2024年02月04日「真理を証しする神」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 18章28節~38節

メッセージ

2024年2月4日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書18章27節~38節「真理とは何か」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

 ただいまお読みしました聖書のみ言葉の最後のところに当時の世界の最高権力者であるローマ皇

帝の名代、ポンテオ・ピラトの言葉が記されています。「真理とは何か」。

今朝のみ言葉の個所の小見出しは「ピラトから尋問される」です。今朝、主イエス様は、大祭司カイアファのもとからローマ総督ピラトのもとに送られてきました。「明け方であった」と28節にあります。

大祭司をはじめとするユダヤ教の権力者たちは、夜中に手下を送ってゲッセマネの園から主イエ

ス様を逮捕して急ごしらえの裁判をしました。

24節をご覧ください。「先の大祭司アンナスはイエスを縛って大祭司カイアファのもとへ送

った」とあります。そしてペトロが三度主イエス様を否定する記事があって、次の28節には「人々は、イエスを「カイアファのところから」、つまり大祭司の屋敷から「総督官邸に連れて行った」

とだけ書かれています。そのカイアファのもとで行われた、サドカイ派の祭司たちやファリサイ派、

律法学者、民の長老たちが勢ぞろいしてなされた裁判のことは記されていません。その裁判の様子

はマタイ、マルコ、ルカといったほかの福音書には詳しく記されていますが、どういうわけか、こ

のヨハネによる福音書では省かれています。裁判は、あらかじめ答えが決まっていたように、主イエ

ス様について、自らを神の子とし、神を冒涜するものだと断罪しました。神を冒涜するものは死刑

とされていましたが、当時、ユダヤ人には死刑判決をくださる権限が与えられていなかったので、主イエス様をローマ総督ピラトのもとへ連れて行ったのです。「人々は」と書かれているので、わかりにくくなっていますが、主イエス様をピラトの屋敷に連れて行ったのは、大祭司カイアファを代表とするユダヤの律法評議会、サンヘドリンのメンバーです。

明け方に押しかけてきたユダヤ人たちを見て、ピラトは驚いたに違いありませんが、過越し祭の期間は、ユダヤ人を監督する総督としては要注意期間です。あわてて彼らの前に姿を現わしました。ユダヤ人たちは常日頃からローマ人とは接触しません。けれども、特にこの日は過ぎ越しの食事の前でしたので官邸には足を踏み入れることはありません。ピラトの方が、官邸の前まで出てきました。短いやり取りの後に、ピラトは主イエス様を官邸の中に呼び入れて尋問を致しました。33節から37節まで主イエス様とピラトとの噛み合わないやり取りが続き、最後に、ピラトが主イエス様に言葉を投げかけるのです。「真理とは何か」

主イエス様は、「わたしは真理について証しするために来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われましたが、では真理とは何なのかというピラトの問いには沈黙なさいます。主イエス様が語られた「真理」とは何なのでしょうか。

2,

 ここで真理と訳されております聖書のギリシャ語は、皆さんもどこかで聞いたことがあるかもしれませんが、アレーセイアという言葉です。真理、真実、誠実、忠実などと訳されます。これらの言葉の反対語を考えてみると何か意味がつかめるかも知れません。真理の反対は、「嘘、いつわり」です。あるいはまた、「見せかけ」や「隠し事」かも知れません。最近政治の世界で明らかになった事件も、「裏金ではない、記載ミスだと」言い張って真理を隠蔽しているというほかはありません。真理は、「本当のこと」「本当のもの、本物」、ということです。

 主イエス様が言われた「真理」は、深い意味を持つ言葉です。プラトンやソクラテスといったギリシャの哲学者たちにとって、真理、アレーセイアという言葉は、この世界や宇宙、人間の生きる意味を探求するための大切な言葉でした。現代においても、哲学の根本問題の一つは「認識論」「倫理」と並んで、「真理論」だと言われていいます。

 このように言うと、わたしたちの日々の生活には関係がないことのように思えるかもしれませんが、決してそうではないのです。

私たちが生まれ育ち、生活しているこの世界について私たちがいろいろと考えます時に、何にせよ、本当のことは何か、「ほんとはどうなっているのか」という問いかけが、まずされるはずなのであり、それは大切なことではないでしょうか。

 真理が大切であるのは、哲学だけのことではなく、政治においても、宗教においても、そうです。親鸞も空海も、真理とは何かということを追究したといっても過言ではないと思います。あるいは、もっと日常的なこと、わたしたちが大きな買い物をする時とか、就職や結婚をするとき、手術をするときとか、もっというなら、わたしたちが明日何をしようかというような日常の問題で、何しろ様々な選択をするときに、私たちの心の奥底に、ほんとはどうなっているのかという問いかけがあるのではないでしょうか。

ユダヤの総督、古代の政治家であったポンテオ・ピラトもまた真理、アレーセイアということばのもっている、そのような深い意味を知っていたに違いありません。しかし主イエス様を前にしたときに、もう一度、真理とは何かと問いかけないではいられませんでした。「真理とは何か」

それ以前のやり取りの中で、主イエス様は、ピラトにこう言っておられました。37節です。

「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」

 ヨハネによる福音書を読み進めてきましたが、ヨハネは一貫して、この「真理」を明らかにしよ

うとしています。

そもそも、その第1章1節でこう書かれていました。「初めに言葉があった」この言葉とは、すべてのものの根源であるお方、神を指す言葉でした。そしてその言葉こそがイエス・キリストであると証ししたのです。それは父の一人子の栄光を現わし、そしてイエス・キリストこそ恵みと真理に満ちていたと宣言する、そこからヨハネ福音書が始まっています。

ヨハネによる福音書の1章17節には、こう書かれています。「恵みと真理とはイエスキリストを通して現れたからである。」ここでは、真理はキリストであり、キリストは真理である。本当のお方、本当のことは、すべて主イエス様のところにあると断言されているのです。ヨハネによる福音書14章6節、最後の晩餐での決別説教の始めの方ですが、主イエス様はこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ誰も父のもとへ行くことが出来ない。」

主イエス様こそ真理である。わたしたちは、こう信じてよいのです。いやすでに、わたしたちはそこう信じているのです。

3、

ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で、このローマ総督ピラトの裁判のことを最も詳しく書いています。このあと19章の終わりまでに、幾度も幾度もピラトという名前が出て来るのです。今朝のところから19章の終わりまでに、「ピラトは」、あるいは「ピラトが」というピラトを主語とする言葉が何回出るかを数えてみました。20回、そのように書かれています。「ピラトは」、「ピラトは」、と続きます。また裁判官は、ローマ総督、ピラトでありますけれども、何度も何度もユダヤ人の前に出たり引っ込んだり、うろうろと動き廻っています。

ここでの本当の主役はピラトではなく、主イエス様その人ではないでしょうか。実は、ここではこの世の王であるピラトと神の国の王である主イエス様とが比べられているのです。ピラトは、ユダヤ人とローマ皇帝との板挟みの中にあり、どこまで行ってもこの世の王です。しかし主イエス様は、真理を証しする真の王なのです。

 さてわたしたちは、日曜日の礼拝で、すべてのキリスト教会の共通信条であります使徒信条を

告白します。わたしたちは「ポンテオ・ピラトのもとで十字架に架けられ」とこれまで何度、唱えたことでしょうか。また世々のキリスト教会は千年、二千年にわたって、ポンテオ・ピラトの名を使徒信条と共に唱えてきました。それは、この名を唱えるたびに、ポンテオ・ピラトを恨んだり呪ったりするということではないのです。そうではなく、この主イエス様の十字架と復活という人類の救いの歴史における極めて重大な出来事が、この世界の現実の歴史のただ中で実際になされたことであるという、その歴史性、史実性ということをいつも覚えるためです。主イエス様の救いは、決して一宗教の思想や観念によるものではなく、間違いなく、この世界の歴史、現実において成し遂げられたものです。

ピラトは、紀元26年から36年まで十一年間ローマ総督、別の言葉でいえばローマ帝国の代官を務めています。このことは、ローマ帝国の文書に記録されています。さらに1961年に発掘されたカイザリアの碑文に、カイザリアに円形劇場を建設したときのユダヤ総督の名前は、ポンテオ・ピラトと刻まれています。これはポンテオ・ピラトの歴史的な実在というものを証明する貴重な資料と言われています。ピラトのような、あちらこちらにあるローマ帝国の属州属国、植民地を治める総督の地位はローマ帝国中では相当高く、うまくいけば次は元老院のメンバーにもなれる可能性があったといわれています。ローマの高級官僚ですから、当然、ギリシャ・ローマの古典や弁論術や政治学などの教養を積み、物事をふさわしく判断する能力がなければなりません。

主イエス様と相対したピラトは、これまでに培った能力から、これまで出会ったどの人物にもない、ある優れた何か、聖なる感覚というものを感じ取ったに違いないと思います。ピラトは、最初はユダヤ人たちの言うとおりに主イエス様を簡単に死刑にすることはしませんでした。主イエス様を死刑にするのではなく、この人に罪はないと信じ、「わたしは、この男に何の罪も見いだせない」という最初の判決を下したのでした。また、19章6節でももう一度ユダヤ人たちに宣言しています。「あなたたちが引き取って十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」

他の福音書によりますと、ピラトは、最初の無罪判決を下したあと主イエス様をヘロデ王のもとに送っています。主イエス様の処置をユダヤ人たちに任せるためでした。しかしヘロデは、再び主イエス様をピラトのもとに送り返してきます。そしてユダヤ人たちは主イエス様を死刑にしてほしいともう一度求めました。結局、ピラトは、ユダヤ人たちの声に従って、最後には死刑判決を下したのでした。結局、彼は、自らの意志よりも、総督としてユダヤ人たちを政治的に治めてゆくという、政治の任務を優先したのでありました。

主イエス様は、36節でこのように言われました。

「わたしの国は、この世には属していない」。主イエス様の国、神の御国は、地上の国のようではありません。地上の国は、一時的であり、変わってゆくものです。栄光に輝くときもあれば、失敗し、道を誤り、罪を犯すこともあります。移り変わりやすい人間の心に左右されるのです。しかし神の国は、昨日も今日も、いつまでも変わりません。神の国は、変わることない御国、恵みの国であります。それが主イエス様のご支配、主イエス様の国であります。この素晴らしい神の御国、主イエス様のご支配を知ることによって、わたしたちは地上の国においても正しく、ふさわしく生きることが出来るのではないでしょうか。

最後の晩餐の日が、過ぎ越し祭の日であったのか、あるいは、その前日であったのかという議論が今日の28節から生じます。今日では、主イエス様は、当時のユダヤ人の風習に従って弟子たちと過ぎ越しの食事をしたけれども、それは一日早い、主イエス様と弟子たちだけの特別な過ぎ越しであったと解釈するのが一般的であります。

 主イエス様の十字架において本当の過ぎ越し、聖なる子羊の犠牲がささげられました。主イエスさまは、シミも傷もない完全な聖なる子羊、それも神の子羊として、まさに完成された過ぎ越し、罪びとの救いのための神の子羊として命をささげられました。その裂かれた肉、流された血によって、イスラエル、ユダヤ人だけでなく、全世界の誰もが、ただ信じることによって赦され、救われる、命を得るためであります。

 ユダヤ人がローマ総督ピラトに向かって訴え出たことは、主イエス様が、ユダヤ人の王だと自称したということであり、そして帝国に対する反乱を起こそうとしているということでした。それは、彼ら自身が信じていることではなく、あくまでローマ帝国の総督として、ピラトが主イエス様を死刑にする、そうさせるための口実でありました。

 ピラトは、繰り返し「お前はユダヤ人の王なのか」と繰り返し迫っています。それに対して、主イエス様は、ご自分が王であるということを否定なさいませんでした。36節に主イエス様の言葉があります。「わたしの国はこの世には属していない」、こうおっしゃったのですね。「わたしの国」とは、この世に属さない国であると言われたのです。この世に属さないといことは、この世の制度とか力関係によって立てられる、そういう国ではないということです。そうではなく、主イエス様の国、ご支配は、それらを超える国でありご支配であるということです。もちろん、この世界と関係がないということではないのです。主イエス様は、現実にこの世界においても、真の王であります。わたしたちを守り、敵と戦い、そしてわたしたちの敵に勝利して下さいます。敵とは、罪であり、サタンであり、命を脅かす一切のものです。死こそが主イエス様にとっての最終的な敵なのです。

 その戦いこそが十字架の死でありました。十字架を妨げる一切の妨害は退けられました。人の救いという神様の愛のご計画が成し遂げられたのです。神の子羊の血が流され、その血によって罪と死とが滅ぼされました。これこそが真理です。神の国、主イエス様の国に属する人、言い換えるとイエス・キリストを信じる人、主イエス様に属する人は永遠の命に与ります。その命に生きている人は、この世の見える世界においても正しく歩んでゆくことが出来ます。なぜならば見えない世界をいつも見ているからです。主の恵みに感謝いたします。

祈り

愛する天の父なる神様、御名を崇めます。あらゆることが相対化されて、変わることない真理について人々はますます懐疑的になっている時代です。しかし、昨日も今日も、永遠に変わらない真理であるお方がおられることを感謝いたします。わたしたちは海の底にではなく、天に錨をかけるようにして、変わりゆくこの世界の中で正しく歩み、またあなたの喜ばれる歩みが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。