聖書の言葉 使徒言行録 3章20節~26節 メッセージ 2024年9月8日(日)熊本伝道所朝拝説教 使徒言行録3章20節~26節「悪を離れ祝福にあずかる」 1、 今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。 今朝、与えられましたみ言葉は使徒言行録3章20節から26節、使徒言行録3章12節から始まりました、先週のみ言葉から続いています使徒ペトロの神殿説教の二回目になりますで。この説教は主イエス様から福音宣教と教会の建設をゆだねられました使徒ペトロとヨハネが、美しの門の傍らで生まれながらに足の不自由な男を主イエス・キリストの名によって癒したことをきっかけにして為されたものです。ペトロは、今まさに、主イエス様の恵みによって鮮やかに癒されたばかりの男を前にして説教をしています。この説教は、使徒言行録に記録されている説教の中で二つ目のものです。最初のものをペンテコステ説教、この説教を神殿説教と呼びます。 エルサレム神殿の中のソロモンの廊というところでペトロは説教しております。目の前には、今彼らがくぐって来たばかりの美しの門があります。すぐそこにはユダヤ人の婦人のための婦人の庭が見えます。そしてそれを取り巻く形でもっと広い異邦人の庭があり、どちらも数千人の人びとで埋め尽くされていたと思います。 ペトロは言いました。「あなたがたが見て知っているこの男」「毎日美しの門に置かれて物乞いをしていたこの男を、イエスの名が強くしました」、そしてさらに続けます。「今やこの人は見ての通り、神様を信じ神様を賛美するものへと変えられました」、「この人をいやしたその名の持ち主、イエス・キリストこそ約束の救い主、メシアです。」 その次に語ったことは、目の前の大勢のユダヤ人たちとイエス・キリストとの関係です。「あなた方はこの方を十字架に付けて殺してしまいました。それは主イエスがメシヤであることをあなた方が良くわからなかったためです。」 ペトロの説教の前半部の結論は、ユダヤ人たちへの裁きの言葉ではなく、悔い改めへの招きです。19節をそのままお読みします。「だから自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」。 「悔い改めて立ち返る」と訳されている言葉を直訳すると、「心の向きを変えてターンする」となります。Uターンすると言うことです。このことは、わたしたちのとっても大切なことだと思います。 わたしたちは神様に従って生きてゆこう、神様が喜んでくださる人生を歩もうと思っています。けれども、すぐに神様ではなく自分自身の怠惰な心や人間的な思いに傾いてしまいます。一日一回は心静めて祈る時間、デボーションの時間を取ろうと決心しますけれども、忙しいから今日はやめておこうということになりがちではないでしょうか。いやそんなことはないと言うのであればそれは素晴らしいことです。でも、もしそんなことがあるとしたら、悔い改めて立ち返えられなければなりません。小さな立ち帰り連続かも知れませんが、それがいつも必要なのです。 2, さてこの説教の後半部、それが今日のみ言葉なのですけれども、ここには悔い改めへと招かれたユダヤ人たちに与えられる将来の素晴らしい希望が語られています。この希望は今のわたしたちにも有効な希望です。20節から明らかにペトロの語調が変化しています。 ここには新約聖書の中でも大変珍しい言葉がいくつも使われています。そして、この説教がある意味で神学的なものへと変化しています。特に20節と21節は原文では一続きの文ですが、ここに珍しい言葉が二つ出ております。 一つは、「主のもとから慰めの時が訪れ」という、その「慰めの時」と言う言葉です。もう一つは、21節の「万物が新しくなるその時」という「万物更新」と言う言葉です。どちらも、聖書の中ではここだけに出てくる珍しい言葉です。この二つの言葉で言い表されている時は、実は同じ一つの時であります。それは世の終わり救いの完成の時のことを言っております。 最初の「慰めの時」ですが、どの日本語訳の聖書でも「慰めの時」というように訳されていますが、もとの言葉は、冷やすという言葉から出ている名詞なんですね。熱いものを冷やす、もとに戻す、そこから転じて労苦や義務・トラブルから解き放たれるという意味になりました。一息つくと言うことです。英語の聖書ではリフレッシュと訳しているものもあります。 わたしたちは、この世に生きている限り、様々な苦難、トラブル、ストレスから完全に開放されることはありません。実は、そのことは決して異常なこと、おかしなことではないのです。以前に養父市で伝道しているときに、精神障害の方の就労支援の施設でボランティアをしたことがあります。そのときに、北海道のべテルの家のことを知りました。べテルの家を始められた方は向谷地という精神科医ですが、心を病んだ方々の日常を、こう表現しました。 「今日もいろいろなトラブルや困難が予定通りにやってきた、今日も予想通り、いよいよ順調です。」 病気でなくとも、わたしたちは思いがけないことが起きて、困ってしまうことがあります。これからもあると思っています。だからこそ、神様に頼り、御手に委ねますと祈るのです。それが毎日のことなのです。わたしたちの心の中には、期待、楽しみもありますけれども、」同時に得体の知れないざわめきもあります。 目を転じてみると、国内の政治についても国際関係においても、心配なことや祈るべきことは山のようにあります。一体いつになったら、息つくことが出来るでしょうか。 今朝の説教でペトロは言います。「主のもとから慰めの時が訪れる。」 実は、それは部分的には主イエス様の周りにもう起きていることです。慰めが主イエス様のところにあるのです。主イエス様が共におられるなら、慰めの時、それは今の時のことであります。しかし、それは部分的です。ひとたびこの世の現実に身を置くならば、つらいことはたくさんあるのです。そのキリストの慰めが全く完全なものとなり天と地の全世界に及ぶ時が来る、それも神様のもとから来るというのです。それが「慰めの時」と言う神学的なことばです。そしてもう一つの珍しい言葉「万物が新しくなる時」であります。 新改訳聖書は「万物が改まるとき」、フランシスコ会訳は「万物が一新するとき」と訳します。これこそ、世の終わりの救いの完成、新天新地の到来の時です。この時こそ真実の慰め、世界が完全にリフレッシュ、息を吹き返すときなのです。 メシアであるイエスの到来とそのメシアの苦しみは、あらかじめ預言者の口を通して神が予告しておられたことでした。そして、その救いが完成するときが来ると言うのです。真実の完全な慰めの時、万物が新しくなる時もまた、預言者によって神が予告されておられたことだといいます。「預言者の口を通して昔から神が語っていてくださったこと」だと言います。 そして大切なことは、その時までイエス様が、天にとどまっておられる、と言うことです。言い換えると、今は天にとどまっておられる主イエス様は、いつまでも天にとどまってはおられず、やがて、再び見える姿で地上に来られるということです。これが主イエス様の再臨と最後の審判の時です。 3、 ペトロの説教は主エス様を否定し十字架に付けてしまったユダヤ人は、今こそ悔い改めて神に立ち返る機会を与えられているという一点に付きます。そして大切なことは、主イエス様はまずユダヤ人に福音を伝えたということです。それは、神様は何よりもアブラハムを選び、彼とその子孫と契約を結ばれたからなのです。 ペトロは、説教の前半で苦しみを受けて民をお救いになるメシアの苦しみの価値について語りました。そして後半では、その恵みによって人々が祝福を受けるメシアの祝福を語ります。 25節と26節をもう一度お読みします。 「あなた方は預言者の子孫であり、神があなた方の先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と神はアブラハムに言われました。」 ここでペトロが引用したのは、旧約聖書創世記12章3節、22章18節、26章4節、28章14節と四度にわたって語られた聖書のみ言葉です。アブラハムの子孫とはイサクであり、ヤコブであり、イスラエル12部族を指します。神の選びの民の使命は、地上の諸国民に祝福を及ぼすことなのです。この使命は、やがてキリストの教会に受け継がれるのですが、その前に、ユダヤ人は、この使命をもう一度、思い出す必要があったのでした。 そしてアブラハムから生まれるものと言う言葉のもう一つの意味は、祝福の源であるお方、主イエス・キリストです。最終的にイエスによって地上のすべての民族は祝福を受けるのです。主イエス様の祝福は、まずユダヤ人に、そしてパウロや使徒たちの異邦人伝道によって全世界に及ぼされます。 あなた方ひとりひとりを悪から離れさせ、祝福に与からせるために主イエス様は世においでになった、神様から遣わされたとペトロはいいました。 キリストの教会は、この祝福の源である主イエス・キリストの体と言われます。教会の使命は、ただ単に自分たちが救いを受け、喜びと感謝に満たされ、互いに救いを喜び合う内輪のことだけではありません。地上のすべての民族に祝福を与える、言い換えれば、主イエス・キリストを信じて罪の赦しと永遠の命を受けること、神の子となるように、人々を招くことです。招くだけでなく、一人でも多くの方が洗礼を受けて、神が訳されたメシアの祝福に入るように行動することなのです。 やがて、世の終わり、慰めの時、万物が新しくなる時は来ます。その時には、神様に従わない者、神に背くものは、罪ある者はすべて最後の審判によって裁きを受けねばなりません。しかし、今まだその時は来ていません。主イエス様は、十字架におかかりになり、死んで葬られましたが、三日目に復活なさいました。そして人々の目の間で天に上げられて父なる神の右に座しておられます。まさに目には見えませんけれども「天にとどまって」おられるのです。今こそ恵みの時、救いの時です。主イエス様を心に受け入れた人は、罪の赦しをいただきます。霊と肉の新しい命をいただきます。悩み多い地上に生きながらも、上からの祝福をいただき天国の恵みを味わいます。そして地上生涯を終える時、必ず、天の父のもと、主イエス様のもとへ招かれて、安息を得ます。今朝のペトロの説教は、エルサレム神殿にいるユダヤ人や信仰のある異邦人に語られました。しかしまた、わたしたちにとってもそれは語られているのです。「悔い改めて神様に立ち帰りなさい」。「やがて主のもとから慰めの時、万物が新しくされる時が来ます」。 わたしたちは、この日本の地で、また、この地域、熊本の人びとに主イエス様を伝えます。祈りを致します。 天の父なる神さま、あなたはクリスマスに主イエス様を生まれさせてくださり、ついにはこの神の御子の苦しみ、十字架によってわたしたちの罪を贖ってくださいました。わたしたちの罪が赦され、新しい命に生きるためです。そして定められた時、完全な慰めの時、回復の時、天地万物が新しくされる約束を信じることを許してくださいました。感謝します。希望をもって日々を歩ませてください。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。
2024年9月8日(日)熊本伝道所朝拝説教
使徒言行録3章20節~26節「悪を離れ祝福にあずかる」
1、
今朝、この主の日の礼拝に集められましたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。
今朝、与えられましたみ言葉は使徒言行録3章20節から26節、使徒言行録3章12節から始まりました、先週のみ言葉から続いています使徒ペトロの神殿説教の二回目になりますで。この説教は主イエス様から福音宣教と教会の建設をゆだねられました使徒ペトロとヨハネが、美しの門の傍らで生まれながらに足の不自由な男を主イエス・キリストの名によって癒したことをきっかけにして為されたものです。ペトロは、今まさに、主イエス様の恵みによって鮮やかに癒されたばかりの男を前にして説教をしています。この説教は、使徒言行録に記録されている説教の中で二つ目のものです。最初のものをペンテコステ説教、この説教を神殿説教と呼びます。
エルサレム神殿の中のソロモンの廊というところでペトロは説教しております。目の前には、今彼らがくぐって来たばかりの美しの門があります。すぐそこにはユダヤ人の婦人のための婦人の庭が見えます。そしてそれを取り巻く形でもっと広い異邦人の庭があり、どちらも数千人の人びとで埋め尽くされていたと思います。
ペトロは言いました。「あなたがたが見て知っているこの男」「毎日美しの門に置かれて物乞いをしていたこの男を、イエスの名が強くしました」、そしてさらに続けます。「今やこの人は見ての通り、神様を信じ神様を賛美するものへと変えられました」、「この人をいやしたその名の持ち主、イエス・キリストこそ約束の救い主、メシアです。」
その次に語ったことは、目の前の大勢のユダヤ人たちとイエス・キリストとの関係です。「あなた方はこの方を十字架に付けて殺してしまいました。それは主イエスがメシヤであることをあなた方が良くわからなかったためです。」
ペトロの説教の前半部の結論は、ユダヤ人たちへの裁きの言葉ではなく、悔い改めへの招きです。19節をそのままお読みします。「だから自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」。
「悔い改めて立ち返る」と訳されている言葉を直訳すると、「心の向きを変えてターンする」となります。Uターンすると言うことです。このことは、わたしたちのとっても大切なことだと思います。
わたしたちは神様に従って生きてゆこう、神様が喜んでくださる人生を歩もうと思っています。けれども、すぐに神様ではなく自分自身の怠惰な心や人間的な思いに傾いてしまいます。一日一回は心静めて祈る時間、デボーションの時間を取ろうと決心しますけれども、忙しいから今日はやめておこうということになりがちではないでしょうか。いやそんなことはないと言うのであればそれは素晴らしいことです。でも、もしそんなことがあるとしたら、悔い改めて立ち返えられなければなりません。小さな立ち帰り連続かも知れませんが、それがいつも必要なのです。
2,
さてこの説教の後半部、それが今日のみ言葉なのですけれども、ここには悔い改めへと招かれたユダヤ人たちに与えられる将来の素晴らしい希望が語られています。この希望は今のわたしたちにも有効な希望です。20節から明らかにペトロの語調が変化しています。
ここには新約聖書の中でも大変珍しい言葉がいくつも使われています。そして、この説教がある意味で神学的なものへと変化しています。特に20節と21節は原文では一続きの文ですが、ここに珍しい言葉が二つ出ております。
一つは、「主のもとから慰めの時が訪れ」という、その「慰めの時」と言う言葉です。もう一つは、21節の「万物が新しくなるその時」という「万物更新」と言う言葉です。どちらも、聖書の中ではここだけに出てくる珍しい言葉です。この二つの言葉で言い表されている時は、実は同じ一つの時であります。それは世の終わり救いの完成の時のことを言っております。
最初の「慰めの時」ですが、どの日本語訳の聖書でも「慰めの時」というように訳されていますが、もとの言葉は、冷やすという言葉から出ている名詞なんですね。熱いものを冷やす、もとに戻す、そこから転じて労苦や義務・トラブルから解き放たれるという意味になりました。一息つくと言うことです。英語の聖書ではリフレッシュと訳しているものもあります。
わたしたちは、この世に生きている限り、様々な苦難、トラブル、ストレスから完全に開放されることはありません。実は、そのことは決して異常なこと、おかしなことではないのです。以前に養父市で伝道しているときに、精神障害の方の就労支援の施設でボランティアをしたことがあります。そのときに、北海道のべテルの家のことを知りました。べテルの家を始められた方は向谷地という精神科医ですが、心を病んだ方々の日常を、こう表現しました。
「今日もいろいろなトラブルや困難が予定通りにやってきた、今日も予想通り、いよいよ順調です。」
病気でなくとも、わたしたちは思いがけないことが起きて、困ってしまうことがあります。これからもあると思っています。だからこそ、神様に頼り、御手に委ねますと祈るのです。それが毎日のことなのです。わたしたちの心の中には、期待、楽しみもありますけれども、」同時に得体の知れないざわめきもあります。
目を転じてみると、国内の政治についても国際関係においても、心配なことや祈るべきことは山のようにあります。一体いつになったら、息つくことが出来るでしょうか。
今朝の説教でペトロは言います。「主のもとから慰めの時が訪れる。」
実は、それは部分的には主イエス様の周りにもう起きていることです。慰めが主イエス様のところにあるのです。主イエス様が共におられるなら、慰めの時、それは今の時のことであります。しかし、それは部分的です。ひとたびこの世の現実に身を置くならば、つらいことはたくさんあるのです。そのキリストの慰めが全く完全なものとなり天と地の全世界に及ぶ時が来る、それも神様のもとから来るというのです。それが「慰めの時」と言う神学的なことばです。そしてもう一つの珍しい言葉「万物が新しくなる時」であります。
新改訳聖書は「万物が改まるとき」、フランシスコ会訳は「万物が一新するとき」と訳します。これこそ、世の終わりの救いの完成、新天新地の到来の時です。この時こそ真実の慰め、世界が完全にリフレッシュ、息を吹き返すときなのです。
メシアであるイエスの到来とそのメシアの苦しみは、あらかじめ預言者の口を通して神が予告しておられたことでした。そして、その救いが完成するときが来ると言うのです。真実の完全な慰めの時、万物が新しくなる時もまた、預言者によって神が予告されておられたことだといいます。「預言者の口を通して昔から神が語っていてくださったこと」だと言います。
そして大切なことは、その時までイエス様が、天にとどまっておられる、と言うことです。言い換えると、今は天にとどまっておられる主イエス様は、いつまでも天にとどまってはおられず、やがて、再び見える姿で地上に来られるということです。これが主イエス様の再臨と最後の審判の時です。
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ペトロの説教は主エス様を否定し十字架に付けてしまったユダヤ人は、今こそ悔い改めて神に立ち返る機会を与えられているという一点に付きます。そして大切なことは、主イエス様はまずユダヤ人に福音を伝えたということです。それは、神様は何よりもアブラハムを選び、彼とその子孫と契約を結ばれたからなのです。
ペトロは、説教の前半で苦しみを受けて民をお救いになるメシアの苦しみの価値について語りました。そして後半では、その恵みによって人々が祝福を受けるメシアの祝福を語ります。
25節と26節をもう一度お読みします。
「あなた方は預言者の子孫であり、神があなた方の先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と神はアブラハムに言われました。」
ここでペトロが引用したのは、旧約聖書創世記12章3節、22章18節、26章4節、28章14節と四度にわたって語られた聖書のみ言葉です。アブラハムの子孫とはイサクであり、ヤコブであり、イスラエル12部族を指します。神の選びの民の使命は、地上の諸国民に祝福を及ぼすことなのです。この使命は、やがてキリストの教会に受け継がれるのですが、その前に、ユダヤ人は、この使命をもう一度、思い出す必要があったのでした。
そしてアブラハムから生まれるものと言う言葉のもう一つの意味は、祝福の源であるお方、主イエス・キリストです。最終的にイエスによって地上のすべての民族は祝福を受けるのです。主イエス様の祝福は、まずユダヤ人に、そしてパウロや使徒たちの異邦人伝道によって全世界に及ぼされます。
あなた方ひとりひとりを悪から離れさせ、祝福に与からせるために主イエス様は世においでになった、神様から遣わされたとペトロはいいました。
キリストの教会は、この祝福の源である主イエス・キリストの体と言われます。教会の使命は、ただ単に自分たちが救いを受け、喜びと感謝に満たされ、互いに救いを喜び合う内輪のことだけではありません。地上のすべての民族に祝福を与える、言い換えれば、主イエス・キリストを信じて罪の赦しと永遠の命を受けること、神の子となるように、人々を招くことです。招くだけでなく、一人でも多くの方が洗礼を受けて、神が訳されたメシアの祝福に入るように行動することなのです。
やがて、世の終わり、慰めの時、万物が新しくなる時は来ます。その時には、神様に従わない者、神に背くものは、罪ある者はすべて最後の審判によって裁きを受けねばなりません。しかし、今まだその時は来ていません。主イエス様は、十字架におかかりになり、死んで葬られましたが、三日目に復活なさいました。そして人々の目の間で天に上げられて父なる神の右に座しておられます。まさに目には見えませんけれども「天にとどまって」おられるのです。今こそ恵みの時、救いの時です。主イエス様を心に受け入れた人は、罪の赦しをいただきます。霊と肉の新しい命をいただきます。悩み多い地上に生きながらも、上からの祝福をいただき天国の恵みを味わいます。そして地上生涯を終える時、必ず、天の父のもと、主イエス様のもとへ招かれて、安息を得ます。今朝のペトロの説教は、エルサレム神殿にいるユダヤ人や信仰のある異邦人に語られました。しかしまた、わたしたちにとってもそれは語られているのです。「悔い改めて神様に立ち帰りなさい」。「やがて主のもとから慰めの時、万物が新しくされる時が来ます」。
わたしたちは、この日本の地で、また、この地域、熊本の人びとに主イエス様を伝えます。祈りを致します。
天の父なる神さま、あなたはクリスマスに主イエス様を生まれさせてくださり、ついにはこの神の御子の苦しみ、十字架によってわたしたちの罪を贖ってくださいました。わたしたちの罪が赦され、新しい命に生きるためです。そして定められた時、完全な慰めの時、回復の時、天地万物が新しくされる約束を信じることを許してくださいました。感謝します。希望をもって日々を歩ませてください。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。