聖書の言葉 ヨハネによる福音書 21章15節~19節 メッセージ 2024年5月26日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書21章15節~19節「あなたは、わたしを愛するか」 1、 主イエス・キリストのめぐみと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。 ヨハネによる福音書の最後の章であります21章の二回目の説教となりました。予定では、あと二回でヨハネによる福音書を読み終えまして次の使徒言行録へと進むことになります。 今朝、復活された主イエス様が、12弟子のリーダーのペトロに向かって一つの問いを発します。「あなたはわたしを愛しているか」。それに対してペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答える。そのやり取りが三度繰り返されます。そのすぐ後で、主イエス様はペトロに向かって、あなたはわたしのために命を投げ出すことになると予告されました。そして最後に「わたしに従いなさい」とペトロをお招きになりました。 実は、主イエス様がペトロに向かって、わたしに従いなさいとお招きになったのは、初めてのことではありません。ペトロに対する主イエス様からの最初の召し、弟子への招きは、このヨハネによる福音書の冒頭の第1章の35節から42節に記されていました。そのときペトロとアンデレは洗礼者ヨハネの弟子でありましたが、ヨハネが神の子羊と呼んだお方を見て、このお方に従って行くようになります。それは彼らの先生であった洗礼者ヨハネの促しによるものでした。けれども、主イエス様ご自身が、二人に「来なさい」と呼んでくださったことから彼らの弟子の生活が始まったということが出来ます。またこの福音書には書かれていないのですけれども、他の福音書には、ガリラヤで漁をしているペトロに対して、主イエス様が「わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしよう」と言われたことも記されています。 今朝の21章では、再び主イエス様は「わたしに従いなさい」とペトロをお招きになりました。 わたしたちも、それぞれがいろいろな仕方で主イエス様から、わたしに従ってきなさいという、弟子としての招きを受けたのだと思います。それはただ一回で終わるものではなく、主イエス様は繰り返し、わたしたちを招いてくださるのです。そのことによって、わたしたちいっそう深い献身、強い信仰へと招かれるのであります。 2, 今朝のみ言葉の場面は、その前の21章1節から14節、ペンテコステの前の5月12日に読みました個所と直接つながっています。福音書記者は、復活された主イエス様が三度目に弟子たちに現われてくださったのだと明言しています。三度の出会いは、主イエス様の復活の確かさを指し示します。 出会いの場所は、大半の弟子たちの故郷であるガリラヤ湖のほとりです。弟子たちが徹夜で漁をして、しかし、まったく魚が取れなかったのです。そのとき、主イエス様は早朝のガリラヤ湖の岸辺に姿を現されました。そして、岸辺から弟子たちに命じられました。「舟の右側に網をおろしてみよ」。このときペトロをはじめ7人の弟子たちが舟に乗っており、もうすぐに岸に着くというところでした。徹夜で漁をして一匹もとれなかったその朝です。こんなところで魚が取れるはずがないと思いながら網をおろしました。そうしますと思いもかけない大漁です。網を引き揚げることもできないほどの魚が取れたのです。弟子たちは、このとき声をかけられたのが主イエス様だと初めてわかりました。ペトロは、裸であったので驚いて上着を着て湖に飛び込んだと7節に記されています。そのあと彼らは岸に上がって主イエス様を囲んで朝の食事をいたしました。 彼らが、味わったのは炭火で焼いた魚と主イエス様が用意してくださったパンでした。主イエス様が、いつものようにパンを裂いて一人一人に渡してくださいました。 弟子たちにとっては、この日、よみがえられた主イエス様と一緒に炭で焼いた魚を食べた体験、その匂いや味は忘れることのできない特別の体験だったと思います。初代教会は、魚を表すギリシャ語を魚のイラストのように組み合わせたマーク、魚のマークを教会のシンボルにしていたそうです。 なぜ主イエス様は、弟子たちにこのとき大量の魚を取る体験を味あわせたのでしょうか。しかも自分たちの初めの思いに反しても、主イエス様のみ言葉に従うことによって恵みを得たという体験をさせたのでしょうか。 主イエス様のいないところではどんなに頑張っても、徹夜で働いても一匹の魚も捕れません。しかし、主イエス様の言葉に従うなら、網が破れそうになるほどの収穫、驚くべき収穫があるのです。これは福音伝道、教会建設のことを言っているのです。主イエス様と一緒に食べた魚の味、大量にとれた魚の味は、主イエス様の計り知れない恵みと力を思い出させる味であります。 3、 キリストの教会は、主イエス様が天に帰って行かれ、そして10日目に聖霊を送ってくださる、あのペンテコステの出来事を通して、この世に初めて生まれ、そして活動をはじめます。 弟子たちに命じられたことは、福音の宣教と教会の建設です。そしてペトロは、今朝、その大きな使命、大役のリーダーに任命されたのです。 主イエス様を見て湖に飛び込んだペトロでした。なぜペトロは湖にとびこんだのでしょうか。それは、彼が、あの十字架に向けて主イエス様の裁判が行われていた大祭司の屋敷で、わたしはイエスなど知らない、わたしは弟子ではない、あの男とは関係ないと三度、焚火を囲んでいた敵たちの前で宣言したからです。それは決して消すことが出来ない心の傷跡としてペトロを苦しめていたのに違いありません。頼りない自分、弱い自分、罪深い自分、主イエス様に大きな罪を犯してしまった、ペトロの自己評価はもはや最低の域にあります。主イエス様、どうか赦してくださいと、すぐにでも赦しを求めたいのです。そうでなければ主イエス様と会うことすらできない、だから湖に飛び込みました。 今朝、その招きに先だって主イエス様がペトロに問うたことは「あなたはわたしを信じるか」ではなく「あなたはわたしを愛するか」というものでした。しかも三度もそのことを問われました。 わたしたちが洗礼を受ける時、あるいは、改めてわたしたち教会の会員となるときに求められる誓約は、端的に言えば天地の造り主である神様を信じ、その独り子であられる主イエス様を救い主として信じると言うことでした。しかし、今朝。主イエス様が問いかけられたのは「わたしを信じるか」ではなく「わたしを愛するか」ということでした。この二つのことの違いはどこにあるのでしょうか。信じることは頭でするけれども「愛する」ことは心でするというようなことではないと思います。どちらも心ですることです。けれども、けれども「愛する」ことの方がいっそう深い献身を現わしているのではないでしょうか。ペトロは「愛すること」を求められました。 最後の晩餐の時、まだ主イエス様の十字架の出来事が起こる前、ペトロは自分の信仰について自信満々でありました。あなたのためなら命を捨てます、こう断言したペトロでした。しかし教会のリーダーに求められるものは、自信満々と言うことではなく、むしろ反対なのです。自分の欠けや傷、弱さや罪を知っていなければならないのです。主イエス様の憐みと、恵みに依らなければ立ってゆくことはできないという想いです。謙遜さが求められます。失敗の体験、涙の体験が、本当の謙遜を教えます。12弟子の中で早くから一番弟子、頭の弟子として見込まれ、実際にその働きをしてきたペトロは、実は主イエス様からもっとも多くの訓練を受けた弟子でもあります。いつも主イエス様から叱られたり、教えを受けたりしています。そしてペトロにとっては、あの十字架の時、取り返しがつかないほどはっきりと主イエス様を否定し、自分自身の弱さと罪をさらけ出した体験があります。 そして今朝のみ言葉に証されている主イエス様の憐みと恵みによって、そこから立ち上がり、回復したのです。この、身をもって知った謙遜と主イエス様への信頼こそが教会の仕え人、特にそのリーダーの条件なのです。このことは牧師であるわたくし自身がまず聞くべきみ言葉です。 主イエス様は、ペトロに厳粛な思いで向き合っておられます。ヨハネの子シモンと三度呼びかけられます。いつもはペトロ、岩というあだ名で呼ばれていたペトロですが、ここでは正式の名前で呼ばれます。 そして問います。「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しているか」この人たちとは、周りにいるほかの弟子たちです。他の弟子が、どれくらい主イエス様を愛していて、自分の愛とその愛とを比較して、答えよと問いかけているように思えます。そうであれば、それは誰にも分らないことです、ほかの人の心の中を見ることはできません。けれどもペトロは、自分は人一倍罪深い、弱い人間だとわかっています。それでも主イエス様への愛だけは誰にも負けないと心から思っていたのでしょう。すぐに「はい。主よ」と答えています。 このとき、ペトロは、「はい、主よ」と、何はともあれまず答えて、そして「わたしがあなたを愛していることはあなたご存知です」と、主イエス様に答えを預ける、真実はあなただけが知っていますというような言い方をしたのでしょうか。 カトリックのフランシス会訳はそのような問いを遺さないような訳し方をしています。こう訳しています。「はい主よ、ご存じのように、わたしはあなたを愛しております」。けれどもこの時のペトロにはやはり負い目があった、主イエス様を愛していることは確かだけれども、同時に、わたしの不十分さもあなたが御存じですと言ったのではないでしょうか。「わたしがあなたを愛していることはあなたご存知です」と含みを残したような訳をほかのどの翻訳聖書も採用しています。 主イエス様は、その答えを聞いて、ペトロを弟子の代表者、リーダーとして任命します。「わたしの子羊を飼いなさい」 主イエス様が、ご自分の弟子であるすべての人をわたしの羊と呼び、しかもここで最初に「子羊」と言う言葉を用いられたのは、主イエス様の羊への愛を表しています。わたしたちは、主イエス様の羊です。その私たちを愛して子羊と呼ばれたのです。そしてその羊の世話をする人が教会には立てられるのです。教会の役員、牧師や長老、執事あるいは委員がそれにあたります。教会の役員たちは、教会員の上に立って権力をふるうようなものではなく、牧場で羊の世話をするようにして主に仕え、そして主の羊に仕えるのです。 主イエス様が、三度ペトロに同じ問いかけをしたことは、ペトロが、あの大祭司の屋敷で三度主イエス様を否定したことと重なります。主イエス様は三度の否定の一つ一つ、一回一回をなぞるようにして、ペトロに、わたしを愛するかと三度言葉を掛けるのです。 主イエス様はペトロに対し「はい主よ、愛しています。」「はい主よ、愛しています」と三度、愛の応答をすることを赦してくださいました。 4、 主イエス様から選ばれ、弟子たちの頭として立てられたペトロは、主イエス様から、その生涯の終わり方を予言していただきました。それは殉教の死を遂げて神様のご栄光を現わすという終わり方です。 当時のことわざで、人は若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところに行く、つまり自分で何かの行動をすることを自ら決意する、しかし、年を取るとそうは行かないということわざがあったそうです。主イエス様は、これを用いられて、ペトロよ、あなたは年を取ったら、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、そして行きたくないところにつれて行かれる、そういう仕方で神様のご栄光を現わすと言われました。 伝説によりますと、ペトロは、ローマ教会の指導者としてよく働き、そしてローマ帝国の迫害によって殉教したと言います。その十字架は、ペトロの特別の願いによって主イエス様と同じではない十字架、逆さ十字架を望んだと言われます。そのことは別にして、復活の主イエス様の預言は、ペトロもまた十字架にかけられるという意味であったのです。 主イエス様に従うということは、自分がしたいようにするということとは反対であります。自分がしたいかしたくないかに関係なく、いやむしろ、主イエス様に従う道は、自分がしたくないことの中にこそある、これが主イエス様の思いと人間であるわたしたちの思いの関係のように思います。 自分の思いと主イエス様の思いを一致させるためには、祈らなければならないでしょう。主よ、わたしの思いではなく、あなたの御心を行わせてください、こう祈れることが最高の道なのです。 ペトロを赦し、その赦しを体験させてくださる主イエス様です。主イエス様は、わたしたちをも赦し、わたしたちをも立ち直らせてくださいます。 「あなたはわたしを愛しているか」、主イエス様は、こう三度問いかけることによって、自ら「愛します」と言って、もう一度立ち上がる道をわたしたちに示されます。またその道を歩むようにとわたしたちに道を開いてくださいます。 それは愛の道です。主なる神への愛、そして兄弟姉妹隣人への愛の道です。その愛の道を歩んで行きたいのです。主イエス様の最後の命令はこうです。「わたしに従いなさい」主イエスの愛の道がここに示されています。 祈ります。 主イエス・キリストの父なる神様、御名を崇めます。今や世界中に建てられている教会が、主イエス様を愛し、主イエス様に従って、福音を伝え、教会を建て上げることが出来ますよう導いてください。初めの愛にいつも立ち帰ることが出来ますようお願いいたします。主の御名によって祈ります。アーメン。
2024年5月26日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書21章15節~19節「あなたは、わたしを愛するか」
1、
主イエス・キリストのめぐみと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。
ヨハネによる福音書の最後の章であります21章の二回目の説教となりました。予定では、あと二回でヨハネによる福音書を読み終えまして次の使徒言行録へと進むことになります。
今朝、復活された主イエス様が、12弟子のリーダーのペトロに向かって一つの問いを発します。「あなたはわたしを愛しているか」。それに対してペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答える。そのやり取りが三度繰り返されます。そのすぐ後で、主イエス様はペトロに向かって、あなたはわたしのために命を投げ出すことになると予告されました。そして最後に「わたしに従いなさい」とペトロをお招きになりました。
実は、主イエス様がペトロに向かって、わたしに従いなさいとお招きになったのは、初めてのことではありません。ペトロに対する主イエス様からの最初の召し、弟子への招きは、このヨハネによる福音書の冒頭の第1章の35節から42節に記されていました。そのときペトロとアンデレは洗礼者ヨハネの弟子でありましたが、ヨハネが神の子羊と呼んだお方を見て、このお方に従って行くようになります。それは彼らの先生であった洗礼者ヨハネの促しによるものでした。けれども、主イエス様ご自身が、二人に「来なさい」と呼んでくださったことから彼らの弟子の生活が始まったということが出来ます。またこの福音書には書かれていないのですけれども、他の福音書には、ガリラヤで漁をしているペトロに対して、主イエス様が「わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしよう」と言われたことも記されています。
今朝の21章では、再び主イエス様は「わたしに従いなさい」とペトロをお招きになりました。
わたしたちも、それぞれがいろいろな仕方で主イエス様から、わたしに従ってきなさいという、弟子としての招きを受けたのだと思います。それはただ一回で終わるものではなく、主イエス様は繰り返し、わたしたちを招いてくださるのです。そのことによって、わたしたちいっそう深い献身、強い信仰へと招かれるのであります。
2,
今朝のみ言葉の場面は、その前の21章1節から14節、ペンテコステの前の5月12日に読みました個所と直接つながっています。福音書記者は、復活された主イエス様が三度目に弟子たちに現われてくださったのだと明言しています。三度の出会いは、主イエス様の復活の確かさを指し示します。
出会いの場所は、大半の弟子たちの故郷であるガリラヤ湖のほとりです。弟子たちが徹夜で漁をして、しかし、まったく魚が取れなかったのです。そのとき、主イエス様は早朝のガリラヤ湖の岸辺に姿を現されました。そして、岸辺から弟子たちに命じられました。「舟の右側に網をおろしてみよ」。このときペトロをはじめ7人の弟子たちが舟に乗っており、もうすぐに岸に着くというところでした。徹夜で漁をして一匹もとれなかったその朝です。こんなところで魚が取れるはずがないと思いながら網をおろしました。そうしますと思いもかけない大漁です。網を引き揚げることもできないほどの魚が取れたのです。弟子たちは、このとき声をかけられたのが主イエス様だと初めてわかりました。ペトロは、裸であったので驚いて上着を着て湖に飛び込んだと7節に記されています。そのあと彼らは岸に上がって主イエス様を囲んで朝の食事をいたしました。
彼らが、味わったのは炭火で焼いた魚と主イエス様が用意してくださったパンでした。主イエス様が、いつものようにパンを裂いて一人一人に渡してくださいました。
弟子たちにとっては、この日、よみがえられた主イエス様と一緒に炭で焼いた魚を食べた体験、その匂いや味は忘れることのできない特別の体験だったと思います。初代教会は、魚を表すギリシャ語を魚のイラストのように組み合わせたマーク、魚のマークを教会のシンボルにしていたそうです。
なぜ主イエス様は、弟子たちにこのとき大量の魚を取る体験を味あわせたのでしょうか。しかも自分たちの初めの思いに反しても、主イエス様のみ言葉に従うことによって恵みを得たという体験をさせたのでしょうか。
主イエス様のいないところではどんなに頑張っても、徹夜で働いても一匹の魚も捕れません。しかし、主イエス様の言葉に従うなら、網が破れそうになるほどの収穫、驚くべき収穫があるのです。これは福音伝道、教会建設のことを言っているのです。主イエス様と一緒に食べた魚の味、大量にとれた魚の味は、主イエス様の計り知れない恵みと力を思い出させる味であります。
3、
キリストの教会は、主イエス様が天に帰って行かれ、そして10日目に聖霊を送ってくださる、あのペンテコステの出来事を通して、この世に初めて生まれ、そして活動をはじめます。
弟子たちに命じられたことは、福音の宣教と教会の建設です。そしてペトロは、今朝、その大きな使命、大役のリーダーに任命されたのです。
主イエス様を見て湖に飛び込んだペトロでした。なぜペトロは湖にとびこんだのでしょうか。それは、彼が、あの十字架に向けて主イエス様の裁判が行われていた大祭司の屋敷で、わたしはイエスなど知らない、わたしは弟子ではない、あの男とは関係ないと三度、焚火を囲んでいた敵たちの前で宣言したからです。それは決して消すことが出来ない心の傷跡としてペトロを苦しめていたのに違いありません。頼りない自分、弱い自分、罪深い自分、主イエス様に大きな罪を犯してしまった、ペトロの自己評価はもはや最低の域にあります。主イエス様、どうか赦してくださいと、すぐにでも赦しを求めたいのです。そうでなければ主イエス様と会うことすらできない、だから湖に飛び込みました。
今朝、その招きに先だって主イエス様がペトロに問うたことは「あなたはわたしを信じるか」ではなく「あなたはわたしを愛するか」というものでした。しかも三度もそのことを問われました。
わたしたちが洗礼を受ける時、あるいは、改めてわたしたち教会の会員となるときに求められる誓約は、端的に言えば天地の造り主である神様を信じ、その独り子であられる主イエス様を救い主として信じると言うことでした。しかし、今朝。主イエス様が問いかけられたのは「わたしを信じるか」ではなく「わたしを愛するか」ということでした。この二つのことの違いはどこにあるのでしょうか。信じることは頭でするけれども「愛する」ことは心でするというようなことではないと思います。どちらも心ですることです。けれども、けれども「愛する」ことの方がいっそう深い献身を現わしているのではないでしょうか。ペトロは「愛すること」を求められました。
最後の晩餐の時、まだ主イエス様の十字架の出来事が起こる前、ペトロは自分の信仰について自信満々でありました。あなたのためなら命を捨てます、こう断言したペトロでした。しかし教会のリーダーに求められるものは、自信満々と言うことではなく、むしろ反対なのです。自分の欠けや傷、弱さや罪を知っていなければならないのです。主イエス様の憐みと、恵みに依らなければ立ってゆくことはできないという想いです。謙遜さが求められます。失敗の体験、涙の体験が、本当の謙遜を教えます。12弟子の中で早くから一番弟子、頭の弟子として見込まれ、実際にその働きをしてきたペトロは、実は主イエス様からもっとも多くの訓練を受けた弟子でもあります。いつも主イエス様から叱られたり、教えを受けたりしています。そしてペトロにとっては、あの十字架の時、取り返しがつかないほどはっきりと主イエス様を否定し、自分自身の弱さと罪をさらけ出した体験があります。
そして今朝のみ言葉に証されている主イエス様の憐みと恵みによって、そこから立ち上がり、回復したのです。この、身をもって知った謙遜と主イエス様への信頼こそが教会の仕え人、特にそのリーダーの条件なのです。このことは牧師であるわたくし自身がまず聞くべきみ言葉です。
主イエス様は、ペトロに厳粛な思いで向き合っておられます。ヨハネの子シモンと三度呼びかけられます。いつもはペトロ、岩というあだ名で呼ばれていたペトロですが、ここでは正式の名前で呼ばれます。
そして問います。「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しているか」この人たちとは、周りにいるほかの弟子たちです。他の弟子が、どれくらい主イエス様を愛していて、自分の愛とその愛とを比較して、答えよと問いかけているように思えます。そうであれば、それは誰にも分らないことです、ほかの人の心の中を見ることはできません。けれどもペトロは、自分は人一倍罪深い、弱い人間だとわかっています。それでも主イエス様への愛だけは誰にも負けないと心から思っていたのでしょう。すぐに「はい。主よ」と答えています。
このとき、ペトロは、「はい、主よ」と、何はともあれまず答えて、そして「わたしがあなたを愛していることはあなたご存知です」と、主イエス様に答えを預ける、真実はあなただけが知っていますというような言い方をしたのでしょうか。
カトリックのフランシス会訳はそのような問いを遺さないような訳し方をしています。こう訳しています。「はい主よ、ご存じのように、わたしはあなたを愛しております」。けれどもこの時のペトロにはやはり負い目があった、主イエス様を愛していることは確かだけれども、同時に、わたしの不十分さもあなたが御存じですと言ったのではないでしょうか。「わたしがあなたを愛していることはあなたご存知です」と含みを残したような訳をほかのどの翻訳聖書も採用しています。
主イエス様は、その答えを聞いて、ペトロを弟子の代表者、リーダーとして任命します。「わたしの子羊を飼いなさい」
主イエス様が、ご自分の弟子であるすべての人をわたしの羊と呼び、しかもここで最初に「子羊」と言う言葉を用いられたのは、主イエス様の羊への愛を表しています。わたしたちは、主イエス様の羊です。その私たちを愛して子羊と呼ばれたのです。そしてその羊の世話をする人が教会には立てられるのです。教会の役員、牧師や長老、執事あるいは委員がそれにあたります。教会の役員たちは、教会員の上に立って権力をふるうようなものではなく、牧場で羊の世話をするようにして主に仕え、そして主の羊に仕えるのです。
主イエス様が、三度ペトロに同じ問いかけをしたことは、ペトロが、あの大祭司の屋敷で三度主イエス様を否定したことと重なります。主イエス様は三度の否定の一つ一つ、一回一回をなぞるようにして、ペトロに、わたしを愛するかと三度言葉を掛けるのです。
主イエス様はペトロに対し「はい主よ、愛しています。」「はい主よ、愛しています」と三度、愛の応答をすることを赦してくださいました。
4、
主イエス様から選ばれ、弟子たちの頭として立てられたペトロは、主イエス様から、その生涯の終わり方を予言していただきました。それは殉教の死を遂げて神様のご栄光を現わすという終わり方です。
当時のことわざで、人は若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところに行く、つまり自分で何かの行動をすることを自ら決意する、しかし、年を取るとそうは行かないということわざがあったそうです。主イエス様は、これを用いられて、ペトロよ、あなたは年を取ったら、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、そして行きたくないところにつれて行かれる、そういう仕方で神様のご栄光を現わすと言われました。
伝説によりますと、ペトロは、ローマ教会の指導者としてよく働き、そしてローマ帝国の迫害によって殉教したと言います。その十字架は、ペトロの特別の願いによって主イエス様と同じではない十字架、逆さ十字架を望んだと言われます。そのことは別にして、復活の主イエス様の預言は、ペトロもまた十字架にかけられるという意味であったのです。
主イエス様に従うということは、自分がしたいようにするということとは反対であります。自分がしたいかしたくないかに関係なく、いやむしろ、主イエス様に従う道は、自分がしたくないことの中にこそある、これが主イエス様の思いと人間であるわたしたちの思いの関係のように思います。
自分の思いと主イエス様の思いを一致させるためには、祈らなければならないでしょう。主よ、わたしの思いではなく、あなたの御心を行わせてください、こう祈れることが最高の道なのです。
ペトロを赦し、その赦しを体験させてくださる主イエス様です。主イエス様は、わたしたちをも赦し、わたしたちをも立ち直らせてくださいます。
「あなたはわたしを愛しているか」、主イエス様は、こう三度問いかけることによって、自ら「愛します」と言って、もう一度立ち上がる道をわたしたちに示されます。またその道を歩むようにとわたしたちに道を開いてくださいます。
それは愛の道です。主なる神への愛、そして兄弟姉妹隣人への愛の道です。その愛の道を歩んで行きたいのです。主イエス様の最後の命令はこうです。「わたしに従いなさい」主イエスの愛の道がここに示されています。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神様、御名を崇めます。今や世界中に建てられている教会が、主イエス様を愛し、主イエス様に従って、福音を伝え、教会を建て上げることが出来ますよう導いてください。初めの愛にいつも立ち帰ることが出来ますようお願いいたします。主の御名によって祈ります。アーメン。