聖書の言葉 マタイによる福音書 27章45節~56節 メッセージ 2024年3月3日(日)熊本伝道所朝拝説教 マタイによる福音書27章45~56節「神の子の死」 1、 今朝お集まりのおひとりお一人の上に、主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。受難節に入って三回目の主の日を迎えました。今朝は、続けて読み進めてきましたヨハネによる福音書ではなく、マタイによる福音書から主イエス様の十字架の死が語られるみ言葉を聴きたいと思います。3月31日のイースターまで、今朝を含めて4回の日曜日があります。もしも忠実にヨハネよる福音書の連続講解説教を続けますと、どうしてもイースターの前にヨハネによる福音書20章の主イエス様の復活のみ言葉を語らなければならなくなってしまいます。やはり受難節の期間は、主イエス様の受難のみ言葉を聴き続けたいと思わされました。 そこで今朝はマタイ、次週とその次は、ルカによる福音書から十字架のみ言葉を聴き、最後の受難週の日曜日は、再びヨハネに戻って、主イエス様の埋葬のみ言葉を聴いて、それからイースターを迎えたいと思います。マルコによる福音書についてはマタイとルカのみ言葉とほぼ重なっていますので、今回は取り上げずにイースターを迎えます。 さて、先ほどお読みしましたマタイによる福音書27章45節から56節のみ言葉を見ますと全く異なる人物が発した二つ言葉が記されています。第一は、主イエス様が発せられたものです。46節の中ほどにあります。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。 もう一つは、これはローマへの百人隊長をはじめ警備に当たっていたローマの兵士たちが思わず発した言葉です。それは後半部の54節に残されています。「本当にこの人は神の子だった」。 教会は、古い時代から四つの福音書を照らし合わせまして、主イエス様は十字架の上で7つの言葉を発せられたと定めています。そしてその順序についても合意があります。これまでも幾人もの説教者が「十字架上の七つの言葉」という主題で説教しています。 しかし、その中7つの言葉のうち、マタイとマルコは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という一つの言葉だけを、主イエス様の十字架上の言葉として記録しています。残りの6つの言葉は、ルカとヨハネに記されているのです。 2, 46節の全体をお読みします。「46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 実は、マタイはこのあとの50節で「50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」 と書いて、最後にもう一つの言葉を発せられたことを記録します。けれどもその内容は記していません。それはルカとヨハネが記している言葉のいずれかであると考えられます。 マタイによる福音書は、ただひとつの言葉だけを記して、このお言葉が大事だ、大切だと考えました。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 主イエス様の十字架について、わたしたちはいろいろと思い巡らすことが出来ると思います。たとえば、十字架は神様の愛のしるしであり、罪人の許しのためのものだった。わたし達もまた神と隣人を愛し、十字架を負って生きるようにとこの世に遣わされているとも考えることも出来ると思います。けれども、はっきりさせておかなければならないことは、そもそも十字架というものが死刑であるということです。十字架の目的は人をそこで死なせること、殺すことなのです。そして主イエス様は、確かにそこで死なれたということです。 「人は生きてきたように死ぬ」と言われることがあります。だれでも死を逃れることが出来ません。いよいよ死ぬというときに、果たして自分はどんな風に死ぬのだろうか、かっこよく死ねるのかなどとつい考えてしまいます。時代劇などを見ていますと、主人公はみんなかっこよく悠然と死んでゆきますね。実際は、そんなはずはないとわたしは真剣に思っているのですが、少しもあわてず騒がず、英雄たちは、感謝の言葉や子供たちに忠告の言葉を残し、静かに死にます。自分は、そんなふうには死ねないなあと思っています。しかし、これはそのときにならないと分かりません。 さて主イエス様の最後の言葉、これはどうでしょう。これは絶望の言葉であると考えるほかはない言葉です。「なぜわたしを捨てられたのか」、父なる神様に対して感謝する言葉ではありません。また弟子たちを気遣って、彼らに有意義な遺言を残されたというのでもない、これは確かなことです。しかも、大きな声で叫ばれた、もとのギリシャ語を見ますとまさしく絶叫されたという言葉です。これは主イエス様らしくないではないか、多くの人が考えました。そこで、ある人たちは、これは詩篇22編の冒頭の言葉であるのだから、実はその続きがあると考えました。詩篇22編の最後は神様を賛美する言葉で終わっています。だから、主イエス様は、初めの部分を語られたことで、実は22編全体の神様への感謝と賛美でご生涯を終えたと説明します。しかし、もしそうであるなら、聖書は、もっとはっきりと、そのことを記すはずであります。この言葉を賛美の言葉として、そして模範的な殉教者の最後の言葉ということは決して出来ません。わたしたちは、この言葉を通して、主イエス様の死が、救い主の死であるということ、主イエス様の死は私たちの身代わりの死であったことを、はっきりと知らなければならないと思います。 旧約聖書最大のメシヤの預言、イザヤ書53章は、こう語ります。 53章5節「:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」 8節「 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」 先日、説教塾のセミナーで会いましたある牧師が、ずいぶん前に東京から北海道へ転任したそうです。転任した後、東京の教会から連絡があったそうです。 「先生に住民税の請求が来たので、こちらで支払っておきました」 本来、その牧師が払うべきであったお金を前の教会が代わって払ってくれた。彼は、もうそのお金を払うことは一切ありません。すでに支払われたからです。 主イエス様が、十字架にかかって死なれたということは、住民税を代わりにはらうというような生易しい次元のものではなく、人生においてもっと決定的なこと、根源的なことです。すなわち主イエス様は、私たちの罪の支払いをしてくださった、私たちが受ける死の刑罰の身代わりになられたのです。 私たちは、罪を犯します。罪とは神様の御心に適わないこと、そむく一切のことです。うそをつく、隠れた形で盗みをする、愛することをしない、それどころか人を軽蔑する、裁く、姦淫の心をもって女性あるいは男性を見る、傷つけてしまう、傲慢になる、いろいろなことで思い煩う、神様を畏れず、軽んずる、死のうと思う、それは他人や自分に対する罪であります。そして同時に、根本的には、神様に対する罪であります。 聖書には自分でも意識できていない隠された罪もあるといっています。わたしたちは神様に大きな借金を背負っています。これを完全に返すのは大変なこと、私たちにとって不可能なことです。もしそれらの罪の解決がなされないのならば、人間が死ぬということは間違いなくこの罪の代償であり、刑罰です。神様は全知全能です。わたし達の言葉も行いも心の思いもすべて覚えられています。すべては明らかなのです。私たちが死を恐れるのは、そのことを本来的に知っているからではないでしょうか。その心の闇は、今も私たちを苦しめ、そして最後のとき、決定的に私たちを苦しめるのです。 主イエス様が今朝、十字架の上におられるのは、本来、私たちが、そこにいるはずであったからです。 主イエス様が十字架の上でなし遂げて下さったこと、すなわち、その最後の叫び通り、神様に完全に捨てられて死んだことは、実は、私たちが、本来受けなければならなかったすべてのことです。主イエス様は、神さまの裁きをお受けになられました。望みのない暗闇、地獄の滅びを間違いなく引き受けてくださったのです。主イエス様が、味わわれた絶望は、本来は私たちの絶望です。 主イエス様によって、わたしたちは赦しをいただきました。信仰義認という言葉があります。常々誤解を招く良くない言葉だと思っています。人間の側の功績ではなく、ただ主イエス様への信仰によって義とされる、罪の刑罰から解放される、そういう意味では正しいのです。しかし、その次には、その信仰が本物であるとか、深いとか浅いとかがわたしたちは気になってくるのです。信仰が善行、救われるための功績のようになる、それが問題なのです。 正確には、キリスト義認、十字架義認といわなければならないのではないでしょうか。私たちが、主イエス様をただ信じることによって、神様は、その罪をすべて許してくださいます。信じるという言葉は、英語でもギリシャ語でも、イン、エイス、中に、という言葉が続いて、はじめて意味が通じます。私たちが、主イエス様の中に、すっぽり入り込んでしまうのです、信仰が深いも浅いもありません。救いの根拠は、私たちのほうにはなく、主イエス様の側にあります。だからこそ「恵みによって」というのです。 それは天の父なる神様の永遠のご計画においてなされました。ですから、安心して、この救いの中に入っていいのです。具体的にいうならば、洗礼を受けるのです。信仰を告白するのです。 主イエス様を信じている人は、もはや、神の敵ではありません、敵にはなりえません。もう支払いは完全になされました。キリスト者は、死んだ後、必ず主イエス様の許へ行きます。必ず天国に行きます。信仰が浅いとか深いとか関係ないのです。主イエス様が、滅びを味わい苦しみの限りを経験された、死んで下さった、ここに私どもひとりひとりの救いの根拠があります。 3、 さて、主イエス様の十字架を見ていたローマの兵隊達やユダヤ人たちは、エリヤがやってくるという期待を抱きました。エリヤは、旧約聖書列王記上に名前の出る預言者です。そして旧約聖書の最後の書であるマラキ書3章24節では、その再来について約束されています。23節から読みます。 「23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」旧約聖書はここで終わっています。ですから終わりの日にエリヤが来ることは、旧約聖書最後の約束です。 主イエス様が十字架におかかりになって、3時間後、昼の12時、天地創造の神様の超自然的な御業によって、地の全体が暗くなりました。これは十字架をみていた人々だけが経験したことでしょう。彼らは、主イエス様が、もしかしたら本当のメシヤかもしれないと思っていました。ですから、十字架のときに何かが起こるかもしれないと漠然と考えていました。暗闇が地を覆い彼らを不安にしました。ますます、主イエス様はメシヤかもしれないと思うようになりました。そこで旧約聖書の最後の言葉を思い出しました。恐るべき神様の裁きの日、主の日が来るのではないか、そうであるなら預言者エリヤが来るに違いないと思ったのです。主イエス様のエリエリという叫びをエリヤと聞き違え、エリヤが来て、主イエス様を十字架から救い、新しい時代の王に即位させるのではと思いました。最後のどんでん返しです。 エリヤは来ませんでした。けれども、旧約聖書が約束した恐るべき主の日は確かに来たといわなければなりません。主イエス様がこの世界にお生まれになり、十字架にかかられ、そして復活されたという主イエス様の一切の業において、すでに大いなる恐るべき日、世の終わりのときが始まったのです。 午後3時、主イエス様は、息を引き取られました。そのとき三つのしるしが起きました。 第一のことは、エルサレム神殿の垂れ幕が裂かれたことです。この幕は年に一度大祭司が入っていって罪の許しのため子羊を捧げる儀式をするために設けられた、至聖所と一般の祭司たちが入って仕事をする聖所の間の幕です。この垂れ幕は、年に一度の大祭司の救いの業、子羊の犠牲なしに、人は神に近づけないこと、平和を得られないことを表わしました。しかし、この幕は裂けてしまい、もはや神と人とをさえぎるものはなくなりました。主イエス様のただ一度の完全な贖いによって、エルサレムの神殿とそこに仕える人々は、もはやその仕事をする必要がなくなったのです。 二つ目に、地震が起こり、岩が裂けました。このことを決して偶然に起きた自然現象と考えてはならないと思うんですね。天地を創造し、御手の内に保たれる天の神が地上の人々に現してくださったしるしです。地が揺れ動き岩盤が裂ける、言い換えると、主イエス様が死なれたということは、天地万物の枠組みが変わってしまうような大きな出来事です。新しい世界が来たのです。第一の神殿の垂れ幕のこととあわせて考えるならば、これまでイスラエル民族、ユダヤ人だけのものとされていた救いの恵みが、主イエス様の十字架と復活とによって、信じる人、すべてのものとなったということです。 これに続いて、三つ目のこと、聖人と言われていますが、死人の復活が起きたことが、大切なことです。墓は開かれ、私たちの人生を行き止まりのようにふさいでいた墓石は取り除かれました。主イエス様の贖いは天の父なる神様によって、御心に適うことであると宣言され、わたしたちの死そのものが、その意味を変えてしまいました。死は滅びではなくなりました。キリスト者に取りまして、死は永遠の命の完成へと向かう門です。 主イエス様が、最初にこの天国の門を開き、続いて、主イエス様のものであるすべての人が、これに続きます。53節に、復活した人は主イエス様の復活を待ってから、墓から出ると記されていることは大切なことです。だれも主イエス様の恵みによらずに命を得ることは出来ないからです。 4、 主イエス様は十字架の上で口を開き、絶望の心で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 この嘆き、絶望は、まったく罪のないお方の絶望、聖なる神の子の滅びを表わしています。そしてそれによって、どんな罪があるものでも、神への信仰、主イエス様への信仰によって、永遠の命が与えられる、その救いのみ業が成し遂げられたのです。 従ってわたしたちは、罪を犯して苦しむとしても、それはすでに天において赦されていることを知っています。主イエス様を信じているからです。あなたのために救いの業を成し遂げたよ、主イエス様はやさしくそうおっしゃってくださるのです。どんなに絶望しても良い、どんな死に方をしたっていい、すべては主イエス様の恵みの中のことです。ローマの百人隊長は思わずいました。「本当にこの人は神の子だった」この言葉は本当のことではないでしょうか。祈りをいたします。 恵みと憐れみの源である主イエス・キリストの父なる神 御名を崇めます。神の御子、主イエス様が十字架の上で、私どもの受けるすべての苦しみを完全に受け止め、救いのみ業を成し遂げ、勝利してくださったことを感謝いたします。神殿の垂れ幕は裂け、大地は揺れ動き、硬い岩さえも割れました。死人は復活し聖なる都に姿を現しました。 どうか、ひとりでも多く人が、この福音を知り、また聖霊のお働きによって、これを信じることができ、あなたの救いに入れられますようにお願いいたします。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
2024年3月3日(日)熊本伝道所朝拝説教
マタイによる福音書27章45~56節「神の子の死」
1、
今朝お集まりのおひとりお一人の上に、主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。受難節に入って三回目の主の日を迎えました。今朝は、続けて読み進めてきましたヨハネによる福音書ではなく、マタイによる福音書から主イエス様の十字架の死が語られるみ言葉を聴きたいと思います。3月31日のイースターまで、今朝を含めて4回の日曜日があります。もしも忠実にヨハネよる福音書の連続講解説教を続けますと、どうしてもイースターの前にヨハネによる福音書20章の主イエス様の復活のみ言葉を語らなければならなくなってしまいます。やはり受難節の期間は、主イエス様の受難のみ言葉を聴き続けたいと思わされました。
そこで今朝はマタイ、次週とその次は、ルカによる福音書から十字架のみ言葉を聴き、最後の受難週の日曜日は、再びヨハネに戻って、主イエス様の埋葬のみ言葉を聴いて、それからイースターを迎えたいと思います。マルコによる福音書についてはマタイとルカのみ言葉とほぼ重なっていますので、今回は取り上げずにイースターを迎えます。
さて、先ほどお読みしましたマタイによる福音書27章45節から56節のみ言葉を見ますと全く異なる人物が発した二つ言葉が記されています。第一は、主イエス様が発せられたものです。46節の中ほどにあります。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
もう一つは、これはローマへの百人隊長をはじめ警備に当たっていたローマの兵士たちが思わず発した言葉です。それは後半部の54節に残されています。「本当にこの人は神の子だった」。
教会は、古い時代から四つの福音書を照らし合わせまして、主イエス様は十字架の上で7つの言葉を発せられたと定めています。そしてその順序についても合意があります。これまでも幾人もの説教者が「十字架上の七つの言葉」という主題で説教しています。
しかし、その中7つの言葉のうち、マタイとマルコは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という一つの言葉だけを、主イエス様の十字架上の言葉として記録しています。残りの6つの言葉は、ルカとヨハネに記されているのです。
2,
46節の全体をお読みします。「46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
実は、マタイはこのあとの50節で「50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」
と書いて、最後にもう一つの言葉を発せられたことを記録します。けれどもその内容は記していません。それはルカとヨハネが記している言葉のいずれかであると考えられます。
マタイによる福音書は、ただひとつの言葉だけを記して、このお言葉が大事だ、大切だと考えました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
主イエス様の十字架について、わたしたちはいろいろと思い巡らすことが出来ると思います。たとえば、十字架は神様の愛のしるしであり、罪人の許しのためのものだった。わたし達もまた神と隣人を愛し、十字架を負って生きるようにとこの世に遣わされているとも考えることも出来ると思います。けれども、はっきりさせておかなければならないことは、そもそも十字架というものが死刑であるということです。十字架の目的は人をそこで死なせること、殺すことなのです。そして主イエス様は、確かにそこで死なれたということです。
「人は生きてきたように死ぬ」と言われることがあります。だれでも死を逃れることが出来ません。いよいよ死ぬというときに、果たして自分はどんな風に死ぬのだろうか、かっこよく死ねるのかなどとつい考えてしまいます。時代劇などを見ていますと、主人公はみんなかっこよく悠然と死んでゆきますね。実際は、そんなはずはないとわたしは真剣に思っているのですが、少しもあわてず騒がず、英雄たちは、感謝の言葉や子供たちに忠告の言葉を残し、静かに死にます。自分は、そんなふうには死ねないなあと思っています。しかし、これはそのときにならないと分かりません。
さて主イエス様の最後の言葉、これはどうでしょう。これは絶望の言葉であると考えるほかはない言葉です。「なぜわたしを捨てられたのか」、父なる神様に対して感謝する言葉ではありません。また弟子たちを気遣って、彼らに有意義な遺言を残されたというのでもない、これは確かなことです。しかも、大きな声で叫ばれた、もとのギリシャ語を見ますとまさしく絶叫されたという言葉です。これは主イエス様らしくないではないか、多くの人が考えました。そこで、ある人たちは、これは詩篇22編の冒頭の言葉であるのだから、実はその続きがあると考えました。詩篇22編の最後は神様を賛美する言葉で終わっています。だから、主イエス様は、初めの部分を語られたことで、実は22編全体の神様への感謝と賛美でご生涯を終えたと説明します。しかし、もしそうであるなら、聖書は、もっとはっきりと、そのことを記すはずであります。この言葉を賛美の言葉として、そして模範的な殉教者の最後の言葉ということは決して出来ません。わたしたちは、この言葉を通して、主イエス様の死が、救い主の死であるということ、主イエス様の死は私たちの身代わりの死であったことを、はっきりと知らなければならないと思います。
旧約聖書最大のメシヤの預言、イザヤ書53章は、こう語ります。
53章5節「:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
8節「 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」
先日、説教塾のセミナーで会いましたある牧師が、ずいぶん前に東京から北海道へ転任したそうです。転任した後、東京の教会から連絡があったそうです。
「先生に住民税の請求が来たので、こちらで支払っておきました」
本来、その牧師が払うべきであったお金を前の教会が代わって払ってくれた。彼は、もうそのお金を払うことは一切ありません。すでに支払われたからです。
主イエス様が、十字架にかかって死なれたということは、住民税を代わりにはらうというような生易しい次元のものではなく、人生においてもっと決定的なこと、根源的なことです。すなわち主イエス様は、私たちの罪の支払いをしてくださった、私たちが受ける死の刑罰の身代わりになられたのです。
私たちは、罪を犯します。罪とは神様の御心に適わないこと、そむく一切のことです。うそをつく、隠れた形で盗みをする、愛することをしない、それどころか人を軽蔑する、裁く、姦淫の心をもって女性あるいは男性を見る、傷つけてしまう、傲慢になる、いろいろなことで思い煩う、神様を畏れず、軽んずる、死のうと思う、それは他人や自分に対する罪であります。そして同時に、根本的には、神様に対する罪であります。
聖書には自分でも意識できていない隠された罪もあるといっています。わたしたちは神様に大きな借金を背負っています。これを完全に返すのは大変なこと、私たちにとって不可能なことです。もしそれらの罪の解決がなされないのならば、人間が死ぬということは間違いなくこの罪の代償であり、刑罰です。神様は全知全能です。わたし達の言葉も行いも心の思いもすべて覚えられています。すべては明らかなのです。私たちが死を恐れるのは、そのことを本来的に知っているからではないでしょうか。その心の闇は、今も私たちを苦しめ、そして最後のとき、決定的に私たちを苦しめるのです。
主イエス様が今朝、十字架の上におられるのは、本来、私たちが、そこにいるはずであったからです。
主イエス様が十字架の上でなし遂げて下さったこと、すなわち、その最後の叫び通り、神様に完全に捨てられて死んだことは、実は、私たちが、本来受けなければならなかったすべてのことです。主イエス様は、神さまの裁きをお受けになられました。望みのない暗闇、地獄の滅びを間違いなく引き受けてくださったのです。主イエス様が、味わわれた絶望は、本来は私たちの絶望です。
主イエス様によって、わたしたちは赦しをいただきました。信仰義認という言葉があります。常々誤解を招く良くない言葉だと思っています。人間の側の功績ではなく、ただ主イエス様への信仰によって義とされる、罪の刑罰から解放される、そういう意味では正しいのです。しかし、その次には、その信仰が本物であるとか、深いとか浅いとかがわたしたちは気になってくるのです。信仰が善行、救われるための功績のようになる、それが問題なのです。
正確には、キリスト義認、十字架義認といわなければならないのではないでしょうか。私たちが、主イエス様をただ信じることによって、神様は、その罪をすべて許してくださいます。信じるという言葉は、英語でもギリシャ語でも、イン、エイス、中に、という言葉が続いて、はじめて意味が通じます。私たちが、主イエス様の中に、すっぽり入り込んでしまうのです、信仰が深いも浅いもありません。救いの根拠は、私たちのほうにはなく、主イエス様の側にあります。だからこそ「恵みによって」というのです。
それは天の父なる神様の永遠のご計画においてなされました。ですから、安心して、この救いの中に入っていいのです。具体的にいうならば、洗礼を受けるのです。信仰を告白するのです。
主イエス様を信じている人は、もはや、神の敵ではありません、敵にはなりえません。もう支払いは完全になされました。キリスト者は、死んだ後、必ず主イエス様の許へ行きます。必ず天国に行きます。信仰が浅いとか深いとか関係ないのです。主イエス様が、滅びを味わい苦しみの限りを経験された、死んで下さった、ここに私どもひとりひとりの救いの根拠があります。
3、
さて、主イエス様の十字架を見ていたローマの兵隊達やユダヤ人たちは、エリヤがやってくるという期待を抱きました。エリヤは、旧約聖書列王記上に名前の出る預言者です。そして旧約聖書の最後の書であるマラキ書3章24節では、その再来について約束されています。23節から読みます。
「23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」旧約聖書はここで終わっています。ですから終わりの日にエリヤが来ることは、旧約聖書最後の約束です。
主イエス様が十字架におかかりになって、3時間後、昼の12時、天地創造の神様の超自然的な御業によって、地の全体が暗くなりました。これは十字架をみていた人々だけが経験したことでしょう。彼らは、主イエス様が、もしかしたら本当のメシヤかもしれないと思っていました。ですから、十字架のときに何かが起こるかもしれないと漠然と考えていました。暗闇が地を覆い彼らを不安にしました。ますます、主イエス様はメシヤかもしれないと思うようになりました。そこで旧約聖書の最後の言葉を思い出しました。恐るべき神様の裁きの日、主の日が来るのではないか、そうであるなら預言者エリヤが来るに違いないと思ったのです。主イエス様のエリエリという叫びをエリヤと聞き違え、エリヤが来て、主イエス様を十字架から救い、新しい時代の王に即位させるのではと思いました。最後のどんでん返しです。
エリヤは来ませんでした。けれども、旧約聖書が約束した恐るべき主の日は確かに来たといわなければなりません。主イエス様がこの世界にお生まれになり、十字架にかかられ、そして復活されたという主イエス様の一切の業において、すでに大いなる恐るべき日、世の終わりのときが始まったのです。
午後3時、主イエス様は、息を引き取られました。そのとき三つのしるしが起きました。
第一のことは、エルサレム神殿の垂れ幕が裂かれたことです。この幕は年に一度大祭司が入っていって罪の許しのため子羊を捧げる儀式をするために設けられた、至聖所と一般の祭司たちが入って仕事をする聖所の間の幕です。この垂れ幕は、年に一度の大祭司の救いの業、子羊の犠牲なしに、人は神に近づけないこと、平和を得られないことを表わしました。しかし、この幕は裂けてしまい、もはや神と人とをさえぎるものはなくなりました。主イエス様のただ一度の完全な贖いによって、エルサレムの神殿とそこに仕える人々は、もはやその仕事をする必要がなくなったのです。
二つ目に、地震が起こり、岩が裂けました。このことを決して偶然に起きた自然現象と考えてはならないと思うんですね。天地を創造し、御手の内に保たれる天の神が地上の人々に現してくださったしるしです。地が揺れ動き岩盤が裂ける、言い換えると、主イエス様が死なれたということは、天地万物の枠組みが変わってしまうような大きな出来事です。新しい世界が来たのです。第一の神殿の垂れ幕のこととあわせて考えるならば、これまでイスラエル民族、ユダヤ人だけのものとされていた救いの恵みが、主イエス様の十字架と復活とによって、信じる人、すべてのものとなったということです。
これに続いて、三つ目のこと、聖人と言われていますが、死人の復活が起きたことが、大切なことです。墓は開かれ、私たちの人生を行き止まりのようにふさいでいた墓石は取り除かれました。主イエス様の贖いは天の父なる神様によって、御心に適うことであると宣言され、わたしたちの死そのものが、その意味を変えてしまいました。死は滅びではなくなりました。キリスト者に取りまして、死は永遠の命の完成へと向かう門です。
主イエス様が、最初にこの天国の門を開き、続いて、主イエス様のものであるすべての人が、これに続きます。53節に、復活した人は主イエス様の復活を待ってから、墓から出ると記されていることは大切なことです。だれも主イエス様の恵みによらずに命を得ることは出来ないからです。
4、
主イエス様は十字架の上で口を開き、絶望の心で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
この嘆き、絶望は、まったく罪のないお方の絶望、聖なる神の子の滅びを表わしています。そしてそれによって、どんな罪があるものでも、神への信仰、主イエス様への信仰によって、永遠の命が与えられる、その救いのみ業が成し遂げられたのです。
従ってわたしたちは、罪を犯して苦しむとしても、それはすでに天において赦されていることを知っています。主イエス様を信じているからです。あなたのために救いの業を成し遂げたよ、主イエス様はやさしくそうおっしゃってくださるのです。どんなに絶望しても良い、どんな死に方をしたっていい、すべては主イエス様の恵みの中のことです。ローマの百人隊長は思わずいました。「本当にこの人は神の子だった」この言葉は本当のことではないでしょうか。祈りをいたします。
恵みと憐れみの源である主イエス・キリストの父なる神
御名を崇めます。神の御子、主イエス様が十字架の上で、私どもの受けるすべての苦しみを完全に受け止め、救いのみ業を成し遂げ、勝利してくださったことを感謝いたします。神殿の垂れ幕は裂け、大地は揺れ動き、硬い岩さえも割れました。死人は復活し聖なる都に姿を現しました。
どうか、ひとりでも多く人が、この福音を知り、また聖霊のお働きによって、これを信じることができ、あなたの救いに入れられますようにお願いいたします。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン