2024年03月10日「神殿の幕が裂けた」

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聖書の言葉

ルカによる福音書 23章44節~49節

メッセージ

2024年3月10日(日)熊本伝道所朝拝説教

ルカによる福音書23章44節~49節「神殿の幕が裂けた」

1、

 皆様の上に主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります

 受難節第四週の礼拝を捧げています。今朝は、ルカによる福音書から、主イエス様が十字架の上で、その神の命を父なる神にお返しになった御言葉を聞いております。

先ほどお読みしましたルカによる福音書23章44節から49節、「イエスの死」と小見出しが付けられていますが、そのすぐあとに小さい字で、三つの聖書個所が書かれています。並行記事と呼びまして、この同じ場面がこれらの聖書にも記されているという意味です。先週は、マタイによる福音書27章、その前の週は、ヨハネによる福音書19章から、主イエス様の十字架の同じ場面のみ言葉を聴きました。今日を含めて、マルコ以外のすべての並行箇所のみ言葉を聴くことになります。

今朝のルカによる福音書は四つの福音書の中で、ヨハネによる福音書に次いで短い仕方で主イエス様の死を描いています。ちなみに節の数をカウントしてみますと、マタイでは11節、マルコは9節、ヨハネは3節ですが、今朝のルカによる福音書は6節となっています。

そして、そこに記されております主イエス様の死のご様子は、福音書ごとに特色があります。今朝のルカによる福音書は、マタイとマルコには記されていた主イエス様の詩編22編の叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を記していません。その代わりに、34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」という祈り、43節「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という救いの宣言、そして、さきほどの46節「わたしの霊を御手にゆだねます」という最後の叫び、合わせて三つの主イエス様の言葉を記します。

これらに加えて、ヨハネによる福音書の「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です。見なさいあなたの母です」、「渇く」、「成し遂げられた」の三つがあり、それらを主イエス様の十字架上の7つの言葉と呼ぶのです。

わたくしは、牧師という仕事がら、幾人もの方々の死に直面しました。葬儀も執り行いました。そのたびに、人は、それまで生きてきたように死ぬと言う言葉は本当だなあと思わされました。また、その方が最後にどんな言葉を残して世を去るのか、それがその人の人生全体を現わすということがあります。もちろん何日間も集中治療室にいて、いわば何の言葉も残さずに召されるということもありますけれども、しかし何らかの仕方で、言葉を残すのです。それは「感謝」であったり、やり残したことについての思いだったりします。いずれにせよ家族に見守られて静かに息を引き取る、こんな死に方を誰もが願っているのかも知れません。

主イエス様の死は、そうではありませんでした。天寿を全うし、愛する人たちに見守られながら、日本流に言えば、畳の上で大往生するというような死に方ではありませんでした。そうではなく主イエス様は、死刑に処せられ、十字架の上で死なれました。それはユダヤ人の陰謀によって無実の罪で処刑されるという死に方でした。しかし、聖書に記録されました主イエス様の言葉の全体を締めくくるようにして残された主イエス様の十字架上の七つの言葉は、主イエス様というお方がどんなお方であったのかをはっきりと現わしているのだと思います。

言葉だけでなく、死に至る出来事の全体が主イエス様のご存在をわたしたちに示しているのです。その死の一部始終を最も近いところで見ていたローマ帝国の兵士である百人隊長はこう言ったのです。47節ですが「本当にこの人は正しい人だった」。犯罪人と共に処刑される人に対して「本当に正しい人」と言いうのです。そしてこの百人隊長は神を賛美したとまで書かれています。この人の神は本当の神だ、賛美される神だと思い、そのことを自分の言葉であらわしたのです。また、隣の十字架に付けられていた強盗のひとりもまた、救いの宣言を受けています。

主イエス様の死は、死そのものが証しとなり、伝道になっている死でありました。わたしたちは、十字架にかけられて死ぬというような死に方はおそらくしないと思います。しかし、それでも神に祈りつつ、神様の恵みの大きさをおのずから表わすような仕方で地上の人生の終わりを迎えたいと願っています。そして、わたくしは、それはおのずからそうなる、そうさせていただけると信じています。なぜなら私たちの神様は、恵みの神であり、その恵みは私たちの弱さやかけや罪を覆って余りあるほど大きいからです。

2,

主イエス様の死に際して三つのことが、起きました。

まず、昼の十二時頃であったのにもかかわらず、全地は暗くなり太陽が光を失ったのです。このとき日食が起きたのではないかという人がいます、この日は、過越しの祭り、つまり満月の頃ですから、太陽と月と地球の位置関係から、天文学的な意味で、月食は起こりますけれども、日食は起こり得ない、そのような季節なのです。従って、ここでは何らかの超自然的なことが生じたと言わなければなりません。主イエス様が死なれた、神の子が十字架で死なれたということは、天地万物、世界の歴史においてそれほどの出来事であるということを私たちは覚えるべきであります。

第二に、エルサレム神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。エルサレム神殿は、十字架の刑場であるゴルゴタの丘とは数キロも離れていますので、このことは、後になって、同じ時刻にそのことが起きたことが確認されたということでしょう。これもまた、誰かがそれを引き裂いたということではなく、一つの神のみ業として起きたことであります。エルサレム神殿には垂れ幕はいくつもあります。ここで言われている垂れ幕は、その最も重要なものです。聖所と至聖所とを隔てております垂れ幕のこと以外にはありません。一年に一度、大祭司だけがその中に入ることが出来る神の臨在の場所、聖なる場所を人々から隔てていた神殿のその垂れ幕が裂けたのです。これによって誰でもが神の臨在の場所に近づける道が開かれました。主イエス様の命と引き換えに、人間の罪の赦しの道が開かれたことを意味しています。新約聖書ヘブライ人への手紙10章19節から20節をお読みします。

「19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」

主イエス様に感謝します。

そして第三に、主イエス様は天の父なる神に向かってこう叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」

この祈りの言葉は、詩編31編6節の引用ではないかと見る人もいます。確かに、それはほとんど同じ言葉です。しかし、これは引用ということではなく、主イエス様がいつも覚えておられた詩編31編の信仰の言葉が、ご自身の祈りの言葉となったに違いありません。主イエス様の心は神の言葉である聖書の言葉と一つになっておられるからです。

3、

 主イエス様が、死なれたことが「息を引き取られた」と表現されています。元のギリシャ語でも「死んだ」という直接的な言葉ではなくて、間接的な遠回し表現、これを婉曲表現といいますが、そう言う言葉を使っています。多くの日本語訳聖書もまた「死んだ」とは書かずに、「息を引き取られた」と敬意を持って訳します。元の言葉は、エクプネオ―というギリシャ語です。エクとは英語のインの反対でアウト、つまり「外」とか「出す」という言葉です。そしてプネオーはプネウマ、これは息あるいは霊、魂という言葉からきています。そうしますと、息を引き取ると訳されていますが、もとの意味は息を吐き出してしまう、あるいは霊を出すということになります。この場面で新共同訳聖書は全て「息を引き取られた」訳していますが、実は、マタイ福音書は、霊を去らせるといい、ヨハネ福音書は霊を引き渡すと言っています。

考えてみますと、人が命を持っているのは、神様がその息を吹き込んで下さったからです。それによって体に命が与えられたのですね。生きているということは、神様が人間に霊を吹き込んで下さったからであって、その霊が神のもとに帰るのが死であります。人は死ぬ時、最後に息を吸うのか吐くのかという医学的なこととは関係なく、人間の命の起源が自分自身ではなく、神様にあるという原理を表現しているのです。

 このエクプネオ―という言葉は、新約聖書全体の中でも、今朝の箇所とマルコによる福音書の同じ場面でしか使われていません。この言葉自体が、主イエス様の最後の祈り、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と重なっています。わたしたちもまた、いずれの日にか、神様から頂いたこの地上の命を神様にお返ししなければなりません。からだは残され、やがて土に帰りますけれども、魂は地上を離れ去って天に帰ります。

 主イエス様は、次の段落で墓に葬られますが、やがて、復活なさり弟子たちに姿を表わしてくださいます。そして40日後、天に帰って行かれました。

 使徒言行録7章の全体は、ステファノという弟子がユダヤ人たちに石で打ち殺される、殉教の物語です。ステファノは、初代教会において、12使徒以外で最初に殉教した弟子です。ステファノは死の間際に二つの言葉を残しました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」そしてこう言いました。「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」そして彼は眠りについたのです。この二つの言葉によって、ステファノが、死に至るまで、死の瞬間まで主イエス様に従ったことが分かります。わたしたちは、ステファノが、自らの霊の受取り手として「主イエスよ」と叫んだことに特別に心を向けなければならないと思います。わたしたちの霊が地上を去る時、その霊は誰のもとに帰るのでしょうか。神様のもとに帰るのですけれども、それはもっと正確に言えば、主イエス様のもとに帰る、主イエス様が、わたしたちの霊の受け取り手であるということです。

旧約時代には、エルサレムに神殿が立てられており、神さまは、そこに御臨在くださると信じられていました。聖書朗読の際にお読みしました出エジプト記26章によれば、神殿の最も聖なる場所に置かれていたのは掟の箱で、その中には十戒の石の板とマナの入っている金の壺、そして芽を出したアロンの杖が入っています。掟の箱、契約の箱は、第一の幕屋の奥の第二の幕屋、林材の幕屋に置かれました。その二つの部屋、聖所と至聖所を隔てている垂れ幕が、主イエス様の十字架のときに二つに裂けたのです。

この至聖所に入ることが出来たのは、エルサレム神殿の最高責任者の大祭司一人でありました。大祭司はレビ記16章の規定に従って、年に一度だけそこに入って、民の贖いの儀式を行いました。雄牛と雄山羊の血を契約の箱の上の贖いの座に振りかけて罪の赦しとしたのです。

この旧約時代に定められた罪の赦しは、神の民であるイスラエル民族に限られていました。しかし、主イエス様が、完全な罪の赦しのための贖いとなり、十字架の上で死なれましたので、もはやこの儀式の一切は不要となりました。イスラエル民族だけではなく、主イエス様を信じるすべての人が罪の赦しに与かることができるようになったのです。だからこそ、神殿の垂れ幕は二つに裂けました。スイエス様を通って誰もが神の御臨在、至聖所に入ることが出来るようになったのです。

主イエス様のもとには完全な罪の赦しがあります。また完全な慰めがあります。それ故、わたしたちが日曜日の礼拝で生きておられる神の御臨在にあずかるとき、すでにわたしたちは神の御臨在の幕屋、至聖所の中にいるのです。

そして、わたしたちが地上の生涯を終えて、帰る場所は、天におられる主イエス様のところ以外にはありません。わたしたちは、どのような死に方をしたとしても、必ずそこへ帰るのです。その主イエス様をわたくしたちは今礼拝しています。この命ある限り、主イエス様に従い、お仕えしようではありませんか。祈ります。

天の父なる神様、受難節第四主日の礼拝を感謝いたします。主イエス様は、十字架にお架かりになり、「成し遂げられた」と言われました。わたしたちと世界の救いが成し遂げられたことが示されています。成し遂げられた救いが、現実の世界に実現してゆく時代にわたしたちが生きていることを感謝します。どうか、神さまを信じ、主イエス様を信じる人が、あなたのj御心通りに教会の福音宣教の働きにより、ひとりまた一人とおこされてゆきますよう導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。