださるならば、教会はパレーシアをもって語り、また行うことができます。教会は聖霊によって大胆に福音を語る、神の言葉を語るのです。キリスト者が聖霊に満たされて語るならば、初代教会の弟子たちのように、必ず大胆に、臆することなく、憚ることなく福音を語ることが出来るのです。
3、
今日のみ言葉は、数えてみますと全部で11節あります。そのうち最初の23節と最後の31節以外の、9節、あるいは10節分が、弟子たちの祈りの言葉になっています。祈っておりますのは、使徒でありますペトロとヨハネとその仲間たちです。
この時点では、主イエス様を信じて洗礼を受けた信徒の数は8千人以上、一万人程度いると思いますが、ここでは、そのような大勢ではなくて、12使徒たちを中心に共同の生活をしていた仲間たちでしょう。おそらく、あのペンテコステの日に、聖霊降臨の働きに与かった120人ほどの弟子たちであると思います。
迫害から帰還したペトロとヨハネは仲間たちのところに行きます。4章23節に、「さて二人は、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」とあります。これは裁判の判決だけではなく、裁判全体のことをつぶさに報告したということでしょう。 仲間たちは、これを聞いて喜び、いよいよ勇気づけられ、一致団結して、神に祈りをささげました。
「心を一つにして声を上げて祈った」というのは、どういうことかと言いますと、いずれも声を上げて祈ったことに変わりはありませんが、具体的には三つのことが考えられると思います。
一つは、祈祷文のようなものを作って、これを見ながら、声を合わせて祈ったということです。全員が文字通り同じ一つの祈りをささげたのです。次に考えられるのは、聖霊の不思議な導きで、皆がそれぞれ自分の心に導かれて祈ったけれども、不思議に内容が一致して、一つの祈りになったことです。これも考えられることです。もう一つは、やはりここは、一人の祈り手が立てられて、その人が祈る言葉に、皆がアーメンと言って心を合わせて祈ったということです。これがもっともふさわしいと思います。今もわたしたちが捧げている祈りです。アーメンと唱和して、心を一つにして祈ります。
彼らの祈りは、まず神への賛美から始まります。24節の後半です。お読みします。
「主よ、あなたは天と地と海とそこにあるすべてのものを造られた方です」
「神よ、あなたは創造主であります。天地万物すべてのものを造られた方です」と言うのです。わたしたちの祈りもまた、このように全能の父、天地万物の主である方を賛美することから始めることが多いと思います。他の教派から改革派教会に移ってこられた方がおられまして、その方から、まず天地創造の神を賛美することから祈る祈りを聞いて新鮮に感じたと言われました。このような祈りは、人間の側の思いではなく、神様の主導権、主権、神様のめぐみを第一に置くカルヴァンの流れをくむ改革派教会、長老教会の祈りに受け継がれている一つの特徴であると思います。
次に、弟子たちは、主イエス様の十字架と復活、そして権力者たちの迫害、これらのことの一切は、神のご計画の内にあったことですと祈ります。だからこそ、わたしたちは少しも驚きません、戸惑いません、あなたを信じますと告白するのです。いわば信仰告白の祈りです。
25節の「ダビデの口を通して」と言いますのは、旧約聖書の詩編によってという意味です。律法はモーセ、詩編やダビデ、預言書は預言者たちと呼ばれることがあります。そして、ダビデの口を通して聖霊が語ったと言います。他の聖書の言葉と同様に、詩編の言葉の一つ一つは神の霊、聖霊による神の啓示の言葉なのです。そして詩編第二編の一節二節を正確に引用します。
「なぜ異邦人は騒ぎたち、諸国の王は空しいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して主とそのメシアに逆らう」
この詩編が、今、実現し、ヘロデ王とローマの王の名代であるポンテオ・ピラトが、油注がれたイエス、つまりメシア、キリストであるイエスに逆らった、しかし詩編二編4節5節が告げるように、「天を王座とする方は笑う」「主は、聖なる山シオン、つまりエルサレムで本当の王、を即位させた。主イエス・キリストこそ、その王です」と讃美告白して祈るのです。
このような神賛美、そして信仰の告白に続いて、弟子たちは二つの祈願、願いを祈ります。
第一は、御言葉を大胆に、パレーシア、語らせてくださいということです。この世の王たちの脅しにも関わらずあなたのしもべたち、つまりわたしたちキリストの教会が大胆にみ言葉を語るようにしてくださいと言う願いです。
わたしたちが普通しているような祈り、つまり、まずわたしたちが安全で恵みを頂くというような祈りではなく、何よりも、み言葉を大胆に語ることが出来ますようにお願いします、と祈ります。迫害が明らかになった今こそ、神の言葉、あなたの言葉を「思い切って」、つまり、隠すことなくすべてを大胆に、パレーシア、語ることが出来るようにしてください。こう祈るのです。
第二の祈願は、あの生まれながらに歩けなかった人が癒されたように、これからも、どうか主イエス・キリストの名によって、癒しの御業、しるしと奇跡が行われますように祈ります。それらは神様によってなされますが、あの美しの門の奇跡のように、御力をあらわしてくださいと祈るのです。
考えてみますと、これらの二つのことは、ペトロとヨハネが、裁判の判決として、これからしてはならないと言われたことに一致します。ユダヤ人たちの禁止命令にも関わらず、神様、どうかこれからもそれらを行うことが出来るようにしてくださいと祈っているのです。
4,
この後、4章の後半と5章前半では、弟子たちの経済生活のことが語られますが、それを挟み込むようにして、5章の12節から16節にはこの祈りが神様によって聞き上げられ、完全になされたことが記されています。
彼らは、大胆に、御言葉を継続反復して語りました。31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」パレーシアであります。そして、5章12節から16節には、エルサレム神殿に集う人々に対して、使徒たちにより多くのしるしや不思議な業が行われたことが記されています。
ユダヤ人の議会、その裁判の判決は、これからは、御言葉を語ってはならない、イエスキリストについて話してはならないというものでした。伝道を禁止された弟子たちでありました。しかし、その判決のその日から、彼らは御言葉を語り、主イエスの名による癒しとしるし、奇跡の御業を行い続けたのであります。
迫害に負けない彼らの大胆さ、パレーシアの根本には、心を一つにした祈りがありました。使徒たち、弟子たちの祈りと聖霊の応答は、結びついています。
わたしたち、熊本伝道所にもいつも祈りの時が与えられています。わたしたち夫婦は毎朝、教会の玄関を開け、灯りをともして、早天の祈祷をします。主の日の礼拝において、わたしたちは心を合わせて祈ります。また水曜日の祈祷会でも心を一つにして祈ります。神様はこの祈りに必ず答えて下さり、わたしたちを聖霊で満たして下さり、そして力を与えてくださると信じます。
教会の全体の働きを自動車が走る姿に例えますと、祈祷会はエンジンであると言われます。エンジンが止まる時、自動車は止まってしまうのです。集う人々が祈りを共にして、祈りにおいて一つになって祈るとき、神様は、必ず答えて下さり、その群れを豊かに祝福してくださいます。
祈ります
天の父なる神様、どうかわたしたちが福音を大胆に、憚らず、はっきりと語ることが出来るように、神様がわたしどもの祈りと言葉と行いとにパレーシアの恵みをくださるようにお願いいたします。そして教会が主イエス様の恵みに生きることが出来るように、大胆に福音を宣べ伝えて行くことが出来ますようお願いいたします。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。