聖書の言葉 ヨハネによる福音書 20章11節~18節 メッセージ 2024年4月7日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書20章11~18節「もう泣かなくてもよい」 1、 今朝の礼拝にお集まりの方の上に主イエス・キリストのめぐが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 わたくしたちは、先週の主の日にイースターを祝いました。今週もまた復活の主イエス・キリストが、引き続いて共にいてくださることと信じます。 先ほどヨハネによる福音書20章11節から18節のみ言葉をご一緒にお聞きしました。先週は同じ20章の1節から18節までを全部通してお読みしました。今朝は、その後半部分を中心にしてみ言葉の解き明かしを致します。 御言葉の前半部分の10節まで、正確には13節までですけれども、そこにはまだ復活の主イエス様は姿を現されてはおりません。20章3節と13節で、マグダラのマリアは「主が墓から取り去られました」という言葉を、二度繰り返しています。一度目は、墓の中に遺体がないことを発見してすぐに弟子たちのリーダーであったシモン・ペトロのもとに走って行って告げた時です。「主が墓から取り去られました」 ヨハネによる福音書では、マリアは墓の入り口から石が転がしてあったのを見ただけのように記して、墓の中を見たとは書いていません。けれども、マタイとルカの二つの福音書を見ると、マリアは墓の中に遺体がないことをしっかりと確認しています。 そして二度目は、再び墓に帰って来たときです。今度は白い衣を着て墓の中に座っていた二人の人に向かって同じ言葉をかけました。彼らは天使だったとありますがマリアは気が付きません。「わたしの主が墓から取り去られました」。 「墓に主イエス様のご遺体がない」、それがマリアの見出したことです。誰かが、主イエス様の遺体を盗み出したというのです。 13節では、マリアが「わたしの」という言葉を付け加えていることに心を留めたいと思います。その意味は、「わたしの主のなきがら」です。マリアは愛する主のなきがらのこと言っています。 イースターの日の墓前礼拝で、わたしたちは昨年亡くなられた徳丸洋子姉妹の納骨式を致しました。愛する家族が亡くなると、わたしたちは悲しみます。そして、長い時間をおくことなく葬儀式を行い、遺体を火葬に付し、そして遺骨を墓に納めます。そしてそれは一つの区切りのときともなります。もちろん悲しみや寂しさがなくなったわけではありませんが、遺骨を墓に納め、前を向いて改めて進んで行かなければなりません。 マリアは、まだそれが出来ていません。三日前に十字架の上で死なれた主イエス様を目の前にしたばかりです。当時は、火葬は行われず、なきがらは頭から足の先まで防腐剤と香料をしみこませた亜麻布で巻いて墓に納められました。 マグダラのマリアは、ルカによる福音書8章によれば7つの悪霊を追い出していただいてから、他の弟子たちとともに主イエス様に従って旅をして、ガリラヤからユダヤの町々を巡って主イエス様にお仕えしていた女性の弟子です。 主イエス様に対する彼女の思いはことのほか強く、今は毎日でも墓に行って主イエス様の御遺体と時間を共にしたいと願っているのです。七つの悪霊によって苦しめられていた我が身を癒し救ってくださった主イエス様、そしてその主イエス様と一緒に旅をして福音を宣べ伝えた思い出から離れることが出来ません。このときマリアにとって主イエス様は、もう起き上がる事のない死んだイエスであり、決して忘れることなどできない過去の時間の中の主イエス様でありました。しかし、その大切な主イエス様の遺体までが取り去られていたのです。 2、 さて、先週お読みしました20章2節と4節には、「走る」という言葉が、繰り返し出てきます。すぐにほかの弟子たちに知らせなければならない。そして一刻も早く墓を確認しなければならない。事柄は重大であり、歩いてなどいられなかったのです。墓はゴルゴダの丘の近くですが、弟子たちがいつも集まっていた家はエルサレムの城壁の内側だと思われます。おそらく一キロ近くの距離を走り、二人は競争するようにして墓に向かいました。夜明けの「駆けっこ」です。二人とも息を切らせて一所懸命に走ったことでしょう。先にヨハネが着いてすぐに身をかがめて墓を覗きました。ペトロもすぐに追いついて二人はハーハー言いながら一緒に墓の中に入ります。確かに、墓の中には主イエスさまの遺体はありませんでした。あったのは、遺体を巻いていた亜麻布だけでありました。このことを確認し、男の弟子たちは家に帰りました。ユダヤ人たちを恐れていたので、すぐに帰りたかったのだと思います。 しかし、女たちは残りました。そして、墓の外に立って泣いていました。そのとき主イエス様がマグダラのマリアに会って下さるのです。 先日の月曜日だったと思いますが、阿蘇の一心行の大櫻を見に行きました。途中の道に「散り始め」と案内がありました。確かにだいぶ散っていたのですが、花が少ないのはそのせいだけではないことが分かりました。樹齢400年の大櫻は大きな枝ぶりのヤマザクラですが、木の勢いがだいぶ弱っているのです。樹木の専門家によって治療中との看板がありました。どんなに立派な木であってもやがて枯れる時が来ると思います。しかしこの大櫻は、まだまだその時ではないと頑張っているように見えました。しかし、地上のどんな命も永遠に生きることは出来ません。しかし主イエス様は、お蘇りになり永遠に生きるお方となられました。 現代において死んだ人がもう一度生き返るということは、決してあり得ないことではありません。臓器移植で焦点となる脳死は、脳が死んでいても心臓は動いている状態です。しかし心臓が止まってしまうと死と判定されます。心臓が止まった人を蘇生させるために行われるのが心臓マッサージと人口呼吸です。短い時間ならば人は、死から蘇生することが出来ます。現代の日本の法律では、医師による死亡判定から24時間経過しなければ火葬に付すことは出来ません。蘇生する可能性が残っているからです。しかし、主イエス様が死んで葬られてから三日が経っていました。主イエス様は、完全な死を経てお蘇りになりました。 その復活と言う神の奇跡をまだ知らないマグダラのマリアは、墓の外で泣いていました。そこに墓の中に二人の天使が見えます。主イエス様がおられた場所の足と頭の位置を挟むようにして座っているのが見えました。そしてマリアに向かって、なぜ泣くのか、あなたが泣く理由はない、もう泣かなくてもよい、と告げ知らせました。 二人が天使であるとわからないマリアは答えました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか私にはわかりません。」遺体の場所を教えて欲しいというのです。 そのとき墓の外に立っているマリアの後ろに主イエス様がおられました。しかし、イエス様だと分からなかったのです。マリアは言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこにおいたのか教えて下さい。わたしがあの方を引き取ります。」マリアは、主イエス様を園丁、あるいは墓地の管理人だと思ったのです。マリアが求めていたのは、あくまで主イエス様の亡骸だったからです。 その人は、ひとこと言いました。「マリア」。聞き覚えのある声です。確かにイエス様の声です。マリアは、反射的に答えました。「ラボニ」、これはヘブライ語の先生、レビという言葉の丁寧な呼びかけの形です。そのあとマリアはどうしたのでしょう。詳しくは書かれていませんが、次の言葉からとっさに主イエス様にしがみついたのだとおもわれます。 3 主イエス様は言われました。「しがみつくのはよしなさい」そしてこう続けられます。「まだ父のもとに昇っていないのだから」。 「しがみつく」と訳されている元の言葉は、新約聖書に40回近く出るありふれた言葉です。ともしびを点ける、点火する、という意味と、触る、つかむ、握るという、大別すると二つの意味があります。ここは、直訳すれば「触っていてはいけない」となると思います。新改訳もフランシスコ会訳も、この新共同訳と同じように「しがみつくのはよしなさい」、「しがみついてはいけない」と訳しています。まるで、マリアの激しい行動を思わせるような訳です。もっとも、最近出ました新しい聖書協会共同訳では「わたしに触れてはいけない」と少しそっけない仕方で訳しています。死んだはずであり、また遺体が取り去られたはずの主イエス様が、なぜかわからないけれども思いがけなく現れて下さった。そしてかつてのように「マリア」と名を呼んでくださったのですから激しい動作に出ざるを得なかったと推定できます。 復活された主イエス様は、実は、これまでの主イエス様とは違います。それは永遠の神、栄光の神としてのお姿を現されている主イエス様です。そしてこれから天へ帰ろうとしておられるのです。しかし、マリアはこのことが分かりません。それどころか、マリアはこれまでの地上のイエス様のお姿を相変わらず求め、栄光のお姿があらわれることを押しとどめるかのようにして、主イエス様の見える体にすがりつくのです。 彼女は、ここでは生きておられる神、救い主として主イエス様を崇め礼拝するのではなく、わたしの主、としてのかつての地上のお姿にこだわり続けているのです。 主イエス様は、他の弟子たちにこう伝えるように命じられました。「『わたしの父であり、あなた方の父である方、またわたしの神である方のところへわたしは上る』と兄弟たちに伝えなさい。 正気に返ったマリアは、主イエス様の体から手を離し、言われた通りにほかの弟子たちのところへ行って、このことを伝えました。 わたしたちは、地上のものを神様から与えられています。そのことを喜び、また主の喜ばれる仕方でそれらを用いようと致します。しかし、同時に地上のもの、見えるものには必ず終りがあるということに気が付かず、ときにそれらに執着し、しがみつくということがあるのだと思います。マリアが、墓を容易に離れず、泣き続けている、まさしくそのような姿をわたしたち自身がとるのです。主イエス様は、マリアにやさしく声をかけて下さいます。「婦人よ」「私にしがみつくのはよしなさい」 4、 わたしたちは、主イエス様を信じた時、すでに地上の命を超えた神の命に生きています。その新しい命は、今は未完成です。やがて、新しい世界、完成した神の国、新天新地がくるときに、完成します。そのとき、主イエス様の栄光が、完全な形でその姿を現します。その時まで、わたしたちは主イエス様と肉の目でお目にかかることが出来ません。けれども、聖霊によってわたしたちの心の目でそのお姿をいつも見ています。 聖書の御言葉と聖霊の証しによって、主イエス様を信じて礼拝するのです。復活の主イエス様は、今天におられます。わたしたちは、わたしたち自身の地上の命が終わるとき、必ず、復活の主イエス様にお会いすることが出来ると心に示され、信じています。 わたしたちが天の御国で主イエス様にお会いできるときは必ず来ます。それはわたしたちが召された時であり、同時に新しい天と新しい地がこの世界に現われた時です。その時には、主イエス様は、「わたしにしがみつくのはよしなさい」とは言われないでしょう。わたしたちが主イエス様にしがみつく必要がないからです。わたしたち自身も新しい命に生まれ変わり、父なる神様と主イエス様と共に永遠にいることになるからであります。 イースターの恵みがまだ息づいている今朝のこのとき、改めてそのことを覚えたいと思います。祈ります。 祈り 天の父なる神様、尊い御名を崇めます。主イエス・キリストは死んでお蘇りになり、今も生きておられます。わたしたちはこのことを信じます。どうか、私たちが力を失い、ときにはくず折れてしまうような危機に出会い、その中を歩むときも、主イエス様は、変わることなく私たちを愛し続けていて下さいます。そのことを信じ、再び立ち上がることが出来ますよう、祈りの中で導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2024年4月7日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書20章11~18節「もう泣かなくてもよい」
1、
今朝の礼拝にお集まりの方の上に主イエス・キリストのめぐが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
わたくしたちは、先週の主の日にイースターを祝いました。今週もまた復活の主イエス・キリストが、引き続いて共にいてくださることと信じます。
先ほどヨハネによる福音書20章11節から18節のみ言葉をご一緒にお聞きしました。先週は同じ20章の1節から18節までを全部通してお読みしました。今朝は、その後半部分を中心にしてみ言葉の解き明かしを致します。
御言葉の前半部分の10節まで、正確には13節までですけれども、そこにはまだ復活の主イエス様は姿を現されてはおりません。20章3節と13節で、マグダラのマリアは「主が墓から取り去られました」という言葉を、二度繰り返しています。一度目は、墓の中に遺体がないことを発見してすぐに弟子たちのリーダーであったシモン・ペトロのもとに走って行って告げた時です。「主が墓から取り去られました」
ヨハネによる福音書では、マリアは墓の入り口から石が転がしてあったのを見ただけのように記して、墓の中を見たとは書いていません。けれども、マタイとルカの二つの福音書を見ると、マリアは墓の中に遺体がないことをしっかりと確認しています。
そして二度目は、再び墓に帰って来たときです。今度は白い衣を着て墓の中に座っていた二人の人に向かって同じ言葉をかけました。彼らは天使だったとありますがマリアは気が付きません。「わたしの主が墓から取り去られました」。
「墓に主イエス様のご遺体がない」、それがマリアの見出したことです。誰かが、主イエス様の遺体を盗み出したというのです。
13節では、マリアが「わたしの」という言葉を付け加えていることに心を留めたいと思います。その意味は、「わたしの主のなきがら」です。マリアは愛する主のなきがらのこと言っています。
イースターの日の墓前礼拝で、わたしたちは昨年亡くなられた徳丸洋子姉妹の納骨式を致しました。愛する家族が亡くなると、わたしたちは悲しみます。そして、長い時間をおくことなく葬儀式を行い、遺体を火葬に付し、そして遺骨を墓に納めます。そしてそれは一つの区切りのときともなります。もちろん悲しみや寂しさがなくなったわけではありませんが、遺骨を墓に納め、前を向いて改めて進んで行かなければなりません。
マリアは、まだそれが出来ていません。三日前に十字架の上で死なれた主イエス様を目の前にしたばかりです。当時は、火葬は行われず、なきがらは頭から足の先まで防腐剤と香料をしみこませた亜麻布で巻いて墓に納められました。
マグダラのマリアは、ルカによる福音書8章によれば7つの悪霊を追い出していただいてから、他の弟子たちとともに主イエス様に従って旅をして、ガリラヤからユダヤの町々を巡って主イエス様にお仕えしていた女性の弟子です。
主イエス様に対する彼女の思いはことのほか強く、今は毎日でも墓に行って主イエス様の御遺体と時間を共にしたいと願っているのです。七つの悪霊によって苦しめられていた我が身を癒し救ってくださった主イエス様、そしてその主イエス様と一緒に旅をして福音を宣べ伝えた思い出から離れることが出来ません。このときマリアにとって主イエス様は、もう起き上がる事のない死んだイエスであり、決して忘れることなどできない過去の時間の中の主イエス様でありました。しかし、その大切な主イエス様の遺体までが取り去られていたのです。
2、
さて、先週お読みしました20章2節と4節には、「走る」という言葉が、繰り返し出てきます。すぐにほかの弟子たちに知らせなければならない。そして一刻も早く墓を確認しなければならない。事柄は重大であり、歩いてなどいられなかったのです。墓はゴルゴダの丘の近くですが、弟子たちがいつも集まっていた家はエルサレムの城壁の内側だと思われます。おそらく一キロ近くの距離を走り、二人は競争するようにして墓に向かいました。夜明けの「駆けっこ」です。二人とも息を切らせて一所懸命に走ったことでしょう。先にヨハネが着いてすぐに身をかがめて墓を覗きました。ペトロもすぐに追いついて二人はハーハー言いながら一緒に墓の中に入ります。確かに、墓の中には主イエスさまの遺体はありませんでした。あったのは、遺体を巻いていた亜麻布だけでありました。このことを確認し、男の弟子たちは家に帰りました。ユダヤ人たちを恐れていたので、すぐに帰りたかったのだと思います。
しかし、女たちは残りました。そして、墓の外に立って泣いていました。そのとき主イエス様がマグダラのマリアに会って下さるのです。
先日の月曜日だったと思いますが、阿蘇の一心行の大櫻を見に行きました。途中の道に「散り始め」と案内がありました。確かにだいぶ散っていたのですが、花が少ないのはそのせいだけではないことが分かりました。樹齢400年の大櫻は大きな枝ぶりのヤマザクラですが、木の勢いがだいぶ弱っているのです。樹木の専門家によって治療中との看板がありました。どんなに立派な木であってもやがて枯れる時が来ると思います。しかしこの大櫻は、まだまだその時ではないと頑張っているように見えました。しかし、地上のどんな命も永遠に生きることは出来ません。しかし主イエス様は、お蘇りになり永遠に生きるお方となられました。
現代において死んだ人がもう一度生き返るということは、決してあり得ないことではありません。臓器移植で焦点となる脳死は、脳が死んでいても心臓は動いている状態です。しかし心臓が止まってしまうと死と判定されます。心臓が止まった人を蘇生させるために行われるのが心臓マッサージと人口呼吸です。短い時間ならば人は、死から蘇生することが出来ます。現代の日本の法律では、医師による死亡判定から24時間経過しなければ火葬に付すことは出来ません。蘇生する可能性が残っているからです。しかし、主イエス様が死んで葬られてから三日が経っていました。主イエス様は、完全な死を経てお蘇りになりました。
その復活と言う神の奇跡をまだ知らないマグダラのマリアは、墓の外で泣いていました。そこに墓の中に二人の天使が見えます。主イエス様がおられた場所の足と頭の位置を挟むようにして座っているのが見えました。そしてマリアに向かって、なぜ泣くのか、あなたが泣く理由はない、もう泣かなくてもよい、と告げ知らせました。
二人が天使であるとわからないマリアは答えました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか私にはわかりません。」遺体の場所を教えて欲しいというのです。
そのとき墓の外に立っているマリアの後ろに主イエス様がおられました。しかし、イエス様だと分からなかったのです。マリアは言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこにおいたのか教えて下さい。わたしがあの方を引き取ります。」マリアは、主イエス様を園丁、あるいは墓地の管理人だと思ったのです。マリアが求めていたのは、あくまで主イエス様の亡骸だったからです。
その人は、ひとこと言いました。「マリア」。聞き覚えのある声です。確かにイエス様の声です。マリアは、反射的に答えました。「ラボニ」、これはヘブライ語の先生、レビという言葉の丁寧な呼びかけの形です。そのあとマリアはどうしたのでしょう。詳しくは書かれていませんが、次の言葉からとっさに主イエス様にしがみついたのだとおもわれます。
3
主イエス様は言われました。「しがみつくのはよしなさい」そしてこう続けられます。「まだ父のもとに昇っていないのだから」。
「しがみつく」と訳されている元の言葉は、新約聖書に40回近く出るありふれた言葉です。ともしびを点ける、点火する、という意味と、触る、つかむ、握るという、大別すると二つの意味があります。ここは、直訳すれば「触っていてはいけない」となると思います。新改訳もフランシスコ会訳も、この新共同訳と同じように「しがみつくのはよしなさい」、「しがみついてはいけない」と訳しています。まるで、マリアの激しい行動を思わせるような訳です。もっとも、最近出ました新しい聖書協会共同訳では「わたしに触れてはいけない」と少しそっけない仕方で訳しています。死んだはずであり、また遺体が取り去られたはずの主イエス様が、なぜかわからないけれども思いがけなく現れて下さった。そしてかつてのように「マリア」と名を呼んでくださったのですから激しい動作に出ざるを得なかったと推定できます。
復活された主イエス様は、実は、これまでの主イエス様とは違います。それは永遠の神、栄光の神としてのお姿を現されている主イエス様です。そしてこれから天へ帰ろうとしておられるのです。しかし、マリアはこのことが分かりません。それどころか、マリアはこれまでの地上のイエス様のお姿を相変わらず求め、栄光のお姿があらわれることを押しとどめるかのようにして、主イエス様の見える体にすがりつくのです。
彼女は、ここでは生きておられる神、救い主として主イエス様を崇め礼拝するのではなく、わたしの主、としてのかつての地上のお姿にこだわり続けているのです。
主イエス様は、他の弟子たちにこう伝えるように命じられました。「『わたしの父であり、あなた方の父である方、またわたしの神である方のところへわたしは上る』と兄弟たちに伝えなさい。
正気に返ったマリアは、主イエス様の体から手を離し、言われた通りにほかの弟子たちのところへ行って、このことを伝えました。
わたしたちは、地上のものを神様から与えられています。そのことを喜び、また主の喜ばれる仕方でそれらを用いようと致します。しかし、同時に地上のもの、見えるものには必ず終りがあるということに気が付かず、ときにそれらに執着し、しがみつくということがあるのだと思います。マリアが、墓を容易に離れず、泣き続けている、まさしくそのような姿をわたしたち自身がとるのです。主イエス様は、マリアにやさしく声をかけて下さいます。「婦人よ」「私にしがみつくのはよしなさい」
4、
わたしたちは、主イエス様を信じた時、すでに地上の命を超えた神の命に生きています。その新しい命は、今は未完成です。やがて、新しい世界、完成した神の国、新天新地がくるときに、完成します。そのとき、主イエス様の栄光が、完全な形でその姿を現します。その時まで、わたしたちは主イエス様と肉の目でお目にかかることが出来ません。けれども、聖霊によってわたしたちの心の目でそのお姿をいつも見ています。
聖書の御言葉と聖霊の証しによって、主イエス様を信じて礼拝するのです。復活の主イエス様は、今天におられます。わたしたちは、わたしたち自身の地上の命が終わるとき、必ず、復活の主イエス様にお会いすることが出来ると心に示され、信じています。
わたしたちが天の御国で主イエス様にお会いできるときは必ず来ます。それはわたしたちが召された時であり、同時に新しい天と新しい地がこの世界に現われた時です。その時には、主イエス様は、「わたしにしがみつくのはよしなさい」とは言われないでしょう。わたしたちが主イエス様にしがみつく必要がないからです。わたしたち自身も新しい命に生まれ変わり、父なる神様と主イエス様と共に永遠にいることになるからであります。
イースターの恵みがまだ息づいている今朝のこのとき、改めてそのことを覚えたいと思います。祈ります。
祈り
天の父なる神様、尊い御名を崇めます。主イエス・キリストは死んでお蘇りになり、今も生きておられます。わたしたちはこのことを信じます。どうか、私たちが力を失い、ときにはくず折れてしまうような危機に出会い、その中を歩むときも、主イエス様は、変わることなく私たちを愛し続けていて下さいます。そのことを信じ、再び立ち上がることが出来ますよう、祈りの中で導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。