聖書の言葉 詩編 121編1節~8節 メッセージ 私の助けはとこからくるのか 詩編121篇1-8節 1 都に上る歌。目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 わたしの助けはどこから来るのか。 2 わたしの助けは来る/ 天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/ 足がよろめかないようにし/ まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/ まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/ あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/ 夜、月もあなたを撃つことがない。 7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/ あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/ 主が見守ってくださるように。 今も、そしてとこしえに。 [説教文] 旧約時代、イスラエルの人々において、彼らの信仰を守ることに関わって、主なことは三つがあります。それは「律法」、「神殿」、「献げ物をささげること」でした。この三つの信仰の行為は神殿でイスラエルの人々の献げ物をささげることに集中されています。祭司は人々が神殿でささげる際、律法を読んで、祈り、ささげるからです。それでイスラエルの信仰とは神殿中心と言っても過言ではありません。 それでイスラエルの人々はいつも神殿を慕って、神殿に行って祈り、ささげることを楽しみました。神殿があるエルサレムに住んでいた人々は毎日、毎週、毎月ごとに、律法で定められている通り、神殿に行って祈り、ささげますが、エルサレムその都から離れて遠く住んでいた人々は神殿を慕って、神殿に行きたいとしても、毎日、毎週、毎月ごとに、神殿でささげるのは無理です。それで彼らの神殿に上ることができたのは全イスラエルが集まるお祭りの日、すなわち除酵祭、刈り入れの祭り、取り入れの祭りなど、一年間三回程度だけでした。このようにイスラエルの民にとって、神殿は神の臨在するところなので、彼らは常に神殿に上ってささげることを求めながら生きました。イスラエルの人々はエルサレム神殿に向かって歩む時、彼らはどのような心をもって上ったのか、神殿に向かって歩む時、歌った詩は「都に上る歌」という表題が付けている詩編です。詩編121篇も「都に上る歌」」という表題が付けています。「都に上る歌」」という表題は120編から134編まで付けていますが、これらの詩はイスラエルの民が神殿で神に献げ物をささげるために上る時、その道を歩きながらよく歌われた詩なのです。 神殿に上る人々は、山々を越えて丘の道を登りながら神殿を見上げて歩みます。その時、彼らの心はどのような姿になったのでしょうか。本詩編から考えれば、彼らは多分巡礼者の姿をもって上ったと思います。彼らの歩みは巡礼者の旅であり、彼らの姿は巡礼者の姿であり、 彼らの心も巡礼者の心になって、神殿に向かって上りました。彼らはただ神殿だけを思いながら、神殿がある都に向かって歩みました。言い換えれば神殿に上る巡礼者は自分の体や心、精神、魂がただ神殿で神礼拝することだけに目指して上ったということです。 けれども神殿がある都に上る巡礼者の歩みは簡単な道ではありませんでした。巡礼者にとって、その歩みにはあらゆる妨げがあるわけです。その妨げは何かと言いますと、本詩編の詩人によれば、それらは巡礼者自分の「目」、「足」、「手」、「魂」として言っています。巡礼者詩人は自分の告白である詩編121編を、それらの妨げに従って、四つの小節に分けて歌っています。その四つの小節は2節ずつ一つの箇所にして、1節と2節を始め、3節と4節、5節と6節、そして7節と8節にして、四つの小節になっています。私たちはこのような小節の順番に従って、本詩編の御言葉について学びたいと思います。 最初の箇所、1-2節のところです。ここにいう信仰の歩みにおいて、妨げるのは巡礼者自分の「目」です。エルサレム神殿に上る詩人は「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこからくるのか。」と歌いながら上ると語っています。ここに言う「山々」とは神殿が立てられているシオンの山ではありません。異邦人が拝む神々の祭壇があるところ、その山々です。それで、1節の「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこからくるのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」という歌は、多くの人々は自分の助けを彼らの神々がある山々からくると思って、彼らは目を上げて、その山々を仰ぎますが、巡礼者は、その助けは天地を造られた主のもとからできるのを知っているので、「私の助けは天地を造られた主のもとからくる」のだと歌っているのです。巡礼者詩人は、神殿に上る長い巡礼の道で、巡礼者自分を助けられるお方が誰であるかをよく分って、その信仰の確信で告白しています。巡礼者は自分の目をイスラエルの神の神殿に向かって上るべきだと勧めています。 しかし神殿に上る彼らの歩みは順調ではありませんでした。多くの山々を越え、険しい山の道を上り、深い谷間を渡らなければなりませんでした。神殿に向かう礼拝の心をもって足を運びますが、超えなければならない険しい山々が彼らの歩む道にあります。彼らにとって、山々は恐ろしいものでした。高い山を見れば、神殿に上ることをあきらめたい気持ちにも生じたかもしれません。また山々の危険から避けられる助けになるものを考えるべきであり、あらゆる誘惑に陥ることもあったと思います。長い旅路する巡礼者にとって、山の道を歩くのは大変です。そのように、神礼拝にささげる歩みはそんなに簡単な道ではありません。何も考えずに御前に出ればその道は簡単な歩みですが、決して神礼拝ができるところに行くのは簡単な歩みではありません。信者たちの歩みはどんな道でも、それは結局神に向かって上る巡礼者の道になれば意味があるわけです。信者の歩みが神礼拝者の歩みにならないと、その歩みは帰するところ、空しくなるからです。 私たちの信仰の歩みには高くて険しい山々の苦しみや悩みがあるわけです。その時、詩人は私たちに、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」と歌いましょうと勧めています。巡礼者の「私は山々を仰ぐ」という告白はエルサレムに上る巡礼をあきらめないという神に対する巡礼者自分の誓いであり、巡礼者自分の人生のあるべき苦しみや悩みの叫びでもある歌です。その歌で、詩人は、私たちに、山々のような大変なことが前に置かれている巡礼の道を歩んでいますが、その山々を一つずつ越えることによって神礼拝ができる神殿まで歩みましょうと励んでいます。 詩人によれば、信仰の歩みにはもう一つの妨げが登場します。それは自分の「足」です。それで詩人は3節にありますように、「足がよろめかないようにし」と語っています。足は長い旅ができるように、巡礼者の体を保つようにしてくれるものです。自分の足は歩かなければならない遠い旅路で信頼できる体の一つです。しかし、巡礼者の足は長い道を耐えられないのです。それに巡礼者は弱い足をもって危険なところを歩き回ります。その時、巡礼者は自分で行きやすい道を探しながら歩みますが、その歩みで神礼拝者の信仰を守ることは難しくなります。信仰の旅路を歩む私たちはけっして自分自身を信頼することはできません。巡礼者は自分を保証できないのです。そうすれば、巡礼者の信仰の旅路において、安全はどこにあるのでしょうか。それは主の守りにあるわけです。この事実を、詩人はよく知っています。それで詩人は自分の告白で、3節と4節にありますように、「3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」と語っています。 私たちの足も長い道を耐えられないものです。それによって、私たちは弱い足をもって危険なところを歩き回ります。私たちが自分で行きやすいところこそ、信仰を守ることは難しくなります。信仰の歩みは私たち自分自身を信頼することでできる道ではないからです。私たちは経験が多ければ多いほど、年を取れば取るほど、この問題に自分の足が引っかかって倒れます。私たちの信仰の歩みで、安全はどこにあるのですか。それはただ主が私たちを守ればできます。 詩人の心は自分が歩む巡礼の道、全体で徹底的に保護して下さることを確信しています。旅中の危険な過程を体表的に語るものとして、「足がすべらないように」とまとめています。また詩人は「いつも見守ってくださるように願う」詩的表現として、「まどろむことのない神」として告白します。私たちの信仰の歩みができるのは神が私たちの歩む道を守られるからです。神ご自分の御手で、私たちを捕らえ足が石ころにぶつからないようにしてくださるからです(詩91:12)。私たちの足がすべりだすと言う時、その瞬間、神の慈しみが私たちを捉えてくださるからです(詩94:18)。 神礼拝の旅路を歩む巡礼者が経験したもう一つの妨げは自分の「手」です。この妨げに関わる箇所は5節と6節のところです。それは「5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。」と記されています。5節と6節では巡礼の道で、詩人は神の覆う陰が巡礼者の保護であることを告白します。5節を、正確に翻訳して見ると、主が「あなたの右の手の上にあなたを覆う陰になる」という意味です。3節で言いましたように、先に巡礼者の足をとりあげているならば、ここでは巡礼者の手をとりあげているのです。私たちは大抵右の手ですべてのことをします。エルサレムの神殿に向かう巡礼者たちは山々を通りながら自分の右の手を信頼したことでしょう。右の手に杖を持ち、右の手で障害物を取り除き、右の手で獣と戦います。私たちにとって、右の手は自分の力を表します。私たちは私たちの力に対して信頼とプライドを持ちます。けれども私たちの力は自分の信仰の歩みにおいて、どのように助かるのでしょうか。それはあまり助かりません。 そしたら神礼拝のために神殿に向かっていく巡礼者の助けはどこからくるのでしょうか。詩人はどのようにしなければならないのかについて、その解決を知りました。神が「あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」神の影が私たちの弱く疲れた右の手を覆うのです。神が神礼拝者私たちの右の方であり、私たちを守って下さるお方です。ここで言う「右」は方向性ではなく、神の親密さを言うからです。私たちが主のそばにいることより、神が私たちのそばにいてくださるのです。それは私たちにとって信仰の力になります。神は単純に私たちのそばにおられるだけではなく、私たちを徹底的に守られる影になります。その神の影は神の慈しみの実現であり、私たちは神の影のもとで安全に歩むのです。 神礼拝の旅路を歩む巡礼者が経験した最後の妨げは自分の「心」、言い換えれば「魂」です。神礼拝者は自分の魂が神から離れたら礼拝ができないからです。それで巡礼者は7節と8節で、魂も神が守られないと、魂も神礼拝の歩みにおいて、妨げるものになると告白しています。それは、7節の「7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。という御言葉から分かります。7節と8節で詩人は神礼拝の旅路で夜も昼も、共にいる昼の太陽と夜の月のように、神礼拝ができるように、神は自分の魂さえお守り、魂の変わることがないように守りながら神殿まで導いてくださる神であることを告白しています。 私たちは神礼拝者として生きます。それで私たちの人生は神礼拝の道を歩み、神殿に上る巡礼者の歩みです。その歩みは自分なりに頑張って歩いても簡単な道ではありません。昼には昼の危険が、夜には夜の危険が訪れます。だから詩人はこのように歌います。「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。」この事実でエルサレムの神殿に向かって上る巡礼者に昼の太陽と夜の月は本当に大切なのです。昼の太陽と夜の月があるから、険しい山でも、つまずかず歩くことができるのです。昼の太陽と夜の月は旅をする巡礼者には案内者であり、同行者なのです。 しかし、その反対の状況もありえるのです、真昼に神殿に向う巡礼者が山を上る時、太陽が背中を照りつけると太陽の存在は苦しい物になるのです。巡礼の旅路で彼らが夜、山で夜を過ごす時、月は体に寒さを感じさせると月の存在は苦しい存在になります。時には私たちに自慢となった地位や立場が、むしろ信仰において損失をあたえることもあります。私たちを満足させ、楽しみを与えた物が時には信仰を揺るがすこともあります。私たちが何より信頼するものが、何より信頼できなくなります。 そうすると、私たちの信仰の旅路において、助けの源泉はどこにあるのでしょうか。それはいつも変わることのない神にあります。私たちを助ける神は私たちに害を与えられること、一つもありません。この世を生きる間、ただ神によって真面目に信仰の歩みを進むことができます。なぜならば、神は神の民の出で立つのも帰るのも主が守ってくださるからです。出で立つのも、帰るのも守るという言葉は人生の初めから終わりまで守って下さるという意味です。いつまで神は私たちを守られます。「今からとこしえまで」守って下さいます。ここで詩人は私たちの未来と関連して、私たちを守って下さる神であることを語っています。神が守って下さるのは「悪いもの、すなわちすべての悪のものから」守られます。 私たちが歩むべき、神礼拝の歩み、一年、一年というのは、本詩編の詩人が歩む旅路より、ある面において、もっと長く、その歩みはご自分で知らない歩みであり、その道に向かって旅立つことは恐れがあるかも知れません。しかし、神は私たちの神礼拝の歩み、信仰の歩みにおいて、いつも共にいて下さり、確かに導いてくださるお方です。神が共にいてくださるならば、私たちはどんな未来にあっても、どんな場所でも神礼拝の歩みができます。本詩編の神礼拝の巡礼者はそのことを確かに分かって、私たちにこのように励んで勧めました。「あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように」と語り伝えています。このように、私たちの神は私たちの信仰の歩みで、私たちの出で立つのも、帰るのも守って下さる神なのです。 神礼拝者、私たちの信仰の歩みの前に、険しい山が置かれていますか。信仰の道に上り坂があるのでしょうか。私たちの将来の歩みに深い谷間がおかれているかも知れません。「目をあげて、主なる神を仰ぎ、「私の助けはどこから来るのか」と気になっても、「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから」と確かに告白し、神に頼って生きましょう。神は私たちの出で立つのも、帰るのも見守ってくださるのです。 「あなたの出で立つのも、帰るのも主が見守ってくださるように」祈り願います。
私の助けはとこからくるのか
詩編121篇1-8節
1 都に上る歌。目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
2 わたしの助けは来る/
天地を造られた主のもとから。
3 どうか、主があなたを助けて/
足がよろめかないようにし/
まどろむことなく見守ってくださるように。
4 見よ、イスラエルを見守る方は/
まどろむことなく、眠ることもない。
5 主はあなたを見守る方/
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/
夜、月もあなたを撃つことがない。
7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/
あなたの魂を見守ってくださるように。
8 あなたの出で立つのも帰るのも/
主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。
[説教文]
旧約時代、イスラエルの人々において、彼らの信仰を守ることに関わって、主なことは三つがあります。それは「律法」、「神殿」、「献げ物をささげること」でした。この三つの信仰の行為は神殿でイスラエルの人々の献げ物をささげることに集中されています。祭司は人々が神殿でささげる際、律法を読んで、祈り、ささげるからです。それでイスラエルの信仰とは神殿中心と言っても過言ではありません。
それでイスラエルの人々はいつも神殿を慕って、神殿に行って祈り、ささげることを楽しみました。神殿があるエルサレムに住んでいた人々は毎日、毎週、毎月ごとに、律法で定められている通り、神殿に行って祈り、ささげますが、エルサレムその都から離れて遠く住んでいた人々は神殿を慕って、神殿に行きたいとしても、毎日、毎週、毎月ごとに、神殿でささげるのは無理です。それで彼らの神殿に上ることができたのは全イスラエルが集まるお祭りの日、すなわち除酵祭、刈り入れの祭り、取り入れの祭りなど、一年間三回程度だけでした。このようにイスラエルの民にとって、神殿は神の臨在するところなので、彼らは常に神殿に上ってささげることを求めながら生きました。イスラエルの人々はエルサレム神殿に向かって歩む時、彼らはどのような心をもって上ったのか、神殿に向かって歩む時、歌った詩は「都に上る歌」という表題が付けている詩編です。詩編121篇も「都に上る歌」」という表題が付けています。「都に上る歌」」という表題は120編から134編まで付けていますが、これらの詩はイスラエルの民が神殿で神に献げ物をささげるために上る時、その道を歩きながらよく歌われた詩なのです。
神殿に上る人々は、山々を越えて丘の道を登りながら神殿を見上げて歩みます。その時、彼らの心はどのような姿になったのでしょうか。本詩編から考えれば、彼らは多分巡礼者の姿をもって上ったと思います。彼らの歩みは巡礼者の旅であり、彼らの姿は巡礼者の姿であり、 彼らの心も巡礼者の心になって、神殿に向かって上りました。彼らはただ神殿だけを思いながら、神殿がある都に向かって歩みました。言い換えれば神殿に上る巡礼者は自分の体や心、精神、魂がただ神殿で神礼拝することだけに目指して上ったということです。
けれども神殿がある都に上る巡礼者の歩みは簡単な道ではありませんでした。巡礼者にとって、その歩みにはあらゆる妨げがあるわけです。その妨げは何かと言いますと、本詩編の詩人によれば、それらは巡礼者自分の「目」、「足」、「手」、「魂」として言っています。巡礼者詩人は自分の告白である詩編121編を、それらの妨げに従って、四つの小節に分けて歌っています。その四つの小節は2節ずつ一つの箇所にして、1節と2節を始め、3節と4節、5節と6節、そして7節と8節にして、四つの小節になっています。私たちはこのような小節の順番に従って、本詩編の御言葉について学びたいと思います。
最初の箇所、1-2節のところです。ここにいう信仰の歩みにおいて、妨げるのは巡礼者自分の「目」です。エルサレム神殿に上る詩人は「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこからくるのか。」と歌いながら上ると語っています。ここに言う「山々」とは神殿が立てられているシオンの山ではありません。異邦人が拝む神々の祭壇があるところ、その山々です。それで、1節の「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこからくるのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」という歌は、多くの人々は自分の助けを彼らの神々がある山々からくると思って、彼らは目を上げて、その山々を仰ぎますが、巡礼者は、その助けは天地を造られた主のもとからできるのを知っているので、「私の助けは天地を造られた主のもとからくる」のだと歌っているのです。巡礼者詩人は、神殿に上る長い巡礼の道で、巡礼者自分を助けられるお方が誰であるかをよく分って、その信仰の確信で告白しています。巡礼者は自分の目をイスラエルの神の神殿に向かって上るべきだと勧めています。
しかし神殿に上る彼らの歩みは順調ではありませんでした。多くの山々を越え、険しい山の道を上り、深い谷間を渡らなければなりませんでした。神殿に向かう礼拝の心をもって足を運びますが、超えなければならない険しい山々が彼らの歩む道にあります。彼らにとって、山々は恐ろしいものでした。高い山を見れば、神殿に上ることをあきらめたい気持ちにも生じたかもしれません。また山々の危険から避けられる助けになるものを考えるべきであり、あらゆる誘惑に陥ることもあったと思います。長い旅路する巡礼者にとって、山の道を歩くのは大変です。そのように、神礼拝にささげる歩みはそんなに簡単な道ではありません。何も考えずに御前に出ればその道は簡単な歩みですが、決して神礼拝ができるところに行くのは簡単な歩みではありません。信者たちの歩みはどんな道でも、それは結局神に向かって上る巡礼者の道になれば意味があるわけです。信者の歩みが神礼拝者の歩みにならないと、その歩みは帰するところ、空しくなるからです。
私たちの信仰の歩みには高くて険しい山々の苦しみや悩みがあるわけです。その時、詩人は私たちに、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」と歌いましょうと勧めています。巡礼者の「私は山々を仰ぐ」という告白はエルサレムに上る巡礼をあきらめないという神に対する巡礼者自分の誓いであり、巡礼者自分の人生のあるべき苦しみや悩みの叫びでもある歌です。その歌で、詩人は、私たちに、山々のような大変なことが前に置かれている巡礼の道を歩んでいますが、その山々を一つずつ越えることによって神礼拝ができる神殿まで歩みましょうと励んでいます。
詩人によれば、信仰の歩みにはもう一つの妨げが登場します。それは自分の「足」です。それで詩人は3節にありますように、「足がよろめかないようにし」と語っています。足は長い旅ができるように、巡礼者の体を保つようにしてくれるものです。自分の足は歩かなければならない遠い旅路で信頼できる体の一つです。しかし、巡礼者の足は長い道を耐えられないのです。それに巡礼者は弱い足をもって危険なところを歩き回ります。その時、巡礼者は自分で行きやすい道を探しながら歩みますが、その歩みで神礼拝者の信仰を守ることは難しくなります。信仰の旅路を歩む私たちはけっして自分自身を信頼することはできません。巡礼者は自分を保証できないのです。そうすれば、巡礼者の信仰の旅路において、安全はどこにあるのでしょうか。それは主の守りにあるわけです。この事実を、詩人はよく知っています。それで詩人は自分の告白で、3節と4節にありますように、「3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」と語っています。
私たちの足も長い道を耐えられないものです。それによって、私たちは弱い足をもって危険なところを歩き回ります。私たちが自分で行きやすいところこそ、信仰を守ることは難しくなります。信仰の歩みは私たち自分自身を信頼することでできる道ではないからです。私たちは経験が多ければ多いほど、年を取れば取るほど、この問題に自分の足が引っかかって倒れます。私たちの信仰の歩みで、安全はどこにあるのですか。それはただ主が私たちを守ればできます。
詩人の心は自分が歩む巡礼の道、全体で徹底的に保護して下さることを確信しています。旅中の危険な過程を体表的に語るものとして、「足がすべらないように」とまとめています。また詩人は「いつも見守ってくださるように願う」詩的表現として、「まどろむことのない神」として告白します。私たちの信仰の歩みができるのは神が私たちの歩む道を守られるからです。神ご自分の御手で、私たちを捕らえ足が石ころにぶつからないようにしてくださるからです(詩91:12)。私たちの足がすべりだすと言う時、その瞬間、神の慈しみが私たちを捉えてくださるからです(詩94:18)。
神礼拝の旅路を歩む巡礼者が経験したもう一つの妨げは自分の「手」です。この妨げに関わる箇所は5節と6節のところです。それは「5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。」と記されています。5節と6節では巡礼の道で、詩人は神の覆う陰が巡礼者の保護であることを告白します。5節を、正確に翻訳して見ると、主が「あなたの右の手の上にあなたを覆う陰になる」という意味です。3節で言いましたように、先に巡礼者の足をとりあげているならば、ここでは巡礼者の手をとりあげているのです。私たちは大抵右の手ですべてのことをします。エルサレムの神殿に向かう巡礼者たちは山々を通りながら自分の右の手を信頼したことでしょう。右の手に杖を持ち、右の手で障害物を取り除き、右の手で獣と戦います。私たちにとって、右の手は自分の力を表します。私たちは私たちの力に対して信頼とプライドを持ちます。けれども私たちの力は自分の信仰の歩みにおいて、どのように助かるのでしょうか。それはあまり助かりません。
そしたら神礼拝のために神殿に向かっていく巡礼者の助けはどこからくるのでしょうか。詩人はどのようにしなければならないのかについて、その解決を知りました。神が「あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」神の影が私たちの弱く疲れた右の手を覆うのです。神が神礼拝者私たちの右の方であり、私たちを守って下さるお方です。ここで言う「右」は方向性ではなく、神の親密さを言うからです。私たちが主のそばにいることより、神が私たちのそばにいてくださるのです。それは私たちにとって信仰の力になります。神は単純に私たちのそばにおられるだけではなく、私たちを徹底的に守られる影になります。その神の影は神の慈しみの実現であり、私たちは神の影のもとで安全に歩むのです。
神礼拝の旅路を歩む巡礼者が経験した最後の妨げは自分の「心」、言い換えれば「魂」です。神礼拝者は自分の魂が神から離れたら礼拝ができないからです。それで巡礼者は7節と8節で、魂も神が守られないと、魂も神礼拝の歩みにおいて、妨げるものになると告白しています。それは、7節の「7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。という御言葉から分かります。7節と8節で詩人は神礼拝の旅路で夜も昼も、共にいる昼の太陽と夜の月のように、神礼拝ができるように、神は自分の魂さえお守り、魂の変わることがないように守りながら神殿まで導いてくださる神であることを告白しています。
私たちは神礼拝者として生きます。それで私たちの人生は神礼拝の道を歩み、神殿に上る巡礼者の歩みです。その歩みは自分なりに頑張って歩いても簡単な道ではありません。昼には昼の危険が、夜には夜の危険が訪れます。だから詩人はこのように歌います。「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。」この事実でエルサレムの神殿に向かって上る巡礼者に昼の太陽と夜の月は本当に大切なのです。昼の太陽と夜の月があるから、険しい山でも、つまずかず歩くことができるのです。昼の太陽と夜の月は旅をする巡礼者には案内者であり、同行者なのです。
しかし、その反対の状況もありえるのです、真昼に神殿に向う巡礼者が山を上る時、太陽が背中を照りつけると太陽の存在は苦しい物になるのです。巡礼の旅路で彼らが夜、山で夜を過ごす時、月は体に寒さを感じさせると月の存在は苦しい存在になります。時には私たちに自慢となった地位や立場が、むしろ信仰において損失をあたえることもあります。私たちを満足させ、楽しみを与えた物が時には信仰を揺るがすこともあります。私たちが何より信頼するものが、何より信頼できなくなります。
そうすると、私たちの信仰の旅路において、助けの源泉はどこにあるのでしょうか。それはいつも変わることのない神にあります。私たちを助ける神は私たちに害を与えられること、一つもありません。この世を生きる間、ただ神によって真面目に信仰の歩みを進むことができます。なぜならば、神は神の民の出で立つのも帰るのも主が守ってくださるからです。出で立つのも、帰るのも守るという言葉は人生の初めから終わりまで守って下さるという意味です。いつまで神は私たちを守られます。「今からとこしえまで」守って下さいます。ここで詩人は私たちの未来と関連して、私たちを守って下さる神であることを語っています。神が守って下さるのは「悪いもの、すなわちすべての悪のものから」守られます。
私たちが歩むべき、神礼拝の歩み、一年、一年というのは、本詩編の詩人が歩む旅路より、ある面において、もっと長く、その歩みはご自分で知らない歩みであり、その道に向かって旅立つことは恐れがあるかも知れません。しかし、神は私たちの神礼拝の歩み、信仰の歩みにおいて、いつも共にいて下さり、確かに導いてくださるお方です。神が共にいてくださるならば、私たちはどんな未来にあっても、どんな場所でも神礼拝の歩みができます。本詩編の神礼拝の巡礼者はそのことを確かに分かって、私たちにこのように励んで勧めました。「あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように」と語り伝えています。このように、私たちの神は私たちの信仰の歩みで、私たちの出で立つのも、帰るのも守って下さる神なのです。
神礼拝者、私たちの信仰の歩みの前に、険しい山が置かれていますか。信仰の道に上り坂があるのでしょうか。私たちの将来の歩みに深い谷間がおかれているかも知れません。「目をあげて、主なる神を仰ぎ、「私の助けはどこから来るのか」と気になっても、「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから」と確かに告白し、神に頼って生きましょう。神は私たちの出で立つのも、帰るのも見守ってくださるのです。
「あなたの出で立つのも、帰るのも主が見守ってくださるように」祈り願います。