2024年05月05日「命の書、聖書」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 20章30節~31節

メッセージ

熊本伝道所2024年5月7日(日)朝拝説教

ヨハネによる福音書20章30節~31節「命の書、聖書」

1、

 今朝、このところにお集まりのお一人お一人の上に、主イエス・キリストのめぐみと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

4月の終わりから5月の初めにかけては、昭和の日、憲法記念日、みどりの日、子どもの日と国民の祝日が四つあります。土曜日、日曜日を含めて休みが続き、大型連休、別名、ゴールデン・ウイークと呼ばれています。もっとも、最近は介護や福祉の職場に勤める方も多くなってきましたので、医療関係の方を含めて、連休の恩恵が及ばない方もおられるかも知れません。

今朝の日曜日は、その連休のさなかです。皆様はいかがお過ごしでしょうか。熊本は地方都市でありますし、また観光地でもありますから、家族や友人が帰省や観光で熊本に来て久しぶりに会った方もおられかも知れません。

 先ほどお読みしました、たった2節のみ言葉ですけれども、その31節の最後の方に「命を受けるためである」と記されています。「イエスの名により命を受けるためである」

連休の間でありましても、そうではない平日でありましても、わたしたちの命は引き続いて存在し続けております。しかしその命は生物として、また生まれながらの人間としての命であります。ここで「命を受けるため」と書かれている命は、そのような自然の命ではないことは明らかです。そうではなく、イエス・キリストというお方によって新しくされた命、刷新された命であります。

今朝の説教題は、「命の書、聖書」といたしました。先週の週報では命をひらがなで記しましたが、思い直して漢字で「命」とさせていただきました。教会の掲示板を見た時に、そのほうがパッと見てわかりやすいと思ったからです。ヨハネによる福音書が、書かれた目的について『命を受けるため』であると明らかにしています。それはまた、旧約新約を含めた聖書全体の目的でもあります。今朝は、わたしたちが頂く新しい命、と神の言葉、教会の正典、カノンであります聖書について、御言葉から聞きたいと思います。

2,

 実は、もともとのヨハネによる福音書は、今朝の30節31節で終わっていたのではないかという説があります。その主な根拠は、今朝の2つの節が、福音書全体のあとがきにあたるような文章だからです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子であると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」これで福音書が閉じられる、それにふさわしい言葉です。

 ところがこの福音書は、ここでは終わることはなくて、その後に21章が続きます。そこに記されているのは、復活の主イエス様と弟子たちとのガリラヤでの出会いの物語です。

福音書記者は、今朝の30節で主イエス様はほかにも多くのしるしをなさったけれども、そのすべてを書くことは出来なかったと書きました。しかし、やむを得ず割愛した多くの主イエス様がなさったしるしの中で、やはりこれだけは付け加えるべきだと思いなおしたのでしょうか。この後に三つの出来事を書いています。いずれもエルサレムではなくガリラヤでの出来事です。第一に失意の弟子たちを、主イエス様が、ガリラヤ湖で奇跡的な大漁によって励まされたこと、第二に、食事の後でシモン・ペトロに「あなたはわたし愛するか」と三度尋ねられたこと、そして最後に、弟子たちそれぞれが、互いに比較しあったり嫉妬したりしないようにとクギを刺されことを記しています。その後で、これは興味深いことですが、もう一度あとがきを書いて、今度は本当に筆をおいています。

ヨハネによる福音書に、このような二つのあとがきが存在することについては、それこそ多くの解釈があります。わたくしが今申しましたような筋書きもその一つですけれども、他にも考え方があります。それはヨハネによる福音書自体の著者問題にかかわることでもありますが、今朝はそれらを取り扱うことは致しません。

大抵の書物には「あとがき」というものが書かれます。ここまで文章を書いて来た、それを書き終えた時点で、自分がどんな思いでそれを書いたのかとか、こういうように読んでもらいたいといったことを記します。あらためて全体を要約することもあります。ですから、本を読む前に先ずあとがきから読むと言うようなこともなされます。それはたいていの場合本文を読むのに役に立つものです。

また、この福音書にはありませんが、たいていの場合、あとがきには、自分がここまで執筆できたことや、本が完成したことについて多くの人に感謝するといって、それらの人々の名前を記すこともなされるのであります。

聖書時代の文書の研究が進み、「この本には、他にも書きたいことがあったが全部は書き切れなかった」というあとがきは、当時の書物のあとがきには必ず入っていた文章であることが分かっています。しかし、このような定型的とも言える「あとがき」を記したヨハネの意図は、それだけではないと思います。やはりそこには、ヨハネの思いがあるのだと思います。

主イエスさまは多くのしるしを行われました。「しるし」といいますのは、あるものを指し示すものです。主イエス様が、神の御子であり、救い主、メシアであることのしるし、それは癒しを含む奇跡的なことであったり、目覚ましい出来事や教えであったり致します。それらを全部書くことはとてもできなかったとヨハネは言います。その多くの事柄の中から、ヨハネが選びとり、まるで漁師が大漁でたくさん採れた魚を選り分けて市場に出すように、これだけはというものをわたしたちに届けたというのです。

30節に「弟子たちの前で」と記されていることは、見逃すことのできない言葉です。それらは、後に12使徒と呼ばれるようになる弟子たちの前で主イエス様が実際になさったこと、語ったこと、主イエス様が神の御子でありメシア、救い主であるしるしとして弟子たちが経験したことだというのです。「弟子たちの前で」。

後に使徒と呼ばれるパウロも含めて、新約聖書は、その主イエス様との強い結びつきの中にあった人たちの証し、証言なのであります。そしてそれは証言にとどまりません。単に信頼性が高い証言と言うだけではないのです。今日、聖書は神の霊感によって書かれたとわたしたちが表現していることですが、その言葉の一つ一つが天の父なる神と主イエス様から注がれた聖霊の働きによって、誤りなく書かれました。同時に神様は、書き記した人物の人格や知識を用いながら、わたしたちのために記されたものであります。差出人と宛先のある手紙のようなものです。神様からの手紙であって、わたしたちに命を与えるために書かれたものです。わたしたちは、そのことを覚えながら聖書を読まなければならないと思います。

3,

 ヨハネによる福音書には、聖書が書かれた目的について触れる箇所がいくつかあります。その中で今朝のみ言葉と関係する重要な個所は、5章39節と40節です。そこでは「命を得る」と言われている「命」が単なる生物的な命ではないことが明らかにされています。

ヨハネ5章に、38年間も病に苦しんでいた人が、安息日に床を担いで歩きだすようになった奇跡を主イエス様がなさった時に、多くのファリサイ派の人々が主イエス様に詰め寄ってまいります。主イエス様が安息日を破り、またご自分を父なる神の権威を持つと言われたためでした。そのとき、主イエス様はファリサイ派の律法主義的な聖書の読み方を批判なさいました。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。」

 今朝の個所で主イエス様が言われた「命を受ける、命を得る」というその命は、この「永遠の命」であります。

 当時、永遠の命を得ることは、ユダヤ人の最高の望みであり関心事でした。それは救われるということと同じ意味を持ちました。旧約聖書では、「永遠の命」という言葉は、ダニエル書12章と申命記32章40節の二か所に出てきます。たった二か所なのですが、永遠の命は、主イエス様の時代のユダヤ教では、大変クローズアップされていました。実は、そのことこそが新約聖書に永遠の命という言葉が夥しく出てくる理由でもあります。

コンコルダンスと言いましてそれぞれの言葉が聖書のどこに出てくるかを調べた辞書があります。それによりますと、「永遠の命」は、マタイに3回、マルコ2回、ルカ3回、ヨハネによる福音書には実に17回出てきています。ほかには使徒言行録2回、パウロの手紙には9回、そしてヨハネの手紙には6回、ユダの手紙1回です。新約聖書で全部合わせて43回です。特にヨハネが大切にした言葉であることが分かります。

ユダヤ人たちが注目していた、ダニエル書12章2節にどう記されているかといいますと、こうであります。神様からダニエルに、この世の終わりの時についてのみ言葉が示されるのです。こう書かれています。

「多くの者が地のチリの中の眠りから目覚める。あるものは永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。その後にあの有名なみ言葉が続きます。「目覚めて人々は大空の光のように輝き、多くのものの救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」。

当時、ユダヤ人たち、とくに現世的と言われたサドカイ派以外のファリサイ派、あるいはクムランの洞窟から発見された文書で脚光を浴びているエッセネ派というユダヤ教のグループでは、世の終わり、世界の終末が近づいているという思いが強まっていたようです。そういう中でダニエル書が特に注目されていたことは確かであります。

もう一つの申命記32章はモーセの歌と呼ばれるところです。こう記されています。「しかし見よ。わたしこそ、わたしこそそれである。わたしの他に神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れ得るものは、一人もいない。わたしは手を天に上げて誓う。わたしの永遠の命にかけて」

ここでは、神さまの命が永遠の命であると言われています。

 主イエス様は、ご自分を問い詰めるファリサイ派に向かってこう言われました。あなた方は聖書を一生懸命に調べて、そこに書かれていることを実行することによって永遠の命を得ようとしている。しかしそれは違う。聖書はそのようなものではないと言います。そして聖書についてこう結論付けたのです。「ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」。

4,

 今朝のみ言葉でありますヨハネによる福音書20章30節31節は、主イエス様の言葉ではありません。ここは福音書記者ヨハネのあとがきであり、ここまで書いて来たヨハネ自身がここで顔を出しているのです。

 ヨハネは、この書物の目的は、二つあると書いています。第一に、あなた方、つまり聖書を読むすべての読者が、イエスこそ神の子であること、そして「メシア」であると信じるためだと言います。メシアというヘブライ語は、油を注いで任命された救い主のことです。ギリシャ語ではキリストです。ヨハネがこれまで書いて来た主イエス様、イエス・キリストこそ、神の子であると信じること、そして神から救い主として油注がれた、任命されたものだと信じるために書いたというのです。

信じた人はどうなるのかとい言えば、そのことによって命を受けると言われます。そして、その命こそは、イエスの名による命です。名は、その人自身を表します。このことは、先ほど語りました、ヨハネ5章の「永遠の命」とまさしく重なっています。主イエス様のところにゆくことです。このお方によって、わたしたちは新しくされた命を頂くのです。

ここで信じて命を受けると言われていて、「信じることによって」とは言われていないことにわたしたちは注目すべきです。人間の側の信じると言う行為が、救いをもたらすのではなく、あくまでも主イエス様ご自身がわたしたちを救ってくださいます。主イエス様がわたしたちの罪のすべての赦しのために十字架に架かってくださった。死んでおよみがえりになって下さった。今、天におられてわたしたちを見ていてくださる、共にいて下さるのです。わたしたちは、そのような、この世の命を超える神の命、永遠の命をもつことが出来ます。

ところが、もし命を得るのは、「信じることによって」ということが前面に出て、わたしたちの「信じる」と言う行いが救いのもとになると思ってしまうと、その信じ方の程度や真実さということが必ず問われるようになります。そうなりますと、たとえば自分は一日に何時間祈っているかとか、主イエス様にどれだけ従っているかとか、あの人よりもわたしのほうが信仰が深いと言ったことが問題になってくるのです。

それならば、あのファリサイ派が追及していた、どれだけ忠実に、完全に律法を守るか、それによって救われる、命が得られるという信仰のあり方に限りなく近づいてくることになります。

そうではなく、主イエス様ご自身が成してくださった救いの御業によって、わたしたちは命を得ます。神ご自身の恵みによって、わたしたちは命を頂くのです。

この命は、ダニエル書が書いていた、終わりの時にいただくということだけの命ではありません。やがて天国に行って、星になるというだけのことではない。そうではなく、永遠の命、主イエス様による命は、今、このとき、わたしたちが持つことが出来るものです。今新しくされた命によってわたしたちは生きるのです。

主イエス様の愛を頂いたわたしたちは、その主イエス様が聖霊によって、わたしたちの内にいて下さるので、その愛によって生きようと決心し努力します。人間の力により頼むではなく、神様により頼みます。それが命を得る、主イエス様の命を得る、永遠の命を得るということにほかなりません。

このあと聖餐の恵みに与かります。しるしとしての小さなウエファーストぶどう液を食べ、飲見ます。そのことで、わたしたちは主イエス様の肉と血を頂きます。命に与かりましょう。

祈りを致します。