聖書の言葉 使徒言行録 4章1節~14節 メッセージ 2024年9月15日(日)熊本伝道所朝拝説教 使徒言行録4章1節~14節「隅の頭石(コーナー・ストーン)」 1、 今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。 今朝の説教題は「隅の頭石コーナー・ストーン」です。この「隅の頭石」という説教題は、先ほどお読みしました聖書の言葉の11節、使徒ペトロの弁明の中に出てきている言葉から取りました。ペトロは、生まれつき足の不自由な人が癒されたことをきっかけに集まって来た大勢の人々に、主イエス様を救い主だと宣言しましたので、神殿警備の責任者、神殿守衛長と復活を認めなユダヤ教の一派のサドカイ派の人々によって捕らえられ、牢に入れられてしまいます。翌日、ユダヤ教の幹部たちに向かってこう言ったのです。「この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられた石が、隅の親石となった石』です」。これは旧約聖書、詩編118編22節の引用で、ペトロは居並ぶユダヤ教の指導者たちに向かって、この詩編に歌われた救い主こそ、主イエス様だと告げ知らせているのです。いまペトロの説教を聞いているユダヤ人たちなら良く知っている詩編のみ言葉です。救い主である主イエス様は、十字架に架けられた、つまり、あなたがたによって捨てられたけれども、復活し、その名が救いの名となり、まさしく頭の石、救い主であることがはっきりしたと告げ知らせているのです。 説教題を「隅のかしら石」としたのですが、お読みしました新共同訳聖書では「隅の親石」となっていますね。元のギリシャ語は、と言いますと「角、コーナーですね、角の頭になった石」と書かれています。前の口語訳聖書とフランシスコ会訳聖書、また文語訳聖書では。「隅のかしら石」で。新改訳聖書は「かなめの石」です。 実は、英語のNIV聖書は「キャップ・ストーン」と訳していて、これがその意味を最もふさわしく訳しているように思います。 20年以上も前のことですが、改革派教会の中で若い人たちによってワーシップソングのバンドが結成されまして、そのバンドの名前が「コーナー・ストーン」でした。英語ではコーナー・ストーンは、「礎石」「礎」という意味です。けれどもペトロは、ここで「隅の頭石」という言葉を建物の基礎となる礎石の意味には使っていません。旧約聖書も新約聖書も、まさに英語の聖書が言うキャップ・ストーンの意味で使っているのです。 かしら石は、建物の最上部に最後に置かれる石のことです。例えばアーチ状の門の最も上に置かれる大切な石です。それがキャップ・ストーンです。古代からもっとも有名なキャップ・ストーンは、エジプトのピラミッドの頂上に置かれる三角の石だと言われています。主イエス様はそのようなお方であり、あなたがたが捨ててしまったとしても神は、頭となるお方として、甦らせて下さったと言っておるのです。 ペトロは、10節では、主イエス様についてこのように紹介しました。「あなたがたが十字架に付けて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリスト」このキリストこそが詩編118編の隅の親石だとペトロはいうのです。「これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」だとペトロは言います。 2, 主イエス様はポンテオピラトのもとでユダヤ人たちによって十字架にかけられ死んで葬られました。すなわちユダヤ人たちによって捨てられた石となったのです。けれども神様はこの主イエス様を三日目に蘇がえらせられました。主イエス様は、一度は打ち捨てられたのですが、しかし勝利者、死に打ち勝ったお方、として、最終的に建物の最も大切なかなめの石となったのです。 詩編118編22節は、マタイ21章42節で、主イエス様ご自身によって引用されています。主イエス様をとらえようとするユダヤ人たちに向かって主イエス様は、「ブドウ園の農夫」のたとえを語られますが、その中で、こう言っておられます。「イエスは言われた。『聖書にこう書いてある。まだ読んだことがないのか。家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで私たちの目には不思議に見える。だから言っておく、神の国はあなたがたから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちるものは打ち砕かれ、この石が誰かの上に落ちれば押しつぶされてしまう。」言うまでもなく旧約聖書詩編11編22節23節の引用です。 ブドウ園の主人が、収穫を受け取るために僕を次々に送りますが、農夫たちは従いません。主人は最後に自分の息子を送るのです。しかし、彼らは、この息子を跡取りだからと言って殺してしまうのです。ブドウ園の主人は、これを見て農夫たちを厳しく罰します。このたとえの解き明かしの言葉が詩編118編の「隅の親石」のみ言葉なのです。このブドウ園と農夫のたとえは、マルコにもルカにも出てくる、つまり聖書に何度も繰り返し引用される大切なみ言葉です。隅の親石のみ言葉、詩編118編22節はペトロの手紙1の2章7節においても主イエス様の勝利を示すみ言葉として引用されます。 ペトロの手紙1、2章7節「この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、しんじないものたちに取っては家づくりらの捨てた石、これが隅の親石となったのであり、また躓きの石、妨げの岩なのです。」 ユダヤ人たちが捨て去った石とは、彼らが十字架につけて殺した主イエス様です。しかし、この方が、神によって詩編の預言するメシア、隅の親石、コーナー・ストーンとなるのです。 その時は謎のままでした。コーナー・ストーン角の石、いったい何だろうか。と思いました。それから何年もたって、ああ、あれは主イエス様のことだったのだと知ることが出来ました。 さて、使徒ペトロは、この隅の親石の御言葉を、彼のソロモンの廊の説教の中で語ったのではありません。そうではなく、ペトロは、ユダヤ人たちに捕らえられて裁判にかけらているのすが、その裁判の時に語りました。今朝の御言葉の4章の初めにはこのような小見出しがつけられています。「ペトロとヨハネ、議会で取り調べを受ける」 なぜ、ユダヤ人たちはペトロをとらえたのでしょうか。生まれながらに足の不自由な人が、たちどころに癒され、ペトロがその人を傍らに置いて、「この人を強くしたのは、十字架に付けられて死んで、しかし三日目に蘇ったお方、イエス・キリスト、その名、その御力、その権威によるのです」と語り、「悔い改めてこのお方を救い主として信じなさい」と説教したからでしょうか。男だけで5000人の人がこの信じて洗礼を受けたと3節にあり、神殿の中が大騒ぎになったからと言うのでしょうか。それらのこともあったに違いないのですが、何よりも、主イエス様の復活と言う言葉がある人々を怒らせたのです。それは、1節にあるように、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たちでした。 サドカイ派とは、今のユダヤ教の中では跡形もなく消え失せてしまった一派であるということです。当時のユダヤ教の中の祭司たちや、裕福なユダヤ人たちを中心にした有力な集団でした。当時、サドカイ派とファリサイ派がユダヤ教の中の二大集団で、両者は激しく対立していたようです。 聖書を読んでわかることは、サドカイ派は死者の復活などは断じてないと主張するある意味で合理主義者であったようです。サドカイ派や祭司たちは、ユダヤの国では、経済的に豊かな階級に属していたと言われています。彼らは神殿で犠牲を捧げる儀式を中心にした宗教生活を重んじていましたが、その思想は、この世的な意味で成功者が多い集団らしく、現世中心であり、合理主義的であり、死者の復活などは決してあり得ないと言っていたのです。それに対してファリサイ派は彼らの中から律法学者が多く輩出したように、聖書を良く研究し、解釈し、神の霊の働きや、とりわけ死者の復活についてサドカイ派と対立していたというのです。 3, 初代教会の大伝道者、神学的指導者のパウロは、死者の復活がないなら主イエス様の復活もないということになると言ってコリントの信徒への手紙1、15章で私たちに警告します。さすが、もとファリサイ派らしいと言わなければなりません。 聖書を読みますと、生まれたばかりの初代教会に対して、その最初期のころから最も反対していたのは、どうやら、サドカイ派であることがわかります。今朝のみ言葉で、ペトロとヨハネが捕らえられたときに、その迫害の口火を切ったのは祭司たちとサドカイ派であります。彼らは復活の話を聞いていらだったと書かれています。彼らの信仰生活にとって都合の悪いイエス様の復活を闇に葬ってしまいたいのに、それを堂々と証しする使徒たちが彼らにとっては邪魔でありました。 実は、この4章の迫害はまだ序の口です。本格的な迫害は5章になって起こります。主イエス様について語ってはならないと脅されて解放されたペトロとヨハネですが、彼らはそれに負けずに、ますます主イエス様を宣べ伝え、病人や穢れた霊に悩む人々をいやし続けたのです。それでサドカイ派を中心とする祭司たちは、ますます荒れ狂って使徒たち全員を捕らえて牢に閉じ込めるのです。二度目の裁判では使徒たちを死刑にする意見が大勢を占めました。しかし、そのときに立って反対意見を述べて、彼らを救ったのはファリサイ派に属するガマリエルと言う教師でした。サドカイ派は死者の復活に反対し、ファリサイ派は死者の復活を主張していたことがその背景にあります。 ペトロがソロモンの廊の説教で強く訴えたのは、主イエス様の復活でした。死が滅ぼされた、命が勝った、わたしたちもまた罪を赦され新しくされるという命の希望を語りました。 わたしたちが、復活した主イエス様をペトロのように世の人たちに宣べ伝えて行く時に、まず壁となるのが、それは現代の科学とマッチしないのではないかという考え方です。どんなことでもそれが科学的に証明されているかいないのかをまず問うのです。科学で証明できなければ非科学的としてすべてを退けるのです。そのような合理主義の軍門に下っていったのがいわゆる近代主義神学、近代主義的なキリスト教です。イエス・キリストの福音の本質は、神様による天地創造や神様の義さ、そして人の罪の解決ではない、また死者の復活とか、死後の裁きとか、天国の存在などではない、奇跡などは起こりえない、そういうのです。信仰が働く場所は、そんなわけのわからないことではなく、この世の中に生きる時であり、どうやって主イエス様の愛をあらわして生きるのかと言うことだと主張するのです。主イエス様の愛をあらわして生きることは大切なことですが、しかし聖書全体を読むならば、聖書は、この世界の成り立ちと神様の恵みを教え、罪を解決する救い主を証しする書物であり、人間の道徳の理想を教えるだけのものではありません。 ドイツの偉大な哲学者にインマヌエル・カントと言う人がいます。彼は、この世の中の目に見えるものについては、人間の理性による認識がすべてを支配することが出来るし、そこには信仰の入る余地はないと主張しました。宗教というのは、そうではない世界、目に見えない領域にだけ意味がある。つまり人間の生き方、愛や道徳においてこそ、その存在意義があると主張しました。これは現代のサドカイ主義と言ってよいと私は思います。 しかし、わたしたちが信じている神はそのような神様では断じてありません。神様は、目に見えるまさにこの世界の中で実際に生きて働いておられます。現代の科学的合理主義が通用する領域は実際には、極めて限られていて、すべてのことの根源には神様の御手があります。人間の罪とそこから来る悪もまた見える現実世界とつながっているのです。すべてのことは神から出て神に帰する、この世界には神様の御前にない場所は、たったの一インチ四方もない。すべては生きておられる神のみ前に置かれています。わたしたちは、これを有神的人生観世界観と呼びます。 4, ペトロはもっと素朴な形ですけれども、サドカイ派の人びとに向かって一歩もひるまず断固宣言します。 「民の議員、また長老の方々、今日、わたしが取り調べを受けているのは、病人に対する良い行いと、その人が何によって癒されたかと言うことについてであるならば、あなたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さん前に立っているのは、あなた方が十字架にかけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」 病の癒しも、主イエス様の復活も、目に見える自然世界を超える神の力、神の恵みを証しするものです。主イエス様が、この世と人の暗闇、罪に対して勝利され、復活された、よみがえられた、このことこそ、旧約聖書が預言してやまなかった救い主のしるしであることをペトロは宣べ伝えているのです。 8節にこう書かれています。「ペトロは聖霊に満たされて言った」。ぺトロの議会での弁論は、語っているのは間違いなくペトロその人ですが、その背後に満ちている聖霊の力に導かれてなされたものでした。 ペトロの結論は、明確です。12節「誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名、つまりイエス・キリストの名ですけれども、この名のほかには与えられていないのです。」 人間の知恵や道徳は、わたしたちを根源的に救うことはできません。この世の権力者、支配者も救い主ではありません。ただ主イエス・キリストの恵み、十字架の血がわたしたちを救います。蘇りの命、死に打ち勝った主イエス様の命こそ私たちの命の源です。 今朝のみ言葉以外にも、聖書には主イエス様を石、あるいは岩とみなす個所が多くあります。主イエス様は、建物の頂上に名誉ある石、すなわち教会の頭であります。そして私たちは、その主イエス様の体なのです。手であり、足であり、耳であり、口なのです。 また同時に、主イエス様は英語のコーナー・ストーンの意味にふさわしく、わたしたちの人生の土台、礎であります。 主イエス様は、マタイによる福音書の5章から7章にかけて記されている山上の説教のまとめの言葉として、岩の上に家を建てた人のたとえを語ってくださいました。主イエス様の言葉を聞く人、そして主イエス様に従って、御言葉を行う人は、岩の上に家を建てた人に似ていると言われました。 「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」 わたしたちは、わたしたちの人生という建物の土台に何を据えるのでしょうか。神様が与えてくださる確かな土台、コーナー・ストーンは、主イエス様以外にはありません。すべてのことは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。死んで蘇えられた神の御子イエス・キリストこそ、わたしたちの人生のかけがえのない隅の親石です。このお方の上に、わたしたちの人生をしっかりと置き、世界が進むべき道を見出してゆきましょう。 祈ります。 わたしたちの愛する主イエス・キリストの父なる神 御名を讃美します。あなたは十字架の上に死んで罪の贖いを成し遂げられました。そして三日目におよみがえりになり、今も生きておられることを感謝いたします。 このお方を信じ、救いに与かったわたしたちは、このことを世界の人々に宣べ伝えないではおられません。ペトロヨハネのように、困難の中で福音を生きることが出来、福音を宣べ伝えて行くことが出来ますように教会を強めてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン
2024年9月15日(日)熊本伝道所朝拝説教
使徒言行録4章1節~14節「隅の頭石(コーナー・ストーン)」
1、
今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。
今朝の説教題は「隅の頭石コーナー・ストーン」です。この「隅の頭石」という説教題は、先ほどお読みしました聖書の言葉の11節、使徒ペトロの弁明の中に出てきている言葉から取りました。ペトロは、生まれつき足の不自由な人が癒されたことをきっかけに集まって来た大勢の人々に、主イエス様を救い主だと宣言しましたので、神殿警備の責任者、神殿守衛長と復活を認めなユダヤ教の一派のサドカイ派の人々によって捕らえられ、牢に入れられてしまいます。翌日、ユダヤ教の幹部たちに向かってこう言ったのです。「この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられた石が、隅の親石となった石』です」。これは旧約聖書、詩編118編22節の引用で、ペトロは居並ぶユダヤ教の指導者たちに向かって、この詩編に歌われた救い主こそ、主イエス様だと告げ知らせているのです。いまペトロの説教を聞いているユダヤ人たちなら良く知っている詩編のみ言葉です。救い主である主イエス様は、十字架に架けられた、つまり、あなたがたによって捨てられたけれども、復活し、その名が救いの名となり、まさしく頭の石、救い主であることがはっきりしたと告げ知らせているのです。
説教題を「隅のかしら石」としたのですが、お読みしました新共同訳聖書では「隅の親石」となっていますね。元のギリシャ語は、と言いますと「角、コーナーですね、角の頭になった石」と書かれています。前の口語訳聖書とフランシスコ会訳聖書、また文語訳聖書では。「隅のかしら石」で。新改訳聖書は「かなめの石」です。
実は、英語のNIV聖書は「キャップ・ストーン」と訳していて、これがその意味を最もふさわしく訳しているように思います。
20年以上も前のことですが、改革派教会の中で若い人たちによってワーシップソングのバンドが結成されまして、そのバンドの名前が「コーナー・ストーン」でした。英語ではコーナー・ストーンは、「礎石」「礎」という意味です。けれどもペトロは、ここで「隅の頭石」という言葉を建物の基礎となる礎石の意味には使っていません。旧約聖書も新約聖書も、まさに英語の聖書が言うキャップ・ストーンの意味で使っているのです。
かしら石は、建物の最上部に最後に置かれる石のことです。例えばアーチ状の門の最も上に置かれる大切な石です。それがキャップ・ストーンです。古代からもっとも有名なキャップ・ストーンは、エジプトのピラミッドの頂上に置かれる三角の石だと言われています。主イエス様はそのようなお方であり、あなたがたが捨ててしまったとしても神は、頭となるお方として、甦らせて下さったと言っておるのです。
ペトロは、10節では、主イエス様についてこのように紹介しました。「あなたがたが十字架に付けて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリスト」このキリストこそが詩編118編の隅の親石だとペトロはいうのです。「これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」だとペトロは言います。
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主イエス様はポンテオピラトのもとでユダヤ人たちによって十字架にかけられ死んで葬られました。すなわちユダヤ人たちによって捨てられた石となったのです。けれども神様はこの主イエス様を三日目に蘇がえらせられました。主イエス様は、一度は打ち捨てられたのですが、しかし勝利者、死に打ち勝ったお方、として、最終的に建物の最も大切なかなめの石となったのです。
詩編118編22節は、マタイ21章42節で、主イエス様ご自身によって引用されています。主イエス様をとらえようとするユダヤ人たちに向かって主イエス様は、「ブドウ園の農夫」のたとえを語られますが、その中で、こう言っておられます。「イエスは言われた。『聖書にこう書いてある。まだ読んだことがないのか。家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで私たちの目には不思議に見える。だから言っておく、神の国はあなたがたから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちるものは打ち砕かれ、この石が誰かの上に落ちれば押しつぶされてしまう。」言うまでもなく旧約聖書詩編11編22節23節の引用です。
ブドウ園の主人が、収穫を受け取るために僕を次々に送りますが、農夫たちは従いません。主人は最後に自分の息子を送るのです。しかし、彼らは、この息子を跡取りだからと言って殺してしまうのです。ブドウ園の主人は、これを見て農夫たちを厳しく罰します。このたとえの解き明かしの言葉が詩編118編の「隅の親石」のみ言葉なのです。このブドウ園と農夫のたとえは、マルコにもルカにも出てくる、つまり聖書に何度も繰り返し引用される大切なみ言葉です。隅の親石のみ言葉、詩編118編22節はペトロの手紙1の2章7節においても主イエス様の勝利を示すみ言葉として引用されます。
ペトロの手紙1、2章7節「この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、しんじないものたちに取っては家づくりらの捨てた石、これが隅の親石となったのであり、また躓きの石、妨げの岩なのです。」
ユダヤ人たちが捨て去った石とは、彼らが十字架につけて殺した主イエス様です。しかし、この方が、神によって詩編の預言するメシア、隅の親石、コーナー・ストーンとなるのです。
その時は謎のままでした。コーナー・ストーン角の石、いったい何だろうか。と思いました。それから何年もたって、ああ、あれは主イエス様のことだったのだと知ることが出来ました。
さて、使徒ペトロは、この隅の親石の御言葉を、彼のソロモンの廊の説教の中で語ったのではありません。そうではなく、ペトロは、ユダヤ人たちに捕らえられて裁判にかけらているのすが、その裁判の時に語りました。今朝の御言葉の4章の初めにはこのような小見出しがつけられています。「ペトロとヨハネ、議会で取り調べを受ける」
なぜ、ユダヤ人たちはペトロをとらえたのでしょうか。生まれながらに足の不自由な人が、たちどころに癒され、ペトロがその人を傍らに置いて、「この人を強くしたのは、十字架に付けられて死んで、しかし三日目に蘇ったお方、イエス・キリスト、その名、その御力、その権威によるのです」と語り、「悔い改めてこのお方を救い主として信じなさい」と説教したからでしょうか。男だけで5000人の人がこの信じて洗礼を受けたと3節にあり、神殿の中が大騒ぎになったからと言うのでしょうか。それらのこともあったに違いないのですが、何よりも、主イエス様の復活と言う言葉がある人々を怒らせたのです。それは、1節にあるように、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たちでした。
サドカイ派とは、今のユダヤ教の中では跡形もなく消え失せてしまった一派であるということです。当時のユダヤ教の中の祭司たちや、裕福なユダヤ人たちを中心にした有力な集団でした。当時、サドカイ派とファリサイ派がユダヤ教の中の二大集団で、両者は激しく対立していたようです。
聖書を読んでわかることは、サドカイ派は死者の復活などは断じてないと主張するある意味で合理主義者であったようです。サドカイ派や祭司たちは、ユダヤの国では、経済的に豊かな階級に属していたと言われています。彼らは神殿で犠牲を捧げる儀式を中心にした宗教生活を重んじていましたが、その思想は、この世的な意味で成功者が多い集団らしく、現世中心であり、合理主義的であり、死者の復活などは決してあり得ないと言っていたのです。それに対してファリサイ派は彼らの中から律法学者が多く輩出したように、聖書を良く研究し、解釈し、神の霊の働きや、とりわけ死者の復活についてサドカイ派と対立していたというのです。
3,
初代教会の大伝道者、神学的指導者のパウロは、死者の復活がないなら主イエス様の復活もないということになると言ってコリントの信徒への手紙1、15章で私たちに警告します。さすが、もとファリサイ派らしいと言わなければなりません。
聖書を読みますと、生まれたばかりの初代教会に対して、その最初期のころから最も反対していたのは、どうやら、サドカイ派であることがわかります。今朝のみ言葉で、ペトロとヨハネが捕らえられたときに、その迫害の口火を切ったのは祭司たちとサドカイ派であります。彼らは復活の話を聞いていらだったと書かれています。彼らの信仰生活にとって都合の悪いイエス様の復活を闇に葬ってしまいたいのに、それを堂々と証しする使徒たちが彼らにとっては邪魔でありました。
実は、この4章の迫害はまだ序の口です。本格的な迫害は5章になって起こります。主イエス様について語ってはならないと脅されて解放されたペトロとヨハネですが、彼らはそれに負けずに、ますます主イエス様を宣べ伝え、病人や穢れた霊に悩む人々をいやし続けたのです。それでサドカイ派を中心とする祭司たちは、ますます荒れ狂って使徒たち全員を捕らえて牢に閉じ込めるのです。二度目の裁判では使徒たちを死刑にする意見が大勢を占めました。しかし、そのときに立って反対意見を述べて、彼らを救ったのはファリサイ派に属するガマリエルと言う教師でした。サドカイ派は死者の復活に反対し、ファリサイ派は死者の復活を主張していたことがその背景にあります。
ペトロがソロモンの廊の説教で強く訴えたのは、主イエス様の復活でした。死が滅ぼされた、命が勝った、わたしたちもまた罪を赦され新しくされるという命の希望を語りました。
わたしたちが、復活した主イエス様をペトロのように世の人たちに宣べ伝えて行く時に、まず壁となるのが、それは現代の科学とマッチしないのではないかという考え方です。どんなことでもそれが科学的に証明されているかいないのかをまず問うのです。科学で証明できなければ非科学的としてすべてを退けるのです。そのような合理主義の軍門に下っていったのがいわゆる近代主義神学、近代主義的なキリスト教です。イエス・キリストの福音の本質は、神様による天地創造や神様の義さ、そして人の罪の解決ではない、また死者の復活とか、死後の裁きとか、天国の存在などではない、奇跡などは起こりえない、そういうのです。信仰が働く場所は、そんなわけのわからないことではなく、この世の中に生きる時であり、どうやって主イエス様の愛をあらわして生きるのかと言うことだと主張するのです。主イエス様の愛をあらわして生きることは大切なことですが、しかし聖書全体を読むならば、聖書は、この世界の成り立ちと神様の恵みを教え、罪を解決する救い主を証しする書物であり、人間の道徳の理想を教えるだけのものではありません。
ドイツの偉大な哲学者にインマヌエル・カントと言う人がいます。彼は、この世の中の目に見えるものについては、人間の理性による認識がすべてを支配することが出来るし、そこには信仰の入る余地はないと主張しました。宗教というのは、そうではない世界、目に見えない領域にだけ意味がある。つまり人間の生き方、愛や道徳においてこそ、その存在意義があると主張しました。これは現代のサドカイ主義と言ってよいと私は思います。
しかし、わたしたちが信じている神はそのような神様では断じてありません。神様は、目に見えるまさにこの世界の中で実際に生きて働いておられます。現代の科学的合理主義が通用する領域は実際には、極めて限られていて、すべてのことの根源には神様の御手があります。人間の罪とそこから来る悪もまた見える現実世界とつながっているのです。すべてのことは神から出て神に帰する、この世界には神様の御前にない場所は、たったの一インチ四方もない。すべては生きておられる神のみ前に置かれています。わたしたちは、これを有神的人生観世界観と呼びます。
4,
ペトロはもっと素朴な形ですけれども、サドカイ派の人びとに向かって一歩もひるまず断固宣言します。
「民の議員、また長老の方々、今日、わたしが取り調べを受けているのは、病人に対する良い行いと、その人が何によって癒されたかと言うことについてであるならば、あなたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さん前に立っているのは、あなた方が十字架にかけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」
病の癒しも、主イエス様の復活も、目に見える自然世界を超える神の力、神の恵みを証しするものです。主イエス様が、この世と人の暗闇、罪に対して勝利され、復活された、よみがえられた、このことこそ、旧約聖書が預言してやまなかった救い主のしるしであることをペトロは宣べ伝えているのです。
8節にこう書かれています。「ペトロは聖霊に満たされて言った」。ぺトロの議会での弁論は、語っているのは間違いなくペトロその人ですが、その背後に満ちている聖霊の力に導かれてなされたものでした。
ペトロの結論は、明確です。12節「誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名、つまりイエス・キリストの名ですけれども、この名のほかには与えられていないのです。」
人間の知恵や道徳は、わたしたちを根源的に救うことはできません。この世の権力者、支配者も救い主ではありません。ただ主イエス・キリストの恵み、十字架の血がわたしたちを救います。蘇りの命、死に打ち勝った主イエス様の命こそ私たちの命の源です。
今朝のみ言葉以外にも、聖書には主イエス様を石、あるいは岩とみなす個所が多くあります。主イエス様は、建物の頂上に名誉ある石、すなわち教会の頭であります。そして私たちは、その主イエス様の体なのです。手であり、足であり、耳であり、口なのです。
また同時に、主イエス様は英語のコーナー・ストーンの意味にふさわしく、わたしたちの人生の土台、礎であります。
主イエス様は、マタイによる福音書の5章から7章にかけて記されている山上の説教のまとめの言葉として、岩の上に家を建てた人のたとえを語ってくださいました。主イエス様の言葉を聞く人、そして主イエス様に従って、御言葉を行う人は、岩の上に家を建てた人に似ていると言われました。
「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
わたしたちは、わたしたちの人生という建物の土台に何を据えるのでしょうか。神様が与えてくださる確かな土台、コーナー・ストーンは、主イエス様以外にはありません。すべてのことは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。死んで蘇えられた神の御子イエス・キリストこそ、わたしたちの人生のかけがえのない隅の親石です。このお方の上に、わたしたちの人生をしっかりと置き、世界が進むべき道を見出してゆきましょう。
祈ります。
わたしたちの愛する主イエス・キリストの父なる神
御名を讃美します。あなたは十字架の上に死んで罪の贖いを成し遂げられました。そして三日目におよみがえりになり、今も生きておられることを感謝いたします。
このお方を信じ、救いに与かったわたしたちは、このことを世界の人々に宣べ伝えないではおられません。ペトロヨハネのように、困難の中で福音を生きることが出来、福音を宣べ伝えて行くことが出来ますように教会を強めてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン