聖書の言葉 ルカによる福音書 23章26節~31節 メッセージ 2024年3月17日(日)熊本伝道所朝拝説教 ルカによる福音書23章26節~31節「十字架を負うイエス」 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和が皆さまの上に豊かにありますように。主の名によって祈ります。アーメン。 受難節に入って五回目の主の日を迎えています。受難節の間、続けて主の受難のみ言葉に聴いてきました。今朝は、主イエス様の十字架の最後の場面から遡りまして、主イエス様の十字架への道行き、ヴィア・ドロローサと呼ばれている個所を取り上げます。この場面は古来より「ヴィア・ドロローサ」、ラテン語で「苦難の道」、と呼ばれてきました。今朝の御言葉は、ルカによる福音書23章26節から31節、主イエス様が十字架にお係りになるためにゴルゴタの丘に連行されてゆく場面です。 さきほど、26節から31節までの御言葉をお読みしました。その直前の25節にこうあります。「ピラトは、・・イエスを彼らに、つまりユダヤ人たちに、引き渡して好きなようにさせた」。このルカによる福音書では、このあと、どこにもローマの兵隊の存在について記されていません。総督ピラトは、裁判が終わって、主イエス様を完全にユダヤ人の側に引き渡してしまったように読めるのですが、決してそうではありません。マタイによる福音書やマルコによる福音書を見ますと、この処刑のすべてのことが、ローマ総督官邸に配置されているローマの兵士たちによって行われたということがきちんと書かれています。25節の「引き渡してして好きなようにさせた」という翻訳もこれは意訳でありまして、直訳は「彼らの意志に、彼らの思いに引き渡した」となります。つまり総督ピラトは、ついにユダヤ人たちの思い通りにした、言うとおりにしたという意味の言葉であります。 主イエス様は、十字架を背負わされ、ローマの兵士たちに両脇を固められ、槍や剣に導かれるようにして処刑場までの道を進んで行かれました。当時のエルサレムを再現した地図を見ますと、エルサレム神殿は、旧市街地の東北の隅にあるシオンの丘の上にそびえています。その神殿の裏に総督官邸があります。わたくしは残念ながら、エルサレムに行ったことがないので、まるで見てきたように言いますけれどもお許しください。 こんにち、ここがゴルゴタの丘であるとされている場所は、総督官邸から直線距離にして、東へ5~600メートルのところです。聖墳墓教会というギリシャ正教の教会がそこには建てられています。エルサレム観光に来た人々は必ずこのゴルゴダの丘に案内されます。ピラトの官邸からゴルゴダまで、ちょうど旧市街の北側の境界線のあたりを東へ進んでゆきます。ゴルゴタという名前はヘブライ語で「されこうべ」、つまり頭骸骨といういかにも恐ろしい意味です。ラテン語ではカルヴァリア、ここからカルバリの丘と言う言い方がされます。処刑されてそのまま野ざらしになった頭がい骨が散乱していたからだとも言われますが、真偽のほどは分かりません。 カトリック教会では、ヴィア・ドロローサと言う言葉には、特別な意味があります。「十字架の道行き」とも呼ばれますけれども、実はこれはカトリック教会独特の宗教儀式なのです。 今年の1月末から2月にかけて、わたくしは説教塾のリトリートに参加しました。カトリックの裾野修道院付属の黙想の家というところに三泊いたしました。これまでも説教塾のセミナーは、多くはカトリックの修道院や付属の施設でなされます。そういう施設には必ず、この十字架の道行きを14の場面に描いたレリーフや絵画があるのです。裾野修道院には、竹林の中に、「十字架の道行き」と呼ばれる瞑想コースがありました。 聖書の言葉だけからではなく、カトリック教会の中で伝えられてきた伝承をもとにして、主イエス様の死刑判決から十字架の死に至るまでを14の場面に分けて彫刻や絵画で解き明かしているのが「ヴィア・ドロローサ」です。今朝の御言葉にあるキレネ人シモンが主イエス様の十字架を背負ったことや、主イエス様が、三度倒れられたりとか、ヴェロニカという女性がハンカチを差し出して主イエス様がそれで顔を拭われたりとか言う場面が描かれます。おそらく昔の人は字の読めない人も多かったので、信仰の養いのために造られたのだと思います。 第1留から第14留まで、英語ではステーション、日本語では停留所の留と言う字を当てています。多くの場合、それらの絵や彫刻は、カトリック教会の広い敷地にある森の中に置かれていて、ちょうど、それらすべてを巡って帰る道が設けられています。これに復活の図を加えて第15留、そして15留は聖堂の中に置かれるそうです。受難週には、それらの場面を巡り、その前で一回一回立ち留まって、主イエス様の受難を思い返して祈りを捧げると言います。 まさしくカトリック教会の信仰の伝統をみるようなことですが、わたしたちのルカ福音書は、それほど多くの場面をここに描いているわけではありません。ただ二つのことだけを記しています。一つは、キレネ人シモンと言う人が主イエス様に代わって十字架を背負わされたということです。そしてもう一つは、主イエス様がご自分の後に泣きながら続いてくる女性たちに向かって、天の父なる神の裁きを告げる言葉、まるで旧約聖書の預言者のような御言葉を語られたということです。とくに、二つ目のことは、ルカによる福音書だけが記していることであります。 2、 今朝の御言葉を通して思い返したことがあります。それは十数年前に公開された「親分はイエス様」と言う映画のことです。渡瀬恒彦扮する主人公の回心したやくざが日本縦断十字架行進、クロスマーチングを決意する場面です。渡瀬恒彦が、教会に入って壁に十字架を担ぐ人の絵がかけられているのを見るのですね。そのとき、「おれもこの人のように、十字架を担がなければならない」と決心するのです。その絵は、主イエス様の絵ではなかったのですね。ちょっとずんぐりむっくりした褐色の人がアラビア風の赤い衣装を身につけて、十字架を背負っている絵だったのです。当時は、何だろう、イエス様と違うなあと思って見ていました。今は、その絵は今朝の御言葉のキレネ人シモンの絵であると言うことがはっきり分かりました。 それは主イエス様が、ゴルゴダへ到着する途中で起きたことでした。主イエス様は、当時の十字架刑の習慣に従って、まず鞭で打たれました。それは革の鞭の先の方に石や金属の粒を取り付けた専用の鞭で、普通は40回、ユダヤ人のときは憐みを施して1回減じて39回、鞭打つということです。屈強のローマ兵が強く鞭打ちます。この鞭うちだけで死んでしまう人がいたと言うほどの刑罰です。従って、もう主イエス様には、ゴルゴダの丘まで十字架を担ぎ通す体力がなかったのです。そこでやむを得ず、そのとき、ちょうど道端にいたシモンが無理やりに引き出され、主イエス様の十字架を代わりに背負って歩かされました。キレネ人とは、北アフリカのリビア地方の海岸都市の人々ですが、シモンと言う名前から見てもユダヤ人であったと思われます。 田舎から出てきたと書かれています。ユダヤ人の祭りであります過越し祭りのためにエルサレム神殿に巡礼に来ていて、たまたま主イエス様の十字架の道行きに遭遇したのであります。従って、渡瀬恒彦が見た絵のように褐色でアラビア風の衣装を着ていたとは考えにくいのですが、これは中世のカトリック教会が考えたキレネ人のイメージだと思います。 「十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」と書かれています。主イエス様の十字架を背負って、主イエス様に従うことは、本来、主イエス様の弟子たちが命じられていたことでした。ルカ福音書9章23節にこう書かれています。「わたしについて来たいと思うものは、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」。また、14章27節には「自分の十字架を背負ってついてくるものでなければ、誰であれ、わたしの弟子ではあり得ない」とも書かれています。いずれも主イエス様が、12弟子に命じた言葉です。しかし、このとき弟子たちは、みな逃げ出していて、主イエス様の十字架を負うことは出来ませんでした。代わりにその役を文字通りここで果たしたのは、12弟子とは、縁もゆかりもないアフリカからやって来たキレネ人シモンでした。しかも彼は、自ら進んでではなく、ローマの兵隊に強制されて、それをしたのです。 もしも、12弟子たちがここで自ら名乗り出て、主イエス様と共に十字架を背負っていたならば、どうでしょう。その弟子の姿はあまりに立派すぎて、わたしたちにとっては、近付くことさえできない聖人のように思えます。しかし、彼らはそれが出来ませんでした。彼らは聖人ではなかったのです。かろうじて大祭司の家までついて来た一番弟子ペトロの姿もここでは見えません。むしろここでは主イエス様の弟子とは、主イエス様の救いを受ける人です。主イエス様は一人で十字架を担っていらっしゃいます。 また、ここで十字架を背負ったキレネ人は、あえてシモンという個人名で呼ばれていることに注目しなければなりません。これは何の意味もないことではあり得ません。マルコによる福音書15章21節では、この人は、「アレクサンドルとルフォスの父であるシモン」と一層詳しく紹介されます。つまりマルコ福音書を読んだ当時の教会の人々が、ああ、あの兄弟たちのお父さんかとすぐに分かる人であったことを示しています。すなわち、このキレネ人シモンの二人の息子は、後に主イエス様の弟子になった、これは聖書が語っていることです。そして伝説では、このキレネ人シモン自身が、この事件をきっかけにして主イエス様を信じるものになり、ついには教会の重要な働き人になったと伝えられています。この十字架事件がシモンを救い、シモンの息子たちを救うきっかけになったのです。 わたしたちは人生の途上で様々な苦難にあうことでしょう。その際に、背負う十字架、それは、絵にかいたような仕方でいかにもキリストの弟子ですといわんばかりに背負うものではない、そんな思いがいたします。そうではなくて、自分は、何も考えていなかった、たまたまそこにいただけだった、しかし強いられて十字架を背負ったということがあるのではないかと思うのです。そして、その十字架、背負わされた苦難がわたしたち自身や家族を救いに導くのです。神様が、わたしたちを救ってくださる道筋は、わたしたちの計画や思いを越えて働くのではないかと思います。ときにはわたしたち自身の意に反する仕方でさえ働く、そのことを覚たいと思うのです。そして、これは神様の下さる素晴らしい恵みなのです。 3、 27節から31節は、ルカによる福音書だけが記している主イエス様の言葉です。十字架を背負わされ、いわば市中引き回しのようにして刑場へ向かう主イエス様のあとには民衆と婦人たちがつき従いました。この民衆は、主イエス様を十字架につけよと叫んだ人々です。総督ピラトから主イエス様の十字架を許され、自分たちの思い通りになったと快哉を上げながら行列に連なっているのです。嘆き悲しむ婦人たちと呼ばれているのは、どんな人たちでしょうか。ここには実は三通りの理解があります。 一つは、彼女たちは、このあとの23章の最後に書かれている「主イエス様の十字架を最後まで見ていた」とされるガリラヤの女性たちだというものです。つまり、ガリラヤからこれまでずっと主イエス様に従ってきた女性の弟子たちが、心から主イエス様のことを嘆き悲しみながら十字架を担ぐ主イエス様に従ったというのです。もしそうであれば、これは泣き叫ぶという自然な感情の発露によるものですが、いわば「自分はこの方の仲間である、弟子であると証しするようなことですから、主イエス様の弟子として、なすべきことをきちんとしたということが出来ます。 もう一つの理解は、この女性たちは、ガリラヤから来た人たちではなく、この町で主イエス様に初めて会って、この方は何も悪いことはしていない、もしかするとメシア、救い主かもしれないと好意を寄せるエルサレムの女性たちだと言うものです。ピラトの裁判では、男たちは大祭司や律法学者たちと一緒になって主イエス様に敵対しましたが、女性たちはそうではなく、このように主イエス様の十字架を嘆きながら行列に従ったと言うのです。 第三の理解は、実はこれがもっとも有力だと思われているのですが、十字架の市中引き回しの時には必ず登場した女性たちだというものです。あたかも葬儀の際の泣き女のようにして、この死刑執行の儀式を盛り上げて、なにがしかの日当をもらう職業的な女性たちだったというものです。ルカは、このことをはっきりさせていないのですが、逆に言うと当時の人なら、説明なしで分かる女性たちだったというように取ることが出来ます。そうしますと第三の理解、職業的な泣き女だったという理解が有力になってきます。 主イエス様は、この女性たちに向かって預言者のような御言葉を告げられました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな」。 エルサレムの娘とは、旧約聖書では都エルサレムに住むユダヤ人を指します。神の契約の民であるユダヤ民族全体を象徴する言葉です。主イエス様は、あなた方は泣くなと女性たちに命じられます。「わたしのために泣くな」。次にこう言われます。「むしろ自分と自分の子供たちのために泣け」。それは、今、わたしは十字架にかけられて死のうとしている、しかしそれよりも、もっと悲しいこと、苦しいことが起こるからだと言うのです。その時こそ泣くべき時だと言うのです。子供を産み育て、その結果、子孫が栄えることは神の祝福です。しかし、やがてエルサレムには恐ろしい苦難が襲ってくるので、子孫が出来ることがより大きな悲しみのもとになるのです。 つまり、この聖書引用は、今、まことの神の子である救い主をあなた方は殺そうとしている。このままでは、やがてエルサレムもユダヤの民も神の厳しい裁きに直面することになるという主イエス様の預言であります。さらに言うならば、これは悔い改めへの招きであります。流すべきは、死者の弔いのための涙ではない、そうではなく自らの罪を深く悔いる悔い改めの涙こそ流せと主イエス様は言われるのです。 その時人々は、山に向かっては云々、丘に向かっては云々と書かれているのは、これは旧約聖書ホセア書10章8節の引用です。預言者ホセアは、偶像礼拝に走り、真の神をないがしろにしているイスラエルの民に向かって神様の愛を語った預言者です。主イエス様は、このホセアの言葉をもう一度語って、イスラエルとその都エルサレムに悔い改めを促したのです。 4, 主イエス様は、12弟子を中心とするごくわずかな人々が、主イエス様の弟子となるとしても、大部分のユダヤ人は、すぐには福音を受け入れず、それどころか主イエス様に敵対することをあらかじめ知っておられました。それでもなお、たった一人でも悔い改めてまことの神のもとに来る者が起こされることを信じて、まずユダヤ人たちに福音を告げ知らせて旅を続けられました。都エルサレムにまで到達された時、すでに涙を流されていました。彼らが、神の訪れる時をわきまえず、神の子を拒絶しようとしているからでした。 今そのことは完全に現実のものとなろうとしています。それでもなお、主イエス様は、むしろあなたとあなたの子たちのために泣くときだと訴えて、悔い改めへの最後の招きをなさったのです。 「イエス」と言う名は、主が救うと言う意味のヘブライ語です。その名は、この方が、十字架にかかって罪人の罪をその身に負って死んでくださり、そのことによってどんな罪ある者も赦される、救われることを表わしています。あらためて主イエス様がこの世に来られたこと、そしてその救いの完成のために今わたしたちを用いていて下さることを覚えたいと思います。 主イエス様が再びおいでになる再臨の時、世界は新しくされるという約束が聖書に記されています。そのとき悪は完全に裁かれ、救いは完成します。しかし神様はそれまでの間、この世界の悪や罪を直ちに裁くことはなさいません。そうではなく、悪の存在を忍耐しておられます。悔い改めへの招きは、今もなお続いています。 祈ります。 天の父なる神様、御名を崇めます。受難節の第四主日の礼拝の中で悲しみの道、ヴィア・ドロローサのみ言葉を聴きました。エルサレムの人々に、わたしのためではなく、あなたがた自身のために泣けと言われて、悔い改めへの招きをされた主イエス様の霊的な苦しみを改めて覚えます。 主イエス様の受難は、わたしたちと世界の救いのためであったことを改めて覚えさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2024年3月17日(日)熊本伝道所朝拝説教
ルカによる福音書23章26節~31節「十字架を負うイエス」
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和が皆さまの上に豊かにありますように。主の名によって祈ります。アーメン。
受難節に入って五回目の主の日を迎えています。受難節の間、続けて主の受難のみ言葉に聴いてきました。今朝は、主イエス様の十字架の最後の場面から遡りまして、主イエス様の十字架への道行き、ヴィア・ドロローサと呼ばれている個所を取り上げます。この場面は古来より「ヴィア・ドロローサ」、ラテン語で「苦難の道」、と呼ばれてきました。今朝の御言葉は、ルカによる福音書23章26節から31節、主イエス様が十字架にお係りになるためにゴルゴタの丘に連行されてゆく場面です。
さきほど、26節から31節までの御言葉をお読みしました。その直前の25節にこうあります。「ピラトは、・・イエスを彼らに、つまりユダヤ人たちに、引き渡して好きなようにさせた」。このルカによる福音書では、このあと、どこにもローマの兵隊の存在について記されていません。総督ピラトは、裁判が終わって、主イエス様を完全にユダヤ人の側に引き渡してしまったように読めるのですが、決してそうではありません。マタイによる福音書やマルコによる福音書を見ますと、この処刑のすべてのことが、ローマ総督官邸に配置されているローマの兵士たちによって行われたということがきちんと書かれています。25節の「引き渡してして好きなようにさせた」という翻訳もこれは意訳でありまして、直訳は「彼らの意志に、彼らの思いに引き渡した」となります。つまり総督ピラトは、ついにユダヤ人たちの思い通りにした、言うとおりにしたという意味の言葉であります。
主イエス様は、十字架を背負わされ、ローマの兵士たちに両脇を固められ、槍や剣に導かれるようにして処刑場までの道を進んで行かれました。当時のエルサレムを再現した地図を見ますと、エルサレム神殿は、旧市街地の東北の隅にあるシオンの丘の上にそびえています。その神殿の裏に総督官邸があります。わたくしは残念ながら、エルサレムに行ったことがないので、まるで見てきたように言いますけれどもお許しください。
こんにち、ここがゴルゴタの丘であるとされている場所は、総督官邸から直線距離にして、東へ5~600メートルのところです。聖墳墓教会というギリシャ正教の教会がそこには建てられています。エルサレム観光に来た人々は必ずこのゴルゴダの丘に案内されます。ピラトの官邸からゴルゴダまで、ちょうど旧市街の北側の境界線のあたりを東へ進んでゆきます。ゴルゴタという名前はヘブライ語で「されこうべ」、つまり頭骸骨といういかにも恐ろしい意味です。ラテン語ではカルヴァリア、ここからカルバリの丘と言う言い方がされます。処刑されてそのまま野ざらしになった頭がい骨が散乱していたからだとも言われますが、真偽のほどは分かりません。
カトリック教会では、ヴィア・ドロローサと言う言葉には、特別な意味があります。「十字架の道行き」とも呼ばれますけれども、実はこれはカトリック教会独特の宗教儀式なのです。
今年の1月末から2月にかけて、わたくしは説教塾のリトリートに参加しました。カトリックの裾野修道院付属の黙想の家というところに三泊いたしました。これまでも説教塾のセミナーは、多くはカトリックの修道院や付属の施設でなされます。そういう施設には必ず、この十字架の道行きを14の場面に描いたレリーフや絵画があるのです。裾野修道院には、竹林の中に、「十字架の道行き」と呼ばれる瞑想コースがありました。
聖書の言葉だけからではなく、カトリック教会の中で伝えられてきた伝承をもとにして、主イエス様の死刑判決から十字架の死に至るまでを14の場面に分けて彫刻や絵画で解き明かしているのが「ヴィア・ドロローサ」です。今朝の御言葉にあるキレネ人シモンが主イエス様の十字架を背負ったことや、主イエス様が、三度倒れられたりとか、ヴェロニカという女性がハンカチを差し出して主イエス様がそれで顔を拭われたりとか言う場面が描かれます。おそらく昔の人は字の読めない人も多かったので、信仰の養いのために造られたのだと思います。
第1留から第14留まで、英語ではステーション、日本語では停留所の留と言う字を当てています。多くの場合、それらの絵や彫刻は、カトリック教会の広い敷地にある森の中に置かれていて、ちょうど、それらすべてを巡って帰る道が設けられています。これに復活の図を加えて第15留、そして15留は聖堂の中に置かれるそうです。受難週には、それらの場面を巡り、その前で一回一回立ち留まって、主イエス様の受難を思い返して祈りを捧げると言います。
まさしくカトリック教会の信仰の伝統をみるようなことですが、わたしたちのルカ福音書は、それほど多くの場面をここに描いているわけではありません。ただ二つのことだけを記しています。一つは、キレネ人シモンと言う人が主イエス様に代わって十字架を背負わされたということです。そしてもう一つは、主イエス様がご自分の後に泣きながら続いてくる女性たちに向かって、天の父なる神の裁きを告げる言葉、まるで旧約聖書の預言者のような御言葉を語られたということです。とくに、二つ目のことは、ルカによる福音書だけが記していることであります。
2、
今朝の御言葉を通して思い返したことがあります。それは十数年前に公開された「親分はイエス様」と言う映画のことです。渡瀬恒彦扮する主人公の回心したやくざが日本縦断十字架行進、クロスマーチングを決意する場面です。渡瀬恒彦が、教会に入って壁に十字架を担ぐ人の絵がかけられているのを見るのですね。そのとき、「おれもこの人のように、十字架を担がなければならない」と決心するのです。その絵は、主イエス様の絵ではなかったのですね。ちょっとずんぐりむっくりした褐色の人がアラビア風の赤い衣装を身につけて、十字架を背負っている絵だったのです。当時は、何だろう、イエス様と違うなあと思って見ていました。今は、その絵は今朝の御言葉のキレネ人シモンの絵であると言うことがはっきり分かりました。
それは主イエス様が、ゴルゴダへ到着する途中で起きたことでした。主イエス様は、当時の十字架刑の習慣に従って、まず鞭で打たれました。それは革の鞭の先の方に石や金属の粒を取り付けた専用の鞭で、普通は40回、ユダヤ人のときは憐みを施して1回減じて39回、鞭打つということです。屈強のローマ兵が強く鞭打ちます。この鞭うちだけで死んでしまう人がいたと言うほどの刑罰です。従って、もう主イエス様には、ゴルゴダの丘まで十字架を担ぎ通す体力がなかったのです。そこでやむを得ず、そのとき、ちょうど道端にいたシモンが無理やりに引き出され、主イエス様の十字架を代わりに背負って歩かされました。キレネ人とは、北アフリカのリビア地方の海岸都市の人々ですが、シモンと言う名前から見てもユダヤ人であったと思われます。
田舎から出てきたと書かれています。ユダヤ人の祭りであります過越し祭りのためにエルサレム神殿に巡礼に来ていて、たまたま主イエス様の十字架の道行きに遭遇したのであります。従って、渡瀬恒彦が見た絵のように褐色でアラビア風の衣装を着ていたとは考えにくいのですが、これは中世のカトリック教会が考えたキレネ人のイメージだと思います。
「十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」と書かれています。主イエス様の十字架を背負って、主イエス様に従うことは、本来、主イエス様の弟子たちが命じられていたことでした。ルカ福音書9章23節にこう書かれています。「わたしについて来たいと思うものは、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」。また、14章27節には「自分の十字架を背負ってついてくるものでなければ、誰であれ、わたしの弟子ではあり得ない」とも書かれています。いずれも主イエス様が、12弟子に命じた言葉です。しかし、このとき弟子たちは、みな逃げ出していて、主イエス様の十字架を負うことは出来ませんでした。代わりにその役を文字通りここで果たしたのは、12弟子とは、縁もゆかりもないアフリカからやって来たキレネ人シモンでした。しかも彼は、自ら進んでではなく、ローマの兵隊に強制されて、それをしたのです。
もしも、12弟子たちがここで自ら名乗り出て、主イエス様と共に十字架を背負っていたならば、どうでしょう。その弟子の姿はあまりに立派すぎて、わたしたちにとっては、近付くことさえできない聖人のように思えます。しかし、彼らはそれが出来ませんでした。彼らは聖人ではなかったのです。かろうじて大祭司の家までついて来た一番弟子ペトロの姿もここでは見えません。むしろここでは主イエス様の弟子とは、主イエス様の救いを受ける人です。主イエス様は一人で十字架を担っていらっしゃいます。
また、ここで十字架を背負ったキレネ人は、あえてシモンという個人名で呼ばれていることに注目しなければなりません。これは何の意味もないことではあり得ません。マルコによる福音書15章21節では、この人は、「アレクサンドルとルフォスの父であるシモン」と一層詳しく紹介されます。つまりマルコ福音書を読んだ当時の教会の人々が、ああ、あの兄弟たちのお父さんかとすぐに分かる人であったことを示しています。すなわち、このキレネ人シモンの二人の息子は、後に主イエス様の弟子になった、これは聖書が語っていることです。そして伝説では、このキレネ人シモン自身が、この事件をきっかけにして主イエス様を信じるものになり、ついには教会の重要な働き人になったと伝えられています。この十字架事件がシモンを救い、シモンの息子たちを救うきっかけになったのです。
わたしたちは人生の途上で様々な苦難にあうことでしょう。その際に、背負う十字架、それは、絵にかいたような仕方でいかにもキリストの弟子ですといわんばかりに背負うものではない、そんな思いがいたします。そうではなくて、自分は、何も考えていなかった、たまたまそこにいただけだった、しかし強いられて十字架を背負ったということがあるのではないかと思うのです。そして、その十字架、背負わされた苦難がわたしたち自身や家族を救いに導くのです。神様が、わたしたちを救ってくださる道筋は、わたしたちの計画や思いを越えて働くのではないかと思います。ときにはわたしたち自身の意に反する仕方でさえ働く、そのことを覚たいと思うのです。そして、これは神様の下さる素晴らしい恵みなのです。
3、
27節から31節は、ルカによる福音書だけが記している主イエス様の言葉です。十字架を背負わされ、いわば市中引き回しのようにして刑場へ向かう主イエス様のあとには民衆と婦人たちがつき従いました。この民衆は、主イエス様を十字架につけよと叫んだ人々です。総督ピラトから主イエス様の十字架を許され、自分たちの思い通りになったと快哉を上げながら行列に連なっているのです。嘆き悲しむ婦人たちと呼ばれているのは、どんな人たちでしょうか。ここには実は三通りの理解があります。
一つは、彼女たちは、このあとの23章の最後に書かれている「主イエス様の十字架を最後まで見ていた」とされるガリラヤの女性たちだというものです。つまり、ガリラヤからこれまでずっと主イエス様に従ってきた女性の弟子たちが、心から主イエス様のことを嘆き悲しみながら十字架を担ぐ主イエス様に従ったというのです。もしそうであれば、これは泣き叫ぶという自然な感情の発露によるものですが、いわば「自分はこの方の仲間である、弟子であると証しするようなことですから、主イエス様の弟子として、なすべきことをきちんとしたということが出来ます。
もう一つの理解は、この女性たちは、ガリラヤから来た人たちではなく、この町で主イエス様に初めて会って、この方は何も悪いことはしていない、もしかするとメシア、救い主かもしれないと好意を寄せるエルサレムの女性たちだと言うものです。ピラトの裁判では、男たちは大祭司や律法学者たちと一緒になって主イエス様に敵対しましたが、女性たちはそうではなく、このように主イエス様の十字架を嘆きながら行列に従ったと言うのです。
第三の理解は、実はこれがもっとも有力だと思われているのですが、十字架の市中引き回しの時には必ず登場した女性たちだというものです。あたかも葬儀の際の泣き女のようにして、この死刑執行の儀式を盛り上げて、なにがしかの日当をもらう職業的な女性たちだったというものです。ルカは、このことをはっきりさせていないのですが、逆に言うと当時の人なら、説明なしで分かる女性たちだったというように取ることが出来ます。そうしますと第三の理解、職業的な泣き女だったという理解が有力になってきます。
主イエス様は、この女性たちに向かって預言者のような御言葉を告げられました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな」。
エルサレムの娘とは、旧約聖書では都エルサレムに住むユダヤ人を指します。神の契約の民であるユダヤ民族全体を象徴する言葉です。主イエス様は、あなた方は泣くなと女性たちに命じられます。「わたしのために泣くな」。次にこう言われます。「むしろ自分と自分の子供たちのために泣け」。それは、今、わたしは十字架にかけられて死のうとしている、しかしそれよりも、もっと悲しいこと、苦しいことが起こるからだと言うのです。その時こそ泣くべき時だと言うのです。子供を産み育て、その結果、子孫が栄えることは神の祝福です。しかし、やがてエルサレムには恐ろしい苦難が襲ってくるので、子孫が出来ることがより大きな悲しみのもとになるのです。
つまり、この聖書引用は、今、まことの神の子である救い主をあなた方は殺そうとしている。このままでは、やがてエルサレムもユダヤの民も神の厳しい裁きに直面することになるという主イエス様の預言であります。さらに言うならば、これは悔い改めへの招きであります。流すべきは、死者の弔いのための涙ではない、そうではなく自らの罪を深く悔いる悔い改めの涙こそ流せと主イエス様は言われるのです。
その時人々は、山に向かっては云々、丘に向かっては云々と書かれているのは、これは旧約聖書ホセア書10章8節の引用です。預言者ホセアは、偶像礼拝に走り、真の神をないがしろにしているイスラエルの民に向かって神様の愛を語った預言者です。主イエス様は、このホセアの言葉をもう一度語って、イスラエルとその都エルサレムに悔い改めを促したのです。
4,
主イエス様は、12弟子を中心とするごくわずかな人々が、主イエス様の弟子となるとしても、大部分のユダヤ人は、すぐには福音を受け入れず、それどころか主イエス様に敵対することをあらかじめ知っておられました。それでもなお、たった一人でも悔い改めてまことの神のもとに来る者が起こされることを信じて、まずユダヤ人たちに福音を告げ知らせて旅を続けられました。都エルサレムにまで到達された時、すでに涙を流されていました。彼らが、神の訪れる時をわきまえず、神の子を拒絶しようとしているからでした。
今そのことは完全に現実のものとなろうとしています。それでもなお、主イエス様は、むしろあなたとあなたの子たちのために泣くときだと訴えて、悔い改めへの最後の招きをなさったのです。
「イエス」と言う名は、主が救うと言う意味のヘブライ語です。その名は、この方が、十字架にかかって罪人の罪をその身に負って死んでくださり、そのことによってどんな罪ある者も赦される、救われることを表わしています。あらためて主イエス様がこの世に来られたこと、そしてその救いの完成のために今わたしたちを用いていて下さることを覚えたいと思います。
主イエス様が再びおいでになる再臨の時、世界は新しくされるという約束が聖書に記されています。そのとき悪は完全に裁かれ、救いは完成します。しかし神様はそれまでの間、この世界の悪や罪を直ちに裁くことはなさいません。そうではなく、悪の存在を忍耐しておられます。悔い改めへの招きは、今もなお続いています。
祈ります。
天の父なる神様、御名を崇めます。受難節の第四主日の礼拝の中で悲しみの道、ヴィア・ドロローサのみ言葉を聴きました。エルサレムの人々に、わたしのためではなく、あなたがた自身のために泣けと言われて、悔い改めへの招きをされた主イエス様の霊的な苦しみを改めて覚えます。
主イエス様の受難は、わたしたちと世界の救いのためであったことを改めて覚えさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。