2024年07月21日「最初の伝道説教」

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聖書の言葉

使徒言行録 2章13節~41節

メッセージ

2024年7月21日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録2章14節~42節「最初の伝道説教」

1、

 主イエス・キリストの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。7月に入り、第三週の主の日を迎えています。梅雨明けの声も聞いています。いよいよ本格的な夏到来という思いがいたします。皆様の霊肉が守られますようお祈りします。

先週のみ言葉では、弟子たちが、その到来を祈って待っておりました聖霊がついに降ったみ言葉を聞きました。使徒たち、弟子たちが10日間の祈りを重ねていた、そのとき五旬祭、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに注がれたのであります

 この聖霊降臨のみ言葉は、何回読みましても不思議なところがあります。2章の2節では、彼らは一つの部屋の中に座っていたとされています。そして次の3節で、ペンテコステのシンボルであります、例の舌のかたちをした炎が現れます。ところが、そこから先は、いつの間にか舞台が転換しているのです。彼らは祭りの巡礼や町の人々でごった返すエルサレムの街中にいて人々に神の偉大な御業を語りだしています。2つの場面は、つなぎ目がはっきりしません。つなぎ目ははっきりしていないのですが、彼らは10日間籠っていた家から飛び出して外の世界に姿を現わしています。そして、一種の路傍伝道が始まりました。教会が生まれ出ようとしている場面ですけれども、ここでは、教会を外へ出て行かせるという聖霊の働きを感じるのです。内側のことよりも、外の世界に対して働きを始める、これはペンテコステにおける聖霊の働きでありました。

12人の弟子たち全員が、驚き、怪しむ人々の前に立っております。聖霊のしるしである炎の舌は依然として彼らの上にとどまっていたことでしょう。その彼らの代表としてペトロが説教します。ペトロの頭上にも聖霊のしるしがとどまっていたと思います。人々は依然としてざわざわしていたことでしょう。ペトロの最初の語りだしはこうであります。14節の後半です。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」

人々は、聖霊降臨によって使徒たちの頭の上に炎のような舌がとどまり、彼らがめいめいに他国の言葉で語りだすという不思議な現象を目にしています。ある人々は神の偉大な御業だと賛美しましたが、多くの人は驚き怪しみ、この人たちは酔っぱらっているのではないかとあざけりだしました。ペトロは、そのように騒然とする人々を制して、明確にユダヤの言葉で「わたしの言葉に耳を傾けて下さい」と呼びかけました。先週とその前の週、わたくしは2回続けて飛行機に乗りました。飛行機の中で何かもこの英語を聞きました。「アテンションプリーズ」。

人々は静まり返りました。ここからペトロの説教が始まります。この説教は、14節の後半から40節までにわたって記されます。先ほどお読みしましたのは、今朝はそのペトロの説教の全体から解き明かしたいと願っています。

使徒言行録には、実にたくさんの説教の記録が収められています。説教の主な語り手は、ペトロ、ステファノ、パウロ、ヤコブですが、それ以外にも、アカイヤ州の地方総督ガリオンや律法学者ガマリエルの演説など、合計24の説教や演説の聞き語りが収められています。それは節の数にして使徒言行録全体の三割に及ぶということであります。それらの数ある説教と演説の最初を飾っていますのが、今朝のペトロの説教ということになります。この説教は、使徒言行録最初の説教ですが、それだけでなく、聖霊の降臨によって誕生したキリストの教会が初めて語った説教、いわば教会の初説教と言う意味でも大切な説教であります。

 最初にペトロがしていることは、人々の目の前で起きている聖霊降臨の不思議な出来事の意味を語ることです。旧約聖書のヨエル書の預言の言葉をそらんじて、この預言が、今ここで実現していると語り始めました。あなた方が目にしている不思議な現象、それは聖書が約束している神の霊の注ぎの出来事であり、それが今成し遂げられたのだというのです。彼らは、酒に酔っているのではない、そうではなく、これはまさしく預言者ヨエルを通して言われていたことなのだと解き明かすのです。

 ペトロは、14節で「ユダヤの人々、エルサレムに住んでいる人々!」と呼びかけています。また22節でも「イスラエルの人たち」と呼びかけました。この説教の聴き手は明らかにヘブライ語或いはアラム語を理解する人々です。多くはイスラエルのユダヤ人です。ペンテコステ、五旬祭と言うユダヤ教の祭りの日にエルサレム神殿に巡礼に来た人々です。その信仰の程度の違いはあったと思いますけれども、神を信じる人たちです。彼らの中には、やはり日頃から旧約聖書に親しみ、その御言葉を暗唱する人々も多かったことでしょう。ペトロがヨエル書のみ言葉を語りだせば、すぐに、これはヨエル書の3章冒頭のみ言葉とわかったに違いないのであります。

「神は言われる、終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」

 神様の霊が注がれるという出来事が今起きている、それこそ神ご自身が預言者ヨエルを通して預言していたことだというのです。

実は、このヨエル書の預言そのものは、旧約時代の人々の常識をくつがえすものであります。どういうことかと言いますと旧約時代には、神がご自身の言葉を授け、あるいは神の御心を示す夢や幻を与える人は、神が特別に選ばれた人、預言者と呼ばれる人だけであります。けれども、ヨエルの預言によれば、ある特定のときには、すべての人の神の霊が注がれるようになるというのです。実は、ここでは旧約聖書ヨエル書3章のみ言葉が、一部変更されて引用されていることは大切なことです。ヨエルは、それが起こるのは、イスラエルが救いを受けるときであり、そのから後のことだと言っているのですが、ペトロは、それを「終わりの時」だと言い換えています。終わりのときが始まったのです。

 イスラエルだけではなく、全世界、全人類が救われる神様のご計画が、いよいよ終わりを迎えているとペトロは語ったのです。その終わりの時は、今に至るまで継続しています。終わりのときが来ている、主イエス・キリストがおいでになり、死んでお蘇りになったからだとペトロはいうのです。使徒たちが神様から、あるいは主イエス様から与えられた洞察によるならば、旧約聖書の全体は、やがて救い主、メシアが到来して救いを成し遂げてくださることを指し示します。人々から救い主、メシアではないかと思われていたナザレのイエスは、十字架のお架かりになりました。そして一度は死んだけれども、三日の後に蘇られた、復活されました。このお方こそ約束の救い主である。それは、終わりの時が来た証だとペトロは説教するのです。

 よくわたしたちは、とんでもない恐ろしい出来事が起こると、「世の終わりが来たようだ」、と言うことがあります。しかし、人間の勝手な思いではなく、聖書のみ言葉によるならば、終わりの時、世の終わりの時は、とんでもない恐ろしい時ではありません。そうではなく、むしろ神の救いの完成の時です。その終わりの時がいよいよ始まったというのです。イエス・キリストと言うお方において、神の救いの完成の時がすでに来ている、だからこそ、このお方を信じ受け入れること、それこそ神が求めていることなのです。

 44節までに記されているペトロの説教は、四つに分けられます。ペトロは21節までの第一区分で、聖霊降臨と言う不思議な出来事はヨエルの預言の実現だと語りました。

 22節でペトロは、もう一度、「イスラエルの人々よ、これから話すことを聞いてください」と語りかけます。そして、ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた人ですと宣言します。ここから28節までが第二区分です。ペトロは、詩編18編と詩編16編のみ言葉を引用しています。「わたしはいつも目の前に主を見ていた」「あなたはわたしの魂を黄泉に捨て置かれずあなたの聖なるものを朽ち果てるままにしておかれない」

 ペトロの説教の中心ははっきりしています。神は、ナザレのイエスをよみがえらせた、イエス・キリストは復活した、わたしたちはその証人だということです。死んだ人が生き返るという奇跡が起きたことをペトロは繰り返し語ります。死んだはずの人が実は生きていたというのではないのです。旧約聖書の予言通り、メシアは十字架に付けられて確かに死んだ、そして墓に葬られて三日もそこにいた主イエス様は、死に打ち勝って、わたしたちにもう一度現れて下さった、ここにこそ旧約聖書全体が預言していたメシア、救い主、キリストが鮮やかに示されたのです。これがペトロの説教の核心部です。

 第三区分は、29節から36節までです。その前の25節から28節で、更に旧約聖書が引用されました。詩編16編8節から11節です。そして、31節で、もう一度その10節を繰り返します。ペトロの説教の31節をお読みします。ここでの主語は神御自身です。「そして、(神は)キリストの復活について前もって知り、「彼は黄泉に捨てて置かれず、その体は朽ち果てることがない」とかたりました。」

この詩編16編は、ダビデ自身のことではなく、キリストのことを予言しているというのです。その上で詩編110編が引用されます。「主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とする時まで」。主なる神、父なる神の右の座に着く、これは、主イエス様が天に昇られたこと、そして今は父なる神と同等の権威権力をもってわたしたちと世界を治めておられることを言い表しています。

ペトロの説教は、実は聴き手のことを明確に意識して語られています。ペトロは、つい50日前、過ぎ越し祭にナザレのイエスをとらえて裁判にかけ、十字架につけたユダヤ人たちに語っています。

あの過ぎ越しの祭りのときに、ローマ総督ピラトが、祭りの慣例として囚われている人の中から誰か一人を釈放したい、このナザレのイエスを解放したいと言いました。そのとき、ユダヤ人たちの多くは、これを拒否しました。そしてナザレのイエスではなく、強盗のバラバを釈放してほしいと答えました。一時は、彼らは主イエス様をイスラエルの政治的な解放のリーダーとして勝手に祭り上げていたのですが、主イエス様ご自身がそれを否定したときに、彼らは十字架に付けよ、イエスを十字架に付けよと叫んだのです。そして彼らの願い通りに主イエスの十字架刑は執行されました。ところが、主イエスは神様によって復活させられ、使徒たちの前に、あるいは多くの人々の前に姿を現されたのです。

 今日の教会の礼拝において、主イエス様が神の子であり、神そのものであるお方であり、救い主、メシア、キリストであると証しする説教は、特別の説教ではないと思います。しかし、たった50日前に、主イエス様を十字架で処刑したばかりのエルサレムのユダヤ人の前で、このことを説教するということは、これは特別のことではないでしょうか。

聞いているユダヤ人たちは、今まさにペンテコステの不思議な聖霊の働きを確かに見ています。その霊の注ぎを受けている使徒たち本人から、主イエス様の復活を知らされました。このお方こそ聖書が預言する救い主、メシア、キリストであると示されたのです。この説教は、人々にこれまでの過ちを求めさせる働きをしています。ユダヤ人たちにいわばキリスト殺しの罪の悔い改めを迫る説教の言葉です。それが明確になるのは第四区分に当たる、36節から40節です。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです。」そして「人々はこれを聞いて心を打たれ、兄弟たち、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。

主イエス様は、最後の晩餐の時、聖餐式のパンは「あなた方のために裂かれたわたしの体」であり、ぶどう酒の杯は「罪が赦されるように多くの人のために流されるわたしの血である」と宣言されました。主イエス様の十字架は、わたしたち自身が受けるべき罪の裁き、神の怒りをわたしたち自身に代わって、身代わりとして、罪のないお方である主イエス様が受けられたものです。

 今ペトロが説教しているユダヤ人ではないわたしたち自身は、直接的に主イエス様を十字架にかけて殺したというわけではありません。

しかし、わたしたちに罪がないのか、神様の前に何の落ち度も罪もないかと問われれば、どうでしょう。様々にある、たくさんある、数えきれないほどあると答えなければならないでしょう。その罪の赦しのために神の子、神ご自身である主イエス様が死んでくださったことを知る時に、やはりわたしたちも「ペトロ先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と問うべきなのであります。

「悔い改めなさい。めいめいイエスキリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」

これがペトロの答えでした。

 最初の伝道説教は、主イエス様の復活を証しし、人々に罪の悔い改めを勧めるものでした。主イエス様こそ救い主であり、私たちは皆、イエス・キリストの名による洗礼を受け、主イエス様を信じてその教えに従うことが求められます。

この説教から歴史を刻み始めたキリストの教会です。教会が、いつも正面においてなすべき使命、その働きは今も変わらないのだと思うのです。

 自分たち自身が、罪の悔い改めとキリストの赦しに生きること、そして、この大いなる福音を世の人々に、この町の人々に、身の周りの人々に宣べ伝えることです。教会が教会であるために、主イエス・キリストに生きて、そして主イエス・キリストを証ししてまいりましょう。祈りを致します。

祈り

天の父なる神さま、あなたは初めから罪の世を救い、神の国とするご計画を持っておられます。時満ちて、独り子である主イエス様をわたしたちに下さり感謝いたします。この方以外に救いがないこと、世のどんなものにもまさる恵みの源が、このお方にあることを信じさせてください。そして教会は、絶えずこの福音に生きる群れであるように、そして福音を外に伝えて行くことが出来ますよう導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。