2024年05月19日「聖霊が降った日」

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聖書の言葉

使徒言行録 2章1節~13節

メッセージ

2024年5月19日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録 2章1~12節「聖霊が降った日」

1、

 今朝、このところにお集まりのお一人お一人の上に主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の名によってお祈ります。アーメン。

先ほどお読みしました使徒言行録の御言葉によりますと、主イエス様が十字架にお架かりになりましたユダヤ教の祭り、過越し祭から50日目に、エルサレムで弟子たちに聖霊が降ったのであります。

キリスト教会はこの日を聖霊降臨日として祝って来ました。過越し祭りから、数え始めるその日を含めて50日目ですのでペンテコステ、ギリシャ語で50日目と呼ばれます。49日目は7の7倍の49日目ということでユダヤ教では、特別な日として祝われたのです。その日は「初穂の祭り」、小麦の収穫を祝う日でした。これが50日目の祭り、ギリシャ語ではペンテコステであり、エルサレム神殿では特別な礼拝が行われました。この日に使徒たちに聖霊が降りました。

聖霊が降る、つまり降霊、という現象は、いろいろな宗教に存在します。巫女さんが踊っているうちに、あるいはお坊さんが何か呪文を唱えて祈っていると、突然、天からの霊に憑りつかれたようになって倒れてしまいます。そして、霊の世界と交信してお告げを語りだす、あるいはすでに死んだ人が、その人の口を借りて語りだすというような、何か、呪術的なオドロオドロしい出来事に思われます。

けれども、今朝のみ言葉で語られている聖霊降臨は、そのような出来事ではありません。弟子たちは聖霊を受けますけれども、ばったり倒れこんだりすることはないのです。呪文を語ることもありません、彼らは主イエス・キリストの福音を語りだしたのです。

ペンテコステには、国の内外からエルサレム神殿に巡礼者が集まって来ていました。まさにその日に、弟子たちの上に聖霊が降り、主イエス様の福音が高らかに宣べ伝えられて、教会が誕生いたしました。

「いろいろの国の言葉で語りだした」と書かれています。語らせたのは神であります。神の言葉が語られている、そのことは旧約聖書の預言者と共通しています。けれども、使徒たちの語ったのはイエス・キリストであり、このお方に関する神の偉大な業、つまり福音でした。その時の語り手の意識の状態については、何も情報がありませんけれども、「霊が語らせるままに」とあります。これは旧約聖書で示されて来た預言者が預言する状態と似ているようでもあり、似ていないようでもあります。

最後に弟子の代表として、ペトロが立って語りだしています。それの言葉は、エルサレムに住むユダヤ人の言葉、アラム語であったことでしょう。その内容は、22節から36節までに書かれていますけれども、最後に「あなたがたはメシア・救い主であるイエス・キリストを十字架に付けて殺した」と言っていますので、明らかにエルサレムに住むユダヤ人に向けて語っています。これは、その前に、ほかの使徒たちが他国の言葉で語ったことと同じではない部分と思われます。けれども、それ以外のこと、つまりイエス・キリストが救い主であること、その主イエス・キリストがよみがえられたことについては共通していると考えられます。

そうしますと、これらのことは使徒たち自身が見聞きしたこと、つまり主イエス様の証人としての言葉であります。つまり、弟子たちは、他国の言葉で語っていますが、それは他人のことではなく、まさしく、その人自身のことを語っているのです。その人の言葉として、しかし他国の言葉で語られたのです。不思議なことですけれど、そうとしか考えられないのです。これがペンテコステにおいて起きたことの中心です。

ペンテコステは、キリスト教会の誕生日と呼ばれます。弟子たちが、この世界に向かって公に福音を宣べ伝え出した日です。そしてこの日は現代まで続く全世界のキリスト教会の出発点です。ペンテコステ、聖霊降臨日に、わたしたちがこの出来事を繰り返し学ぶ、このみ言葉を繰り返し聞き続けることは大切なことです。

2,

2章1節をお読みします。「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」。この1節から41節までに、ペンテコステの日の一日の間に起こったことが順に語られています。キリスト教会にとって長い一日でありました。

2章1節のはじめに「五旬祭の日が来て」とあります。五旬祭と訳されている元のギリシャ語がペンテコステであります。聖霊降臨は、五旬祭、ペンテコステにおきました。この日の出来事は、第2章の終わりに近い41節まで続きます。41節をお読みします。

「41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」

ここまでが、この日一日の出来事であります。

 2章の初めの2章4節に「一同は聖霊に満たされ」と書かれています。聖霊は、弟子たち全員の上に降りました。彼らはエルサレム神殿に集まって来た人々のそれぞれの国の言葉で、福音を語り始めたのです。最後に、ペトロが、一同を代表してメッセージを語りました。そして3000人ほどが洗礼を受けて、この日に仲間に加えられました。

 ここでペトロが語った説教は重要なものだと思います。いわば、教会創立時の記念伝道説教ともいうべきものだからです。サッカーで言えば、キックオフであります。私たちがいつも立ち返るべき原点、そのメッセージが、ここにあるのです。わたしたちもまた、このことを自分のこととして聞き、また世に対しても語り続けます。

聖霊を受けた教会が、この日に人々に宣べ伝えたメッセージは、二つのことです。一つは「イエス・キリストこそ旧約聖書の預言した救い主である」ということです。25節から28節に引用されているのは旧約聖書、詩編16編のみ言葉です。神は命に至る道を主イエス・キリストにおいて示してくださったと言うのです。詩編に預言されていた命に至る道は、主イエス・キリストに他ならないと言うのです。そして二つ目は、「あなたがたは、このお方を十字架につけて殺してしまった」ということです。

イエス・キリストこそが旧約聖書の預言、約束の実現であると言うこと、そして、このお方、イエスキリストを信じて救われるという、まことにはっきりした救いの道が今開かれましたと言っているのです。聖霊を受けた教会は、2千年間、このことを証しし続けてきたと言ってもよいと思います。今朝のみ言葉の中の使徒ペトロの説教もまた、このことを語っています。

3,

ペトロが最初に語ったのは、使徒たちが聖霊によって語りだすという不思議な出来事のことです。「このひとたちは酒に酔っているのではない。預言者ヨエルが語った終わりの時の出来事が今起きている」と話を切り出しました。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」「彼らは預言する、若者も老人も、僕もはしため、つまり女奴隷も、聖霊を受けて神の言葉を語る、というヨエルの預言をあなたがたは目にしている」というのです。

初代教会の大伝道者であったパウロはコリントの教会に手紙を書きました。そこには、初代教会の礼拝の様子が示されていますけれども、集う人が皆、預言した、つまり神の言葉を語り合ったと書かれています。その後、神の言葉は、文書に記録され、聖書としてわたしたちに残されています。牧師が語る説教は神の言葉野解き明かしですけれども、事実上、それは神の言葉として働かなければなりません。そして会衆もまた、この世の生活において神の意言葉を生きるのです。ヨエル書の預言は、今も実現しているのです。

さて、この日に至るまでの時間を福音書から遡ってみますと、ペンテコステの日に向けて、イエス様の約束あるいは命令が繰り返してなされていました。

主イエス様の約束の一つは十字架の前の晩、最後の晩餐の後にイエス様が弟子たちに語られたことです。ヨハネによる福音書14章と16章に記されています。「わたしは、別の助け主、弁護者として聖霊を送る」。天に昇って行かれた主イエス様と入れ替わるようにして聖霊を送るということであります。

二つ目は、使徒言行録1章に記されています。主イエス様が天に上ってゆかれる直前の約束です。「あなた方は地の果てまで私の証人となる」。

「あなたがたは聖霊によって力を受けて私の証人となる」。これは、いわば約束のような、命令のようなどちらとも取れる言葉です。正確に言うなら預言かもしれません。しかしこれは約束であり、同時に命令であるということができるのではないか、そのように思います。

聖霊を送る約束、それは主イエス様の約束であり、旧約預言者の約束でした。そして主イエス様は、最後の晩餐の夜にだけではなく、復活の後でも、つまり天に昇ってゆかれる前にも、この約束について忘れないようにともう一度確認してくださいました。今開いているページの前のページの上の段です。使徒言行録1章4節5節をお読みします。

「1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

この「前に私から聞いた約束」というのは、ヨハネによる福音書の14章15節からのイエス様のみ言葉です。それは聖霊を送るという約束でした。

4、

今は開きませんが、ヨハネによる福音書14章15節から、延々と16章の終わりまで、途中、ぶどうの木のたとえ話などが入り込んできますが、ずうっと聖霊についてイエス様が教えてくださっております。

イエス様は、聖霊の神は「弁護者、真理の霊」であるといわれます。その霊はイエス様が共にいてくださることを表すものであり、信じるもののうちに永遠に住むとも言われています。14章14節から19節をお読みします。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

「 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 わたしは、あなたがたをみなしごには、しておかない。あなたがたのところに戻って来る。」

「 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

 イエス様は、世の終わりの再臨の時には、もう一度誰にでも見える仕方で世においでになります。それがイエス様の再臨の日です。けれども、信じるものには、今のときでも、この世がまだ見ていないイエス様のお姿が、わたしたちの心の目で見えるようにしてくださる、それが聖霊の神様の働きなのです。なぜなら、イエス様は、死んでいる方ではなく、生きている方、力ある方であるからです。

18節に「あなたがたをみなしごにはしておかない。」とあります。

何という暖かい恵みに満ちた言葉でしょうか。「天国で」というのではないのです。この世で、たとえ世の人々がそのことを受け入れないとしても、あなた方には、真理の霊を授けてイエス様が今共にいることが分かるようにしてくださるというのです。つまりイエス様を信じるということは、あたかも生きながらにして天国にいるようにしてくださるということであります。

 そのあとの所、少し飛ばしましてヨハネによる福音書14章26節から28節をお読みします。

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」

 ここでは、聖霊なる神様がわたしたちと共にいてくださってイエス様のことを決して忘れないようにしてくださるということが約束されています。

聖霊の降臨という出来事は、ただ神様の側の約束と恵みによって起こされています。まず家の外に天地の異変が生じました。激しい風のような音が天から聞こえたと記されています。その音は天から聞こえましたが、同時に、彼らのいた家の中いっぱいに響き渡りました。そして、炎のように分かれた舌、舌の形をしたもの、あるいは舌そのものが現われて一人一人の上にとどまりました。火や炎というものは神のご臨在のしるしです。舌というのは非常に特殊ですが、それは、聖霊なる神様の働きが「語る」ということと深く結びついていることを示しています。

従って、この聖霊降臨のしるしとして舌のようなものが一人一人に分かれて現れたことは、あのイエス様の昇天前の預言、約束、同時に命令である、「あなた方は地の果てまでイエス・キリストの証人になる」という御言葉がいよいよ実現する、そのしるしなのであります。

 聖霊が私たちのうちに与えられとき、神様の愛と慈しみが分かります。主イエス・キリストのはかり知れない恵みがはっきりと分かるのです。そして、わたしたちは、このことを喜び、感謝し、証をするように導かれるのです。

 聖霊によって教会が生まれ、その働きを続けてゆきます。世の終わりまで、主イエス様がもうこれまでという時まで、教会は働き続けます。教会が、人間的なものに左右されることなく、聖霊によって与えられた恵みに忠実に歩んでゆくことができるように、絶えず祈りましょう。

6、祈り

 主イエス・キリストの父なる神、あなたの永遠のご計画によって地上に聖霊が降り、わたしたちが救われる道を戴き感謝をいたします。今も働く全世界の教会を、わたしたちの教会を守り導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。