聖書の言葉 ヨハネによる福音書 21章20節~23節 メッセージ 熊本伝道所朝拝説教2024年6月2日(日) ヨハネによる福音書21章20節~23節「あなたに何の関係が?」 1、 主イエス・キリストのめぐみと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。 わたくしがこの熊本教会に赴任してから続けて読み進めてきましたヨハネによる福音書もいよいよ最後に近づきました。今朝は、21章の20節から23節のみ言葉をご一緒に学びたいと思います。 ヨハネによる福音書の次にあるのは使徒言行録という書物です。その最初のところ、1章3節ですけれども、復活された主イエス様は、40日間にわたって使徒たちにご自身を示されたと書かれています。そして40日が過ぎた時に、弟子たちの見ている前で天に上げられたのであります。 4つの福音書と使徒言行録が記録しているのは、主イエス様は、その40日の間を通し、ずうっと弟子たちと共に時間を過ごしたということではないということです。そうではなく断続的に、いろいろな仕方で姿を現わしてくださいました。今朝のみ言葉では、その中のいつ頃のことなのか記されていませんけれども、主イエス様が、多くの弟子たちの故郷でありますガリラヤで、その復活のお姿を現してくださった時のことです。ヨハネによる福音書は、これは三度目の顕現、主イエス様が弟子たちに三回目に姿を現わしてくださった時のことであったと記しています。お読みしました20節から23節は、その最後の場面となります。 大漁の魚を前にして主イエス様は弟子たちと食事をなさいました。この食事の後で、主イエス様はシモン・ペトロに向かって居住まいを正すようにして向き合われまして、三度問いかけました。「あなたは、わたしを愛するか」。そしてペトロが主イエス様に向かって「はい、愛します」と三度答えることを赦してくださいました。言うまでもなく、これはあの十字架のとき、ペトロが、鶏が鳴く前に三度主イエス様との関係を否定した、その裏切りに対する赦しを示します。また12弟子のリーダー、頭としてのペトロの再任命を表しております。そして、ペトロが最後まで主イエスに従うこと、また殉教の死さえも遂げることを予告なさいました。そして最後にこう言われました。「わたしに従いなさい」 今朝の場面は、その食事の席が終わって、一同がどこかへ向かって進んで行く、そのような時のことだと思われます。 主イエス様のすぐ後ろに従ってゆくのは、群れのリーダーとして改めて任命されたシモン・ペトロであります。そのあとにほかの弟子たちも続いています。20節にこう記されています。 「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えた」 2, 主イエス様の背中を見つめながら従うペトロですが、ふと後ろを見た、振り返ったのです。そして一人の弟子の姿が視界に入りました。 わたしたちは、主イエス様に従って、毎日の歩みをしてまいりますが、主イエス様の背中だけを見ているだけではありません。神様との正しい関係に生きることは、隣人との正しい関係に生きることでもあります。ましてや、主イエス様から選ばれ、信仰をいただき、主イエス様の道を歩むわたしたちは、お互いのことを気にかけなければならないのだと思います。 群れのリーダーとして立てられたペトロは、主イエス様から「わたしの羊を飼いなさい、羊たちの世話をしなさい」と命じられました。そして主イエス様を信じるわたしたちは、「互いに愛し合いなさい」とも命じられています。そういう意味でリーダーのペトロは率先して、他の仲間のことを気にかけなければなりません。 山登りや少人数の旅行に行ったことがあるでしょうか。五人、十人でアチらこちら歩いているときには、わたしたちは、メンバーの全員をいつも見ていたりメンバーの全員と話をしたりしているわけではありません。近くにいる二、三人で話をしていることが多いと思います。教会でも礼拝後に全員と親しく話をしているわけではない、話しかけてくれた人や、たまたま近くにいた人と話している時間がほとんどだと思います。 互いに愛し合いなさい、仕え合いなさいと命じられている主イエス様に従う兄弟姉妹の交わりとは、どのようなものなのでしょうか。主イエス様はどのような交わりを望んでおられるのでしょうか。 ペトロが、このとき振りかえって見たのは、「イエスの愛しておられた弟子」でありました。そして、その人は「あの夕食のとき、イエスの胸元によりかかったまま「主よ、裏切るのは誰ですか」といった人だと書かれています。 もちろん、主イエス様はどの弟子もふさわしく愛してくださるのですが、ヨハネによる福音書では、このような「主が愛された弟子」というニックネームで呼ばれている弟子がおります。それは、この福音書の著者でもあるゼベダイの子ヨハネであります。 あの夕食のときとは、いうまでもなく弟子たち皆が忘れることのできない最後の晩餐のことです。ヨハネによる福音書13章、主イエス様が弟子たち全員の足を洗って下さり、あなたがたも互いに足を洗い合う、すなわち僕として仕え合う、助け合いなさいと手本を示された晩です。 食事の席で、主イエス様は、「あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている」と弟子たちに語られました。その上で、イスカリオテのユダに向かって「しようとしていることを今スグしなさい」と言われたのです。 このとき、シモン・ペトロは、主イエス様のすぐ隣にいたイエスの愛しておられた弟子、つまりヨハネに「だれが裏切るのか尋ねるように」と合図しています。 それほどにヨハネとペトロは特別に親しい間柄です。またこの二人こそ、ヨハネの兄弟ヤコブを加えまして「三羽ガラス」とも伝えられる主イエス様の最側近です。 ヨハネを振り返って見ながらペトロは問いかけました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」 自分は、主イエス様から、ありがたい三度の愛の問いかけをいただき、裏切りの罪を深いところから赦していただいた、また主イエス様は、ペトロに、あなたは最後まで主イエス様に従い、ついには殉教の道を歩むだろうとも予告してくださったのです。ペトロは、このとき何か誇らしい想い、あるいは幸せな想い、になっていたのではないでしょうか。 ペトロが主イエスさまに従いながら、ふと振り返ってヨハネを見たときに、湧き上がってきた思いといいますのは、この兄弟弟子を愛するまなざしや思いではなかったように感じられます。むしろ、ライバル意識のようなものではなかったかと思います。ペトロは、「この人は、つまりヨハネは、どうなるのか」とこのとき主イエス様に問わずにはいられなかったのです。そしてそれは少なくとも、主イエス様から求められ、勧められている、主イエス様が喜んでくださるような思いからの問いかけではなかったことは間違いありません。 カルヴァンと言う宗教改革の指導者がいます。このカルヴァンは、この時のペトロの心にあったのは、好奇心ではないかと解説しています。 好奇心と言う言葉は、良い意味でも使いますが、他の人の生涯、人生に対してこの言葉を使うときには、たいていは、良くない意味です。あの人はどうなるのだろう、この人はどうなるのだろうか、たいていは、自尊心や劣等感と結びついている問いであることが多いのです。自分の境遇を他の人との比較によって値踏みするかのような動機が潜んでいるのです。そこから出てくるのは、神様のお取り扱いの正しさ、あるいは十分さに対する疑問や不信感です。これは深いところで人間の持っている根本的な罪、不信仰と結びついているのです。 3、 主イエス様はこのようなペトロの問いにお答えになりました。「わたしの来るときまで彼が生きていることをわたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたはわたしに従いなさい」 「わたしの来るとき」とは、主イエス様の再臨の時です。世の終わり、全てのものが完成し、天地が救われ、神様の御心が完全に実現するときです。たとえそのときまで、あなたが心にかけている弟子ヨハネが生きていることをわたしが今望んでいるとしても、あなたには関係ないと言われたのです。 後に弟子たちの間には、ヨハネは主の再臨まで決して死なないといううわさが広まったと23節に記されています。しかし、それは違うとも続けて記されています。 世の終わりの救いの完成の時を生きて迎えることは、主イエス様の弟子であるなら、皆がのぞむことでしょう。たとえ、そのような素晴らしいことがヨハネに起こるとしても、あなたには関係ないと、主イエスさまはピシャリとおっしゃったのです。そして言われました。「あなたはわたしに従いなさい」 わたしたちは、周りのことが気になります。そしてすぐに他の人と自分を比べて見ます。自分の置かれている境遇、環境はなんだか不公平ではないのか。神様はわたしのことを、誰それよりも、愛しておられないのではないか。それに比べて、あの人はどうしていつもうまくゆくのか。そういった思いに心が向けば向くほど、神様との関係が薄くなってしまい、自分のことが中心になってしまうのです。だから、主イエス様ははっきりと言われるのです。「ほかの人のことはどうでも好い」「あなたは、わたしに従いなさい」 わたしたちは、まず何よりも主イエス様に従わなければなりません。そうでなければ隣人や兄弟姉妹たちとの正しい関係を作ることが出来ないからです。主イエス様は、わたしたちは隣人との関係を神様との関係よりも先に考えなくともよいと言ってくださいます。誰もが、まず主イエス様に従わなければならないのです。その上で、わたしたちが兄弟姉妹との関係、隣人との関係を作って行くなら、それは神、人、自分の正しい三角形を作って行くことになります。神様との、主イエスさまとの関係、天におられるお方との垂直な関係が大切なのです。そして正しい、健全な、安定した神と人の三角形の関係に生きるのです。 4、 ある説教者が、主イエス様が、あの人、この人のことは、あなたとは関係がないとはっきりとおっしゃったことに、大きな恵みを覚えると言いました。わたしたちは、あの人のこと、この人のことにいつも気を取られます。そしてときには嫉妬し、あるいは自分の愛の乏しさに心を痛めるからだというのです。他の人と自分を比較して、自分が貧しくても、あるいは豊かであっても、自分を責めてしまうからだというのです。 主イエス様は、わたしのことを気にかけ、愛して下さっているのと同じように、あの人のことも、この人のこともすべてご存じであり、ふさわしい仕方で愛してくださいます。 主イエス様は、ペトロにとって親しい友であり、また最も嫉妬心を感じるような存在のヨハネについて「この人はどうなるのですか」と問うたペトロの質問には答えられません。それよりもまず「あなたはわたしに従いなさい」といわれました。たとえ、その人の境遇がどれほど素晴らしいものであったとしても、あなたには関係がないと断言されました。 主イエス様は、すべてを知っておられます。わたしたちよりもはるかに広い心で、人それぞれに、賜物を与え、恵みをくださるからです。 ペトロは、弟子のリーダーとなり、ペトロの手紙1、とペトロの手紙2の二つの聖書を後の世に残しました。さらに、古代カトリック教会では、初代のローマ教皇として働き、バチカンの聖ペトロ教会、セントポール大聖堂にその名を残しました。またヨハネは、ヨハネによる福音書と三つのヨハネの手紙、そしてヨハネの黙示録を残しています。 ペトロとヨハネは、初代教会において使徒パウロと共に、大きな役割を果たしました。それぞれに違った賜物、違った境遇で信仰の歩みを貫くことが出来ました。わたしたちもまた、それぞれに違った存在です。しかし、主イエス様は、わたしたちのすべてをそのままでご存じであります。ふさわしい導きをくださいます。わたしたちは、周りの人との比較ではなく、何よりも主イエス様との関係を第一にしたいと思います。周りのことが気になるとき、主イエス様のみ言葉を心に響かせましょう。「あなたはわたしに従いなさい」 祈ります。 わたしたちの愛する主イエス・キリストの父なる神さま、御名を崇めます。わたしたちは絶えず周りの人々と自分自身を比較し、優越感や劣等感、また嫉妬や羨みを抱き、絶えず神様に疑問を投げかけたりするような愚かなものです。絶えず悔い改めてあなたに従って行くことが出来ますように、そして本当の意味で、互いを尊重し合い、愛し合い、助け合って、主に従って行くことが出来ますよう導いてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
熊本伝道所朝拝説教2024年6月2日(日)
ヨハネによる福音書21章20節~23節「あなたに何の関係が?」
1、
主イエス・キリストのめぐみと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。
わたくしがこの熊本教会に赴任してから続けて読み進めてきましたヨハネによる福音書もいよいよ最後に近づきました。今朝は、21章の20節から23節のみ言葉をご一緒に学びたいと思います。
ヨハネによる福音書の次にあるのは使徒言行録という書物です。その最初のところ、1章3節ですけれども、復活された主イエス様は、40日間にわたって使徒たちにご自身を示されたと書かれています。そして40日が過ぎた時に、弟子たちの見ている前で天に上げられたのであります。
4つの福音書と使徒言行録が記録しているのは、主イエス様は、その40日の間を通し、ずうっと弟子たちと共に時間を過ごしたということではないということです。そうではなく断続的に、いろいろな仕方で姿を現わしてくださいました。今朝のみ言葉では、その中のいつ頃のことなのか記されていませんけれども、主イエス様が、多くの弟子たちの故郷でありますガリラヤで、その復活のお姿を現してくださった時のことです。ヨハネによる福音書は、これは三度目の顕現、主イエス様が弟子たちに三回目に姿を現わしてくださった時のことであったと記しています。お読みしました20節から23節は、その最後の場面となります。
大漁の魚を前にして主イエス様は弟子たちと食事をなさいました。この食事の後で、主イエス様はシモン・ペトロに向かって居住まいを正すようにして向き合われまして、三度問いかけました。「あなたは、わたしを愛するか」。そしてペトロが主イエス様に向かって「はい、愛します」と三度答えることを赦してくださいました。言うまでもなく、これはあの十字架のとき、ペトロが、鶏が鳴く前に三度主イエス様との関係を否定した、その裏切りに対する赦しを示します。また12弟子のリーダー、頭としてのペトロの再任命を表しております。そして、ペトロが最後まで主イエスに従うこと、また殉教の死さえも遂げることを予告なさいました。そして最後にこう言われました。「わたしに従いなさい」
今朝の場面は、その食事の席が終わって、一同がどこかへ向かって進んで行く、そのような時のことだと思われます。
主イエス様のすぐ後ろに従ってゆくのは、群れのリーダーとして改めて任命されたシモン・ペトロであります。そのあとにほかの弟子たちも続いています。20節にこう記されています。
「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えた」
2,
主イエス様の背中を見つめながら従うペトロですが、ふと後ろを見た、振り返ったのです。そして一人の弟子の姿が視界に入りました。
わたしたちは、主イエス様に従って、毎日の歩みをしてまいりますが、主イエス様の背中だけを見ているだけではありません。神様との正しい関係に生きることは、隣人との正しい関係に生きることでもあります。ましてや、主イエス様から選ばれ、信仰をいただき、主イエス様の道を歩むわたしたちは、お互いのことを気にかけなければならないのだと思います。
群れのリーダーとして立てられたペトロは、主イエス様から「わたしの羊を飼いなさい、羊たちの世話をしなさい」と命じられました。そして主イエス様を信じるわたしたちは、「互いに愛し合いなさい」とも命じられています。そういう意味でリーダーのペトロは率先して、他の仲間のことを気にかけなければなりません。
山登りや少人数の旅行に行ったことがあるでしょうか。五人、十人でアチらこちら歩いているときには、わたしたちは、メンバーの全員をいつも見ていたりメンバーの全員と話をしたりしているわけではありません。近くにいる二、三人で話をしていることが多いと思います。教会でも礼拝後に全員と親しく話をしているわけではない、話しかけてくれた人や、たまたま近くにいた人と話している時間がほとんどだと思います。
互いに愛し合いなさい、仕え合いなさいと命じられている主イエス様に従う兄弟姉妹の交わりとは、どのようなものなのでしょうか。主イエス様はどのような交わりを望んでおられるのでしょうか。
ペトロが、このとき振りかえって見たのは、「イエスの愛しておられた弟子」でありました。そして、その人は「あの夕食のとき、イエスの胸元によりかかったまま「主よ、裏切るのは誰ですか」といった人だと書かれています。
もちろん、主イエス様はどの弟子もふさわしく愛してくださるのですが、ヨハネによる福音書では、このような「主が愛された弟子」というニックネームで呼ばれている弟子がおります。それは、この福音書の著者でもあるゼベダイの子ヨハネであります。
あの夕食のときとは、いうまでもなく弟子たち皆が忘れることのできない最後の晩餐のことです。ヨハネによる福音書13章、主イエス様が弟子たち全員の足を洗って下さり、あなたがたも互いに足を洗い合う、すなわち僕として仕え合う、助け合いなさいと手本を示された晩です。
食事の席で、主イエス様は、「あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている」と弟子たちに語られました。その上で、イスカリオテのユダに向かって「しようとしていることを今スグしなさい」と言われたのです。
このとき、シモン・ペトロは、主イエス様のすぐ隣にいたイエスの愛しておられた弟子、つまりヨハネに「だれが裏切るのか尋ねるように」と合図しています。
それほどにヨハネとペトロは特別に親しい間柄です。またこの二人こそ、ヨハネの兄弟ヤコブを加えまして「三羽ガラス」とも伝えられる主イエス様の最側近です。
ヨハネを振り返って見ながらペトロは問いかけました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」
自分は、主イエス様から、ありがたい三度の愛の問いかけをいただき、裏切りの罪を深いところから赦していただいた、また主イエス様は、ペトロに、あなたは最後まで主イエス様に従い、ついには殉教の道を歩むだろうとも予告してくださったのです。ペトロは、このとき何か誇らしい想い、あるいは幸せな想い、になっていたのではないでしょうか。
ペトロが主イエスさまに従いながら、ふと振り返ってヨハネを見たときに、湧き上がってきた思いといいますのは、この兄弟弟子を愛するまなざしや思いではなかったように感じられます。むしろ、ライバル意識のようなものではなかったかと思います。ペトロは、「この人は、つまりヨハネは、どうなるのか」とこのとき主イエス様に問わずにはいられなかったのです。そしてそれは少なくとも、主イエス様から求められ、勧められている、主イエス様が喜んでくださるような思いからの問いかけではなかったことは間違いありません。
カルヴァンと言う宗教改革の指導者がいます。このカルヴァンは、この時のペトロの心にあったのは、好奇心ではないかと解説しています。
好奇心と言う言葉は、良い意味でも使いますが、他の人の生涯、人生に対してこの言葉を使うときには、たいていは、良くない意味です。あの人はどうなるのだろう、この人はどうなるのだろうか、たいていは、自尊心や劣等感と結びついている問いであることが多いのです。自分の境遇を他の人との比較によって値踏みするかのような動機が潜んでいるのです。そこから出てくるのは、神様のお取り扱いの正しさ、あるいは十分さに対する疑問や不信感です。これは深いところで人間の持っている根本的な罪、不信仰と結びついているのです。
3、
主イエス様はこのようなペトロの問いにお答えになりました。「わたしの来るときまで彼が生きていることをわたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたはわたしに従いなさい」
「わたしの来るとき」とは、主イエス様の再臨の時です。世の終わり、全てのものが完成し、天地が救われ、神様の御心が完全に実現するときです。たとえそのときまで、あなたが心にかけている弟子ヨハネが生きていることをわたしが今望んでいるとしても、あなたには関係ないと言われたのです。
後に弟子たちの間には、ヨハネは主の再臨まで決して死なないといううわさが広まったと23節に記されています。しかし、それは違うとも続けて記されています。
世の終わりの救いの完成の時を生きて迎えることは、主イエス様の弟子であるなら、皆がのぞむことでしょう。たとえ、そのような素晴らしいことがヨハネに起こるとしても、あなたには関係ないと、主イエスさまはピシャリとおっしゃったのです。そして言われました。「あなたはわたしに従いなさい」
わたしたちは、周りのことが気になります。そしてすぐに他の人と自分を比べて見ます。自分の置かれている境遇、環境はなんだか不公平ではないのか。神様はわたしのことを、誰それよりも、愛しておられないのではないか。それに比べて、あの人はどうしていつもうまくゆくのか。そういった思いに心が向けば向くほど、神様との関係が薄くなってしまい、自分のことが中心になってしまうのです。だから、主イエス様ははっきりと言われるのです。「ほかの人のことはどうでも好い」「あなたは、わたしに従いなさい」
わたしたちは、まず何よりも主イエス様に従わなければなりません。そうでなければ隣人や兄弟姉妹たちとの正しい関係を作ることが出来ないからです。主イエス様は、わたしたちは隣人との関係を神様との関係よりも先に考えなくともよいと言ってくださいます。誰もが、まず主イエス様に従わなければならないのです。その上で、わたしたちが兄弟姉妹との関係、隣人との関係を作って行くなら、それは神、人、自分の正しい三角形を作って行くことになります。神様との、主イエスさまとの関係、天におられるお方との垂直な関係が大切なのです。そして正しい、健全な、安定した神と人の三角形の関係に生きるのです。
4、
ある説教者が、主イエス様が、あの人、この人のことは、あなたとは関係がないとはっきりとおっしゃったことに、大きな恵みを覚えると言いました。わたしたちは、あの人のこと、この人のことにいつも気を取られます。そしてときには嫉妬し、あるいは自分の愛の乏しさに心を痛めるからだというのです。他の人と自分を比較して、自分が貧しくても、あるいは豊かであっても、自分を責めてしまうからだというのです。
主イエス様は、わたしのことを気にかけ、愛して下さっているのと同じように、あの人のことも、この人のこともすべてご存じであり、ふさわしい仕方で愛してくださいます。
主イエス様は、ペトロにとって親しい友であり、また最も嫉妬心を感じるような存在のヨハネについて「この人はどうなるのですか」と問うたペトロの質問には答えられません。それよりもまず「あなたはわたしに従いなさい」といわれました。たとえ、その人の境遇がどれほど素晴らしいものであったとしても、あなたには関係がないと断言されました。
主イエス様は、すべてを知っておられます。わたしたちよりもはるかに広い心で、人それぞれに、賜物を与え、恵みをくださるからです。
ペトロは、弟子のリーダーとなり、ペトロの手紙1、とペトロの手紙2の二つの聖書を後の世に残しました。さらに、古代カトリック教会では、初代のローマ教皇として働き、バチカンの聖ペトロ教会、セントポール大聖堂にその名を残しました。またヨハネは、ヨハネによる福音書と三つのヨハネの手紙、そしてヨハネの黙示録を残しています。
ペトロとヨハネは、初代教会において使徒パウロと共に、大きな役割を果たしました。それぞれに違った賜物、違った境遇で信仰の歩みを貫くことが出来ました。わたしたちもまた、それぞれに違った存在です。しかし、主イエス様は、わたしたちのすべてをそのままでご存じであります。ふさわしい導きをくださいます。わたしたちは、周りの人との比較ではなく、何よりも主イエス様との関係を第一にしたいと思います。周りのことが気になるとき、主イエス様のみ言葉を心に響かせましょう。「あなたはわたしに従いなさい」
祈ります。
わたしたちの愛する主イエス・キリストの父なる神さま、御名を崇めます。わたしたちは絶えず周りの人々と自分自身を比較し、優越感や劣等感、また嫉妬や羨みを抱き、絶えず神様に疑問を投げかけたりするような愚かなものです。絶えず悔い改めてあなたに従って行くことが出来ますように、そして本当の意味で、互いを尊重し合い、愛し合い、助け合って、主に従って行くことが出来ますよう導いてください。主の御名によって祈ります、アーメン。