2024年07月28日「聖霊を受けた教会」

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聖書の言葉

使徒言行録 2章23節~47節

メッセージ

2024年7月28日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録2章22節~47節「聖霊を受けた教会」

1、

 今朝、このところにお集まりのお一人お一人の上に、主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。

 使徒言行録第二章の聖霊降臨のみ言葉を聞いています。2章1節から42節まで、たった一日の間の出来事ですけれども、弟子たちにとっては生涯忘れることのできない素晴らしい一日となりました。主イエス様が天に帰って行かれる際の約束を信じて聖霊を待って祈って来たのですが、ついにその日が来たのです。

 今朝は、先週につづいて使徒言行録2章の後半のみ言葉から主イエス様と聖霊の神様の恵みをご一緒に味わい知りたいと願っています。

この第二章後半部分の中心は、何といっても弟子たちのリーダーであるシモンペトロが行った長い説教です。14節から36節までに記されています。ペトロは旧約聖書のヨエル書3章と詩編のみ言葉4か所を引きながら、主イエス・キリストの復活が旧約聖書の預言の成就であったと語ります。そして主イエス・キリストこそ、聖書が約束していた救い主、メシアであると宣言いたしました。さらにエルサレムに集まるユダヤ人たちに向かって、「あなたがたはそのメシアを十字架につけて殺してしまった」とその罪を指摘したのです。37節に「人々は、これを聞いて大いに心を打たれ」と記されています。

教会が神の言葉の説教とこれを聞いた人々の悔い改めから誕生したことは、わたしたちが教会の礼拝を考える時に忘れてはならないことだと思います。「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねる人々にペトロは勧めます。「悔い改めなさい。めいめいイエス。キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」これが説教の結論となりました。

そして42節から2章の最後になる47節まで、最初の教会、生まれたばかりの教会のまことに美しい、恵みに満ちた教会生活の有様が描かれています。

 草かんむりに明るいと書きまして、「萌える」と読む漢字があります。「萌える芽」と書いて「ほうが」と読ませる言葉もあります。春から夏の頃に、草や木の葉っぱや花の芽がみるみる伸びてゆく、そのありさまをあらわす言葉です。最近は、好みのアイドルや趣味に没頭して心がときめく、そんな様子をあらわす言葉として使われているようです。今朝の使徒言行録に記録されている初代教会の誕生とその直後の信徒たちの生活は、まさしく、木の芽や花のつぼみがみるみる成長して、一挙に萌え上がるような、萌えるという言葉で表現されるべきものであると思います。

2,

 41節をもう一度お読みします。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人が仲間に加わった。」

 一回の伝道集会で三千人が洗礼を受ける、いったいそんなことがありうるのだろうか、と疑問さえわいてくるような、この生まれたばかりの教会は豊かな神の恵みの中に置かれています。甲子園球場には5万人の人が入りますが、おそらく、この説教の場所は、エルサレムの神殿前の広場なのでしょうか、ある人は、すでに場所は神殿の中に移っているのではないと言っておりますが、正確なことはわかりません。ペンテコステの不思議な出来事が起こり、祭りのためにエルサレムに集まってきている群衆が、ペトロの説教に聞き入っていました。40節には、「ペトロはこのほかにもいろいろ話をして、力強く証しした」とあります。新改訳やカトリックの訳では「ペトロはほかにも多くの言葉をもって証し」となっているように、元の言葉は、たくさんの言葉、多くの言葉という意味です。ですから、この14節から始まって、39節に書かれている言葉だけが、その日のペトロの説教ではなかったことは明白です。朝の9時から説教を始めています。ことによったら夕暮れまで、ほかにも多くの言葉をもって、何回も説教した可能性があります。

 明治時代の伝道集会は、講師が3人も4人も立てられ、街の公会堂を借り切って一日を通して集会をしたそうです。観客と言いますか、聴衆の入れ替えも行われたと言います。同じように、ペトロのペンテコステ説教も一日の間に、聴き手を変え、あるいは場所を変えて、この聖霊降臨の日に繰り返しなされたのだと思います。そして、人々は次々と洗礼を受けました。洗礼を授ける使徒たちの方も大変なエネルギーを費やしたことと思います。それにしても、三千人とは驚くべき数です。わたしたちは、この生まれたばかりの教会に働かれた恐るべき聖霊の恵みに率直に驚くべきであります。

 ペトロの説教ですけれども、今日の大衆伝道者やテレビ伝道者がよくしているような、感動的な例話や人々の心を引き付けるような自分自身の体験談は全くありません。ひたすら旧約聖書の預言の言葉を引用し、解説して、今このみ言葉が成し遂げられた、実現したと宣言する、そういう説教です。しかも、主イエス様の十字架と復活がなされた直後のタイミングで、当事者のユダヤ人に対して語っています。ユダヤの人々に対する鋭い罪の指摘が行われています。36節「あなたがたが十字架に付けて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

 言い方を変えると、「神が主として、つまり生ける神ヤワエである方とし、そしてメシアとなられたイエス・キリストをあなた方が十字架に付けて殺したのだ」この事実、真実をしっかりと見なさい、すべてのユダヤ人は、このことをはっきりと知らなければならないとペトロは言っております。ですから「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」のです。本当のところは、心を打たれたというような上品なことではなく、他の聖書が訳していますように、心を刺された、心に痛みを覚えたということです。

ペトロは、人々に二つのことをしなさいと勧めます。第一は、悔い改めることです。それはしてしまったことを単に後悔するというようなことではありません。後悔してシュンとなってしまうのではなく、「心の向きを変える」ということです。これまでの生き方、生活を変えて、主イエス様を神として信じる、このお方に従って生きようと決心することです。そしてイエス・キリストの名によって洗礼を受けなさいと勧めました。その洗礼は罪の赦しの洗礼と呼ばれています。主イエス様の十字架は、罪びとの罪の赦しのための贖い、一人ひとりを買い戻す尊い代価でありますので、このお方を信じ、その名によって洗礼を受けるなら、罪の赦しが与えられるのです。わたくしが、特に注目させられましたことは、ここで赦されると明確に宣言されているユダヤ人の罪には、主イエス様を十字架に付けて殺した、神の子殺しの罪が含まれていることです。主イエス様は、その罪さえも赦してくださるというのです。

そうでありますから、わたしたちは、主イエス様を信じ、洗礼を受けたときにすべての罪が赦されたと信じますけれども、その罪には、およそ私たちが犯すであろうどんな罪も含まれてしまうと言わねばなりません。主イエス様によって赦されない罪はない、主イエス様の十字架、その贖罪の恵みを受けられないような罪を持つような人は一人もいないのです。

そしてペトロは、悔い改めと信仰、主イエスの名による洗礼を受ければ、賜物として聖霊を受けますと約束します。「賜物として受ける」とは、贈り物として受ける、無償で受けることです。何か修行したら、その熱心や努力の代価として聖霊が与えられるのではなく、悔い改めと主イエス様への信仰によって洗礼を受ける人は誰でも聖霊をいただくのです。いや聖霊の恵みの中にすでにあるからこそ、信仰が与えられたと言っても良いのです。

ペトロはさらに、この恵みの約束は、あなたがたエルサレムのユダヤ人だけにではなく、その子孫にも、また遠くに住む世界中の人びとにも同じように与えられていると言います。主が招いてくださる人の誰にでも与えられると言います。一方で、主の招き、イエス様の招き、神の招きがあり、一方でこれを受け、その招きに応えて、自ら、主イエス様のもとに来る人がいる。それは実は同じ人です。そこに聖霊のお働きがあります。主が招いてくださらないなら、だれも主のもとに来ることはありません。わたしたちの悔い改めも、わたしたちが洗礼を受けたのも、それは主イエス様の招き、神様ご自身の招きによるのであります。

3、

 この新共同訳聖書は、43節から新しい段落が始まるとしていますが、実際には42節から、新しい日付になっています。彼らは、その日からずっと「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と読むことが出来ます。これまでのユダヤ教とは違うキリスト教会と言う信仰の共同体が生まれ、それは一過性のもので、すぐに消えてしまったということではなく、それが引き続いて生きて働いていることを見て、人々は恐れを感じたと続くのです。不思議な業としるし、つまり奇跡的なことが起きたことも、人々が神様への恐れを感じる一つの理由であったかも知れません。元の言葉には、不思議な業としるしが、人々の恐れの理由となったとは書かれていません。むしろ、洗礼を受けた人々が新しい群れ、神の民として一つとなった生活を始めたことに周囲の人々は神様への恐れを覚えた。そういう書き方になっています。

 新しく生まれたキリストの教会のまことに麗しい有様は、42節に要約して書かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。これを見た人々は恐れを感じたと続きます。そして信徒たちの生活をさらに詳しく書くと44節45節46節のようだと記して、それに対する周囲の人々の評価や反応がもう一度47節に出てくるのです。

 聖霊を受けた教会、聖霊を受けた人々の生活は、4つのことによって表されます。第一は「使徒の教え」です。主イエス様が天に昇り、父なる神のもとに行かれたので、残された使徒たちが主イエス様の教えによって、人々を導きます。悔い改めとキリスト信仰、洗礼を受けること、そしてその後の生活についても使徒たちは共同体を指導しました。今日、わたしたちに与えられている新約聖書の神のみ言葉こそ、その使徒の教えのまとめです。今に生きるわたしたちに向かって語られているものです。聖書には、信仰者は互いに愛し合うようにと命じられますが、財産を共有にしなさいとは書かれていません。しかし、当時の教会が44節45節に書かれるような、出家した人々の共同体のような生活をしていることの背後に、当時の状況に適応した使徒たちの指導があったことは間違いありません。これは「相互の交わり」の一つのかたちと言ってよいと思います。主イエス様を信じる者同士の相互の交わりは、色々な形をとります。家ごとに集まってと言いますのは、当時、三千人が一度に集まるような場所がなかったので、分散して集まり、それぞれでパン裂きの儀式と愛餐会を行っていたのです。しかし、教会員同士が、心を一つにして互いに何かを分かち合うことの大切さは、今日も変わりません。共に挨拶をかわし、平和と祝福を祈り、一緒に食事をするのです。そしてそれは何よりも、父・子・御霊の神様の恵みの中で主にあってなされることです。単にお酒を飲んだり、おいしいものを食べたり、あるいはゲームや歌を歌って楽しむ、世的な交わではなく、それ以上のものであり、何よりも聖霊に導かれた主にある交わりなのです。

 最後に上げられているのは、「祈り」です。47節では「神を讃美し」とも書かれています。心を神に向けるのです。聖霊を受け、聖霊に導かれる教会は、使徒の教え、これは今日では新約聖書と新約聖書の光で読まれる旧約聖書のことです。旧新約の聖書を学び、聖餐式と愛餐会を重んじ、熱心に讃美し祈る教会です。わたしたちもまた同じ聖霊に導かれています。

 47節に、この信仰の共同体は、民衆全体から好意を寄せられていたと書かれています。民衆全体から、あの人たちは良い人たちだ、愛すべき人たちだと思われていたのです。しかし、民衆全体がこの共同体に加わったというわけではありません。中に入ってくるのは、主イエス様によって救われる人であり、神様は、日々に、つまり周囲の人々の中から、一人また一人と仲間に加えて加えて下さったというのです。

 聖霊に導かれる教会は、この世の人びとから悪い評判を受けたり、薄気味悪がれたりする集団とは違います。殻にこもって、社会から遠ざかるようなことはないのです。そうではなく、好感を抱かれる、開かれた共同体です。町の人々に働きかけ、お人々を招きする、あるいは町の人々の中で一緒に生活することが出来るのです。

 ペンテコステの日に聖霊が降り、炎の舌が頭の上にとどまり、異国の言葉で使徒たちが語りだし、そして最後にペトロが悔い改めとイエス・キリストの名による洗礼を勧める説教をして、最初のキリスト教会が生まれました。新芽が萌え出るように、激しい仕方で洗礼者が与えられ、不思議としるしがなされた初代教会、そこから歩みを始めたキリストの教会は、今や世界中に広まりました。また2000年以上の歴史を積み重ねて、いっそう大きくなり、組織的制度的に整えられ、ある面では成熟した姿を示しています。けれども、聖霊によって導かれ、聖霊によって歩んでいることに変わりはありません。賜物として聖霊を受けているのです。これからも御霊によって歩もうではありませんか。祈りを致します。

天におられるわたしたちの救い主、主イエス・キリストの父なる神さま。尊い御名を讃美します。キリスト教会の誕生日と呼ばれるペンテコステの聖霊降臨と、そこから生まれた教会の麗しい姿を示されて感謝を致します。どうかわたしたちの教会も聖霊に導かれて、同じように麗しい姿で神の御栄光を映し出すものとなりますよう、お導きをお願いいたします。いまから50年近く前、1974年12月、清水町の常葉兄姉宅の家庭集会からはじめられ、1978年に熊本伝道所として働きがはめられ、そして今に至るまで恵みを頂いてきました。福音に活かされ、また福音を宣べ伝える群れとして、あなたはわたしたちを導いて下さり感謝を致します。どうか日々に悔い改め、常に新しくされ、そして前へ前へと進んで行くことが出来ますようお願いいたします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。