聖書の言葉 ヨハネによる福音書 21章24節~25節 メッセージ 2024年6月9日熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書21章24節~25節「真実の証しの書、聖書」 20章30節~31節 1、あとがき ヨハネによる福音書のみ言葉をご一緒に聴き続けて来ましたが、今朝は、そのヨハネによる福音書の最後21章の、そのまた最後のところ、いわゆる「あとがき」のみ言葉に辿りつきました。実は、このヨハネによる福音書にはあとがきが二つあることは、少し前の説教で、すでにお話ししました。その第一のあとがきは、最初に合わせて読みましたこの前の章の最後にある20章30節と31節です。 おそらく、著者は、20章でこの書物をいったん終えるつもりであったのだと思います。それで20章の終わりにあとがきを書きました。ところがどのような事情かわからないのですけれども、21章を付け加えました。21章といいますのは、復活された主イエス様が、三度目に現われてくださったことを記していました。ガリラヤ湖で7人の弟子たちが漁をしているとき、復活の主イエス様が再び弟子たちに現れて下さいました。数えきれないほどの大漁が主イエス様によってもたらされました。そして一緒に焼いた魚を食べた、そのあと、主イエス様は、弟子の代表であるペトロに「あなたはわたしを愛するか」と問いかけて下さった、そのような出来事を付けくわえたのです。そのように21章を書き、24節25節にほんとうに最後となるあとがきを書いたというわけです。 今朝のみ言葉は、まさしくヨハネによる福音書のあとがきであります。まことに短いものですが、大切な部分であります。 2 今朝は、この二つのあとがきを合わせて読みたいと願っています。最初に、最後の21章の24節をお読みしましょう。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」 この24節は、「これまでのみ言葉をひとりの弟子が書いた」ということから始まります。そして、その弟子についての説明があります。その人は、主イエス様の再臨まで死ぬことがないと弟子たちの間で噂になった人だと言うのです。 「これらのこと」と呼ばれているのは、このヨハネによる福音書の全体に内容を示しています。著者は、福音書を書いたことは証しをしたことだ、真実の証しをしたのだと言っています。 このヨハネによる福音書の著者は、主イエス様の弟子であるヨハネであると思われています。20節に「イエスの愛しておられた弟子」、と書かれています。定冠詞、英語で言いますとザ、という言葉のついた、あの弟子という言葉です。これは著者ヨハネのニックネームです。 実は、この福音書の本文のどこを調べましても、書いた人が誰かを示す具体的なみ言葉はありません。しかし、相当古い時代から、新約聖書の四つ目に置かれている福音書、第四福音書には「ヨハネによる福音書」と言う但し書きがつけらえるようになりました。それは使徒の弟子の時代であります。わたしたちはその教会の伝承に従っているわけです。 ここで問題が生じます。この24節の後半です。そこには「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」とあります。ややこしいですね。著者がヨハネであるならば、「この証しは」あるいは「わたしの証しは」と言う意味を込めて「その人の証しは真実である」、こう書けばよいのです。そうではなく、「わたしたちは、知っている」と言う言葉を使います。 ヨハネは自分自身のことを第三者的に「イエスの愛しておられたあの弟子」「書いたのはあの弟子である」と呼びましたので、あえて「わたしたちはその証が真実であると知っている」と、ここでは自分を伏せて書き表したと思われます。自分のことをいうときにわざと複数形を使うのはどういうことでしょうか。それは自分を含めて、この福音書を書いた主体となった教会員たちを含めてそう呼んだということだと思うのです。 もちろん、これを別の意味に受け止めて、著者ヨハネとは別の「わたしたち」、つまり使徒ヨハネではない人々がここで姿を現わしたと読む読み方もあります。つまり、ヨハネのすぐ後の時代の教会の指導者たちが、このヨハネ先生の残した福音書を読んでいた、そしてそれによって養われておりました。彼らが次の世代の教会に確定版の福音書を伝えて行く時に、ヨハネ先生の原稿に付け加えたのだ、という説であります。わたくしとしては、そうではないのではと思っていますが、これは確たる証拠はありません。どちらも可能性があると思っています。 3、 「証し」というギリシャ語には「殉教」と言う意味があります。ヨハネをはじめ、12使徒たちが福音を伝え、教会を建て上げてゆきました時代は、彼らがユダヤ人から目を付けられ、迫害が始まりつつある時代であります。やがてローマ帝国からの迫害、圧迫がはっきりしてきます。殉教者のことを英語でマーテアーと言いますが、この「証し」というギリシャ語からきている言葉です。当時、「証しをする」ということ、つまり、このような福音書を書くこと、それを書き写し、あちらこちらに携えてゆくこと、また内容を解き明かすということは命がけでありました。それでも弟子たちは、それをしないわけにはゆかなかったのです。 伝説では、12使徒たちの多くは殉教しています。ヨハネについてはそうではなく彼は長生きしてファトモス島に流されてヨハネの黙示録を書き、そののち釈放されてエフェソで死んだと言われます。 彼らは、自分たちが主イエス様から受けた教え、主イエス様の救いの御業、そして何よりも主イエス様によって救われたという喜びを、後の時代に伝えなくてはならなかったのです。彼らが生きているうちであれば、いつでも直接話をする、証しをすることが出来ます。それは彼らが直接、師匠であります主イエス様からの命令でもありました。けれども、彼らは自分たちのいのちが危険にさらされていることを知っておりました。また殉教しなかったとしても、やがては地上から去らなければなりません。どうしても、その証しを文書として残さなければならなかったのです。そしてそれは神様ご自身の御心でありました。当時、旧約聖書のみ言葉は神の言葉として権威をもって読まれていました。使徒たちは主イエス様の言葉もまた神の言葉として後の教会に残されねばならないと考えたのです。 少し遅れて使徒の仲間になったパウロと言う初代教会の伝道者が、テモテへの手紙という文書を残しています。その二番目の手紙のテモテへの手紙2ですが、その、3章16節にこう書かれています。「聖書はすべて神の霊の導きの許に書かれ、人を教え、戒め、義に導き訓練をするのに有益です」 新改訳ですと「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と訳されます。後の教会は、使徒たちの残したたくさんの文書、書物の中から、神に導かれるようにして四つの福音書と使徒言行録、多くの手紙、黙示録、つまり新約聖書27巻を旧約聖書と同じ、神の霊感によるもの、教会の教えの基準となる文書、言い換えますと「聖書」と定めてゆくようになります。 4、 20章のほうの第一のあとがきの後半である31節を読みします。 「これらのことが書かれたのは、あなた方がイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 これらのことと言いますのは、ここでもヨハネによる福音書の31節までのすべての言葉です。 もちろん、そのあとの21章も含まれるでしょう。それだけでなく、これは使徒たちがどんな思いで証しをし、自分たちの言葉を教会に伝え残したのかをはっきりと示しています。つまり、ヨハネによる福音書だけでなく聖書全体の目的がここにあるのです。 古今東西、いろいろな人が聖書について解説を書き、あるいは聖書をどう読むのか、つまり「聖書の読み方」について本を残しています。 けれども、聖書自身がはっきりと示していることは、聖書は、これを読む人に主イエスキリストへの信仰を与えることを目的としているということです。これは、実は旧約聖書も同じなのです。旧約聖書はやがて来るべき救い主を指し示し、新約聖書はすでにおいでになった、そして再びおいでになる救い主イエスキリストを指し示すのです。 31節に、「あなた方がイエスは神の子であると信じるため」ではなく、「神の子、メシアであると信じるため」と書かれていることに注目したいと思います。メシア、それはヘブライ語であり、直接には、「油注がれたもの」という意味です。神が立ててくださる救い主のことです。それは旧約聖書の中心となっているメッセージなのです。そして新約聖書は、このお方メシアがおいでになった、神の子が来られたことを証しするのです。メシアのギリシャ語訳はキリストです。イエス様はメシアである、イエス様はキリストである、これがわたしたちに命を与えてくださる新約聖書の証しなのです。 読む人を主イエス様への信仰へと導き、そして主イエスご自身によって命を与える、それが聖書です。だからこそ、聖書は神の言葉であります。なぜなら神は愛であり、神様は、わたしたちの中の誰も滅びることも望んでおられないからです。神様は、わたしたちが聖書を通して、御言葉を通して主イエス様の救いをいただき、罪から命へ、滅びから命へと立ち返ることを求めておられるからです。また聖書によって魂を養われ続けることを願っておられます。 聖書は世界のベストセラーと言われ、それはこの日本においても変わりません。けれども残念ながら、聖書を読むすべて人が、自動的に信仰をいただくということではありません。そうではなく、そこにふさわしい時にはたらいてくださる神の霊の働き、聖霊の神の恵みが必要です。その聖霊様がお働きなり主イエス様を信じ受け入れるようになるためには、聖書が必要です。わたしたちの信仰のために神の恵みの言葉、命の言葉が必要なのです。人は、聖書を読み、そこに証されている主イエス様を信じることによって救いを受けるのです。主イエス様についての証しの言葉が神の霊によって書かれました。その聖書の文言を通して、その同じ神の霊が読む人の心に働かれるのです。 主イエス様を信じる、神様を信じるといっても自分勝手に、あるときには偶像の神の代わりのように、聖書に記されているのとは全く違う主イエス様を信じても命を得ることはできません。そうではなくて、御言葉に示されているイエス・キリストがわたしたちを救ってくださるイエス・キリストなのであります。 ある人が、聖書は神の愛の手紙であると言いました。そうしますと、これを解き明かす説教もまた神の愛の手紙として語らねばならないということになります。神の愛の手紙として聞かれねばならないのです。 わたしたちは、聖書の目的を知って聖書を読むべきです。例えば、聖書の物語は、何かお伽話のようで非科学的だという方がおられます。天地創造が七日間で成し遂げられることは科学的に可能なのか、不可能ではないかと言うのです。そのために創世記一章に記される一日というのは、本当に24時間なのかどうかという議論もあります。わたしたちは、そのような議論よりも、何のためにこのことが記されているかを問うべきでしょう。この世界には神様がおつくりになっていないものは何一つない、すべてが神様の御業によってなっていることが大切なのです。神は世界を、そして人を素晴らしいもの、祝福されたものとしておつくりになったのです。しかし、そこに罪が入り込んだ、人が神になろうとして罪を犯したのです。この罪を解決される方がメシア、キリストなのです。聖書の目的は、わたしたちに生物学や天文学の知識を与えることではなく、わたしたちのために命をくださったお方を知らせることなのです。旧約聖書の創世記もまた主イエス様との関係で読まれなければなりません。 5、 21章の最後、これはヨハネによる福音書の最後でもありますが、このように書かれています。「イエスのなさったことは、このほかにもまだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」 国立国会図書館には日本国内で出版されたあらゆる書物が納められているそうです。東京本館6階建て、新館は地上4階地下9階、1000万冊以上の本が収容でき、関西館には600万冊の本や資料、雑誌があるということです。それでも国内で出された本のすべてがよく収まったなあと思います。ヨハネが言いますのは、主イエスのことの全部を書いたらその本は世界も収めきれないというのですから、大変なことです。 わたくしには、これは単なる例えであるとか、あるいはヨハネは大げさだということが出来ないのです。主イエス様のなされたこと、それは、最後の十字架、復活のこと、あるいは再臨の約束などが中心であるとしても、実際には、数えられないような沢山のことがあるという意味ではありません。そうではなくて、主イエス様の愛の大きさのことを言っていると思うのです。神の子イエスの御業は神ご自身の御業です。神の愛に裏付けられた神の御業は、有限なこの世界を越えたものだと言わざるを得ません。 聖書には、わたしたちの救いのために必要なすべてのことが書かれています。しかし、神様のすべてを地上のものに入れることはできないのです。神様は、聖書を通してわたしたちを救ってくださいます。しかし、わたしたちは神でなく、必要なものをただ神様から、主イエス様から、聖霊様から受けます。神様の愛は計り知れないほど大きいのです。そして聖書は、主イエス様が神様の愛の結晶であり、愛そのものであることを示します。聖書を読みましょう。主イエスを神の子メシアと信じ命を受けるために。祈りを致します。 天の父なる神さま、御名を讃美します。ヨハネによる福音書を読み終えて感謝いたします。聖書はわたしについて証しをすると主イエス様は言われました。どうか一人でも多くの方が、イエス・キリストを救い主として知り、受け入れることが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2024年6月9日熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書21章24節~25節「真実の証しの書、聖書」
20章30節~31節
1、あとがき
ヨハネによる福音書のみ言葉をご一緒に聴き続けて来ましたが、今朝は、そのヨハネによる福音書の最後21章の、そのまた最後のところ、いわゆる「あとがき」のみ言葉に辿りつきました。実は、このヨハネによる福音書にはあとがきが二つあることは、少し前の説教で、すでにお話ししました。その第一のあとがきは、最初に合わせて読みましたこの前の章の最後にある20章30節と31節です。
おそらく、著者は、20章でこの書物をいったん終えるつもりであったのだと思います。それで20章の終わりにあとがきを書きました。ところがどのような事情かわからないのですけれども、21章を付け加えました。21章といいますのは、復活された主イエス様が、三度目に現われてくださったことを記していました。ガリラヤ湖で7人の弟子たちが漁をしているとき、復活の主イエス様が再び弟子たちに現れて下さいました。数えきれないほどの大漁が主イエス様によってもたらされました。そして一緒に焼いた魚を食べた、そのあと、主イエス様は、弟子の代表であるペトロに「あなたはわたしを愛するか」と問いかけて下さった、そのような出来事を付けくわえたのです。そのように21章を書き、24節25節にほんとうに最後となるあとがきを書いたというわけです。
今朝のみ言葉は、まさしくヨハネによる福音書のあとがきであります。まことに短いものですが、大切な部分であります。
2
今朝は、この二つのあとがきを合わせて読みたいと願っています。最初に、最後の21章の24節をお読みしましょう。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」
この24節は、「これまでのみ言葉をひとりの弟子が書いた」ということから始まります。そして、その弟子についての説明があります。その人は、主イエス様の再臨まで死ぬことがないと弟子たちの間で噂になった人だと言うのです。
「これらのこと」と呼ばれているのは、このヨハネによる福音書の全体に内容を示しています。著者は、福音書を書いたことは証しをしたことだ、真実の証しをしたのだと言っています。
このヨハネによる福音書の著者は、主イエス様の弟子であるヨハネであると思われています。20節に「イエスの愛しておられた弟子」、と書かれています。定冠詞、英語で言いますとザ、という言葉のついた、あの弟子という言葉です。これは著者ヨハネのニックネームです。
実は、この福音書の本文のどこを調べましても、書いた人が誰かを示す具体的なみ言葉はありません。しかし、相当古い時代から、新約聖書の四つ目に置かれている福音書、第四福音書には「ヨハネによる福音書」と言う但し書きがつけらえるようになりました。それは使徒の弟子の時代であります。わたしたちはその教会の伝承に従っているわけです。
ここで問題が生じます。この24節の後半です。そこには「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」とあります。ややこしいですね。著者がヨハネであるならば、「この証しは」あるいは「わたしの証しは」と言う意味を込めて「その人の証しは真実である」、こう書けばよいのです。そうではなく、「わたしたちは、知っている」と言う言葉を使います。
ヨハネは自分自身のことを第三者的に「イエスの愛しておられたあの弟子」「書いたのはあの弟子である」と呼びましたので、あえて「わたしたちはその証が真実であると知っている」と、ここでは自分を伏せて書き表したと思われます。自分のことをいうときにわざと複数形を使うのはどういうことでしょうか。それは自分を含めて、この福音書を書いた主体となった教会員たちを含めてそう呼んだということだと思うのです。
もちろん、これを別の意味に受け止めて、著者ヨハネとは別の「わたしたち」、つまり使徒ヨハネではない人々がここで姿を現わしたと読む読み方もあります。つまり、ヨハネのすぐ後の時代の教会の指導者たちが、このヨハネ先生の残した福音書を読んでいた、そしてそれによって養われておりました。彼らが次の世代の教会に確定版の福音書を伝えて行く時に、ヨハネ先生の原稿に付け加えたのだ、という説であります。わたくしとしては、そうではないのではと思っていますが、これは確たる証拠はありません。どちらも可能性があると思っています。
3、
「証し」というギリシャ語には「殉教」と言う意味があります。ヨハネをはじめ、12使徒たちが福音を伝え、教会を建て上げてゆきました時代は、彼らがユダヤ人から目を付けられ、迫害が始まりつつある時代であります。やがてローマ帝国からの迫害、圧迫がはっきりしてきます。殉教者のことを英語でマーテアーと言いますが、この「証し」というギリシャ語からきている言葉です。当時、「証しをする」ということ、つまり、このような福音書を書くこと、それを書き写し、あちらこちらに携えてゆくこと、また内容を解き明かすということは命がけでありました。それでも弟子たちは、それをしないわけにはゆかなかったのです。
伝説では、12使徒たちの多くは殉教しています。ヨハネについてはそうではなく彼は長生きしてファトモス島に流されてヨハネの黙示録を書き、そののち釈放されてエフェソで死んだと言われます。
彼らは、自分たちが主イエス様から受けた教え、主イエス様の救いの御業、そして何よりも主イエス様によって救われたという喜びを、後の時代に伝えなくてはならなかったのです。彼らが生きているうちであれば、いつでも直接話をする、証しをすることが出来ます。それは彼らが直接、師匠であります主イエス様からの命令でもありました。けれども、彼らは自分たちのいのちが危険にさらされていることを知っておりました。また殉教しなかったとしても、やがては地上から去らなければなりません。どうしても、その証しを文書として残さなければならなかったのです。そしてそれは神様ご自身の御心でありました。当時、旧約聖書のみ言葉は神の言葉として権威をもって読まれていました。使徒たちは主イエス様の言葉もまた神の言葉として後の教会に残されねばならないと考えたのです。
少し遅れて使徒の仲間になったパウロと言う初代教会の伝道者が、テモテへの手紙という文書を残しています。その二番目の手紙のテモテへの手紙2ですが、その、3章16節にこう書かれています。「聖書はすべて神の霊の導きの許に書かれ、人を教え、戒め、義に導き訓練をするのに有益です」
新改訳ですと「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と訳されます。後の教会は、使徒たちの残したたくさんの文書、書物の中から、神に導かれるようにして四つの福音書と使徒言行録、多くの手紙、黙示録、つまり新約聖書27巻を旧約聖書と同じ、神の霊感によるもの、教会の教えの基準となる文書、言い換えますと「聖書」と定めてゆくようになります。
4、
20章のほうの第一のあとがきの後半である31節を読みします。
「これらのことが書かれたのは、あなた方がイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
これらのことと言いますのは、ここでもヨハネによる福音書の31節までのすべての言葉です。
もちろん、そのあとの21章も含まれるでしょう。それだけでなく、これは使徒たちがどんな思いで証しをし、自分たちの言葉を教会に伝え残したのかをはっきりと示しています。つまり、ヨハネによる福音書だけでなく聖書全体の目的がここにあるのです。
古今東西、いろいろな人が聖書について解説を書き、あるいは聖書をどう読むのか、つまり「聖書の読み方」について本を残しています。
けれども、聖書自身がはっきりと示していることは、聖書は、これを読む人に主イエスキリストへの信仰を与えることを目的としているということです。これは、実は旧約聖書も同じなのです。旧約聖書はやがて来るべき救い主を指し示し、新約聖書はすでにおいでになった、そして再びおいでになる救い主イエスキリストを指し示すのです。
31節に、「あなた方がイエスは神の子であると信じるため」ではなく、「神の子、メシアであると信じるため」と書かれていることに注目したいと思います。メシア、それはヘブライ語であり、直接には、「油注がれたもの」という意味です。神が立ててくださる救い主のことです。それは旧約聖書の中心となっているメッセージなのです。そして新約聖書は、このお方メシアがおいでになった、神の子が来られたことを証しするのです。メシアのギリシャ語訳はキリストです。イエス様はメシアである、イエス様はキリストである、これがわたしたちに命を与えてくださる新約聖書の証しなのです。
読む人を主イエス様への信仰へと導き、そして主イエスご自身によって命を与える、それが聖書です。だからこそ、聖書は神の言葉であります。なぜなら神は愛であり、神様は、わたしたちの中の誰も滅びることも望んでおられないからです。神様は、わたしたちが聖書を通して、御言葉を通して主イエス様の救いをいただき、罪から命へ、滅びから命へと立ち返ることを求めておられるからです。また聖書によって魂を養われ続けることを願っておられます。
聖書は世界のベストセラーと言われ、それはこの日本においても変わりません。けれども残念ながら、聖書を読むすべて人が、自動的に信仰をいただくということではありません。そうではなく、そこにふさわしい時にはたらいてくださる神の霊の働き、聖霊の神の恵みが必要です。その聖霊様がお働きなり主イエス様を信じ受け入れるようになるためには、聖書が必要です。わたしたちの信仰のために神の恵みの言葉、命の言葉が必要なのです。人は、聖書を読み、そこに証されている主イエス様を信じることによって救いを受けるのです。主イエス様についての証しの言葉が神の霊によって書かれました。その聖書の文言を通して、その同じ神の霊が読む人の心に働かれるのです。
主イエス様を信じる、神様を信じるといっても自分勝手に、あるときには偶像の神の代わりのように、聖書に記されているのとは全く違う主イエス様を信じても命を得ることはできません。そうではなくて、御言葉に示されているイエス・キリストがわたしたちを救ってくださるイエス・キリストなのであります。
ある人が、聖書は神の愛の手紙であると言いました。そうしますと、これを解き明かす説教もまた神の愛の手紙として語らねばならないということになります。神の愛の手紙として聞かれねばならないのです。
わたしたちは、聖書の目的を知って聖書を読むべきです。例えば、聖書の物語は、何かお伽話のようで非科学的だという方がおられます。天地創造が七日間で成し遂げられることは科学的に可能なのか、不可能ではないかと言うのです。そのために創世記一章に記される一日というのは、本当に24時間なのかどうかという議論もあります。わたしたちは、そのような議論よりも、何のためにこのことが記されているかを問うべきでしょう。この世界には神様がおつくりになっていないものは何一つない、すべてが神様の御業によってなっていることが大切なのです。神は世界を、そして人を素晴らしいもの、祝福されたものとしておつくりになったのです。しかし、そこに罪が入り込んだ、人が神になろうとして罪を犯したのです。この罪を解決される方がメシア、キリストなのです。聖書の目的は、わたしたちに生物学や天文学の知識を与えることではなく、わたしたちのために命をくださったお方を知らせることなのです。旧約聖書の創世記もまた主イエス様との関係で読まれなければなりません。
5、
21章の最後、これはヨハネによる福音書の最後でもありますが、このように書かれています。「イエスのなさったことは、このほかにもまだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」
国立国会図書館には日本国内で出版されたあらゆる書物が納められているそうです。東京本館6階建て、新館は地上4階地下9階、1000万冊以上の本が収容でき、関西館には600万冊の本や資料、雑誌があるということです。それでも国内で出された本のすべてがよく収まったなあと思います。ヨハネが言いますのは、主イエスのことの全部を書いたらその本は世界も収めきれないというのですから、大変なことです。
わたくしには、これは単なる例えであるとか、あるいはヨハネは大げさだということが出来ないのです。主イエス様のなされたこと、それは、最後の十字架、復活のこと、あるいは再臨の約束などが中心であるとしても、実際には、数えられないような沢山のことがあるという意味ではありません。そうではなくて、主イエス様の愛の大きさのことを言っていると思うのです。神の子イエスの御業は神ご自身の御業です。神の愛に裏付けられた神の御業は、有限なこの世界を越えたものだと言わざるを得ません。
聖書には、わたしたちの救いのために必要なすべてのことが書かれています。しかし、神様のすべてを地上のものに入れることはできないのです。神様は、聖書を通してわたしたちを救ってくださいます。しかし、わたしたちは神でなく、必要なものをただ神様から、主イエス様から、聖霊様から受けます。神様の愛は計り知れないほど大きいのです。そして聖書は、主イエス様が神様の愛の結晶であり、愛そのものであることを示します。聖書を読みましょう。主イエスを神の子メシアと信じ命を受けるために。祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を讃美します。ヨハネによる福音書を読み終えて感謝いたします。聖書はわたしについて証しをすると主イエス様は言われました。どうか一人でも多くの方が、イエス・キリストを救い主として知り、受け入れることが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。