2024年04月21日「イエスと親鸞∼仏教との対話」

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聖書の言葉

ローマの信徒への手紙 3章21節~26節

メッセージ

2024年4月21日(日)熊本伝道所春の特別集会説教

ローマの信徒への手紙、3章21節~26節、10章1~18節「イエスと親鸞」

1、序

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますよう。主の御名によって祈ります。アーメン。

ただいま、ローマの信徒への手紙3章と10章のみ言葉をお読みました。3章の方は後で触れることにしまして、10章14節にこう書かれています。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」

日本にキリスト教が伝来したのは、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが1549年に鹿児島に上陸したときとされています。それ以前に中国にはすでに7世紀にネストリウス派、景教とも言われますが、その宣教師が来ていたという証拠がありますから、それが何らかの仕方で日本にも影響を与えた可能性がありますが、定かではありません。わたしは、もっと早く宣教師が来ていてほしかったと真剣に考えています。

仏教の伝来は西暦538年、あるいは552年と言われます。そし次の世紀の604年に聖徳太子が17条の憲法を制定し、その第二条に三宝を敬うべしと記しました。それ以来、仏教が国教となったのですが、それよりも前に来てほしかったと思っているわけです。

今朝は、お話しの題を「イエスと親鸞」といたしました。もちろん、ここは教会ですので、最終的には、イエス・キリストに焦点を当ててお話を致しますが、同時に日本の仏教の代表格であります親鸞を開祖といたします浄土真宗、さらに空海を開祖とする真言宗についても触れたいと思っています。

もともとの発祥の年代は、三者の中では、まずキリスト、だいぶ月日が経って空海そして親鸞という順番です。この三者の中では、キリストが一番古いということになります。もちろん、仏教自体は、もっと古い歴史を持っています。紀元前6世紀のゴータマシッダルタ、お釈迦様とも言われますが、このブッタこそが、仏教全体の開祖と言ってよいと思います。

イエス・キリストのお生まれは今から数えて2024年前、西暦の1年ということになっています。歴史的、あるいは天文学の証拠からは少し遡って紀元前4年になるという説もあります。ブッタよりも500年も後のお生まれということになります。ところが、仏教の歴史がブッタ以前のバラモン教であるとかインドの古代宗教にさかのぼることが出来るのと同様ですが、キリスト教の歴史も、実はユダヤ教にさかのぼらなければなりません。旧約聖書にはキリスト預言と言うものがありまして、すでにアブラハムと言うユダヤ民族の最初期の先祖の一族に対して、神様の救いの預言、やがてこれがイエスキリストの預言として聖書の中で次第に明確になって行くのですが、すでにそれが預言されています。そうなりますと、これは紀元前4000年,5000年という途方もない昔から、すでにキリスト教の種が歴史の中にまかれていたということになります。

ここでは古さ比べをしているのではなく、キリスト教も仏教も、人類の歴史の中で長い伝統を持っているということを言いたいのであります。そして日本においては仏教が圧倒的に長い歴史を持っております。

さて浄土真宗の本尊は阿弥陀仏、真言宗の本尊は大日如来とされます。真言宗の本を読みますと大日如来は、仏の中の仏であり、また天地宇宙の全てと一体であるとも記されています。阿弥陀仏や大日如来はいつ生まれ、どんな生涯を送ったかというようなことは仏教では問いません。それは歴史を超えて存在します。一方、聖書の神様も歴史を超越している、歴史を超えているという点では同じなのですが、違うところは、聖書の神様は天地創造の神様であるということです。神が初めに天地万物、この世界を愛と祝福をもっておつくりになった。そしてこれを今に至るまで神様の摂理の御業によって保っていてくださるというのです。神様が世界と歴史をおつくりになり、今もご支配されているというのがわたしたちの信仰です。この点は仏教の世界観とはずいぶん違うものです。

空海や真言宗のことを調べているうちに気が付いたことがあります。それは真言宗では大日如来をすべての仏の根源とするということです。いわば全治全能の神であります。昔、イエズス会が日本にやってきて布教しましたが、そのときに父なる神、ゴッドを大日と訳したと聞いて、そうだろうなあと思いました。

実は、キリスト教の信仰は決して単純な一神教ではありません、父なる、子なる神、そして聖霊なる神の三位一体、三つにして一つ、一つにして三つという神秘的な神の愛の交わりの神、です。その完全な愛の交わりは、人間と神との愛の関係、人間と人間との愛の関係のモデルとなるような完全な愛の関係です。聖書の神はただ全知全能であるということではなくて、愛の神である、神は愛なり、というのがわたしたちの信仰なのです。

大日如来が天地万物の源である父なら神に似ているとするとイエス・キリストというお方は、阿弥陀仏と似ているところがあると思います。ただ信仰によって人を救う、まさしく恩寵の救い主でありますが、根本的に違うところがあります。それは何かといいますと、主イエス様は、歴史的な存在であるということです。つまり人間、もちろん普通の人間ではなく悟りを開いた特別な人と言っても良いと思いますが、そういう特別な人が描き出した、これを言ってしまっては申し訳ないと思うのですが、歴史的な実態が伴っていない、いうならば心の中の産物ではないということです。阿弥陀仏と大日如来といった仏様とイエス様との違いは、イエス様が実際に歴史の中でお生まれになり、歴史の中で働かれた方であるということです。ですから、聖書には主イエス様の語られた言葉が記されています。人格を持ったお方なのです。神でありながら人である、これを二性一人格と言います。三位一体の神の愛とイエス・キリストの二世一人格こそ、キリスト教の信仰の核心部分です。

 今朝わたくしは、仏教について、空海について、また親鸞についても部外者の立場としてお話しします。そして決して仏教や空海や親鸞を批判したり、ましてや攻撃したりすることは致しません。それどころか、その素晴らしい真理契機、真理に至る一つの足掛かりとして、これに聞きたい、耳を傾けたいと願っています。

2、

 わたくしが、最初に親鸞について興味を持つ一つのきっかけとことがあります。まずわたくし自身、家に仏壇と神棚のある日本の平均的な家庭に生まれて育ちましたが、実は仏教についてあまり知らないということは分かっておりました。牧師になり、特にこの日本で伝道してゆくためには仏教をもう少し知らなければならないなあといつも思いました。思ってはいてもなかなかできなかったのですが、あるときテレビで仏教の各宗派のお坊さんが登場するバラエティー番組がありました。お坊さんたちが、いろいろな修行について語り合っていました。座禅をしたり、滝に打たれたり、千日回峰や断食などの話が出ました。その中で、浄土真宗のお坊さんがおられて、たった一言、こういわれました。

「わたくしどもは、修業はしません」。これだけですが、はっきりと言われました。わたくしは、大変感心しました。そこで親鸞について少し勉強してみようと思ったのです。そのうちに、親鸞の浄土真宗とは対極にあるのですが、修行の価値を重んじる高野山や比叡山の仏教、あるいは禅宗についても興味を覚えました。真言宗や天台宗、禅宗では修行を重んじます。また修行を積んだ人に通常以上の力や能力が与えられるということを言います。実際に、修行を積んだ僧が加持祈祷や護摩を炊くことによってご利益があるということを申します。

キリスト教の世界でもカトリックの修道院では昔から修行と言うものが行われてきました。カトリックでは、修行を積み、功徳を積んだ聖人たちが歴史上に現れて数々の奇跡をおこなっています。ところがプロテスタントのほうは、救いを得るための修行と言うものを否定しました。けれども、目指している救いそのものについては、共通点が多くあります。仏教の方も同じことがあるのではないかと思います。つまり、仏教と言う世界の中にたくさんの宗派があっても、共通点がある。いうなれば仏という同じ頂を目指して登って行く、その道が違っていると言ってよいのだと思います。キリスト教においても多くの宗派がありますが、同じように、聖書が示している救い、イエス・キリストの救いを目指すという点では共通点があります。同じ頂上を目指しながら違う道を通っていると言えないこともないのです。

ところが、仏教とキリスト教という二つのものにおいては、共通の救いがあるとはとても言えません。これは接点がないのです。ですから、異なる宗教の間では山道は違っても目指す頂は一緒だとはとても言えません。やはり違いがある、ですからどちらが真理なのかという判定は、信じている人がするしかないのですし、そうなると自分が信じる道が真理だと言わなければならないし言うべきであります。論争はしてもよいのですが、結局は、天国に行ってみなければ白黒が付かない、結論は出ません。この世を去って神様の世界、あるいは仏様の世界に入ってみなければわからない、信仰と言いますのはやはり一つの決断によらねばならないということなります。

 もしかすると今日は、この教会の会員の方だけでなく、わたくしは仏教徒であると自称されている方も何人かはおられるのではないと思います。しかし、一口に仏教と言いましても、ただ手を合わせればいいというのではなくて、歴史があり、内容があるんですね。けれども多くの方は、あまり理解しておられないこのようにも思うわけです。

 仏教では、三大宗派、あるいは四大宗派と言ってよいと思いますがいくつもの宗派があります。主な四つは、浄土真宗、真言宗、臨済宗、天台宗、そして日蓮宗ですね。真言宗のもっとも大きな本山は高野山金剛峰寺です。けれどもそれだけでなく真言宗18本山というものがあるそうです。また、浄土真宗の方に目を向けますと真宗十派といって、主な物だけで10の本山がある、ということです。その歴史や教えが分かれています。三大宗派四大宗派のもう一つを形作っている、天台宗も大乗連盟12宗派というものがあるそうです。分かれていましても、それぞれ共通の教えであるので仏教と言う一括りの中に入っています。それ以外にも日蓮宗や、浄土宗、奈良仏教の流れなど、まあこれだけ数えれば、日本のお寺の7割8割は行くのではと思います。

 ある方の御意見では、仏教は宗教というより哲学ではないかともいわれています。けれども決してそうではありません。キリスト教にもキリスト教哲学というものがありますがキリスト教が宗教でないとは言いません。先ほどの各宗派には名号とか題目、つまり合言葉のようなものがあります。掛け軸に書いて飾っておくものでもあります。天台宗なら南無釈迦牟尼仏、真言宗は南無大師遍照金剛、浄土真宗は南無阿弥陀仏、日蓮宗は南無法連華教,南妙法蓮華教とも言います。この南無というのが共通しています。これはサンスクリット語で「帰依します、より頼みます」という意味だそうです。仏となった仏教の開祖は釈迦牟尼です。このお釈迦様に帰依すると唱えるのが天台宗ですが、他の宗派は違う唱え方をします。南無遍照金剛、間に大師つまり空海が入ります。金剛は大日ですから、つまり大日如来により頼みます。真宗は阿弥陀仏により頼みます。日蓮宗は法華経の教えに帰依します。こういうわけであります。より頼む、帰依する、頼りにする、ゆだねるということが信仰の根本です。

キリスト教神学の世界で近代神学の父と呼ばれましたシュライエルマッハというドイツの牧師がおります。彼は、キリスト教信仰の本質は何かといいますと、それは「絶対依存の感情」だと断じました。何に依存するか、帰依するかと言えば、当然、イエス・キリストということになります。古代や中世の信仰では、帰依する対象、何に帰依するか、依存するかと言うことが大切でした。神を求め続けました。しかし、近代人は神とか奇跡とか見えない世界とかがだんだんに信じられなくなってきた。そこで信じる側の心と言いうか感情にこそ、宗教の本質があると言い始めたのです。わたしたちが属します、日本キリスト改革派教会は保守的な信仰を守って行こうというのが旗印ですのでシュライエルマッハ先生にはついてゆきません。しかし、そういう近代主義のキリスト教でもやはり、帰依する依存するということが大切だと言ったのであります。

哲学や心理学は、この世界や、かの世界についていろいろ考えをめぐらしますが、帰依するとか依存するという姿勢があるかといえば、そういうことではない、ですから、もしも仏教の哲学的な面だけを見るならば、これは仏教の大切なところを見落としているということです。やはり、大日如来にせよ、阿弥陀如来、釈迦牟尼仏にせよ、南無、何とかという限りは、これは哲学に終わらないでやはり宗教ということになります。

仏教は、ゴータマ・シッタルタ、この方は紀元前6世紀のインドの釈迦族の王子さまだそうですが、釈迦によって開かれたといいます。けれども、輪廻転生とか六正道、あるいは三界、三界に家無しという三界です。諸行無常、諸法無碍、そして悟りを開くこういう思想は、釈迦の生まれる前からインドのバラモン教とかインド哲学の中にいろいろな形で存在していたのだそうです。釈迦は、これらを物事をもっと深く考えた、そしてそれらの思想哲学を前提に悟りを開く、人々に教えて弟子集団をつくるというという実践に優れていた人と思います。

聖書には旧約聖書と新約聖書があります。教会の信仰においては、それは聖典、聖なる経典、同時に基準となる正しい教え、正典でもあります。実は、その教えには素晴らしい統一性と一貫性があります。その中で、旧約聖書は天地創造と罪の問題、そしてイスラエルの歴史、それらを通して救い主である主イエスを予言するという内容を持っています。その旧約聖書を前提に書かれた新約聖書は、救い主であるイエス・キリストのご生涯と教え、そして12弟子とパウロの教えを内容としています。それらは、すべて神様の啓示であると考えます。

仏教の経典の場合には、少し違う、すべては釈迦の言葉であるとされていたのですが、実は、その弟子たちがそれらを書いたという点では聖書と似ています。しかし、それらの経典の一貫性とか統一性という点では、聖書に及ばないようです。ですから、一口に仏教といいましても、大乗、小乗、自力、他力とても幅があります。

空海と言う人は、西暦774年に四国の讃岐で生まれました。31歳で奈良の東大寺で得度して唐へ留学します。長安の青龍寺で恵果和尚より真言密教を授けられて帰国し、高野山を開いて真言宗の開祖となりました。比叡山延暦寺を開いた最澄、伝教大師とはほぼ同じ時期に留学していますが、両者は帰国後も交流をしますが、ライバルでもあり、ある時期から断絶したとも言われます。延暦寺は天台宗の本山となって天台密教を広め、高野山は真言密教を広めます。空海と言う人は、日本仏教界のカリスマともいわれています。多くの真言宗の本を著し、書の達人であり、各地を巡って橋を架けたり農業の指導をしたりして様々な事業も行いました。信仰の面では基本的には空海は密教一筋に歩みました。高野山が密教の聖地となるゆえんであります。

一方、最澄が開いた延暦寺は、広く仏教全体を見渡すようなやり方で、念仏あり、禅あり、曼荼羅ありということで、仏教の教えのデパートとも言われるそうです。親鸞や日蓮、禅宗の道元や栄西といった、後に花開く鎌倉仏教の天才たちの多くは比叡山で学んでいます。

さて親鸞ですが、わたくしは、親鸞という人は宗教改革者ルターに似ていると思いました。そういえば今年は、ルターが宗教改革の烽火を上げて戦いを初めてから507年経ちました。ルターは1483年に生まれ18歳で修道院に入って修行します。そして修行しても修行しても救いの確信が得られないために聖書を徹底的に読むようになります。そして「信仰のみ」、「恵みのみ」の信仰に達するのです。34歳の時、1617年10月に95か条の提題を出して当時のカトリック教会の教えを改革しようとしました。結局、3年後にカトリック教会から破門されてしまい、プロテスタント教会が始まったというわけです。

一方親鸞は、1173生まれですのでルターよりも450年くらい前の人です。8歳で出家して比叡山で修行します。30歳になるかならないうちに、修行に行き詰まるのです。そして法然の念仏宗に救いを見出します。90歳で死ぬまで阿弥陀如来の慈悲一本やりで布教にまい進するのですね。親鸞は教行信証をはじめ多くの書物を書きますが、親鸞の死後30年ほどして弟子たちが親鸞の教えをまとめた歎異抄という書物が有名です。

実は、ルターという人は、決して新しい宗派をつくろうとしたのではありませんでした。そうではなくカトリックの中で、聖書と古代教会の教えに立ち返ろうとしたのです。つまりルターの教えによってプロテスタントが始まったということではないのです。ですからキリスト教会にも多くの宗派がありますが、すべては聖書と古代教会の教えを根本としています。この点は、重んじる経典や開祖の教えによって、大きな幅を持っている仏教の宗派とは違うところです。

3、

 わたくしが親鸞に特に惹かれますのは、真宗のおしえというものが驚くほど主イエス様やパウロの教えに似ているようだからであります。親鸞は聖書を読んだのではないか、と思う程です。親鸞は絶対他力、純粋他力による往生、つまり仏の慈悲の救いを唱えます。主イエス様やパウロもまた、神の恵みによる救い、信仰による救いを教えています。また、この世界には、憎しみや、恨み、怒りが決してなくならない、そういう煩悩の世界とそこに生きる人間を考察して、すべての人は悪人である、悪の根がある、と断ずるのです。そのうえで悪人正機という阿弥陀如来の救いを教えの中心に置きました。

 旧約聖書、新約聖書が一貫して教えるのは、人間は神様が造ってくださった祝福された世界から落ちてしまったということです。人は今や、堕落と罪と悲惨の世界に生きていると断じます。しかし、神はその罪と悲惨の人間を愛して、イエス・キリストの十字架によって救ってくださるのです。

 親鸞、あるいは親鸞の師匠の法然のことを知って、わたくしは、あの日本にまだキリスト教が伝えられていない鎌倉時代に、よくぞここまでの人間観察ができたなあと驚くばかりです。

 悪人正機とは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という歎異抄第3章の冒頭の言葉に出てくる教えです。世の人は、善人こそが救われると思っている。その根底に、人は自らの善、つまり自力によって救われるという考えがある。しかしそう思っている間は、阿弥陀仏の心から外れている。自力を頼むことが出来ない悪人こそが、真の他力、阿弥陀仏の本願、その御心によって救われるというものです。

 旧約聖書のエゼキエル書33章11節にこうあります。エゼキエルという預言者の口を通して語られた神様の言葉です。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち返って生きることをよろこぶ。」

そして新約聖書のローマの信徒への手紙3章でパウロという初代教会の指導者がこう語ります。20節21節「律法を実行することによっては、誰一人神の前に義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって神の義が示されました。すなわちイエス・キリストを信じることによって信じる者すべてに与えられる神の義です。」。

24節では「人はみな、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあります。「神の恵みにより無償で」つまり、まったく代価を払わないで、自分の力によるのではなく、神の恵みによって救ってくださるのです。

 人は、罪のうちにある、しかし、神は恵みによって救ってくださる。その恵みの中心に主イエス様がおられるのです。

 親鸞は、人間の悪い心、わたくしたちの悪い心、そこから出てくる悪い言葉や悪い行い、憎しみや恨み、妬み。むさぼりに生きるわたしたちは、彼の言い方をすると煩悩具足の凡人は、ただ阿弥陀仏の慈悲によって往生するといい、南無阿弥陀仏、阿弥仏に帰依しますという南無阿弥陀仏の念仏だけでそのまま救われるといいました。そして親鸞は、救いを受けたものの生活にも心を向けています。それは「本願ぼこり」への批判という形で現れます。本願ぼこりとは、はじめの意味は、阿弥陀仏を誇りとするという良い想いでしたが、次第に阿弥陀仏の救いの心を得意にして、それをかさに着て、殺生や盗みや嘘偽り邪淫などの悪行を平気で行って、それでも救われるという人のことを指すようになりました。歎異抄第13章に示されていますが、親鸞は、この「本願ぼこり」を批判して、報恩感謝の生活こそ大切だと説いています。

 新約聖書が語る初代のキリスト教会の中にも、イエス・キリストの恵みは罪が増し加わるところにいよいよ満ちあふれるのだから、どんどん罪を犯そうというものが現れたようです。パウロはローマの信徒への手紙6章でこう言っています。

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない」そして「救われたものこそ、新しい命に生きよう」と呼びかけるのです。

 主イエス様は、山上の説教の中で、八つの祝福の教えを語られました。最初の四つは、主イエス様が、どんな人を救うのかを語ったものです。

「こころの貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人たちは幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人、つまり力のない人のことですが、柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え乾く人たちは幸いである。その人たちは満たされる。」主イエス様は、心が空っぽなほどに打ちひしがれている人、悲しんでいる人、苦しんでいる人こそ、わたしのところに来なさい。わたしが癒し慰め、力を与えるといわれました。

4、

わたくしは、親鸞にせよ、蓮如にせよ、日蓮と言った鎌倉仏教の先人たちは、本当にすごいなあと思っています。もっと前に人である空海、この人も天才だと思います。そうであればこそ、彼らが聖書を読み、イエス・キリストの福音を聞いていたら、どんな風に歴史が変わっていただろうと思うのです。事実、ルターの活躍から数十年後、対抗改革で元気になったカトリック教会は日本まで宣教師を送りました。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した1549年から50年で信者は30万人に達したといわれます。しかも布教開始40年後にはすでに秀吉の禁教令、バテレン追放令も出されているのです。当時の人口は1200万人から1300万人と言われますから、人口の3パーセントですね。50年で三パーセントというのはすごい勢いであると思います。その背景には、わたくしは、鎌倉仏教の深い人間観察と世界観察、その洞察というものが、日本の精神世界という土地をたがやしていたのではないかと思うのです。

 キリスト教信仰は、西洋のものだとか、あるいは砂漠の宗教で日本には向かないということは決してありません。神の救いの恵み、イエス・キリストの福音は、特定の文化や風土のものではなく、人類共通の遺産であります。

主イエス様が十字架におかかりになり、罪のうちに苦しむ人と世界の贖罪、罪の贖いを果たされました。そして復活されたということは何を意味しているのでしょうか。人間にとって最大の試練、苦しみのもとである死が打ち破られたことであり、そして主イエス・キリストが今も天において生きておられるということを意味しています。神の恵みが、人間の記憶や心の思いにおける一過性のこと不確かなことではなく、永続的なこと、今も与えられ続けていることを示しています。お祈りを致します。

祈り

わたしたちの救い主であり今も生きておられる恵みの神、父子御霊の三つにして一人の神、御名を崇めます。

始めに父なる神の御計画があり、天地の創造から世の終わりに至るまで、すべてのことを三位一体の神様が導いてくださることを感謝します。この地上世界は天国ではなく、人は天使や聖人でもなく、むしろ深いところで罪に汚れ、悪と悲惨とが至るところに顔を除かせます。わたしたちとたちと世界は、救いを必要としています。何か熱狂的な、あるいは自己を抹殺するようなカルト的な救いの道ではなく、むしろ自由をもたらし、本当の意味で世界を救うお方は、あなた以外にはおられないことを信じます。今日もあなたがお働きくださることを感謝します。どうか一人でも多くの方が聖書に触れ、救い主イエス・キリストの恵みにあずかることが出来ますように導いてください。主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。