2024年06月30日「地の果てに至るまで」

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聖書の言葉

使徒言行録 1章3節~11節

メッセージ

2024年6月30日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録1章3節~11節「地の果てに至るまで」

1、

 お集まりの方々の上に主イエスキリストの恵みと祝福が豊かにありますようお祈りします。主の御名によって祈ります。アーメン。

礼拝の中でいつも捧げています主の祈りの最初の言葉を、わたしたちは、すぐに言うことはできるでしょうか。「天にまします父なる神よ」です。主の祈りの言葉は、主イエス様が弟子たちにあなた方はこう祈りなさいと教えて下さった祈りの言葉です。いつも捧げている主の祈りですけれども、わたしたちは、その最初に「天にまします我らの神」、天にいらっしゃいます神と言う言葉を唱えます。わたくしはその瞬間に、いつも自分の心が天に向かうと言いますか、心が空高くへと向いているのを感じるのです。そのとき、目に見える世界のいわば、小さな出来事に心を悩ませている自分の姿もまた見えてくるのです。そして、神様は大きい、世界は広いという思いと、平安が心に与えられ、神様が天におられる、そして、ああ今も、神様が見ていてくださるということに気づかされるのです。

今朝のみ言葉は、復活された主イエス様が、天に帰って行かれた場面を記しています。わたしたちが、主の祈りを捧げるたびに心に浮かぶ天の父なる神の御存在のその右の座に、今は主イエス様が共にいて下さるのであります。この地上の有様、その苦難と悲しみも含めて、実際に味わって下さり、そして「十字架にお架かりになり復活された主イエス様が、天にいて下さるのです。心強いことであります。

 さて、今朝は、使徒言行録1章3節から、この書物の最初の場面のみ言葉を聞いております。主イエス様は天に帰って行かれました。3節から5節には、天に上げられる前の主イエス様のみ言葉があり、そして、6節から9節は主イエス様が天に上げられて行かれたその有様、そして最後の10節と11節は、白い服を着た二人の人、これはみ使いに相違ないのですが、二人が告げる再臨の予告であります。

主イエス様の昇天は、天へ昇ると書きます。天へ召すと書きますと、同じ召天でも意味が違ってきます。これはわたしたちが地上の生涯を終えることです。使徒言行録を読み始めたわたしたちは、まず、天に昇って行かれる主イエス様の姿を知らされます。そしてわたしたち自身の心もまた天へと高く上げられるのであります。

2,

主イエス様は、間違いなく天の父なる神様のおられるところに帰って行かれました。「天」と言う言葉が表しているのは、地上ではないところであります。もちろんそれだけではありません。聖書的な意味では、天は宇宙空間、あるいは飛行機が飛んでいるような空の高いところとは全く違います。それは天地万物、わたしたちが見ている世界のすべてを超えた場所と言ってもよいでしょう。父なる神が、天におられるということは、実は地上のすべての場所にいてくださることでもあります。神が霊であられるということはそのことが可能であることを意味しております。そして主イエス様は、その父なる神様と共におられますが、主イエス様は、人となったお方ですから、体を持っておられます。従って、霊そのものであるかのように、どこにでもいて下さることはできません。だからこそ、主イエス様から出る霊として聖霊の神様がわたしたちに送られるのです。

復活の主イエス様は、40日間にわたって弟子たちと幾度も、会って下さり、共に食事をしたり、語り合ったりなさいました。その復活のお身体は、一度死んで蘇られた特別なお体です。昇天、天に上るという、空間の移動と言うことも、主イエス様が神様の栄光を身に帯びた特別の御身体であったことを示します。自然の法則を超えて、天に昇って行くことができたのです。天に上げられてゆくとき、特別の雲が次第に主イエス様を覆ってゆきます。この雲は、自然界の普通の雲ではありません。神の臨在と神のご栄光を現わす、特別の雲です。フランシスコ会訳聖書は10節をこう訳しています。「一群(ひとむら)の雲がイエスを包んで見えなくした」ここにも神様の特別なお計らいがあります。

そのときでした。使徒たちや他の弟子たちが天を見つめていると、白い服を着た二人の人がそばに立ちました。彼らは、神と主イエス様に仕える天使でありましょう。こう言いました。11節をお読みします。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

主イエス様が、また地上においでになる、これを再臨、再び臨むと書きます。「同じ有様で」とはどういうことでしょうか。おそらく、ちょうどフィルムを逆回しするように、事柄がおこるのでしょう。天のいずれかに、まずは小さな一片の神の栄光の雲が現れることでしょう。そして雲は視界を遮り覆います。主イエス様が来られるにつれて、雲は次第に晴れて行き、人々は共に地上に降りて来られる主イエス様の姿を見るのです。

主イエス様が異邦人のための使徒として召しだしたパウロという大伝道者は、神の霊に導かれて、その再臨の有様を聖書に書き記しました。開きませんけれども、テサロニケの信徒への手紙1、4章16節と17節をお読みします。

「神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降ってこられます。するとキリストに結ばれて、これはキリストにあってと言う言葉ですが、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それからわたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲につつまれて引き揚げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」

このことを教理の言葉で言いますと、死者の復活と空中携挙と言う出来事です。わたしたちもまた、天に携え行かれ、主イエス様と出会うのです。主イエス様の再臨にもおいても栄光の雲が現れています。わたしたちの体もまた栄光に包まれ、栄光の主イエス様と一緒にいる、それもいつまでも、永遠にいるようになる、これが主イエス様の再臨によっておこることです。ほかの聖書の個所には、最後の審判や新天新地の到来なども記されていますが、今はそれらに触れることはできません。

使徒言行録は、福音が全世界に、地の果てまで宣べ伝えられると語ります。この福音の宣教は主イエス様の昇天と聖霊の降臨から始まり、最終的に主イエス様の再臨をもって終わります。

神様が始めて下さり、神様がそれを閉じてくださいます。すなわち使徒言行録で始められた主イエス様の名による福音伝道と教会形成は主イエス様の再臨、世の終わりまで続いてゆく神様の恵みの出来事です。

使徒たちは、このことが理解できなかったようです。直ちに神の栄光の国が完成するのではないかと考えました。イスラエルと言う地上的な国が神の国として完成するのは今ですかと問いました。しかしそうではなかったのです。主イエス様の再臨と御国の完成は徹底的に神の主権のもとにあります。その時や時期は、あなた方の知るところではない、つまり知らされないと主イエス様はお答えになりました。主イエス様の再臨と神の国の完成がいつ起こるのか、どんな時に起こるのか、わたしたちはそれを知ろうとすること自体赦されないのです。長い教会の歴史の中で、今、現代においても、主イエス様の再臨と完成された神の国はいつ実現するのか、聖書のあれやこれやの言葉をつなぎ合わせて具体的にそれを知ろうとする、あるいは聖書にこう予言されていると読み取る、そのような人間の側の行いは絶えることがありません。けれども、わたしたちにはそれは知らされていないし、知るべきでもないと主イエス様は断言されたのです。むしろ、わたしたちは、今朝のみ言葉から。わたしたちの使命は、主の再臨を待ち望みながら、希望をもって、時が良くても悪くとも忍耐して福音を宣べ伝えることだと悟らされるのです。

 さて、主イエス様は天に上げられるときに、弟子たちにエルサレムで聖霊が降るのを待つようにと命じられました。4節をお読みします。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく、聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 ここでヨハネと言われているのは、主イエス様に先立ってヨルダン川のほとりで悔い改めの洗礼を授け、洗礼運動を起こした洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネは、新約聖書に登場するのですが、むしろ旧約聖書の預言者として働きました。旧約の預言者たちは、来るべき救い主、メシア、キリストを予言しました。洗礼者ヨハネは、旧約最後の預言者、主イエス様に実際に会うことが出来たただ一人の預言者と言ってよい人物でした。この洗礼者ヨハネのキリスト預言は、四つの福音書のすべてに記されています。ルカによる福音書のものを引用します。開きませんが、お聞きください。

ルカによる福音書3章16節「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる。」

今朝のみ言葉では、このヨハネが告げ知らせた「聖霊による洗礼」を主イエス様ご自身が、告げてくださいました。使徒言行録2章のペンテコステの出来事、聖霊が降臨し弟子たちに聖霊が注がれるという出来事が起こるのです。この聖霊による洗礼がおこるときまで、あなた方はエルサレムで待ちなさいと主イエス様は命じられました。それでは、洗礼者ヨハネが聖霊の洗礼と共に予言した「火による洗礼」とは、何のことでしょうか。これもまた主イエスが授けてくださると洗礼者ヨハネは預言しました。それは主イエス様の再臨と同時に起こることです。「火による洗礼」とは、最後の審判と世界の完全な清め、裁きの日のことに違いありません。この世の終わりの約束は、先ほどの神の国の完成の約束です。わたしたちは、それがいつ、どんな時に起こるのか、知ることは赦されていません。しかしそれは必ず起こることとして約束されているのです。

4、

 8節には、主イエス様が、天に帰って行かれる時、最後に話されたみ言葉が記されています。「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤ全土とサマリヤの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

 聖霊の神様が地上で神様のお働きのいわば主役としてお働きになる時代が、始まろうとしています。ペンテコステの聖霊降臨は、福音宣教の始まりでした。それに先立って使徒たちは、主イエス様の十字架を体験し、その中で自分たちの無力、弱さを知る体験をしました。そして復活の主イエス様との出会いによってその傷から立ち上がりつつありました。主イエス様は天に昇って行かれ、間もなく聖霊がくださろうとしています。

 「聖霊が降るとあなた方は力を受ける」、これは教会の福音宣教の歴史の中で決定的なことです。今も教会は聖霊によって力をいただき続けています。聖霊によらなければ、だれも主イエス様を主であると告白することはできず、聖霊の恵み深い導きをいただくこともできません。

エルサレムの120人ほどだった小さな群れは、爆発的に成長し、ユダヤ全土、サマリヤ全土に広がりました。そして広く地中海をめぐる航路の港町カイザリヤからギリシャローマの各地へと福音が伝えられてゆきます。

8節に「エルサレムばかりでなく、ユダヤ全土とサマリヤの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と記されています。エルサレムでの伝道は、これから読んで行きます使徒言行録の2章から7章です。そして8章と9章はユダヤとサマリヤ伝道、さらに10章から最後の28章までには、伝道が異邦人世界に広く進展してゆく様子が記されています。この8節の主イエス様の命令、命令と言うよりは神様のご計画による約束ですが、それは、使徒言行録全体の内容を表しているということが出来ます。

 証人とは、自らが見たこと、体験したことを語る人です。使徒たちが証人として語り続けたことは、何よりも主イエス様の復活でした。主イエス様はよみがえられた、主イエス様は今も生きて働いておられる、このお方を日々の生活の中で信じる、そしてこの方により頼む幸いを自分自身の体験として語ったのです。

 わたしたちの福音宣教、教会の伝道の中心もまた同じです。わたしたちはこの日本という地で福音に生きます。そして福音を宣べ伝えます。キリスト者は、人口の1%以下です。

文化庁は毎年宗教年間というものを発行しますが、それによりますと、、仏教の各宗派の門徒の数と、神道の氏子数など、すべての宗教の信者を合計した「我が国の信者数」が1億8226万6404人に達するということです。

日本は、他の国に比べて無神論者が多いように思われますが、実態上は宗教が満ち溢れている国でではないでしょうか。信仰の深さ、程度は別として、やはり、人は何かを信じなければ生きて行けない、心の奥底では神を求めているのではないでしょうか。使徒言行録の舞台となっている当時の中東からローマに至るギリシャローマ世界も同様であります。日本もまた、いろいろ宗教が人々の心をとらえています。

わたしたちは、その中で、天地の造り主である父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神様の三位一体の神様を宣べ伝えています。他のどんな宗教とも違う点は、御子イエス・キリストを生きておられる神として宣べ伝えているということです。神はイエス・キリストの父なる神であり、聖霊は父から発し、また御子イエス・キリストからも出る神なのです。教会がほかのどのような宗教とも明確に違う点は、このことです。生きておられるイエス・キリストを伝えているのです。イエス・キリストの恵みの証人なのです。

「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤ全土とサマリヤの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

「地の果て」と訳されているギリシャ語は、「地の終わり」と言う言葉です。地は、天に対して「この世、この世界」を表す言葉でもあります。つまり、地の果てとは、この世界の終わり、世の終わりと言う意味もあるのです。

使徒たちの使命を引き継いで、わたしたちもまた聖霊によって力を受け、地の果てまで、世の終わりまで、イエス・キリストの証人として、福音を伝えてゆきます。天におられる主イエス様は、聖霊なる神、この世界のいたるところでお働きになる神を送り、同時に、わたしたちの心の中にも、その聖霊なる神を住まわせてくださいます。

3節に、復活の主イエス様が弟子たちに語って下さったのは「神の国」についてのことであったと記されています。神の国はすでに主イエス様において始まっており、世の終わりに主イエス様によって完成します。神の国はイエス・キリストの国です。この使徒言行録の最後の28章で、使徒パウロが当時の大都市ローマで宣べ伝えていたのも神の国でした。28章31節、使徒言行録の最後のみ言葉をお読みします。

「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問するもの者はだれかれとなく歓迎し、まったく自由に何の妨げもなく、神の国について宣べ伝え、主イエス・キリストについて教えた」使徒言行録の終わり方は、まだまだ続きがあるという終わり方です。将来に向かって開かれています、英語ではオープンエンドと言います。

福音の宣教は終わりません。わたしたちは、地の果てまで、世の終わりまで主イエス様とそのみくにを伝えて行きましょう。

祈ります。

天の父なる神様、あなたの御名を崇めます。御子イエス様がその右の座におられることを感謝します。今週もまた世界において、聖霊なる神様が、わたしたちを通してお働きくださいますように。わたしたちが福音に生きることができ、福音を宣べ伝えて行くことが出来ますように。主の名によって祈ります。アーメン。