聖書の言葉 テモテへの手紙二 2章8節~13節 メッセージ 熊本伝道所:特別伝道集会 「あなたを救うキリストの真実」(2テモテ2:8-13) 2024年9月29日 弓矢健児 はじめに 本日の特別伝道集会の説教題は、「あなたを救うキリストの真実」という題に致しました。特別伝道集会の案内にも書かせていただきましたが、皆さんは、今何を信じていますか。「自分は何も信じていない。自分の人生に信じることなど不要だ。この世に信じられるものなど何もない」、世の中には、そんなふうに考えている方もいるでしょう。しかし、人間は信じることがなければ、決して生きることはできません。誰もが意識する、しないに関わらず、実は多くのことを信じて生きています。それならば、私たちは何を信じたらよいのでしょうか。何を信じるべきなのでしょうか。そのことを、聖書の御言葉を通して共に聞いていきたいと願います。 1.生きることは信じること 皆さんの中には、自分は電車や新幹線に乗ったことなどないという方はほとんどおられないと思います。私も昨日、新幹線に乗って神戸から熊本まで参りました。しかし、考えてみると、あんな鉄の塊が300キロ以上のスピードで走るのです。そして、走っている新幹線の中で、私たちはうたた寝をすることもあります。それは、安全だろうと信じているからです。でも、現実には列車の事故はあります。絶対に安全だとはいえません。飛行機だって同じです。あんな鉄の塊が空を飛ぶのです。考えてみると恐ろしいことです。そして、飛行機事故の場合、亡くなる可能性は非常に高いです。ですから、電車や新幹線も飛行機も100%、絶対に安全だとは言えません。事故が起きないとは言えません。でも、安全を信じて、私たちは電車にも飛行機に乗ります。 これは一つの例ですが、私たちは日常生活の中で、いろいろなことを信じて生活をしています。私たちが生きるということは、多くのことを信じるということなのです。夫を信じる、妻を信じる、親を信じる、子供を信じる・・信じるから家族として共に生きることができるのです。人を信じるから社会が成り立つのです。もし、信じなければ、私たちは誰とも共に生きることはできません。 いや自分は誰も信じない。誰も信じないで一人で生きるのだと言う方もいるかもしれません。そうなったら、それこそ、ロビンソン・クルーソーのように無人島で、一人で生きるしかありません。しかし、そんなことは私たちには不可能です。いや、ロビンソン・クルーソーだって、後に近隣の島々の争いの中で捕虜になった住民の一人を助け出し、「フライデー」と名づけて自分の僕にしています。 人は一人では生きられないのです。そうである以上、私たちは何かを信じるということがなければ、決して生きることはできません。生きることの前提には信じることがあるのです。それならば、私たちは何を信じるべきなのでしょうか。先ほども言いましたように、私たちは様々なことを信じて生きています。けれども、私たち一人一人が、かけがえのない人生を本当の意味で豊かに生きるためには、何を信じることが必要なのでしょうか。そのことを次に考えたいと思います。 2.自分の力を信じることの限界 よく、「自分の力を信じることが大切だ」と言われることがあります。特にアスリートの世界ではこのことが強調される傾向があるようです。アスリートの世界では、メンタルの強さは、我慢、忍耐ではなく、たとえ1%でも自分の力の可能性を信じて、目標達成に向けてやり続けることが大きな力になると言われます。また、このことはアスリートの世界だけでなく、勉強をはじめ、あらゆる事柄にも言えることでしょう。 私は決して、自分の力や可能性を信じて努力することを否定するものではありません。信じることは大切ですし、信じて努力することは大きな力になります。でも、私たちは自分の力を信じることができないこともある、ということを忘れてはなりません。人間の力には限界があります。人間は様々な弱さを持っています。 聖書の中にイエス・キリストの弟子であるペトロという人が出て参ります。ペトロはもともとガリラヤの漁師でしたが、イエス様から声をかけられ、イエス様の弟子となりました。その後、彼は多くの弟子の中から12弟子の一人として選ばれ、さらに12弟子の中でも、リーダー格の存在でした。ペトロは、イエス様が12弟子の中から3人の弟子を選んで山に登られた時も、その三人の中にいました。ですから、ペトロは、自分はイエス様の弟子の中でも最も有能で、忠実な弟子であるという自負を持っていたのです。そのためイエス様が、「自分は間もなく敵に捕まって十字架で殺される」ということを語られた時、次のように言いました。 「たとえ、みんなが躓いても、わたしは躓きません。たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:29,31)。 ペトロは12弟子のリーダーとして、自分の力、自分の信仰の力を信じていました。そして、彼なりに一生懸命に努力したのです。けれども、結果はどうであったか。聖書を見ると、ペトロは、イエス様が逮捕され、ユダヤの当局に連行され、最高法院という裁判所に連行された時、実は自分の身を隠してこっそりと付いて行ったのです。そして、彼は裁判の成り行きを見守っていました。彼なりに精一杯勇気を振り絞って頑張ったのです。努力したのです。しかし、彼はそばにいた女から、あなたもイエスと一緒にいたと言われると、とっさに、「あなたが何のことを言っているのか、分からない。見当もつかない」と言ってイエスを否定してしまったのです。また、他の人々が、ペトロに「確かに、お前はあの連中(イエスの弟子たち)の仲間だ」と言うと、ついにペトロは、イエスを呪う言葉を口に出し、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と言ってしまったのです。結局、ペトロは三回もイエスを「知らない」と言って否定してしまいました。ペトロは自分の力を信じて、彼なりに努力しました。彼は自分がイエスを裏切るなどということは考えてもいませんでした。しかし、彼は自分の力に裏切られたのです。この出来事によってペトロは大きな挫折を経験し、自分の力に頼ること、自分の力を信じることの限界を思い知らされたのです。 クリスチャンの詩人で、また画家でもある星野富弘さんという方のことをご存知の方は多いと思います。星野富弘さんはもともと中学校の体育教師でした。しかし、教師になったその年、まだ24歳の時に、学校の体操クラブの指導中、生徒たちの前で宙返りをした時の墜落事故で頸(けい)髄(ずい)を損傷し、手足の自由を失ってしまったのです。星野さんはある本の中で、「けがをする前の私は、自分の努力で何でもできると信じ、宗教は弱い人が頼るものだと思っていた」と書いておられます。 ペトロと同じように、星野富弘さんも、自分の力を信じていました。けれども頚髄損傷という大怪我を経験することによって、星野さんは挫折し、「自分の努力で何でもできると信じる」ことの限界を思い知らされたのです。 私たちは自分の力や能力や努力を信じていても、私たちはその自分の力に裏切られることがあるのです。そして、自分の力に裏切られることがあるということは、逆にいうと、私たちは他者を裏切ることがあるということです。 イエス様の弟子であるペトロは自分の力に裏切られただけでなく、それによって自分を愛し、信頼し、12弟子としてくださったイエス様を裏切ったのです。さらに、そうである以上、私たちも相手から裏切られることがあるということです。自分のことを信じてくれている人、自分を信頼してくれている人を、私たちは裏切ってしまうことがあるし、逆に、私たちも信頼している相手から裏切られることがあるのです。 もちろん、最初から悪意を持っていたわけではないかもしれません。イエス様を裏切ったペトロも、最初から裏切ろうと思っていたわけではありません。でも、彼は結果的にイエス様を裏切ってしまったし、ペトロを信頼していたイエス様は、弟子のペトロによって裏切られてしまったのです。私たちも同じ限界を、弱さを持っています。これが、私たち人間の現実です。 3.キリストの真実を信じる 私たちは、信じることをしなければ生きることはできません。生きることは信じることです。しかし、私たちは意図する、しないに関わらず、相手の信頼を裏切ったり、裏切られたりしてしまうことがあるのです。その結果、私たちは自分に絶望したり、相手を絶望に追いやってしまうことがあるのです 先程ご紹介した星野富弘さんは、「あの日を境に夢も希望もすべてなくしてしまったかのような気持ちになった」と、当時を振り返って書いておられます。「あの日、生徒たちの前で宙返りをしなければよかった。いや器械体操などしなければよかった。大学入試に落ちていればよかった。むしろ、病弱であればよかった・・・」。星野さんは、「限りなく過去を遡って後悔を繰り返した」と言われます。他人であれ、家族であれ、自分の力や努力であれ、自分が信じていたものに裏切られた時、私たちは深い後悔と絶望の淵に突き落とされてしまいます。そして、そうなった時、私たちは自分の力でその絶望の淵から脱出することができるでしょうか。できません。なぜなら、自分の力には限界があるからです。自分の力に頼り続けるならば、私たちはますます深く沈んでいきます。 しかし、それならば、私たちにはどこにも救いはないのでしょうか。私たちは絶望の淵に沈んでしまうことを恐れながら、不安の中を生きるしかないのでしょうか。それとも、心の奥底に潜んでいる不安から目を逸らして生きるしかないのでしょうか。違います。聖書はその不安と絶望の淵から私たちを救い出すものがあると教えています。それが神様の愛の現れであるイエス・キリストを信じることなのです。 先程朗読した聖書の箇所をもう一度ご覧ください。新約聖書のテモテへの手紙二の2章11―13節をもう一度読んでみます。 「11次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。12耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。13わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」 この聖書の御言葉は、「キリスト賛歌」と呼ばれ、当時の初代教会の中で歌われていた讃美歌の一部であると言われます。そして、この手紙を書いた時、使徒パウロはローマ帝国によるキリスト教迫害の中で投獄され、死を覚悟していました。そのことは、この手紙の2章9節で、「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています」という言葉から分かります。また、少し後の4章6節では、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去るときが近づきました」、と言われていることからも分かります。 そして、その少し後の4章16節を見ると、「わたしの最初の弁明のときには、誰も助けてくれず、皆わたしを見捨てました」、とあります。 ここから分かることは、パウロの仲間たちは、死を恐れてパウロを助けようとしなかったということです。パウロは投獄され、殺されようとしている一番苦しい時、一番恐ろしい時に、仲間たちからも裏切られたのです。まさにパウロは絶望の淵にあると言っても過言ではありません。しかし、それでもパウロは、続けて「彼らにその責めが負わされませんように」と書いています。パウロは自分を裏切った仲間のことを恨んでいません。なぜなのか。パウロは助かる見込みがあるから寛容なのでしょうか。違います。パウロは自分の死刑が近いことを知っています。死を覚悟しています。けれども、彼は裏切った仲間を恨むことも、絶望もしていません。なぜなのでしょうか。その理由こそが、本日の聖書箇所、2章11―13節の「キリスト賛歌」にあるのです。特に2章13節の御言葉、「わたしたちが誠実でなくてもキリストは常に真実であられる」に注目したいと思います。パウロはこのことを信じていたのです。 人間は誰もが弱い者です。先程も見て来ましたように、信じていても裏切られることがあるし、やむを得ず裏切ってしまうことがあります。私たちは誠実でありたいと願っても、誠実に生きられないことがあるのです。しかし、イエス・キリストだけは違います。聖書が証言しているように、イエス・キリストは真の神の子であり、罪もないお方であるにも関わらず、私たちを愛するが故に、私たちの身代わりとなって十字架に架かって死んでくださったのです。イエス様の生涯は、この世の弱い者、貧しい者、虐げられた者、友なき者の友となって生きられた生涯です。私たちを愛し、私たちを絶望の淵から救い出すために、この世の苦しみ、痛み、悲しみ、絶望、そのすべてを自ら引き受けて十字架に架かってくださった生涯なのです。 新約聖書のヨハネの手紙一の4章10節はそのことを次のように証言しています。 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」 イエス・キリストこそ、真の神の愛が目に見える姿をとってこの世に現れたお方です。ですから、イエス・キリストだけは、何があっても私たちを裏切りません。私たちが誠実でなくても、裏切ったとしても、イエス様だけは私たちを愛し、御自身の真実を最後まで貫かれるのです。ここで「真実」「誠実」と訳されている言葉は、実は同じギリシャ語の言葉です。そして、日本語で「信仰」と訳されている言葉とも同じです。ある方が、キリストを信じるということは、つまり、何があっても変わらないキリストの真実を信じることだ、と言われました。私もそう思います。 自分の力に裏切られても、信頼していた友に裏切られたとしても、この世の現実に裏切られたとしても、イエス・キリストだけは絶対に裏切りません。キリストの真実だけは永遠に変わりません。だからこそ、イエス・キリストの真実を信じることによって、私たちは絶望の淵から起き上がることができるのです。 おわりに イエスを裏切ったペトロは、その後、絶望の淵に落とされます。しかし、その後、ペトロは復活なさったイエス・キリストに出会います。そして、ペトロは、裏切った自分をそれでも愛し、赦してくださったイエス・キリストの真実と出会い、その真実を信じることによって、絶望の淵から起こされ、自らキリストの愛と真実を宣べ伝える者として遣わされて行くのです。 先程紹介した星野富弘さんも同じです。絶望の淵にあった星野さんをそこから救ったのもイエス・キリストの真実です。希望を無くし、絶望の淵にあった星野さんに、大学の先輩が駆けつけて来てくれて、「ぼくにできることは、これしかありません」と言って一冊の聖書を届けてくれたそうです。それまで星野さんは、「宗教は弱い人が頼るものだと思っていた」そうです。しかし、聖書を読み始めて、「これは、俺の考えている宗教とは違う」と思うようになったそうです。そして、聖書を通してイエス・キリストの真実に出会うことによって、「重い心の中に暖かい何かが湧いてくるような気がした」と言うのです。星野さんは、「あの時から、空が変わった」とおっしゃいました。空が変わったということは、世界が変わったということです。 私たちの人生には様々な試練があります。人は皆それぞれ他人には分からない苦しみや悲しみを抱えています。しかし大切なことは、それをどう受け止めるかです。自分の力を信じて受け止めることには限界があります。しかし、イエス・キリストの真実を信じることによって、キリストがあなたのその痛みを、苦しみをすべて受け止めてくださり、担ってくださり、あなたを絶望の淵から救い出してくださいます。 「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」からです。祈りましょう。 <祈祷> 愛する天の神様。 私たちは神の信頼を裏切り、隣人の信頼を裏切ってしまう罪人です。誠実であろうと願いながらも不誠実になってしまう弱い者です。けれども、あなたはどんなに私たちが不誠実であっても、常に真実であられます。どうか、あなたの真実を心から信じることができますように。そして、キリストの真実に支えられ、試練を乗り越え、私たちもまた隣人を愛し、信じて生きることができますように導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
熊本伝道所:特別伝道集会
「あなたを救うキリストの真実」(2テモテ2:8-13)
2024年9月29日
弓矢健児
はじめに
本日の特別伝道集会の説教題は、「あなたを救うキリストの真実」という題に致しました。特別伝道集会の案内にも書かせていただきましたが、皆さんは、今何を信じていますか。「自分は何も信じていない。自分の人生に信じることなど不要だ。この世に信じられるものなど何もない」、世の中には、そんなふうに考えている方もいるでしょう。しかし、人間は信じることがなければ、決して生きることはできません。誰もが意識する、しないに関わらず、実は多くのことを信じて生きています。それならば、私たちは何を信じたらよいのでしょうか。何を信じるべきなのでしょうか。そのことを、聖書の御言葉を通して共に聞いていきたいと願います。
1.生きることは信じること
皆さんの中には、自分は電車や新幹線に乗ったことなどないという方はほとんどおられないと思います。私も昨日、新幹線に乗って神戸から熊本まで参りました。しかし、考えてみると、あんな鉄の塊が300キロ以上のスピードで走るのです。そして、走っている新幹線の中で、私たちはうたた寝をすることもあります。それは、安全だろうと信じているからです。でも、現実には列車の事故はあります。絶対に安全だとはいえません。飛行機だって同じです。あんな鉄の塊が空を飛ぶのです。考えてみると恐ろしいことです。そして、飛行機事故の場合、亡くなる可能性は非常に高いです。ですから、電車や新幹線も飛行機も100%、絶対に安全だとは言えません。事故が起きないとは言えません。でも、安全を信じて、私たちは電車にも飛行機に乗ります。
これは一つの例ですが、私たちは日常生活の中で、いろいろなことを信じて生活をしています。私たちが生きるということは、多くのことを信じるということなのです。夫を信じる、妻を信じる、親を信じる、子供を信じる・・信じるから家族として共に生きることができるのです。人を信じるから社会が成り立つのです。もし、信じなければ、私たちは誰とも共に生きることはできません。
いや自分は誰も信じない。誰も信じないで一人で生きるのだと言う方もいるかもしれません。そうなったら、それこそ、ロビンソン・クルーソーのように無人島で、一人で生きるしかありません。しかし、そんなことは私たちには不可能です。いや、ロビンソン・クルーソーだって、後に近隣の島々の争いの中で捕虜になった住民の一人を助け出し、「フライデー」と名づけて自分の僕にしています。
人は一人では生きられないのです。そうである以上、私たちは何かを信じるということがなければ、決して生きることはできません。生きることの前提には信じることがあるのです。それならば、私たちは何を信じるべきなのでしょうか。先ほども言いましたように、私たちは様々なことを信じて生きています。けれども、私たち一人一人が、かけがえのない人生を本当の意味で豊かに生きるためには、何を信じることが必要なのでしょうか。そのことを次に考えたいと思います。
2.自分の力を信じることの限界
よく、「自分の力を信じることが大切だ」と言われることがあります。特にアスリートの世界ではこのことが強調される傾向があるようです。アスリートの世界では、メンタルの強さは、我慢、忍耐ではなく、たとえ1%でも自分の力の可能性を信じて、目標達成に向けてやり続けることが大きな力になると言われます。また、このことはアスリートの世界だけでなく、勉強をはじめ、あらゆる事柄にも言えることでしょう。
私は決して、自分の力や可能性を信じて努力することを否定するものではありません。信じることは大切ですし、信じて努力することは大きな力になります。でも、私たちは自分の力を信じることができないこともある、ということを忘れてはなりません。人間の力には限界があります。人間は様々な弱さを持っています。
聖書の中にイエス・キリストの弟子であるペトロという人が出て参ります。ペトロはもともとガリラヤの漁師でしたが、イエス様から声をかけられ、イエス様の弟子となりました。その後、彼は多くの弟子の中から12弟子の一人として選ばれ、さらに12弟子の中でも、リーダー格の存在でした。ペトロは、イエス様が12弟子の中から3人の弟子を選んで山に登られた時も、その三人の中にいました。ですから、ペトロは、自分はイエス様の弟子の中でも最も有能で、忠実な弟子であるという自負を持っていたのです。そのためイエス様が、「自分は間もなく敵に捕まって十字架で殺される」ということを語られた時、次のように言いました。
「たとえ、みんなが躓いても、わたしは躓きません。たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:29,31)。
ペトロは12弟子のリーダーとして、自分の力、自分の信仰の力を信じていました。そして、彼なりに一生懸命に努力したのです。けれども、結果はどうであったか。聖書を見ると、ペトロは、イエス様が逮捕され、ユダヤの当局に連行され、最高法院という裁判所に連行された時、実は自分の身を隠してこっそりと付いて行ったのです。そして、彼は裁判の成り行きを見守っていました。彼なりに精一杯勇気を振り絞って頑張ったのです。努力したのです。しかし、彼はそばにいた女から、あなたもイエスと一緒にいたと言われると、とっさに、「あなたが何のことを言っているのか、分からない。見当もつかない」と言ってイエスを否定してしまったのです。また、他の人々が、ペトロに「確かに、お前はあの連中(イエスの弟子たち)の仲間だ」と言うと、ついにペトロは、イエスを呪う言葉を口に出し、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と言ってしまったのです。結局、ペトロは三回もイエスを「知らない」と言って否定してしまいました。ペトロは自分の力を信じて、彼なりに努力しました。彼は自分がイエスを裏切るなどということは考えてもいませんでした。しかし、彼は自分の力に裏切られたのです。この出来事によってペトロは大きな挫折を経験し、自分の力に頼ること、自分の力を信じることの限界を思い知らされたのです。
クリスチャンの詩人で、また画家でもある星野富弘さんという方のことをご存知の方は多いと思います。星野富弘さんはもともと中学校の体育教師でした。しかし、教師になったその年、まだ24歳の時に、学校の体操クラブの指導中、生徒たちの前で宙返りをした時の墜落事故で頸(けい)髄(ずい)を損傷し、手足の自由を失ってしまったのです。星野さんはある本の中で、「けがをする前の私は、自分の努力で何でもできると信じ、宗教は弱い人が頼るものだと思っていた」と書いておられます。
ペトロと同じように、星野富弘さんも、自分の力を信じていました。けれども頚髄損傷という大怪我を経験することによって、星野さんは挫折し、「自分の努力で何でもできると信じる」ことの限界を思い知らされたのです。
私たちは自分の力や能力や努力を信じていても、私たちはその自分の力に裏切られることがあるのです。そして、自分の力に裏切られることがあるということは、逆にいうと、私たちは他者を裏切ることがあるということです。
イエス様の弟子であるペトロは自分の力に裏切られただけでなく、それによって自分を愛し、信頼し、12弟子としてくださったイエス様を裏切ったのです。さらに、そうである以上、私たちも相手から裏切られることがあるということです。自分のことを信じてくれている人、自分を信頼してくれている人を、私たちは裏切ってしまうことがあるし、逆に、私たちも信頼している相手から裏切られることがあるのです。
もちろん、最初から悪意を持っていたわけではないかもしれません。イエス様を裏切ったペトロも、最初から裏切ろうと思っていたわけではありません。でも、彼は結果的にイエス様を裏切ってしまったし、ペトロを信頼していたイエス様は、弟子のペトロによって裏切られてしまったのです。私たちも同じ限界を、弱さを持っています。これが、私たち人間の現実です。
3.キリストの真実を信じる
私たちは、信じることをしなければ生きることはできません。生きることは信じることです。しかし、私たちは意図する、しないに関わらず、相手の信頼を裏切ったり、裏切られたりしてしまうことがあるのです。その結果、私たちは自分に絶望したり、相手を絶望に追いやってしまうことがあるのです
先程ご紹介した星野富弘さんは、「あの日を境に夢も希望もすべてなくしてしまったかのような気持ちになった」と、当時を振り返って書いておられます。「あの日、生徒たちの前で宙返りをしなければよかった。いや器械体操などしなければよかった。大学入試に落ちていればよかった。むしろ、病弱であればよかった・・・」。星野さんは、「限りなく過去を遡って後悔を繰り返した」と言われます。他人であれ、家族であれ、自分の力や努力であれ、自分が信じていたものに裏切られた時、私たちは深い後悔と絶望の淵に突き落とされてしまいます。そして、そうなった時、私たちは自分の力でその絶望の淵から脱出することができるでしょうか。できません。なぜなら、自分の力には限界があるからです。自分の力に頼り続けるならば、私たちはますます深く沈んでいきます。
しかし、それならば、私たちにはどこにも救いはないのでしょうか。私たちは絶望の淵に沈んでしまうことを恐れながら、不安の中を生きるしかないのでしょうか。それとも、心の奥底に潜んでいる不安から目を逸らして生きるしかないのでしょうか。違います。聖書はその不安と絶望の淵から私たちを救い出すものがあると教えています。それが神様の愛の現れであるイエス・キリストを信じることなのです。
先程朗読した聖書の箇所をもう一度ご覧ください。新約聖書のテモテへの手紙二の2章11―13節をもう一度読んでみます。
「11次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。12耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。13わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」
この聖書の御言葉は、「キリスト賛歌」と呼ばれ、当時の初代教会の中で歌われていた讃美歌の一部であると言われます。そして、この手紙を書いた時、使徒パウロはローマ帝国によるキリスト教迫害の中で投獄され、死を覚悟していました。そのことは、この手紙の2章9節で、「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています」という言葉から分かります。また、少し後の4章6節では、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去るときが近づきました」、と言われていることからも分かります。
そして、その少し後の4章16節を見ると、「わたしの最初の弁明のときには、誰も助けてくれず、皆わたしを見捨てました」、とあります。
ここから分かることは、パウロの仲間たちは、死を恐れてパウロを助けようとしなかったということです。パウロは投獄され、殺されようとしている一番苦しい時、一番恐ろしい時に、仲間たちからも裏切られたのです。まさにパウロは絶望の淵にあると言っても過言ではありません。しかし、それでもパウロは、続けて「彼らにその責めが負わされませんように」と書いています。パウロは自分を裏切った仲間のことを恨んでいません。なぜなのか。パウロは助かる見込みがあるから寛容なのでしょうか。違います。パウロは自分の死刑が近いことを知っています。死を覚悟しています。けれども、彼は裏切った仲間を恨むことも、絶望もしていません。なぜなのでしょうか。その理由こそが、本日の聖書箇所、2章11―13節の「キリスト賛歌」にあるのです。特に2章13節の御言葉、「わたしたちが誠実でなくてもキリストは常に真実であられる」に注目したいと思います。パウロはこのことを信じていたのです。
人間は誰もが弱い者です。先程も見て来ましたように、信じていても裏切られることがあるし、やむを得ず裏切ってしまうことがあります。私たちは誠実でありたいと願っても、誠実に生きられないことがあるのです。しかし、イエス・キリストだけは違います。聖書が証言しているように、イエス・キリストは真の神の子であり、罪もないお方であるにも関わらず、私たちを愛するが故に、私たちの身代わりとなって十字架に架かって死んでくださったのです。イエス様の生涯は、この世の弱い者、貧しい者、虐げられた者、友なき者の友となって生きられた生涯です。私たちを愛し、私たちを絶望の淵から救い出すために、この世の苦しみ、痛み、悲しみ、絶望、そのすべてを自ら引き受けて十字架に架かってくださった生涯なのです。
新約聖書のヨハネの手紙一の4章10節はそのことを次のように証言しています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
イエス・キリストこそ、真の神の愛が目に見える姿をとってこの世に現れたお方です。ですから、イエス・キリストだけは、何があっても私たちを裏切りません。私たちが誠実でなくても、裏切ったとしても、イエス様だけは私たちを愛し、御自身の真実を最後まで貫かれるのです。ここで「真実」「誠実」と訳されている言葉は、実は同じギリシャ語の言葉です。そして、日本語で「信仰」と訳されている言葉とも同じです。ある方が、キリストを信じるということは、つまり、何があっても変わらないキリストの真実を信じることだ、と言われました。私もそう思います。
自分の力に裏切られても、信頼していた友に裏切られたとしても、この世の現実に裏切られたとしても、イエス・キリストだけは絶対に裏切りません。キリストの真実だけは永遠に変わりません。だからこそ、イエス・キリストの真実を信じることによって、私たちは絶望の淵から起き上がることができるのです。
おわりに
イエスを裏切ったペトロは、その後、絶望の淵に落とされます。しかし、その後、ペトロは復活なさったイエス・キリストに出会います。そして、ペトロは、裏切った自分をそれでも愛し、赦してくださったイエス・キリストの真実と出会い、その真実を信じることによって、絶望の淵から起こされ、自らキリストの愛と真実を宣べ伝える者として遣わされて行くのです。
先程紹介した星野富弘さんも同じです。絶望の淵にあった星野さんをそこから救ったのもイエス・キリストの真実です。希望を無くし、絶望の淵にあった星野さんに、大学の先輩が駆けつけて来てくれて、「ぼくにできることは、これしかありません」と言って一冊の聖書を届けてくれたそうです。それまで星野さんは、「宗教は弱い人が頼るものだと思っていた」そうです。しかし、聖書を読み始めて、「これは、俺の考えている宗教とは違う」と思うようになったそうです。そして、聖書を通してイエス・キリストの真実に出会うことによって、「重い心の中に暖かい何かが湧いてくるような気がした」と言うのです。星野さんは、「あの時から、空が変わった」とおっしゃいました。空が変わったということは、世界が変わったということです。
私たちの人生には様々な試練があります。人は皆それぞれ他人には分からない苦しみや悲しみを抱えています。しかし大切なことは、それをどう受け止めるかです。自分の力を信じて受け止めることには限界があります。しかし、イエス・キリストの真実を信じることによって、キリストがあなたのその痛みを、苦しみをすべて受け止めてくださり、担ってくださり、あなたを絶望の淵から救い出してくださいます。
「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」からです。祈りましょう。
<祈祷>
愛する天の神様。 私たちは神の信頼を裏切り、隣人の信頼を裏切ってしまう罪人です。誠実であろうと願いながらも不誠実になってしまう弱い者です。けれども、あなたはどんなに私たちが不誠実であっても、常に真実であられます。どうか、あなたの真実を心から信じることができますように。そして、キリストの真実に支えられ、試練を乗り越え、私たちもまた隣人を愛し、信じて生きることができますように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。