2024年08月25日「創造と再創造のキリスト」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節

メッセージ

奨励原稿 完成稿

⑴導入

 キリスト教は、信じていない人から見れば、2000年前に中東のパレスチナの地に実際に生き、十字架形に処せられた犯罪人である一人の男性を、神とあがめ礼拝する宗教です。「まあ信じることは自由だから、本人が幸せならそれでいいじゃないですか。」と人は言うでしょう。日本人の多くの人はキリスト教とは縁もゆかりもないと思っています。ところが、本日の御言葉には、万物はキリストにおいて、キリストによって、キリストのために造られたと記されています。2000年前に死刑に処せられた一人の男、キリストと崇められる男が万物を造ったと言うのですね。これはどう言う事でしょうか。さらには、その男が十字架の上で流した血によって、万物と神が和解したとも書かれています。これもどういうことでしょうか。もしこれが本当なら、全ての人はキリストとは無関係ではいられません。

 この驚くべき教えを、初代教会の人々は讃美歌にして礼拝で歌っていました。コロサイ1:15~20は、その讃美歌の引用です。この歌の前半15~17節では、創造主キリストが歌われています。後半18~20節では、救い主キリストが歌われています。

 人々に蔑まれ、捨てられ、処刑された人、その人こそが、万物の源である神である、この真理をこの讃美歌から共に学び、神を褒め称えたいと思います。 

⑵本論

①創造の主キリスト

 最初に創造主キリストについてです。15節をご覧ください。

 

 1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

神は目には見えません。しかし人となった神キリストが、神がどのようなお方であるのかを私たちに示してくださいました。ヨハネ1:18 にはこうあります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」またキリストご自身も言われました。「わたしを見たのは、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)聖書に記されたキリストのご生涯と業を見れば神がどのようなお方かがわかるということです。

「御子」とあるのは三位一体の神のうち、子なる神であるキリストを指します。

 聖書では万物は自然にできたのではなく「造られた」と教えます。しかし科学の研究成果によれば宇宙のはじまりは約138億年前、地球のはじまりは約46億年前、人類の誕生は約30万年前とされ、決して「造られた」とは言いません。聖書はこのような見解に対してはっきりと主張します。世界は偶然できたのではない、神が「造られた」のだと。

そしてキリストは、全てのものが造られる前に生まれた方と歌われています。「先に生まれた方」とは、原文では「最初の者」という意味の言葉で、キリストは全てのものが造られる前から、父なる神と共におられた方であることを表しています。

 この万物が造られる前からおられたキリストについて、ヨハネによる福音書においてこう表現されています。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

ヨハネはキリストを「言」と表現しています。これは神が言葉によって天と地を創造されたという創世記1章の記事と関係があります。神が「光あれ」と言われたら光ができた、という神の言葉の力とは、神と共に創造の業を行なわれたキリストの力であったのです。

次に16節をご覧ください。

1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、」とは「万物」を言い換えたものです。万物は御子において、御子によって、御子のために造られました。「御子において」は、万物がキリストを離れては存在し得ないことを、「御子によって」は、万物がキリスト自らの手によって造られたことを、「御子のために」は、万物が造られた目的はキリストのためであることが示されています。

 「王座」「主権」「支配」「権威」は、この世の支配者や権力者一般を指し示す言葉であるとともに、天における被造物である天使の階級社会のことも念頭に置かれています。聖書には「大天使ガブリエル」というように天使にも階級があることが示されています。この様々な階級によって構成されている天使も、キリストによって創造された被造物であることを強調しているのです。実はコロサイ書の大きな主題の一つに、キリストの福音とは異なった教えからコロサイ教会を守ることがあります。その異なった教えの中には、天使を礼拝する教えがあったのです。そのことはコリント書2章以降に展開されていきますが、1章で天使はあくまで造られたものであって神ではないことをあらかじめ明確にしているのです。

 さらに17節をご覧ください。

 1:17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

15節で歌われていた、万物が創造される前にキリストは存在しておられたことをここでも繰り返すとともに、キリストは万物を、創造し終えた後も引き続き支えておられることを歌っています。キリストの支えがなければ、万物はとうの昔に滅びていたでしょう。

  

 以上のことから教えられることは、私たちの命は自分のものではないということです。私たちは自分がどう生きようと勝手だと思っています。自分の命をどうにでもできる自由があると思っています。しかし私たちはキリストにおいて、キリストの手によって、キリストのために造られました。私たち一人一人の命はキリストのものであり、キリストのために存在し、キリストを離れては存在意義を失うのです。

 ではキリストはどのようなお方かというと、後で見るように愛の人です。私たちのために自分の命を惜しまず差し出された方です。そのキリストが私たちに対して願っているのは、ご自身と共に命の道を歩むことです。そのためにキリストは一人一人をかけがえのない命として創造されました。誰一人不必要な人はありません。

 そして私たちが住んでいる世界を見渡しても同じです。全てキリストのものであり、キリストが一つ一つを愛を込めて造られたのであり、全てを今に至るまで支えておられます。万物に創造者の意志が働いているということは、その一つとして偶然できたものはなく、無秩序に造られたのではないということです。自然には秩序があります。調和があります。その中に私たちは生かされているのです。 

②再創造の主キリスト

 次に18節から20節までの救い主キリストがどのように歌われているかを見ていきましょう。18節をご覧ください。

 1:18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

ここで焦点が万物から教会に移ります。万物は宇宙を含みます。17節までは万物という遠大な対象を巡って歌が展開されていましたが、ここでは一気に教会という、宇宙に比べれば大変狭い、しかし私たちにとって大変身近な対象に視点が切り替わりました。この「教会」こそがキリストによる救いの業に欠かせないものなのです。

 「教会」はキリストが死者の中からよみがえったという「復活」を目撃した弟子たちによって始められました。この「復活」について世は信じていません。世は歴史上の実在の人物としてのイエス・キリストは認めますが、死んで3日後によみがえったことはあり得ないこととして認めません。「生まれた」は15節と同じく「最初の者」という意味合いの言葉で、この場合は、死者の中から最初に復活した人を表します。教会は、キリストが、ご自分の「復活」を世に告げ知らせるために始めたものです。ですから教会の「頭」はキリストなのです。

 キリストの「復活」は計り知れない大きな恵みをもたらします。それは、創造の時に人間に与えられていた、死で終わらない命を回復するという恵みです。キリストは自らが最初に復活した人となることによって、信じる者も確実に復活することの保証となられました。

 キリストを信じる人は死への恐怖から解放されています。もちろんキリスト者もいつかは死にます。キリスト者も死はやはり怖いです。しかしその死の先に神と共に永遠の命に生きることが約束されています。キリストの復活は永遠の命を保証しています。ですからキリストを信じる者には「死ですべてが終わる」という絶望はないのです。

 19、20節には、教会が宣べ伝えるもう一つの重要なこと、キリストの「十字架」が歌われています。

 1:19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、

 1:20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

19節にある「満ちあふれるもの」とは、神の全知、全能、力、栄光、言い換えれば神ご自身を指し示す言葉です。それらを全てキリストの内に宿らせたと表現することによって、キリストと父なる神が一体であること、キリストが完全な神であることを表しています。

 その神がなさったことは、万物をご自身と「和解」させるために、ご自分の命を私たちのために差し出して「平和」を打ち立てることでした。

 「平和」とは単に争いや戦いがない状態を言うだけでなく、神の守りの内に憩い、安らぎ、喜びあふれる状態を言います。神と共なる幸せを満喫している状態です。

 「和解」とは、人間と神の間にある障害、すなわち罪が取り除かれることを言います。

 ところでなぜ人だけでなく万物が神と和解させられる必要があるのでしょうか。それは最初の人間アダムが罪を犯した時に神から告げられた裁きの言葉に遡る必要があります。創世記3章17~19節をご覧ください。(旧約P4)

3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

これは食べてはいけないと命じられた木の実を食べて神の命令に背いたアダムに対して告げられた神の裁きの言葉です。ここに「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」とある通り、アダムの罪は自分だけでなく土、すなわち地にある全てのものが呪われる結果となりました。そのため「土は茨とあざみを生えいでさせる」ことによって人間に反逆するようになりました。動物は人間を襲うようになり、自然は人間に災害をもたらすようになりました。全て人間の罪のためです。

 神であるキリストは、神に背き罪と死の悲惨に陥った全人類のために、人となられ、人々と共に生涯を送り、十字架の上で全ての人の罪の罰を引き受けて、血を流し、死なれました。その血は神と人との間にある罪を取り除いたので、神との「和解」と「平和」がもたらされたのです。罪の赦しは、呪われた全地に回復をもたらしました。

 キリストは神に背き罪を犯した人類と呪われた被造世界を、キリストは決して捨てることはなさらず、かえって万物の回復のためにご自分の命を捧げてくださったのです。これを「再創造」と言います。ここに私たちの造り主は、いかに造られたものを愛しておられるかが現れています。

 このように歌の後半では、罪を犯した人間とそのために呪われた被造世界を見捨てず、創造の時に与えられていた、死で終わらない命の回復、人間と被造世界の再創造のために、ご自身の命を捧げ、復活の命によみがえってくださったキリストが歌われています。

 キリストは今も教会を通して十字架と復活を世に告げ知らせ、全人類を救いへと招き、万物の回復、創造の完成へとご自身の業を着実に進めておられます。

 昨今は、地震や水害などの自然災害の不安や被害の悲しみの中に私たちは置かれています。私たちには罪との戦いがあり、呪われた被造世界と向き合っていかなければならない現実があります。創造の完成は、キリストが再び来られる終末をまたなければならないからです。未来は約束されています。しかし今をどう生きるか。これは教会にとって大きな課題です。この点について、やはり私たちは万物の創造主にして救い主イエス・キリストの模範に習いたいと思います。すなわち、主イエスが私たちを癒すためにご自身を捧げられたように、私たちも人々の不安や悲しみを癒すために自分を捧げるということです。自然災害についていえば、自分一人や家族のためだけでなく、皆で協力して備えをする、被災者の悲しみを癒すための取り組みに参加する、といったことが考えられます。そのような今私たちができる取り組みは、創造の完成という約束された未来に繋がっているのです。

 

⑶結び~創造と再創造がもたらす恵み

 2000年前のパレスチナの片隅で起こった一人の犯罪人の処刑という出来事に隠されていた、これらの神の業に誰が気づくことができたでしょうか。誰もできませんでした。神が人間の心を開いてくださらなければ誰も神の業を悟ることができなかったのです。

初代教会で歌われた讃美歌には、万物をつくり、保ち、完成へと導いておられる方の、不動の意志と溢れるばかりの愛が示されています。この歌に示された創造と再創造の主を心から讃えたいと思います。そして主キリストは今日も明日も私たちと共にいて下さいます。