聖書の言葉 ヨハネによる福音書 19章16節~27節 メッセージ 2024年2月18日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書19章16節~27節「イエス、十字架に架けられる」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 受難節に入りましてから、三回目の主の日を迎えました。与えられましたみ言葉はヨハネによる福音書19章後半、16節から27節です。次週は28節から37節で、この二回にわたる御言葉において主イエス様は、地上の命を終えられることとなります。受難節に、主イエス様が苦難をお受けにある、御言葉を聞くことが出来るのは幸いであると思います。わたしたちは、主イエス様が、その神の御子の命を、わたしたちのために与えてくださったという、その受難の意味を改めて覚えるのです。 ただ今お読みしました御言葉の終わりの方、25節をもう一度お読みします。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」 ここには4名の女性が記されています。主イエス様の地上における最後のお姿を見守る女性たちです。男性は一名です。実は、この女性の数は、4人ではなくて3名かもしれないともいわれます。「母の姉妹」と書かれている人、つまり主イエス様の母マリアの姉、あるいは妹ですね、「母の姉妹」と呼ばれている人が、その後に続いている「クロパの妻」という人と同じ人物なのか、別の人物なのか、聖書はそのどちらにも読める書き方をしているからです。しかし、ここでは4名と解釈いたします。ただ一人残った男性の、主の愛しておられた弟子は、ヨハネによる福音書では、福音書記者の使徒ヨハネです。 今朝の御言葉においてよくわかることは、主イエス様の弟子たちの中で、はっきりと十字架の証人として立てられているのは、主として女性たちであるということです。この後、主イエス様は十字架の上で死なれて墓に葬られ、三日目におよみがえりになります。その復活の最初の証人もまた女性たちでありました。主イエス様は、女性の弟子たちの前で十字架に架けられ、死んでくださり、そして復活の主イエス様もまたは、まず女性たちに現れ、ご自身の復活のことを他の人に伝えなさいと命じられたのであります。 現代よりもはるかに女性の地位が低かった古代のユダヤのことを考えますと、このことは実に驚くべきことです。神様のご計画の中では、男性だけが何か特別な役割を果たすということでは決してないのということです。 さて、この4名の女性たちと対照的に描かれている男性の一団がいます。それは主イエス様を十字架につけた兵士たちであります。彼らは、主イエス様の服を剥ぎ取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしたと23節にかかれています。ここから類推できることは、兵士たちの数は4名だったということであります。ここでは主イエスの女性の弟子たち、4名と主イエス様を十字架につけた4名の男性の兵士とが登場しているのです。 4人の兵士たち、当然皆男性ですが、彼らは、この世的の者の代表です。ローマの兵士たち、中にはこれまでいくつものの戦いに参加し、多くの人を殺してきた者もいたことでしょう。そして今、ユダヤ人たちが捕らえ、また訴え出て、ローマ総督ピラトが十字架刑を決めた一人の人の死刑を執行しようとしています。それはいつものことであり、何の特別の思いを抱くことではなかったのです。彼らは自分のことだけを考えているのです。 彼らは、主イエス様が、これまで何を世に伝えてきたのか、そして今、この罪なき神の御子が、死なれるということについて全く関心がありません。「とても良い上着だ」、「四つに分けよう」「下着も分けよう」、これが彼らにとって大事なことでした。私たちもまた、ひとたび気を緩めるなら、同じような心で毎日を生きてしまうようなものではないでしょうか。 今主イエス様の十字架を見守る女性たちは、これまで他の男性の弟子と共に、主イエス様に従って来ました。しかし、最後の最後になって多くのものは逃げ去り、チリぢりになってしまったのです。弟子たちのリーダーと目されているペトロさえもが、主イエス様を知らない、あの人の仲間ではないと三度も宣言したことはそのしるしでありました。 しかし、彼女たちは逃げませんでした。女性だから、比較的安全であったということが出来るかもしれません。けれども、主イエス様の弟子だと分かったなら、やはり捕らえられる可能性があったのです。しかし、彼女たちは、主イエス様に最後の最後まで従いました。ここにもまた男性女性の別なく主への愛と奉仕へと召してくださる神様のご計画がありました。 2、 当時、十字架刑に処せられるものは、まず40に一つ足りない39回の鞭を打たれ、次に自分が架けられるべき十字架を背負わされて処刑場へと進みます。17節で「されこうべの場所」と呼ばれているその場所は、いまではそれがどこであったのかわかっていません。その場所であるとされているところには聖墳墓教会という名の教会がたてられています。4世紀になってローマ皇帝の命によって建てられたものですが、エルサレムの旧市街の城壁の中にあるので、城壁の外にあるべき処刑場とは一致しません。 町の外にあったはずの処刑場までは、数百メートルから1キロはあったと思われます。17節に、「イエスは自ら十字架を背負い」と記されています。ほかの福音書には、途中で力尽きた主イエス様に代わって、たまたまそこにいたシモンというキレネ人が十字架を担いだと記されますが、ヨハネによる福音書は、それにはふれません。「自ら」とは自分から進んでということです。確かにそれは強いられた十字架でありました。しかし、今や主イエス様は、このことをご自分に与えられた大切な使命と考えて、ご自分から進んでずっしりと重い十字架を背負って進まれるのです。 マタイによる福音書16章では、弟子たちの代表であるシモン・ペトロが主イエス様に向かって、「あなたこそ生ける神の子、メシア、キリストです」と信仰の告白をしました。そのときに、主イエス様は、彼らにご自分の受難、すなわち、この先、ユダヤ人たちに捕らえられ、苦しみを受けて殺されるということを予告なさいました。そして弟子たちにこう言われました。「わたしについてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」。 それはわたしたちが、主イエス様に、いやだいやだとしぶしぶ従うのではなく、自ら進んで、その負うべき重荷に積極的な意味を見出して従ってゆくということです。そのようにして私たちは、自分自身の人生を主イエス様に従って歩んでゆくのです。 「されこうべ」はヘブライ語ではゴルゴダです。ラテン語ではカルバリと言います。そこから、主イエス様が十字架につけられた場所をゴルゴダ、あるいはカルバリと呼ぶようになりました。たいていはゴルゴダの丘、カルバリの丘というように呼びますけれども、聖書にはそこが丘であったとは書かれていません。むしろ、20節に「その場所は都に近かった」ということと「多くのユダヤ人が十字架につけられた罪状書きを読んだ」とありますから、通りに面してはいないにしても、通りからすぐに見える場所であった可能性が高いのです。 この日の処刑者は主イエス様を含めて三人であったようです。ほかの二人は、主イエス様の両側に十字架につけられました。他の福音書によれば、彼らは強盗であり、十字架に架けられるのが当然である明白な罪を犯した犯罪人であります。 主イエス様の罪は、ユダヤ人たちの訴えによれば、神の子と自称したこと、そしてユダヤ人の王と名乗ったということでした。しかし、裁判官であるポンテオ・ピラトは、それだけでは十字架に値しない、この人には罪を見いだせないと繰り返しました。 ここには私たちに対する神様のメッセージがあります。すなわち主イエス様は間違いなく、神の子であり、すべてのもののまことの王であること、そして罪のないお方であるということです。その上で主イエス様は、自ら進んで十字架を背負い、ゴルゴダへと向かわれたのであります。それはご自分の命を罪の赦しのために与え切るためでありました。ヨハネによる福音書の3章16節にこうあります。 「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」 「信じる」とは神様を信じること、主イエス様を信じることです。このお方の愛を信じ、おゆだねすること、身を任せて、従うことです。そのようにして信じる者は一人も滅びないのです。 ルカによる福音によれば、主イエス様の隣に十字架につけられていた犯罪人の一人が、まさにその死の直前に悔い改め、主イエス様に向かって、「あなたが御国においでになるときにわたしを思い出してください」と願いました。主イエス様は、はっきりと言ったのです。「あなたは今日、私と一緒に楽園、パラダイスにいる」 これまでまことの神を知らず、従わなかったことを悔い改めること、そして主イエス様により頼み、祈り願う、最低限それだけで、どんな人でも、たとえ、この世の誰からも悪人、罪びとと名指しされている人でも、あるいはもうすぐ死んでしまうという人でも、誰でも救いに与ることが出来ます。罪の無い神の御子が、罪びとの身代わりに死んでくださったからであります。 3、 さて、今朝の御言葉の24節の終わりに「聖書の言葉が実現するためであった。」という言葉があります。「聖書の言葉が実現するために」 ここで福音書の記者が「聖書」と言っているのは私たちがいま読んでおります、新約聖書のことではなく、旧約聖書のことです。何において旧約聖書の言葉が実現したのかと言いますと、兵士たちが、主イエス様の下着をくじ引きしたことです。このことは既に旧約聖書において預言されていたことであったというのです。この先の御言葉を読み進んでゆきますと、同じように、聖書の言葉が実現するためというフレーズが、36節にも出ていることが分かります。 36節をお読みします。 「これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また28節には、主イエス様が「渇く」と言われたことについてもよく似た言葉が記されています。「こうして聖書の言葉が実現した」とも書かれています。 旧約聖書において記されていたことが、主イエス様が、十字架にお架かりになるという時に、次々と実現したというのであります。実現すると訳されている言葉は、元の言葉では「満たす、一杯にする、完全にする、実現する、溢れる」といった意味があります。ちょうど、コップに水を入れてゆきますと、だんだん水が満ちてきて、ある瞬間にもうふちまで達する、これ以上は入れることが出来ず、もう溢れ出してしまう、そういう状態です。 先ほどのいくじ引きの箇所では、旧約聖書のことばそのものが、引用されています。「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」 これは詩編22編19節であります。新共同訳聖書では詩編22編19節はこう訳されます。18節からお読みします。「骨が数えられるほどになったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、19 わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」 詩編22編は、主イエス様の十字架とまことに関係の深い詩編です。マタイとマルコの二つの福音書が証しする主イエス様の十字架上の苦難の叫び、神様に対する嘆きの言葉がそこにあるからです。「わが神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」詩編22編2節です。 これは神によって完全に捨てられるという体験、本来私たちが、味わうべきであった神の裁きの苦しみ、大きな苦しみを主イエス様が味わっておられることを表します。しかもそのことが旧約聖書の御言葉の完成成就として現実となったというのです。ヨハネは、この主イエス様の言葉を記すことはなく、同じ詩編22編の御言葉、19節の御言葉である、人々から蔑まれる悲しみ、嘆きの言葉が主イエス様において実現したと語ります。 「聖書の言葉が実現した」とここで重ねて記されるのは、決して旧訳聖書の言葉が、どれほど不思議な言葉であるかを示そうというのではないのです。そうではなく、神様のご計画、とりわけ、神様の恵みのご計画が、ここにあったということを告げ知らせるのです。 詩編22編は、確かに神様に対する嘆きの叫びから始まります。しかし、それは嘆きのままでは終わらないで、最後には神様への期待、讃美、そして、その神様の恵みを来たるべき世に語り伝えるという信仰の言葉で閉じられるのです。この神様への期待、神様の恵みの約束、契約への信頼をもう一度確認しているのです。 「聖書の言葉が実現する」とは、旧約聖書の救いの約束が主イエス様の救い主としての人格のすべてに関わることとして、このように実現した、そのことを私たちに告げ知らせる言葉なのです。 これは、神の民として召された私たち自身に関わることです。私たちの救いは、旧約聖書において預言され、主イエス様において実現した救いです。その中に、私たち一人一人が、この世界のすべてのキリストの教会が巻き込まれているのです。神の御子であるお方、主イエス様が、十字架に御かかりになったということは、まさにそのような力と広がりを持つことであります。 4 今朝の御言葉は、主イエス様が、ご自分の母であるマリアの今後を使徒ヨハネに委ねる場面で終わります。「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」 主イエス様には、他に兄弟が幾人もいたのです。当時の習慣からは当然、主イエス様の実の弟たちが親の面倒を見るはずでありました。しかし、主イエス様は、マリアの実の子たちにではなく、信仰の家族である使徒ヨハネに、ご自分の母親の生活をおゆだねになりました。ご自分の母に対する愛をそのような仕方で現わされたのであります。古代の教会以来の多くの注解者は、主イエス様は、ここに肉親の家族をまたいで成り立つ、あるいは超えて成り立つ、キリスト信仰による兄弟姉妹、信仰の家族、神の家族としての教会というものを明確にお示しになったと言っております。神様の下さる救いの恵みは、それほどまでに大きく、深く、力があります。そこに聖書の言葉、神の言葉が実現しているからであります。祈ります。 天の父なる神さま、御名を崇めます。受難節第一主日の今朝、主イエス様が十字架に架けられる場面の御言葉を聞きました。この後、主イエス様は、十字架の上で命を落とされます。主イエス様を信じ、主イエス様につながるすべての者の罪の赦しのためであり、それによってわたしたちが受けるべき裁きの一切がなされるためでありました。あなたによって赦され、神の子とされ、聖霊によってふさわしく作り替えて下さるあなたの恵みを感謝いたします。主の御名によって祈ります。アーメン。
2024年2月18日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書19章16節~27節「イエス、十字架に架けられる」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
受難節に入りましてから、三回目の主の日を迎えました。与えられましたみ言葉はヨハネによる福音書19章後半、16節から27節です。次週は28節から37節で、この二回にわたる御言葉において主イエス様は、地上の命を終えられることとなります。受難節に、主イエス様が苦難をお受けにある、御言葉を聞くことが出来るのは幸いであると思います。わたしたちは、主イエス様が、その神の御子の命を、わたしたちのために与えてくださったという、その受難の意味を改めて覚えるのです。
ただ今お読みしました御言葉の終わりの方、25節をもう一度お読みします。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」
ここには4名の女性が記されています。主イエス様の地上における最後のお姿を見守る女性たちです。男性は一名です。実は、この女性の数は、4人ではなくて3名かもしれないともいわれます。「母の姉妹」と書かれている人、つまり主イエス様の母マリアの姉、あるいは妹ですね、「母の姉妹」と呼ばれている人が、その後に続いている「クロパの妻」という人と同じ人物なのか、別の人物なのか、聖書はそのどちらにも読める書き方をしているからです。しかし、ここでは4名と解釈いたします。ただ一人残った男性の、主の愛しておられた弟子は、ヨハネによる福音書では、福音書記者の使徒ヨハネです。
今朝の御言葉においてよくわかることは、主イエス様の弟子たちの中で、はっきりと十字架の証人として立てられているのは、主として女性たちであるということです。この後、主イエス様は十字架の上で死なれて墓に葬られ、三日目におよみがえりになります。その復活の最初の証人もまた女性たちでありました。主イエス様は、女性の弟子たちの前で十字架に架けられ、死んでくださり、そして復活の主イエス様もまたは、まず女性たちに現れ、ご自身の復活のことを他の人に伝えなさいと命じられたのであります。
現代よりもはるかに女性の地位が低かった古代のユダヤのことを考えますと、このことは実に驚くべきことです。神様のご計画の中では、男性だけが何か特別な役割を果たすということでは決してないのということです。
さて、この4名の女性たちと対照的に描かれている男性の一団がいます。それは主イエス様を十字架につけた兵士たちであります。彼らは、主イエス様の服を剥ぎ取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしたと23節にかかれています。ここから類推できることは、兵士たちの数は4名だったということであります。ここでは主イエスの女性の弟子たち、4名と主イエス様を十字架につけた4名の男性の兵士とが登場しているのです。
4人の兵士たち、当然皆男性ですが、彼らは、この世的の者の代表です。ローマの兵士たち、中にはこれまでいくつものの戦いに参加し、多くの人を殺してきた者もいたことでしょう。そして今、ユダヤ人たちが捕らえ、また訴え出て、ローマ総督ピラトが十字架刑を決めた一人の人の死刑を執行しようとしています。それはいつものことであり、何の特別の思いを抱くことではなかったのです。彼らは自分のことだけを考えているのです。
彼らは、主イエス様が、これまで何を世に伝えてきたのか、そして今、この罪なき神の御子が、死なれるということについて全く関心がありません。「とても良い上着だ」、「四つに分けよう」「下着も分けよう」、これが彼らにとって大事なことでした。私たちもまた、ひとたび気を緩めるなら、同じような心で毎日を生きてしまうようなものではないでしょうか。
今主イエス様の十字架を見守る女性たちは、これまで他の男性の弟子と共に、主イエス様に従って来ました。しかし、最後の最後になって多くのものは逃げ去り、チリぢりになってしまったのです。弟子たちのリーダーと目されているペトロさえもが、主イエス様を知らない、あの人の仲間ではないと三度も宣言したことはそのしるしでありました。
しかし、彼女たちは逃げませんでした。女性だから、比較的安全であったということが出来るかもしれません。けれども、主イエス様の弟子だと分かったなら、やはり捕らえられる可能性があったのです。しかし、彼女たちは、主イエス様に最後の最後まで従いました。ここにもまた男性女性の別なく主への愛と奉仕へと召してくださる神様のご計画がありました。
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当時、十字架刑に処せられるものは、まず40に一つ足りない39回の鞭を打たれ、次に自分が架けられるべき十字架を背負わされて処刑場へと進みます。17節で「されこうべの場所」と呼ばれているその場所は、いまではそれがどこであったのかわかっていません。その場所であるとされているところには聖墳墓教会という名の教会がたてられています。4世紀になってローマ皇帝の命によって建てられたものですが、エルサレムの旧市街の城壁の中にあるので、城壁の外にあるべき処刑場とは一致しません。
町の外にあったはずの処刑場までは、数百メートルから1キロはあったと思われます。17節に、「イエスは自ら十字架を背負い」と記されています。ほかの福音書には、途中で力尽きた主イエス様に代わって、たまたまそこにいたシモンというキレネ人が十字架を担いだと記されますが、ヨハネによる福音書は、それにはふれません。「自ら」とは自分から進んでということです。確かにそれは強いられた十字架でありました。しかし、今や主イエス様は、このことをご自分に与えられた大切な使命と考えて、ご自分から進んでずっしりと重い十字架を背負って進まれるのです。
マタイによる福音書16章では、弟子たちの代表であるシモン・ペトロが主イエス様に向かって、「あなたこそ生ける神の子、メシア、キリストです」と信仰の告白をしました。そのときに、主イエス様は、彼らにご自分の受難、すなわち、この先、ユダヤ人たちに捕らえられ、苦しみを受けて殺されるということを予告なさいました。そして弟子たちにこう言われました。「わたしについてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」。
それはわたしたちが、主イエス様に、いやだいやだとしぶしぶ従うのではなく、自ら進んで、その負うべき重荷に積極的な意味を見出して従ってゆくということです。そのようにして私たちは、自分自身の人生を主イエス様に従って歩んでゆくのです。
「されこうべ」はヘブライ語ではゴルゴダです。ラテン語ではカルバリと言います。そこから、主イエス様が十字架につけられた場所をゴルゴダ、あるいはカルバリと呼ぶようになりました。たいていはゴルゴダの丘、カルバリの丘というように呼びますけれども、聖書にはそこが丘であったとは書かれていません。むしろ、20節に「その場所は都に近かった」ということと「多くのユダヤ人が十字架につけられた罪状書きを読んだ」とありますから、通りに面してはいないにしても、通りからすぐに見える場所であった可能性が高いのです。
この日の処刑者は主イエス様を含めて三人であったようです。ほかの二人は、主イエス様の両側に十字架につけられました。他の福音書によれば、彼らは強盗であり、十字架に架けられるのが当然である明白な罪を犯した犯罪人であります。
主イエス様の罪は、ユダヤ人たちの訴えによれば、神の子と自称したこと、そしてユダヤ人の王と名乗ったということでした。しかし、裁判官であるポンテオ・ピラトは、それだけでは十字架に値しない、この人には罪を見いだせないと繰り返しました。
ここには私たちに対する神様のメッセージがあります。すなわち主イエス様は間違いなく、神の子であり、すべてのもののまことの王であること、そして罪のないお方であるということです。その上で主イエス様は、自ら進んで十字架を背負い、ゴルゴダへと向かわれたのであります。それはご自分の命を罪の赦しのために与え切るためでありました。ヨハネによる福音書の3章16節にこうあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」
「信じる」とは神様を信じること、主イエス様を信じることです。このお方の愛を信じ、おゆだねすること、身を任せて、従うことです。そのようにして信じる者は一人も滅びないのです。
ルカによる福音によれば、主イエス様の隣に十字架につけられていた犯罪人の一人が、まさにその死の直前に悔い改め、主イエス様に向かって、「あなたが御国においでになるときにわたしを思い出してください」と願いました。主イエス様は、はっきりと言ったのです。「あなたは今日、私と一緒に楽園、パラダイスにいる」
これまでまことの神を知らず、従わなかったことを悔い改めること、そして主イエス様により頼み、祈り願う、最低限それだけで、どんな人でも、たとえ、この世の誰からも悪人、罪びとと名指しされている人でも、あるいはもうすぐ死んでしまうという人でも、誰でも救いに与ることが出来ます。罪の無い神の御子が、罪びとの身代わりに死んでくださったからであります。
3、
さて、今朝の御言葉の24節の終わりに「聖書の言葉が実現するためであった。」という言葉があります。「聖書の言葉が実現するために」
ここで福音書の記者が「聖書」と言っているのは私たちがいま読んでおります、新約聖書のことではなく、旧約聖書のことです。何において旧約聖書の言葉が実現したのかと言いますと、兵士たちが、主イエス様の下着をくじ引きしたことです。このことは既に旧約聖書において預言されていたことであったというのです。この先の御言葉を読み進んでゆきますと、同じように、聖書の言葉が実現するためというフレーズが、36節にも出ていることが分かります。
36節をお読みします。
「これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また28節には、主イエス様が「渇く」と言われたことについてもよく似た言葉が記されています。「こうして聖書の言葉が実現した」とも書かれています。
旧約聖書において記されていたことが、主イエス様が、十字架にお架かりになるという時に、次々と実現したというのであります。実現すると訳されている言葉は、元の言葉では「満たす、一杯にする、完全にする、実現する、溢れる」といった意味があります。ちょうど、コップに水を入れてゆきますと、だんだん水が満ちてきて、ある瞬間にもうふちまで達する、これ以上は入れることが出来ず、もう溢れ出してしまう、そういう状態です。
先ほどのいくじ引きの箇所では、旧約聖書のことばそのものが、引用されています。「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」
これは詩編22編19節であります。新共同訳聖書では詩編22編19節はこう訳されます。18節からお読みします。「骨が数えられるほどになったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、19 わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」
詩編22編は、主イエス様の十字架とまことに関係の深い詩編です。マタイとマルコの二つの福音書が証しする主イエス様の十字架上の苦難の叫び、神様に対する嘆きの言葉がそこにあるからです。「わが神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」詩編22編2節です。
これは神によって完全に捨てられるという体験、本来私たちが、味わうべきであった神の裁きの苦しみ、大きな苦しみを主イエス様が味わっておられることを表します。しかもそのことが旧約聖書の御言葉の完成成就として現実となったというのです。ヨハネは、この主イエス様の言葉を記すことはなく、同じ詩編22編の御言葉、19節の御言葉である、人々から蔑まれる悲しみ、嘆きの言葉が主イエス様において実現したと語ります。
「聖書の言葉が実現した」とここで重ねて記されるのは、決して旧訳聖書の言葉が、どれほど不思議な言葉であるかを示そうというのではないのです。そうではなく、神様のご計画、とりわけ、神様の恵みのご計画が、ここにあったということを告げ知らせるのです。
詩編22編は、確かに神様に対する嘆きの叫びから始まります。しかし、それは嘆きのままでは終わらないで、最後には神様への期待、讃美、そして、その神様の恵みを来たるべき世に語り伝えるという信仰の言葉で閉じられるのです。この神様への期待、神様の恵みの約束、契約への信頼をもう一度確認しているのです。
「聖書の言葉が実現する」とは、旧約聖書の救いの約束が主イエス様の救い主としての人格のすべてに関わることとして、このように実現した、そのことを私たちに告げ知らせる言葉なのです。
これは、神の民として召された私たち自身に関わることです。私たちの救いは、旧約聖書において預言され、主イエス様において実現した救いです。その中に、私たち一人一人が、この世界のすべてのキリストの教会が巻き込まれているのです。神の御子であるお方、主イエス様が、十字架に御かかりになったということは、まさにそのような力と広がりを持つことであります。
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今朝の御言葉は、主イエス様が、ご自分の母であるマリアの今後を使徒ヨハネに委ねる場面で終わります。「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」
主イエス様には、他に兄弟が幾人もいたのです。当時の習慣からは当然、主イエス様の実の弟たちが親の面倒を見るはずでありました。しかし、主イエス様は、マリアの実の子たちにではなく、信仰の家族である使徒ヨハネに、ご自分の母親の生活をおゆだねになりました。ご自分の母に対する愛をそのような仕方で現わされたのであります。古代の教会以来の多くの注解者は、主イエス様は、ここに肉親の家族をまたいで成り立つ、あるいは超えて成り立つ、キリスト信仰による兄弟姉妹、信仰の家族、神の家族としての教会というものを明確にお示しになったと言っております。神様の下さる救いの恵みは、それほどまでに大きく、深く、力があります。そこに聖書の言葉、神の言葉が実現しているからであります。祈ります。
天の父なる神さま、御名を崇めます。受難節第一主日の今朝、主イエス様が十字架に架けられる場面の御言葉を聞きました。この後、主イエス様は、十字架の上で命を落とされます。主イエス様を信じ、主イエス様につながるすべての者の罪の赦しのためであり、それによってわたしたちが受けるべき裁きの一切がなされるためでありました。あなたによって赦され、神の子とされ、聖霊によってふさわしく作り替えて下さるあなたの恵みを感謝いたします。主の御名によって祈ります。アーメン。