2024年07月07日「聖霊降臨を待つ教会」

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聖書の言葉

使徒言行録 1章12節~26節

メッセージ

2024年7月7日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録1章12節~26節「聖霊降臨を待つ教会」

1、

 お集まりの方々、兄弟姉妹方の上に主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によってお祈ります。

新しく使徒言行録のみ言葉を読み始めて、今朝は、その三回目であります。1章の前半分に記されていたのは、主イエス様が天に昇られる、主イエス様の昇天という出来事でした。今朝のみ言葉は、それに続く1章の後半部です。次の2章に記されていますのは、ペンテコステ、聖霊降臨の出来事であります。

説教題を「聖霊降臨を待つ教会」といたしました。主イエス様が天に帰られ、そして入れ替わるようにして聖霊が降ってくださる、その10日間の間、弟子たちは何をしていたのか雅記されています。それは、聖霊降臨から今に至るまでの長い教会の働き、福音宣教の戦いに備える期間でありました。主イエス様は40日間にわたって復活したお姿で弟子たちと過ごされて、天に昇って行かれました。復活から40日目に天に帰られ、50日目に聖霊降臨が起こったのです。そうするとその間に10日間の空白の時があります。この時こそ、まさしくこれから始まる戦いの準備の時であったというのであります。

 今朝のみ言葉には、主イエス様を天に送った弟子たちが、この10日間をどのように過ごしたのかが記されています。彼らは、何もしないでこの期間を過ごしたのではありませんでした。第一にしたことは、祈りでありました。第二に使徒たちのリーダーであるペテロが立って御言葉を語りました。そして第三に、12使徒のひとりであったイスカリオテのユダが欠けましたので、その使徒の補充をした、組織を整えたのであります。

山室軍平と言う救世軍の有名な先生は、今朝の聖書個所を「戦闘準備」と言っています。救世軍の会員は、全員「兵士」と呼ばれます。牧師は小隊長、神学校は士官学校です。伝道のことを戦いと位置付けます。そこで、今朝のみ言葉を戦闘準備の期間と呼んだのです。

この山室先生の言葉は、大切なことを示していると思います。つまり、祈りもみ言葉も、そして組織を作るということのすべてが、これからの戦いのための備えであるということです。教会の役割は、罪と戦い、この世的な思想や宗教とも戦い、そしてイエス・キリストの福音を宣教することです。組織は、そのためにあるということです。祈りもみ言葉も組織も、実は、それ自体が目的ではない。それは教会が生きて働くためにあります。そして、教会が生きて働くためには、それらはなくてはならないものであることを今朝のみ言葉は示しています。

2、

 さて主イエス様の昇天を見送った弟子たちは、オリーブ畑と呼ばれる山から帰ってきました。この山は、エルサレムの中心部の東側、キデロンの谷を挟んですぐの場所にあります。旅行や長距離移動が禁じられていた安息日であっても歩くことが出来る距離はおよそ1キロとされていました。弟子たちは、それくらいの道を歩いて帰ってきました。彼らが泊まっていた家がどこなのかは記されていませんが、おそらく彼らが都エルサレムにおいて拠点としていた家であろうと思います。最後の晩餐をした家であり、一説にはマルコによる福音書を書きましたマルコの実家、母親の家であったとも言われます。15節に使徒たちを中心に120人の人々がいたとあります。二階全体が大広間になっていたとしても、ずいぶん広い家だなあと思います。

 主イエス様は、天に昇って行かれる時に、「エルサレムを離れず前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と弟子たちに命じられました。「約束されたもの」は、主イエス様のお言葉によれば「聖霊の洗礼、聖霊のバプテスマ」であります。彼らは、そのイエス様のお言葉通りに、聖霊が来てくださるのを待っていました。何日も何日も待っていました。聖霊のバプテスマというものがどういうものなのかもわかりません。そんな中で、まず彼らがしたことは「祈り」でありました。

詩編46編11節に「力を捨てよ、知れ、わたしは神」とあります。口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」、文語訳では「汝ら静まりて、われの神たるを知れ」であります。心騒ぐとき、何かをしなければと焦りを覚える時こそ、静まって神に心を向けるのです。神を知るということは、神様との交わりを意味しています。静まって心を神様に向けること、言い換えると祈ることが求められています。

 わたしたちは、何か大切なことを前にして、すべてのことを準備万端抜かりなく整える、あるいは整えたいと願いますが、その準備の最たるものは祈りだと思います。使徒言行録は、新約の教会の物語です。わたしたちは、その初めに祈りがあったことを忘れてはならないと思います。それも個人的な孤立した祈りではなくて、心を合わせて祈る祈りでありました。二人でもいい、三人でもいい、神様の前に共に祈ることが大切なのです。

3、

 さて、このように弟子たちは祈り続けていました。弟子たちが何日も心を合わせて祈る祈りは、どんなものであったのかと思いめぐらします。120人もの集団の魂のことや、肉体の生活のこともあったかも知れない、あるいは主イエス様の約束への期待や感謝であったかも知れません。これから始まる働きのことも大きかったと思います。その中で使徒のリーダーであるペトロが立って、演説を致します。多くの注解書は演説といいますが、わたくしはあえて説教と呼びたいと思います。神のみ言葉を解き明かしているからです。わたしは、彼らの祈りの中に、自分たちが主イエス様を裏切ってしまったことの悔い改めの言葉があったのではないかと思います。

使徒ペトロは、多くの人の前で「主イエスなどと言う人は知らない、自分とは関係ない」と宣言した人です。その裏切りを主イエス様は赦してくださった、罪の悔い改めとこの赦しの恵みへの感謝の言葉が祈られたと思います。他の弟子たちも、自らの保身のため、自分たちのいのちが助かるために、主イエス様を捨てて逃げ出したことへの悔い改めと赦しへ感謝があったのではないかと思うのです。

主イエス様を裏切った弟子の筆頭は、もちろんイスカリオテのユダです。彼は、神殿祭司長や律法学者たちつまり主イエス様を十字架に付けた人々のところへ行って、主イエス様を銀貨30枚で売ったのです。ユダだけが特別であったわけではありません。ユダのことについても彼らは祈りの中で自問自答していたのだと思うのです。ユダは、主イエス様が十字架に付けられことを知って自殺してしまいました。もしもユダが復活の主イエス様に会い、その前に出て悔い改めたらどうなったかを考えます。主イエス様は、すでに十字架上でご自分を十字架に付けた人々の赦しを祈られました。ユダについても、きっと赦してくださったと思います。けれどもユダは、主イエス様にお会いせず、赦しを求めず、自殺してしまいました。使徒たちの中でユダだけが、復活の主イエス様に会っていないのです。

ペトロの説教は、このユダについてのものです。ペトロは、詩編69編の26節と詩編109編の8節を解き明かし、このみ言葉がユダにおいて成し遂げられたのだと語ります。

「その住まいは荒れ果てよ、そこに住むものはいなくなれ」これは詩編68編26節の引用です。「その務めはほかの人が引き受けるがよい」こちらは109編8節です。かつての同志、仲間のユダについてあれこれと思い悩み祈った末に与えられた結論です。

そもそも人間が罪を犯すことは、神様ご自身の願いではありません。しかし人間は神の御心に背き逆らって罪を犯します。人を愛せず傷つけます。自らを神として傲慢になります。戦争を引き起こし、あらゆる悲劇の原因を作ります。人間は、天地万物のあらゆるものの中で、唯一神に背くことが出来る存在なのです。人が神の形に作られた、人格を与えられたということはそういうことです。神様は、いつも人間が神に従うことを期待しておられます。けれども、わたしたちは、神に従うことが出来ないのです。しかし、犯された罪は、決着をつけられなければなりません。ユダは、目を覆うような悲惨な仕方で自らの人生を閉じました。そしてそれは、神に背くものの末路を示しています。それは何よりも主イエスさまの十字架に関わる特別な罪の報いだというのです。そして、すべては旧約聖書が明らかにしていたとペトロは語るのです。

わたしたちは、主イエス・キリストの救いを受けました。主イエス様の十字架による罪の赦し、罪の贖いがなければ、誰もが神の裁きを自分の身に受けなければならないのです。罪のないお方、そして神のひとり子であられる、主イエス様が、そのご自身の栄光のいのちをもって、わたしたちを救い、命を与えて下さったのです。

ペトロは言います。ユダは神の裁きを受けたのだ。そして「その務めはほかのだれかが引き受けなければならない」

120人の弟子たちの祈りとペトロの説教は決して無関係ではなく、祈りの中で、ペトロ自身が神の言葉に聞き続けた結果の説教であったに違いありません。

4、

 使徒ペトロの説教は、人々の心に届き、彼らは、御言葉に従って、ユダの代わりを選ぶことにいたしました。その条件は、主イエス様の福音宣教の始めから主イエス様とまた他の弟子たちと一緒にいた人であること、そして主イエス様の復活に共に与った、関わった弟子であることでした。使徒と言う言葉は、ギリシャ語では「遣わされたもの」と言う意味の言葉です。誰から遣わされたのか、復活の主イエス様から遣わされた人です。そして、主の復活の証人として立てられるのです。

 サッカーのように、一人欠けたのだから11人でやればよいということではありません。12という数が大切でありました。それは新約の教会が、旧約のイスラエル、神の民を引き継ぐ存在であるからです。神の民イスラエルは12部族からなりました。もとはと言えば、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブカラ出た12人が、その起源でした。12と言う数は、完全数としての意味を持っています。

 12使徒は、特別な存在でした。主イエス様の証人であり、主イエス様の御心に従って教会を建て上げてゆく使命がありました。このあと、パウロという人が、もう一人特別な使徒として立てられます。使徒たちは、自分の後継者として長老や監督を任命し、聖書を書き記し、教会の土台を据えました。聖書を読みますと、使徒たちは主イエス様のように、しるし、奇跡をおこなう権能も与えられていました。また主イエス様のみ言葉を再解釈したり、言い換えたりすることも許されました。いわば主イエス様の代理人であり、全権大使なのです。

 現代の教会の働き人、牧師や長老は、使徒とは呼ばれません。奇跡をおこなうことも、聖書を書くこともできません。使徒が築いた教会の土台、つまり主イエス・キリストの上に置かれた働き人です。この大切な使徒の候補としてバルサバ、あるいはユストと呼ばれるヨセフとマティアという二人の弟子が立てられましたが、最後はくじ引きにゆだねられました。くじを引くことは、人間の思いを超えた神の御心を尋ねることでした。当時のくじは、名前を書いた石を容器に入れて、良く振って石を落とすようにして行われたと言います。マティアに当たったと訳されている言葉は、マティアが落ちたという言葉です。

 6章に行きますと、使徒の働きを支える執事が7名選ばれます。このときにはくじは引かれません。聖霊の降臨の前と後という違いがそこにあるのだと思います。神の御心を心に示す聖霊の神様、聖霊様が、弟子たちの心に与えられたので、もはやくじは引かれなくなったのです。現代においても教会の役員をくじ引きできめるような教会があると聞きますが、わたしたちの教会の規則はそれを認めていません。教会の役員は、無記名投票で選挙することが求められています。そこに聖霊の働きがあり、選挙の結果は神様の御心を示すものとして厳粛の受け止められるのです。

4、

今朝のみ言葉は、教会がいよいよその大切な働きを始める準備、戦闘の準備のみ言葉であると説教の始めに語りました。

 心を一つにした共同の祈りとみ言葉、そして使徒の補充が行われました。まず心を静めて神に祈る、神を知ることからすべてが始まりました。そしてみ言葉が語られ、そののちに制度組織が整えられました。それらは、すべて、2000年の時を超えて、現代の教会に受け継がれているものです。この後、使徒たちは殉教してゆきます。しかし主イエス様の福音と神の国のみ言葉は、聖書と言う形でわたしたちの手元にあります。わたしたちには初代教会以来の聖霊が与えらえています。

祈りとみ言葉は、この熊本教会だけでなく、全世界のキリスト教会を支えています。そして教会は組織を整えるのです。今週も、主の恵みの中で、使徒たちから委ねられた、また引き継がれた働きを一歩また一歩と続けてゆこうではありませんか。お祈りします。

主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。使徒の時代から歴史を貫き、神さまからの使命を受けて働いているキリスト教会の出発点ともなる御言葉を聞きました。絶えず祈り、同時に戦いの準備をする教会の姿を学びました。どうか、全世界、全日本に建てられているすべての教会が主によって力を頂き、その働きを務めを果たしてゆくことが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。