聖書の言葉 使徒言行録 4章15 節~22節 メッセージ 2024年9月22日(日)熊本伝道所朝拝説教 使徒言行録4章15節~22節「主イエスを語らずにいられない」 1、 今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 先ほど、使徒言行録4章の後半のみ言葉をご一緒に聞きました。その中の20節の使徒ペトロの言葉が特別に心に留まりました。「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。今朝の説教題もこの御言葉から取りました。「主イエスを語らずにはいられない」 次週の主の日9月29日には、祈って来ました秋の特別集会が開催されます。先週には講師の弓矢先生から、大変に暑い日々が続いているけれども教会の皆さんはお変わりないですかと心配のメールが入りました。また御自身が奉仕しておられる神戸市の西神教会では8月は背広の上着無しで奉仕しているけれども熊本伝道所では背広の上着を着ていなくても大丈夫ですかとも書かれていました。もちろん、だめですとは言わず、大丈夫ですと返信しました。 わたしたちの教会では、春と秋に特別集会をしています。伝道のための集会です。けれども、それ以外の時には伝道のことを考えていないかと言いますと決してそうではありません。いつも伝道のことを考えています。定期的に伝道のための集会をしていますのは、そのことのしるしなのです。わたしたち一人一人がこのような集会を通して教会の伝道のために祈る、また具体的に何か行動をする、そのことを覚えるための集会であると思います。 その特別集会を控えた今朝の礼拝において、先ほどのペトロの言葉を聞くことができたのは、幸いなことだと思いました。わたしたちの伝道の動機は何か、教会が主イエス様を宣べ伝える、その根本的な理由は何かということを差し示すようなみ言葉だからです。 この使徒言行録は、「3000人が仲間に加わった」とか「男だけで5000人が信じた」というようなみ言葉があり、時に応じて伝道の成果を具体的に示しています。つまり、数字的な伝道の成果に対して聖書記者は決して無関心ではありません。しかし、それはあくまでも神様が下さった恵みとして示されているので、数を得ること自体が何か目標となっていたり、伝道の動機になったりしてはいないのです。次週の特別集会である主の日の礼拝では、主イエス様をはっきりと宣べ伝えるみ言葉が講師の死弓矢先生を通して語られるように、また、新しい方や久しぶりの方がおいで下さるように、そして何よりもわたしたちが伝道のことを決して忘れることがないように祈りたいと思います。 2 今朝のみ言葉は、先週の4章前半に引き続いて、ペトロとヨハネがエルサレム神殿で律法評議会、サンヘドリンの正式な取り調べ、裁判を受けている場面です。4章前半では、ペトロとヨハネが、居並ぶ大祭司やサドカイ派、ファリサイ派、民の長老たちの前で、なぜ自分たちがそのようなことをしたのか弁明を致しました。あなたがたが十字架に架けて殺したけれども三日目に甦えられた主イエス・キリストこそ、旧約聖書が預言している来るべきメシア、救い主、詩編118編の捨てられた石が隅の親石になった、そのお方です。それゆえ自分たちは決して悪いことをしているのではない、あなたがたが見た美しの門の奇跡は、この方の名がどれほど力あるものであるを示すものだと証言しました。堂々たる弁明であります。 今朝の個所の初めの15節に、議員たちがペトロとヨハネを議場から出して、協議を始めたことが記されています。彼らは、主イエス・キリストの名による鮮やかな奇跡と旧約聖書の救いの予言を解き明かすペトロたちの言葉を聞いて、困り果てていたと思います。彼ら罰することが出来なかったのです。 ユダヤ人たちは、なぜ二人を捕らえたのでしょうか。第一に、彼らから見るなら、ペトロとヨハネが神殿の中で勝手に癒しの奇跡を行って騒ぎを起こした、つまり神殿の平穏と秩序を乱したからでしょう。しかし、何よりも許せなかったのは、エルサレム神殿の当局者、立法評議会が正規の判決によって十字架刑としたイエス・キリストの復活を語り、このお方は今も生きていてその名には力があると証ししたことです。イエス・キリストは復活し、そのイエスの名が、この奇跡を起こしたと宣伝したことでした。 つまり自分たちの権威が完全に否定されたこと、それだけでなく、ペトロとヨハネが、自分たちが処刑した主イエス・キリストの名を掲げて、このお方を信じれば命が与えられると説教していることが問題でした。さらに、実際に癒された人を傍らに置いたその説教は、ユダヤの人びとの心をしっかりと捕らえました。主イエス様を救い主と信じるものがおどろくべき数で起こされました。そしてこのこともまた、ユダヤ教の当局者にとっては、自分たちの立場を危うくするものでした。彼らをこのままにはしておけない、捕らえなければならないと思い、ペトロとヨハネは逮捕拘束、そして裁判にかけたのです。 どのくらいの協議が行われたのかはわかりませんが、その結果、起きた出来事と人々の手前、彼らを罰することは出来ないことははっきりしています。さりとて、このまま放置しておけば益々主イエス。キリストを信じる人々が増えて自分たちの立場が危うくなる、どうしたものかと考えました。 16節に「彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレム中に知れ渡っており、それを否定することはできない」と彼ら自身が言ったと書かれています。「否定することが出来ない」、翻訳では隠されていますが、この16節の後半の主語は、一人称複数形です。言い換えると、あの目覚ましいしるしを、「私たちは」否定することが出来ないと言っているのです。これまで誰も癒すことが出来なかった足の不自由な男をイエス・キリストの名が癒したことを否定できない。そしてこのことはすでにエルサレム中に広まっている、これも否定できないと言っているのです。これは大変困ったことです。自分たちが、十字架刑の判決を下し、ローマ総督ポンテオ・ピラトに働きかけ、実際に処刑した、あの主イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの名によってしるしを行った、それを否定することが出来ないのです。 そうなりますと、使徒たちが証ししているイエス・キリストの復活、さらにこのお方こそ、旧約聖書が預言したメシア、救い主であることも否定できなくなってしまいます。つまり、ユダヤ教の指導者としての判断が全く誤りであったこと、自分たちは救い主を殺してしまったことを認めなければならなくなります。 協議の結果、彼らは、二人を投獄したり、鞭打ちや死刑などの刑罰を科したりすることは出来ない、しかしとにかく脅して黙らせることにしました。その結論、つまり判決が、再び議場に呼び戻された二人に申し渡されました。 18節が、判決です。「あなたがたを無罪放免するほかはない。けれども、以後、イエスの名を語ったり教えたりしてはならない」と彼らを戒めたのです。 3, ペトロとヨハネが願っていたことは、ユダヤ教の当局者、議員たちを貶(おとし)めることではありませんでした。使徒ペトロの説教は、今こそ過ちを認め悔い改めて神に立ち返れと言うものでありました。今からでも遅くないのです。ユダヤ人の指導者たちは、誤りを認め、悔い改めて主イエス様を救い主として受け入れるべきであったのです。しかし、彼らにはそれができませんでした。心がかたくなになっていたからです。神に従うより、今の自分たちの地位や立場を守ろうとしたからです。幼子のように真実を受け入れる、そういう心ではなく、この世的な罪の心、ずるがしこい大人の心で判断しました。 彼らが出した判決は、今は、彼らを有罪として処刑することが出来ないというものです。もし処刑するなら、いよいよ騒ぎが大きくなると考えました。自分たちでさえ信ぜざる得ない使徒たちの証しを理由に処刑すれば、人々はそれを承知しないかも知れません。そこで処刑しないで釈放する、しかし条件を付けました。それは、これ以上、この話が広まることがないように、彼らの口をふさぐということでした。伝道禁止の命令です。今は解放する、しかし伝道を続けるなら次は赦さないと脅したのです。 さて、ペトロとヨハネはこのように答えています。 「神に従わないであなた方に従うことが神の前に正しいかどうか考えてください」 神に従わないことが、神の前に正しいということはありないことです。原文を直訳しますと「あなた方に聞くことが、(聞くというのは、従うという意味ですが)、あなた方に聞くことが、神に聞くこと以上に、神の前に正しいかどうか」という言い方をしています。「考えてみてください」と訳していますが、ここは新改訳やサンフランシスコ訳がしているように「判断してください」「判決をしてください」と訳すほうが良いと思います。 人の立てた政治体制や権力者、上に立つものに従うことは正しいことであります。しかし、それは神様に従うこと以上に正しいということではない、あくまで相対的な正しさであることを覚えたいと思います。 そしてこう続けています。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」 これはただ一般的に、人は自分の体験を話したくなるということを言っているのでは決してありません。ペトロとヨハネは、ソロモンの廊で何を説教していたかということを思い出せばわかります。「見たこと、聞いたこと」とは、主イエス・キリストについて見たことであり、主イエス・キリストから聞いた信仰の教え以外にはありません。これこそがキリスト教会が語り続けるべき事柄です。 4 この美しの門の奇跡から始まった一部始終の出来事は、ペンテコステの聖霊降臨によって生まれた初代教会が、ユダヤの国と起こした最初の衝突でありました。 主イエス様に従う道は命の道、喜びの道であります。しかし、一方では、主イエス様と同じように苦しみをも受ける道でもあります。なぜなら、主イエス様はこの世を愛して命を捨てられたのですが、それはこの世が、そのまま悪を抱えたまま歩む、言い換えると、まことの神から離れたような仕方で存在し続けるのではなく、悔い改めて神に立ち返るため、真の神を信じて新しくなるためでありました。 幕末から明治時代の初期に、長かった鎖国が終わりを告げたとき、アメリカやヨーロッパから多くの宣教師たちが日本にやってきました。わたくしは熊本にやって来た夏期伝道の神学生を必ず案内しますが、花岡山の頂上に熊本洋学校のお雇い外国人ジェーズを通して初めてイエス・キリストを知った青年たちの捧教趣意書の写しと、記念碑があります。35人が、ジェーンズが信じる聖書の教えと救い主イエス・キリストを信じると公に宣言した理由は何だったのでしょうか。それは、20節のペトロとヨハネの言葉と重なるものです。「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」 35名は洋学校を追われて京都に開校したばかり同志社に移ります。その中から実に7名が、福音宣教を生涯の任務とする牧師、伝道者になっています。宮川経輝や金森通倫、海老名弾正、小崎弘道といった同志社の4傑がでました。こ先は奉教趣意書に署名していませんが、後に牧師になりました。彼らは、また日本のキリスト教会の名だたる指導者になります。 わたしたち改革派教会のルーツは、ブラウンの英語塾を発祥とした横浜バンドです。そこから横浜海岸教会が生まれて植村正久や井深梶乃介などが輩出します。11名の塾生の内、7枚が献身して牧師。伝道者になります。伝道者に献身する人の割合が非常に高いのです。ものすごい福音のエネルギーです。長かった鎖国の時代には聞くことが出来なかった福音が、まさしく彼らの心をとらえて、この福音をこの国の人々に語らずにはいられないという思いがほとばしり出たのです。 「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」 これこそが福音伝道の原動力ではないでしょうか。 使徒言行録の後半に登場してきます、初代教会の指導者、大伝道者であった使徒パウロは、次のように言っています。 「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」コリント信徒への手紙9章16節のみ言葉です。あるいはこうも語ります。 「わたしは福音を恥としない。福音派ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる人すべてに救いをもたらす神の力だからです」ローマの信徒への手紙1章16節のみ言葉です。福音は、恥とすることではないとパウロは言います。 福音を告げ知らせること、主イエス・キリストを宣べ伝えること、これは教会にとっては、せずにはおれないこと、言い換えると、私たち人間が呼吸をすることと同じなのです。神様の前に決して恥ずかしいことではありません。むしろ、そうしないでいることが出来ないことであります。なぜなら、わたしたちは自分の力で生きているのではなく、イエス・キリストによって罪を許された命によって生きているからです。これは天におられる主イエス様が、あのペンテコステのときに送ってくださった聖霊、そして今も続けて送り続けてくださる聖霊によってなされたことです。聖霊によって、わたしたちは、福音に生き、福音を伝えるものに変えられたのであります。 祈りを致します。 神さま、次週の特別集会の上にあなたの祝福をお願いいたします。そして教会がいつも伝道のことを覚えて、折が良くても悪くても福音に生きる群れ、また福音を伝える群れであるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2024年9月22日(日)熊本伝道所朝拝説教
使徒言行録4章15節~22節「主イエスを語らずにいられない」
1、
今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
先ほど、使徒言行録4章の後半のみ言葉をご一緒に聞きました。その中の20節の使徒ペトロの言葉が特別に心に留まりました。「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。今朝の説教題もこの御言葉から取りました。「主イエスを語らずにはいられない」
次週の主の日9月29日には、祈って来ました秋の特別集会が開催されます。先週には講師の弓矢先生から、大変に暑い日々が続いているけれども教会の皆さんはお変わりないですかと心配のメールが入りました。また御自身が奉仕しておられる神戸市の西神教会では8月は背広の上着無しで奉仕しているけれども熊本伝道所では背広の上着を着ていなくても大丈夫ですかとも書かれていました。もちろん、だめですとは言わず、大丈夫ですと返信しました。
わたしたちの教会では、春と秋に特別集会をしています。伝道のための集会です。けれども、それ以外の時には伝道のことを考えていないかと言いますと決してそうではありません。いつも伝道のことを考えています。定期的に伝道のための集会をしていますのは、そのことのしるしなのです。わたしたち一人一人がこのような集会を通して教会の伝道のために祈る、また具体的に何か行動をする、そのことを覚えるための集会であると思います。
その特別集会を控えた今朝の礼拝において、先ほどのペトロの言葉を聞くことができたのは、幸いなことだと思いました。わたしたちの伝道の動機は何か、教会が主イエス様を宣べ伝える、その根本的な理由は何かということを差し示すようなみ言葉だからです。
この使徒言行録は、「3000人が仲間に加わった」とか「男だけで5000人が信じた」というようなみ言葉があり、時に応じて伝道の成果を具体的に示しています。つまり、数字的な伝道の成果に対して聖書記者は決して無関心ではありません。しかし、それはあくまでも神様が下さった恵みとして示されているので、数を得ること自体が何か目標となっていたり、伝道の動機になったりしてはいないのです。次週の特別集会である主の日の礼拝では、主イエス様をはっきりと宣べ伝えるみ言葉が講師の死弓矢先生を通して語られるように、また、新しい方や久しぶりの方がおいで下さるように、そして何よりもわたしたちが伝道のことを決して忘れることがないように祈りたいと思います。
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今朝のみ言葉は、先週の4章前半に引き続いて、ペトロとヨハネがエルサレム神殿で律法評議会、サンヘドリンの正式な取り調べ、裁判を受けている場面です。4章前半では、ペトロとヨハネが、居並ぶ大祭司やサドカイ派、ファリサイ派、民の長老たちの前で、なぜ自分たちがそのようなことをしたのか弁明を致しました。あなたがたが十字架に架けて殺したけれども三日目に甦えられた主イエス・キリストこそ、旧約聖書が預言している来るべきメシア、救い主、詩編118編の捨てられた石が隅の親石になった、そのお方です。それゆえ自分たちは決して悪いことをしているのではない、あなたがたが見た美しの門の奇跡は、この方の名がどれほど力あるものであるを示すものだと証言しました。堂々たる弁明であります。
今朝の個所の初めの15節に、議員たちがペトロとヨハネを議場から出して、協議を始めたことが記されています。彼らは、主イエス・キリストの名による鮮やかな奇跡と旧約聖書の救いの予言を解き明かすペトロたちの言葉を聞いて、困り果てていたと思います。彼ら罰することが出来なかったのです。
ユダヤ人たちは、なぜ二人を捕らえたのでしょうか。第一に、彼らから見るなら、ペトロとヨハネが神殿の中で勝手に癒しの奇跡を行って騒ぎを起こした、つまり神殿の平穏と秩序を乱したからでしょう。しかし、何よりも許せなかったのは、エルサレム神殿の当局者、立法評議会が正規の判決によって十字架刑としたイエス・キリストの復活を語り、このお方は今も生きていてその名には力があると証ししたことです。イエス・キリストは復活し、そのイエスの名が、この奇跡を起こしたと宣伝したことでした。
つまり自分たちの権威が完全に否定されたこと、それだけでなく、ペトロとヨハネが、自分たちが処刑した主イエス・キリストの名を掲げて、このお方を信じれば命が与えられると説教していることが問題でした。さらに、実際に癒された人を傍らに置いたその説教は、ユダヤの人びとの心をしっかりと捕らえました。主イエス様を救い主と信じるものがおどろくべき数で起こされました。そしてこのこともまた、ユダヤ教の当局者にとっては、自分たちの立場を危うくするものでした。彼らをこのままにはしておけない、捕らえなければならないと思い、ペトロとヨハネは逮捕拘束、そして裁判にかけたのです。
どのくらいの協議が行われたのかはわかりませんが、その結果、起きた出来事と人々の手前、彼らを罰することは出来ないことははっきりしています。さりとて、このまま放置しておけば益々主イエス。キリストを信じる人々が増えて自分たちの立場が危うくなる、どうしたものかと考えました。
16節に「彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレム中に知れ渡っており、それを否定することはできない」と彼ら自身が言ったと書かれています。「否定することが出来ない」、翻訳では隠されていますが、この16節の後半の主語は、一人称複数形です。言い換えると、あの目覚ましいしるしを、「私たちは」否定することが出来ないと言っているのです。これまで誰も癒すことが出来なかった足の不自由な男をイエス・キリストの名が癒したことを否定できない。そしてこのことはすでにエルサレム中に広まっている、これも否定できないと言っているのです。これは大変困ったことです。自分たちが、十字架刑の判決を下し、ローマ総督ポンテオ・ピラトに働きかけ、実際に処刑した、あの主イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの名によってしるしを行った、それを否定することが出来ないのです。
そうなりますと、使徒たちが証ししているイエス・キリストの復活、さらにこのお方こそ、旧約聖書が預言したメシア、救い主であることも否定できなくなってしまいます。つまり、ユダヤ教の指導者としての判断が全く誤りであったこと、自分たちは救い主を殺してしまったことを認めなければならなくなります。
協議の結果、彼らは、二人を投獄したり、鞭打ちや死刑などの刑罰を科したりすることは出来ない、しかしとにかく脅して黙らせることにしました。その結論、つまり判決が、再び議場に呼び戻された二人に申し渡されました。
18節が、判決です。「あなたがたを無罪放免するほかはない。けれども、以後、イエスの名を語ったり教えたりしてはならない」と彼らを戒めたのです。
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ペトロとヨハネが願っていたことは、ユダヤ教の当局者、議員たちを貶(おとし)めることではありませんでした。使徒ペトロの説教は、今こそ過ちを認め悔い改めて神に立ち返れと言うものでありました。今からでも遅くないのです。ユダヤ人の指導者たちは、誤りを認め、悔い改めて主イエス様を救い主として受け入れるべきであったのです。しかし、彼らにはそれができませんでした。心がかたくなになっていたからです。神に従うより、今の自分たちの地位や立場を守ろうとしたからです。幼子のように真実を受け入れる、そういう心ではなく、この世的な罪の心、ずるがしこい大人の心で判断しました。
彼らが出した判決は、今は、彼らを有罪として処刑することが出来ないというものです。もし処刑するなら、いよいよ騒ぎが大きくなると考えました。自分たちでさえ信ぜざる得ない使徒たちの証しを理由に処刑すれば、人々はそれを承知しないかも知れません。そこで処刑しないで釈放する、しかし条件を付けました。それは、これ以上、この話が広まることがないように、彼らの口をふさぐということでした。伝道禁止の命令です。今は解放する、しかし伝道を続けるなら次は赦さないと脅したのです。
さて、ペトロとヨハネはこのように答えています。
「神に従わないであなた方に従うことが神の前に正しいかどうか考えてください」
神に従わないことが、神の前に正しいということはありないことです。原文を直訳しますと「あなた方に聞くことが、(聞くというのは、従うという意味ですが)、あなた方に聞くことが、神に聞くこと以上に、神の前に正しいかどうか」という言い方をしています。「考えてみてください」と訳していますが、ここは新改訳やサンフランシスコ訳がしているように「判断してください」「判決をしてください」と訳すほうが良いと思います。
人の立てた政治体制や権力者、上に立つものに従うことは正しいことであります。しかし、それは神様に従うこと以上に正しいということではない、あくまで相対的な正しさであることを覚えたいと思います。
そしてこう続けています。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
これはただ一般的に、人は自分の体験を話したくなるということを言っているのでは決してありません。ペトロとヨハネは、ソロモンの廊で何を説教していたかということを思い出せばわかります。「見たこと、聞いたこと」とは、主イエス・キリストについて見たことであり、主イエス・キリストから聞いた信仰の教え以外にはありません。これこそがキリスト教会が語り続けるべき事柄です。
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この美しの門の奇跡から始まった一部始終の出来事は、ペンテコステの聖霊降臨によって生まれた初代教会が、ユダヤの国と起こした最初の衝突でありました。
主イエス様に従う道は命の道、喜びの道であります。しかし、一方では、主イエス様と同じように苦しみをも受ける道でもあります。なぜなら、主イエス様はこの世を愛して命を捨てられたのですが、それはこの世が、そのまま悪を抱えたまま歩む、言い換えると、まことの神から離れたような仕方で存在し続けるのではなく、悔い改めて神に立ち返るため、真の神を信じて新しくなるためでありました。
幕末から明治時代の初期に、長かった鎖国が終わりを告げたとき、アメリカやヨーロッパから多くの宣教師たちが日本にやってきました。わたくしは熊本にやって来た夏期伝道の神学生を必ず案内しますが、花岡山の頂上に熊本洋学校のお雇い外国人ジェーズを通して初めてイエス・キリストを知った青年たちの捧教趣意書の写しと、記念碑があります。35人が、ジェーンズが信じる聖書の教えと救い主イエス・キリストを信じると公に宣言した理由は何だったのでしょうか。それは、20節のペトロとヨハネの言葉と重なるものです。「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
35名は洋学校を追われて京都に開校したばかり同志社に移ります。その中から実に7名が、福音宣教を生涯の任務とする牧師、伝道者になっています。宮川経輝や金森通倫、海老名弾正、小崎弘道といった同志社の4傑がでました。こ先は奉教趣意書に署名していませんが、後に牧師になりました。彼らは、また日本のキリスト教会の名だたる指導者になります。
わたしたち改革派教会のルーツは、ブラウンの英語塾を発祥とした横浜バンドです。そこから横浜海岸教会が生まれて植村正久や井深梶乃介などが輩出します。11名の塾生の内、7枚が献身して牧師。伝道者になります。伝道者に献身する人の割合が非常に高いのです。ものすごい福音のエネルギーです。長かった鎖国の時代には聞くことが出来なかった福音が、まさしく彼らの心をとらえて、この福音をこの国の人々に語らずにはいられないという思いがほとばしり出たのです。
「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
これこそが福音伝道の原動力ではないでしょうか。
使徒言行録の後半に登場してきます、初代教会の指導者、大伝道者であった使徒パウロは、次のように言っています。
「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」コリント信徒への手紙9章16節のみ言葉です。あるいはこうも語ります。
「わたしは福音を恥としない。福音派ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる人すべてに救いをもたらす神の力だからです」ローマの信徒への手紙1章16節のみ言葉です。福音は、恥とすることではないとパウロは言います。
福音を告げ知らせること、主イエス・キリストを宣べ伝えること、これは教会にとっては、せずにはおれないこと、言い換えると、私たち人間が呼吸をすることと同じなのです。神様の前に決して恥ずかしいことではありません。むしろ、そうしないでいることが出来ないことであります。なぜなら、わたしたちは自分の力で生きているのではなく、イエス・キリストによって罪を許された命によって生きているからです。これは天におられる主イエス様が、あのペンテコステのときに送ってくださった聖霊、そして今も続けて送り続けてくださる聖霊によってなされたことです。聖霊によって、わたしたちは、福音に生き、福音を伝えるものに変えられたのであります。
祈りを致します。
神さま、次週の特別集会の上にあなたの祝福をお願いいたします。そして教会がいつも伝道のことを覚えて、折が良くても悪くても福音に生きる群れ、また福音を伝える群れであるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。