2024年03月31日「イエス、復活する」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 20章1節~10節

メッセージ

2024年3月31日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書20章1~18節「主イエス、復活する」

1、

 イースター、おめでとうございます。今日、この朝に復活の主イエス・キリストが、みなさまと共にいてくださいますように。また復活の主の恵みが豊かに注がれますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

 昨年も一昨年も同じようにしましたけれど、今朝もまた、イースターの恵みを覚えながら祝いのために白いネクタイを身につけました。白ネクタイを日曜日の朝に締めながら、今年もまた主の憐みの中でイースターを迎えることが出来た、この恵みに皆さんと共に与ることができた、奉仕を続けることを許されたという感慨を覚えました。あらためて申し上げます。イースターおめでとうございます。

初代教会の大伝道者、また神学者である使徒パウロは、コリントの信徒への手紙1、15章3節から5節で、次のように書いています。お読みしますのでお聞きください。

「もっとも大切なこととして、わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち。キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後、十二人に現れたことです。」

パウロは、特にローマの教会に向けた手紙の中で、主イエス様の罪の贖い、わたした救いの根拠として、十字架を語りました。わたしたち自身の正しさや清さではなく、神の御子の命によって罪が赦され、義とされた、信仰義認の恵みを語りました。一方コリント書では、それと全く同じ重みをもつこととして、主イエス様の復活、およみがえりを改めて告げ知らせます。これに続けて12節から15節には、復活がいかに大切であるかを次のように念押しています。

「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなた方の中のあるものが死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。わたしたちの宣教も無駄であるし、あなた方の信仰も無意味です。」

 主イエス様の十字架と葬りのみ言葉を続けて聞いてきましたが、今朝ようやく、このイースターの朝に主イエス様の復活のみ言葉を聴くことが出来ます。先週の予告では、1節から10節までを聖書個所とすると週報に書きましたが、18節まで読まなければならないと思わされました。10節までですと、これは主イエス様の墓が空になっていたというところで終わってしまうので、やはり復活のみ言葉、18節まで読むことにいたしました。そんなわけで今朝は、10節までを中心に、そして次週は11節から18節を中心にみ言葉を語ることにいたしました。

パウロの時代だけでなく、現代にいたるまで、キリストの復活は本当にあったのかということが絶えず、議論されています。それは死んだ人の生き返りということが通常は起こりえない、決して起こることがないからなのです。それは現代のように科学的合理主義が世界を席巻していなかった新約聖書の時代においても同じでありました。

死人のよみがえりということは、古代の人々にとっても、同じようにありえないこと、信じられないことです。しかし、そのようなこと神様が実際に起こしてくださったので、皆がおどろき、イエス・キリストというお方がほかのどんな人物よりも特別な存在であるということが歴史に刻み込まれたのであります。福音の宣教、つまり教会の伝道や、教会が守ってきた信仰にとって、主イエス様の復活は、まさしく立つか倒れるか、生きるか死ぬかを左右する決定的な出来事なのです。イースターは、イエス・キリストの復活を記念する日であります。そして、それは、わたしたちの信仰生活にとって大切な出来事を改めて確認する日、覚える日であります。

2、

 ヨハネによる福音書の20章1節から18節をお読みしました。1節の冒頭に、まず「週の初めの日」と書かれています。当時のユダヤでは週の終わりは土曜日で、この日は安息日として皆が休むことになっています。創世記第一章に書かれていますように、神は六日の内に天地を創造し、七日目は休まれたからであります。十戒の第4戒にも「安息日を覚えて聖とせよ、この日は何の仕事もしてはならない」と書かれています。そして日曜日から次の新しい一週間が始まるのです。週の初めの日、日曜日の朝に主イエス様は、その復活のお姿を弟子たちに現わしてくださいました。

そしてこの日の日曜日から、キリストの教会は、それまでのユダヤ教の土曜日安息日から、日曜日安息日、日曜日を神礼拝の日として守るようになったのです。日曜日ごとに集まって、主イエス様のみ言葉を読み、また聞いて、主イエス様を中心とした礼拝をすることは、社会の中で多くの摩擦や批判を伴うものであったことは間違いないと思います。厳しい戦いがあったと思いますが、弟子たちは頑としてこれを守り通したのです。「週の初め日」、日曜日の朝に主はよみがえられました。

 今朝の御言葉の前半部分の10節まででは、まだ復活の主イエス様は姿を現されていません。いわゆる「からの墓」を語る御言葉です。マグダラのマリアが最初に登場します。彼女は、アリマタヤのヨセフとニコデモが主イエス様のなきがらを葬った場所を知っていました。婦人の弟子たちが主イエス様の葬りに立ち会ったことは、ヨハネ以外の他の福音書のすべてが記しています。

 「主が墓から取り去られました」、マグダラのマリアは、2節と13節で二度この言葉を繰り返しています。「墓にご遺体がない」、それがここで見出されたことです。「主が墓から取り去られました」。誰かが、主イエス様の遺体を盗み出したというのです。

今朝のみ言葉の9節に、こうあります。「イエスは必ず死者の中から復活するという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」。特にパウロが手紙の中で明らかにしていますけれども、旧約聖書の中に救い主の復活の記事が記されていることは間違いないことです。また主イエス様の繰り返し、三日目に自分は復活すると予告していましたが、当の弟子たちは、それが頭に入っていなかったのです。

むしろ当時のローマ総督のポンテオ・ピラトやユダヤ教の祭司長やファリサイ派の方が、主イエス様の復活を気にかけていました。

マタイによる福音書27章で、ファリサイ派の人たちがピラトにこう進言します。ファリサイ派というのはユダヤ人の宗教指導者であり、主イエス様を捕らえ、十字架に架けた張本人たちです。彼らはピラトに言います。「閣下、人を惑わすあのものがまだ生きていた時『自分は三日後に復活する』と言っていたのをわたしたちは思い出しました」。主イエス様の三日後の復活のことを弟子たちは、覚えていなかったのですが、敵であったファリサイ派の人たちはしっかりと覚えていました。そしてピラトにこう願うのです。

「ですから三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。」そこでピラトは、番兵が墓を見張るようにさせたことが記されています。

 しかし、ファリサイ派が恐れていた弟子たちによる遺体の盗み出しよりもさらに驚くべきことが、墓の中では起きていたのです。墓の入り口に置かれていた石は転がされ、番兵たちも立ち去らなければならないような出来事が起こったのです。

 イエス様の弟子たち、とくに婦人たちが、安息日が終わった日曜日の夜明け、まだ暗いうちから墓に葬られた主イエス様に会いに行きました。墓場は生きている人間の家ではなく死んだ者の家です。彼女たちは、主イエス様は死んでしまい、生きておられる主イエス様には、もはやお会いすることは出来ないと思っていましたけれども、せめてそのなきがらを花で飾り、新しい香料を添えたいと願ったのでした。しかし、墓の中には肝心の主イエス様はおられませんでした。

そこで、驚いたマリアは、他の弟子たちのもとに走ってゆきます。遺体が亡くなったことを聞いたシモン・ペトロともう一人の弟子、これはヨハネのことを指していると思われますが、この二人もまた、墓まで走ってゆくのです。

二人は競争するようにして墓に向かいました。先にヨハネが着いてすぐに身をかがめて墓を覗きました。ペトロもすぐに追いついて二人は一緒に墓の中に入ります。確かに、墓の中には主イエスさまの遺体はありませんでした。あったのは、遺体を巻いていた亜麻布だけでありました。このことを確認し、男の弟子たちは家に帰りました。ユダヤ人たちを恐れていたので、すぐに帰りたかったのだと思います。

しかし、女たちは残りました。そして、墓の外に立って泣いていました。そのとき主イエス様がマグダラのマリアに会って下さるのです。

3、

 今日の礼拝の後、わたしたちは教会の墓地に参ります。わたしたちよりも先に召された信仰の先輩たち、また親しい肉親の遺骨がほうむられている、その墓の前で礼拝を捧げます。主イエス様の復活を記念するイースターの日に、それを行います。今は墓の中で主イエス様の御手の内にありつつ、かつ終わりの日の到来まで、墓の中で休んでいる召された人々に思いを馳せるのです。そして、あらためて主イエス様の復活を心に刻み、やがて到来する、わたしたち自身の復活と世界全体の救いの完成、新天新地を待ち望むのです。

マグダラのマリアが、墓の外で泣いていたところに、二人の天使が現れました。そして「なぜ泣くのか、あなたが泣く理由はない」と知らせました。そしてその後ろに復活された主イエス様がおられました。しかし、彼女たちは、イエス様だと分からなかったのです。マリアは言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこにおいたのか教えて下さい。わたしがあの方を引き取ります。」マリアは、主イエス様を園丁、あるいは墓地の管理人だと思ったのです。このときマリアが求めていたのは、あくまで主イエス様の遺体、なきがらでした。

 その人は、ひとこと言いました。「マリア」。聞き覚えのある声です。確かにイエス様の声です。マリアは、反射的に答えました。「ラボニ」、これはヘブライ語の先生、レビという言葉の丁寧な呼びかけの形です。その次に、マリアはどうしたのかは、詳しくは書かれていませんが、次の言葉からとっさに主イエス様にしがみついたことが分かります。

主イエス様は言われました。「しがみつくのはよしなさい」そしてこう続けられます。「まだ父のもとに昇っていないのだから」。

4、

墓が空であった理由は明らかになりました。主イエス様は復活なさいました。ミイラのように体全体にぐるぐると巻かれていた亜麻布を、どのようにしてかは書かれていませんが、それをものともせずに振り解き、主イエス様は自由に立ち上がって歩き、顔にまかれていた布を取り去って墓の外に出て来て、マリアに会って下さいました。

ここから、わたしたちキリスト教会の歴史は始まりました。使徒言行録の1章3節に記されていますが、主イエス様はこのあと40日に渡って、弟子たちと共に過ごされ、天に帰って行かれました。

わたしたちは日曜日の朝ごとに集まります。体は天にありながらも、その礼拝の場に霊的に御臨在下さる救い主イエス・キリストにおいて神を礼拝するのです。祈りを致します。