聖書の言葉 テモテへの手紙二 4章1節~8節 メッセージ 2024年1月28日(日)熊本伝道所 朝拝説教 テモテへの手紙2、4章1~8節「御言葉を宣べ伝える」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますよう。主の御名によって祈ります。アーメン。 わたくしは、これまでに24年間にわたりまして3つの教会で牧師として奉仕し、熊本伝道所は代理という立場ですけれど、4つ目の働き場所ということになります。その間、いつも毎年の会員総会の日曜日の説教は、その年の教会標語にちなんだ聖書の言葉を語ることにしてきました。教会標語と言いますのは、不思議なことですけれど、毎週の週報に記していますし、またこのように礼拝堂の目立つところに掲げているのですけれども、わたしたちはいつもその御言葉を意識しているわけではない、普段はすっかり忘れてしまっている、そのようなみ言葉であるような気がいたします。わたしだけの思いであるならば幸いです。いかがでしょうか。 そこで、年の初めには、やはり、みなでその御言葉を心に留める機会を持たなければならないと思います。伝道所委員会で選びました2024年のみ言葉、教会標語は、先ほどお読みしましたテモテへの手紙2の4章2節であります。 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」そのあとに「とがめ戒め励ましなさい。忍耐強く十分に教えるのです。」と続きます。 「御言葉を宣べ伝えなさい」。誰に対してかと言いますと、第一にはテモテが委ねられた群れ、その群れに加わろうとしている人々を含めて、まず教会の兄弟姉妹に対して御言葉を語りなさいということであろうと思います。そのことは、テモテが神様から託された使命の中で大切なこと、つまり群れに対して福音を語るということと関わりがあることです。しかし、それだけではなく、教会が周りの地域の人々に対して伝道するということでもあります。伝道、つまりまだ神様を知らず、主イエス様を信じていない人を救いに導くこと、そのためにイエス・キリストの救いを伝えることです。それだけではなく、信じた人々がいよいよ主イエス様と結びつくように、その生涯を通して信仰が養なわれ、育てられることでもあります。2節後半の「とがめ戒め励ましなさい。忍耐強く十分に教えるのです。」というみ言葉はそのことに当たるのではないかと思います。 宗教改革者のマルチンルターは、当時の中世カトリック教会の中で育ちながら、祈りつつ聖書を読み、ついには回心を経験します。そこから「まことの教会のしるし」は二つあると主張しました。神の言葉が正しく語られること、そして聖礼典が正しく執行されることの二つです。しかし、これは、社会全体が教会の影響下にあり、すべての国民が教会につながっているという、当時のキリスト教会社会の中で、カトリック教会に向かって言われたことです。 けれども聖書が記されているころの初代教会では、教会の大きな使命は福音伝道、福音を宣べ伝えることでありました。また現代日本、日本ばかりではなく世界のどこにおいても、世の人々が神様から離れた生活を送っている中では、まことの教会にしるしの三つ目に「伝道」ということを加えなければならないと思います。福音を伝えているか、救われる人が起こされているか、洗礼を受ける人が与えられているか、このこともまことの教会のしるしとして大切なことではないかと思うのです。新しい年の初めに改めて伝道に関わる御言葉に聞きたいと思います。 2, テモテは、使徒パウロの愛弟子であり、伝道者であります。テモテは、多くの教会でパウロを助けて働きました。パウロがエフェソの教会を留守にするときには、パウロに代わって、エフェソで伝道したこともあります。テモテへの手紙は1と2が聖書に残されています。パウロがテモテに宛てて、伝道者、牧会者としての心構えや、願っていることを記したものです。 手紙の受取人は伝道者テモテですけれども、同時に伝道者を立てて働きを続ける教会に対しても語られている言葉でもあります。わたしたち熊本教会の原点は、1975年、今から49年前、日本キリスト改革派第30回定期大会において九州中会建設のための第二次開拓伝道地として熊本の地が決議されたことです。教団を挙げて行う九州伝道の一環として、福岡に次いで熊本にも改革派教会の拠点を作ることでした。宮崎彌男先生が派遣され、1978年1月1日の主日礼拝に正式の礼拝が捧げられました。その場所は北区楠1丁目の牧師館の一室でした。今年は、それから46年目を迎えようとしています。振り返りますと、新しい人が順調に加えられた時期もありましたし、反対に、転出あるいは転会者が相次いで礼拝が寂しくなってしまったこともありました。しかし、教会の働きは、その間、休むことも絶えることもなく続けられています。わたしたちの怠惰や不信仰にかかわらず恵みをくださる主の愛によると言わなければなりません。心からの感謝を覚えています。 今朝の4章の1節から8節は、この手紙の最後に位置する特別のものです。次の4章9節から後のところは、今度来るときには、外套や羊皮紙の書物を持ってきてくださいとか、いろいろな個人的な指示ですので、これから第二世代の伝道者として働きをしてゆくテモテへの勧告は、実質的に、ここで終わっております。テモテよ、最後に、これだけは言っておきたい、あるいは、今まで語ってきたことの総まとめの言葉として語りたい、そのようなみ言葉であります。 4章の1節と2節を続けてお読みいたします。 「神の御前で、そして、生きているものと死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、いましめ、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」 さきほど、これはテモテへの最後の勧めであるといいました。けれども、パウロは、ここではっきりと、これは神の御前で命じることであると前置きしています。天地万物の造り主であり、わたしたちと世界を導いてくださる父なる神と、御子イエス・キリストの前で命じる、「厳かに命じます」と言っております。しかも、このことは、やがて天から再びこの地上にやって来られる再臨のイエス・キリストを心に覚えながら命ずることだと付け加えています。 「出現」と訳されているみ言葉は、エピファニーの動詞形です。教会のカレンダーでは、エピファニーは、ベツレヘムでお生まれになった幼子のイエス・キリストを東の方から来た異邦人の博士たちが礼拝したことを記念する祝日です。日本語では顕現節といいます。初めて世界の人々が、救い主を見た日として記念されているのです。 そのイエス・キリストは、十字架の救いを成し遂げ、三日目によみがえり、40日後に父なる神のもとに帰って行かれました。昇天された主イエスは、今は父なる神の右の座におられるのです。今、わたしたちはそのお姿を直接見ることはできません。しかし主イエスの再臨の時、今は、人の目には見ることができないイエス・キリストが再びおいでになり、その姿を人々に明らかにされます。イエス・キリストの再臨と呼ばれる二回目のエピファニー、顕現であります。そのとき、主イエス様がなさることは、最後の審判です。すべての人々の裁きと信じる者の救いを宣言されるのです。そして全地は新しくされ、新天新地、完成された神の国が実現いたします。 パウロは、主イエス様の再臨と最後の審判だけでなく、その後に続く希望としての「神の国」までのことを思いながら、テモテに命じるのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても励みなさい」 わたしたちは、絶えず、伝道のことを心に思っています。伝道は、信徒の教育、育成と並ぶ教会の大切な使命です。新しい人が教会に招かれ、信仰者が起こされる、すべては神様の御業ですけれども、神様は、教会の働き、人の業を通してそのことをなされます。 その私たちの伝道の最終的な目的は、会員を増やし、教会が賑やかになり、財政的にも恵まれることかと言いますと、そうではないこということを知らなければならないと思います。そうではなくて世の終わりにおいでになる主イエス・キリストが、わたしたちの働きをどう見てくださるのか、そこが大切なのです。 主イエス様が喜ばれる伝道には三つの大切なポイントがあります。この4章2節から5節には、そのことが記されています。 第一は、周囲の環境に左右されずに伝道を継続することです。人の目から見て、善いときも悪いときも熱心に励むのです。継続と言うことです。第二の点は、真理を伝えることです。伝道は、人を集めることではなく、真理を伝えることなのです。そして最後は、第一の継続と言うことと関わりがありますが、忍耐強くそれを行うことです。 わたしたちは、このいずれにおいても伝道の目に見える成果が問題になっていないことに注目したいと思います。むしろ、伝道者のあり方、教会のあり方が問題にされています。主イエス様が、来られる時、それまでの教会の働きの様子をご覧になって、喜んで下さり、良くやりましたね、忠実な僕としてほめていただけるような伝道が、求められています。 3, 今朝のみ言葉の後半部であります、6節から8節には、テモテへの勧めではなく、パウロ自身の現在の状況と思いと記されています。しかし、それは、テモテに命じたことと無関係なことではなく、強く結びついています。つまり、テモテに先立って進むパウロ自身の姿を示して、教えとしているのです。 このテモテの手紙は、パウロが、ローマに滞在している時に記されたものと考えられます。つまり使徒言行録の最後の場面よりも後に記されたことになります。パウロは、使徒言行録の最後では、監視の下ではありましたけれども、訪れる人に自由に伝道することが出来ました。その後、再び、ローマ以外への伝道が許されましたが、やがて捕らえられ、今は、ローマの獄中にいて、処刑される事を予測しながらこの手紙を書いています。4章6節の、いけにえとして献げられる日、つまり、殉教して世を去るときが近いという言葉がそのことを表しています。エウセビウスという教父の記録では、使徒パウロの殉教は紀元68年であり、皇帝ネロによりローマで斬首刑にされたとされます。 パウロはこう記すのです。「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や義の栄冠を受けるばかりです」 今パウロ自身は、殉教して、世を去り、主イエス様のもとに凱旋し、義の栄冠と呼ばれている、主イエス様から賜る栄誉を望みとしています。それにしても、あの大伝道者であるパウロが生涯を振り返って「信仰を守り抜きました」と語っていることは驚くべきことです。主イエス様から褒めていただくべき事柄は、どれだけの人々を導いたかでもなく、沢山の教会を開拓し成長させたかと言うことでもなく、最後まで、信仰を守り抜いたことだというのです。 パウロのように教会の働きで大きな働きをして賞賛されること。それは、その人の信仰にとっては大きな危機であるのかも知れません。神ではなく、自分自身に栄光を帰してしまう誘惑の中にあるからです。パウロは、書きます。「わたしは信仰を守り抜きました」、だから主イエス様から義の栄冠を授けていただけるというのです。そしてパウロはこう続けています。 「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰でも授けてくださいます。」 わたしたちの熊本教会は小さな教会です。伝道において今、目覚ましい成果を上げているとは言えないかも知れません。しかし、それでもなお主イエス・キリストはわたしたちを愛していて下さり、教会の礼拝を続けることを許し、御言葉を宣べ伝えさせてくださるのです。 4, 今朝のみ言葉の中ほどにあります、4章3節から5節は、テモテの身の周りに起こるであろうことを、あたかも予告するように、記しています。 「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれてゆくようになります。」 わたくしは、このみ言葉を読みましたときに、真っ先に浮かびましたのは、現代のネット社会の風潮です。 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、わたしたちの教会もネット配信を行っています。そのネット上で垣間見られることは、人々の目をくぎ付けにするような、いわゆるキャッチ―な言葉や映像や、目や耳に心地よいことをインターネットにアップして、再生回数やイイネの数を増やそうとする人々です。教会や牧師が配信するもの中にも、そのような傾向がないと言えません。 「自分に都合の良いことを聞こうと」と訳されているところは、新改訳聖書では「耳に心地よい話を聞こうと」と訳されています。フランシスコ会訳聖書は「自分に都合の良いように耳を楽しませる教師たちを集め」と訳します。もとの言葉は、「耳をくすぐる」という言葉が使われています。 聖書のみ言葉は、いつも心地よい言葉だけとは限りません。ときに人の心を鋭く突きさし、悔い改めに導くような言葉が書かれています。わたしたち自身の心の闇、罪を咎め、戒め、主イエス・キリストの十字架による赦しを指し示す言葉が記される時、伝道者は、それをまっすぐに語らなければならないでしょう。「宣べ伝えなさい」と訳されている元の言葉はケリュッソウというギリシャ語です。「ケリュグマ」という言葉があります。神学の世界で「宣教された事柄、その中心点」という意味で用いられます。新約聖書で伝道する、宣べ伝えると訳される言葉は大体二つで、一つはエウワンゲリゾー、もうひとつはケリュッソーです。エウワンゲリゾーは「良いしらせを持ってくる」「福音を宣べ伝える」と訳されます。ケリュッソーはと言いますと「布告する、宣言する、ふれてまわる」「福音を宣べ伝える」と訳されます。今朝のみ言葉でパウロが用いているのはケリュッソーです。主イエス・キリストの救いの事実を世に宣言するのです。 「折が良くても悪くても」と言われています。目に見える成果がどうであろうと、わたしたちは伝道を続けて行か中ればなりませんし、そのことこそ神様が喜んでくださることです。ときが良くても悪くても、この地で福音を宣べ伝え、伝道を続けてゆこうではありませんか。祈りを致します。 愛する天の父なる神様、わたしたちは他の人々に先立って、主イエス・キリストの福音を頂き、罪の赦しと永遠の命を与えられております。主イエス様の愛に満たされ、またその主イエス様の愛のうちに神と隣人を愛する自由と喜びを与えられています。この喜びを、また一人でも多くの人々の伝えて行くことが出来ますように、またあなたの宣教命令に従って行くことが出来ますよう、同か導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2024年1月28日(日)熊本伝道所 朝拝説教
テモテへの手紙2、4章1~8節「御言葉を宣べ伝える」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますよう。主の御名によって祈ります。アーメン。
わたくしは、これまでに24年間にわたりまして3つの教会で牧師として奉仕し、熊本伝道所は代理という立場ですけれど、4つ目の働き場所ということになります。その間、いつも毎年の会員総会の日曜日の説教は、その年の教会標語にちなんだ聖書の言葉を語ることにしてきました。教会標語と言いますのは、不思議なことですけれど、毎週の週報に記していますし、またこのように礼拝堂の目立つところに掲げているのですけれども、わたしたちはいつもその御言葉を意識しているわけではない、普段はすっかり忘れてしまっている、そのようなみ言葉であるような気がいたします。わたしだけの思いであるならば幸いです。いかがでしょうか。
そこで、年の初めには、やはり、みなでその御言葉を心に留める機会を持たなければならないと思います。伝道所委員会で選びました2024年のみ言葉、教会標語は、先ほどお読みしましたテモテへの手紙2の4章2節であります。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」そのあとに「とがめ戒め励ましなさい。忍耐強く十分に教えるのです。」と続きます。
「御言葉を宣べ伝えなさい」。誰に対してかと言いますと、第一にはテモテが委ねられた群れ、その群れに加わろうとしている人々を含めて、まず教会の兄弟姉妹に対して御言葉を語りなさいということであろうと思います。そのことは、テモテが神様から託された使命の中で大切なこと、つまり群れに対して福音を語るということと関わりがあることです。しかし、それだけではなく、教会が周りの地域の人々に対して伝道するということでもあります。伝道、つまりまだ神様を知らず、主イエス様を信じていない人を救いに導くこと、そのためにイエス・キリストの救いを伝えることです。それだけではなく、信じた人々がいよいよ主イエス様と結びつくように、その生涯を通して信仰が養なわれ、育てられることでもあります。2節後半の「とがめ戒め励ましなさい。忍耐強く十分に教えるのです。」というみ言葉はそのことに当たるのではないかと思います。
宗教改革者のマルチンルターは、当時の中世カトリック教会の中で育ちながら、祈りつつ聖書を読み、ついには回心を経験します。そこから「まことの教会のしるし」は二つあると主張しました。神の言葉が正しく語られること、そして聖礼典が正しく執行されることの二つです。しかし、これは、社会全体が教会の影響下にあり、すべての国民が教会につながっているという、当時のキリスト教会社会の中で、カトリック教会に向かって言われたことです。
けれども聖書が記されているころの初代教会では、教会の大きな使命は福音伝道、福音を宣べ伝えることでありました。また現代日本、日本ばかりではなく世界のどこにおいても、世の人々が神様から離れた生活を送っている中では、まことの教会にしるしの三つ目に「伝道」ということを加えなければならないと思います。福音を伝えているか、救われる人が起こされているか、洗礼を受ける人が与えられているか、このこともまことの教会のしるしとして大切なことではないかと思うのです。新しい年の初めに改めて伝道に関わる御言葉に聞きたいと思います。
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テモテは、使徒パウロの愛弟子であり、伝道者であります。テモテは、多くの教会でパウロを助けて働きました。パウロがエフェソの教会を留守にするときには、パウロに代わって、エフェソで伝道したこともあります。テモテへの手紙は1と2が聖書に残されています。パウロがテモテに宛てて、伝道者、牧会者としての心構えや、願っていることを記したものです。
手紙の受取人は伝道者テモテですけれども、同時に伝道者を立てて働きを続ける教会に対しても語られている言葉でもあります。わたしたち熊本教会の原点は、1975年、今から49年前、日本キリスト改革派第30回定期大会において九州中会建設のための第二次開拓伝道地として熊本の地が決議されたことです。教団を挙げて行う九州伝道の一環として、福岡に次いで熊本にも改革派教会の拠点を作ることでした。宮崎彌男先生が派遣され、1978年1月1日の主日礼拝に正式の礼拝が捧げられました。その場所は北区楠1丁目の牧師館の一室でした。今年は、それから46年目を迎えようとしています。振り返りますと、新しい人が順調に加えられた時期もありましたし、反対に、転出あるいは転会者が相次いで礼拝が寂しくなってしまったこともありました。しかし、教会の働きは、その間、休むことも絶えることもなく続けられています。わたしたちの怠惰や不信仰にかかわらず恵みをくださる主の愛によると言わなければなりません。心からの感謝を覚えています。
今朝の4章の1節から8節は、この手紙の最後に位置する特別のものです。次の4章9節から後のところは、今度来るときには、外套や羊皮紙の書物を持ってきてくださいとか、いろいろな個人的な指示ですので、これから第二世代の伝道者として働きをしてゆくテモテへの勧告は、実質的に、ここで終わっております。テモテよ、最後に、これだけは言っておきたい、あるいは、今まで語ってきたことの総まとめの言葉として語りたい、そのようなみ言葉であります。
4章の1節と2節を続けてお読みいたします。
「神の御前で、そして、生きているものと死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、いましめ、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」
さきほど、これはテモテへの最後の勧めであるといいました。けれども、パウロは、ここではっきりと、これは神の御前で命じることであると前置きしています。天地万物の造り主であり、わたしたちと世界を導いてくださる父なる神と、御子イエス・キリストの前で命じる、「厳かに命じます」と言っております。しかも、このことは、やがて天から再びこの地上にやって来られる再臨のイエス・キリストを心に覚えながら命ずることだと付け加えています。
「出現」と訳されているみ言葉は、エピファニーの動詞形です。教会のカレンダーでは、エピファニーは、ベツレヘムでお生まれになった幼子のイエス・キリストを東の方から来た異邦人の博士たちが礼拝したことを記念する祝日です。日本語では顕現節といいます。初めて世界の人々が、救い主を見た日として記念されているのです。
そのイエス・キリストは、十字架の救いを成し遂げ、三日目によみがえり、40日後に父なる神のもとに帰って行かれました。昇天された主イエスは、今は父なる神の右の座におられるのです。今、わたしたちはそのお姿を直接見ることはできません。しかし主イエスの再臨の時、今は、人の目には見ることができないイエス・キリストが再びおいでになり、その姿を人々に明らかにされます。イエス・キリストの再臨と呼ばれる二回目のエピファニー、顕現であります。そのとき、主イエス様がなさることは、最後の審判です。すべての人々の裁きと信じる者の救いを宣言されるのです。そして全地は新しくされ、新天新地、完成された神の国が実現いたします。
パウロは、主イエス様の再臨と最後の審判だけでなく、その後に続く希望としての「神の国」までのことを思いながら、テモテに命じるのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても励みなさい」
わたしたちは、絶えず、伝道のことを心に思っています。伝道は、信徒の教育、育成と並ぶ教会の大切な使命です。新しい人が教会に招かれ、信仰者が起こされる、すべては神様の御業ですけれども、神様は、教会の働き、人の業を通してそのことをなされます。
その私たちの伝道の最終的な目的は、会員を増やし、教会が賑やかになり、財政的にも恵まれることかと言いますと、そうではないこということを知らなければならないと思います。そうではなくて世の終わりにおいでになる主イエス・キリストが、わたしたちの働きをどう見てくださるのか、そこが大切なのです。
主イエス様が喜ばれる伝道には三つの大切なポイントがあります。この4章2節から5節には、そのことが記されています。
第一は、周囲の環境に左右されずに伝道を継続することです。人の目から見て、善いときも悪いときも熱心に励むのです。継続と言うことです。第二の点は、真理を伝えることです。伝道は、人を集めることではなく、真理を伝えることなのです。そして最後は、第一の継続と言うことと関わりがありますが、忍耐強くそれを行うことです。
わたしたちは、このいずれにおいても伝道の目に見える成果が問題になっていないことに注目したいと思います。むしろ、伝道者のあり方、教会のあり方が問題にされています。主イエス様が、来られる時、それまでの教会の働きの様子をご覧になって、喜んで下さり、良くやりましたね、忠実な僕としてほめていただけるような伝道が、求められています。
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今朝のみ言葉の後半部であります、6節から8節には、テモテへの勧めではなく、パウロ自身の現在の状況と思いと記されています。しかし、それは、テモテに命じたことと無関係なことではなく、強く結びついています。つまり、テモテに先立って進むパウロ自身の姿を示して、教えとしているのです。
このテモテの手紙は、パウロが、ローマに滞在している時に記されたものと考えられます。つまり使徒言行録の最後の場面よりも後に記されたことになります。パウロは、使徒言行録の最後では、監視の下ではありましたけれども、訪れる人に自由に伝道することが出来ました。その後、再び、ローマ以外への伝道が許されましたが、やがて捕らえられ、今は、ローマの獄中にいて、処刑される事を予測しながらこの手紙を書いています。4章6節の、いけにえとして献げられる日、つまり、殉教して世を去るときが近いという言葉がそのことを表しています。エウセビウスという教父の記録では、使徒パウロの殉教は紀元68年であり、皇帝ネロによりローマで斬首刑にされたとされます。
パウロはこう記すのです。「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や義の栄冠を受けるばかりです」
今パウロ自身は、殉教して、世を去り、主イエス様のもとに凱旋し、義の栄冠と呼ばれている、主イエス様から賜る栄誉を望みとしています。それにしても、あの大伝道者であるパウロが生涯を振り返って「信仰を守り抜きました」と語っていることは驚くべきことです。主イエス様から褒めていただくべき事柄は、どれだけの人々を導いたかでもなく、沢山の教会を開拓し成長させたかと言うことでもなく、最後まで、信仰を守り抜いたことだというのです。
パウロのように教会の働きで大きな働きをして賞賛されること。それは、その人の信仰にとっては大きな危機であるのかも知れません。神ではなく、自分自身に栄光を帰してしまう誘惑の中にあるからです。パウロは、書きます。「わたしは信仰を守り抜きました」、だから主イエス様から義の栄冠を授けていただけるというのです。そしてパウロはこう続けています。
「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰でも授けてくださいます。」
わたしたちの熊本教会は小さな教会です。伝道において今、目覚ましい成果を上げているとは言えないかも知れません。しかし、それでもなお主イエス・キリストはわたしたちを愛していて下さり、教会の礼拝を続けることを許し、御言葉を宣べ伝えさせてくださるのです。
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今朝のみ言葉の中ほどにあります、4章3節から5節は、テモテの身の周りに起こるであろうことを、あたかも予告するように、記しています。
「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれてゆくようになります。」
わたくしは、このみ言葉を読みましたときに、真っ先に浮かびましたのは、現代のネット社会の風潮です。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、わたしたちの教会もネット配信を行っています。そのネット上で垣間見られることは、人々の目をくぎ付けにするような、いわゆるキャッチ―な言葉や映像や、目や耳に心地よいことをインターネットにアップして、再生回数やイイネの数を増やそうとする人々です。教会や牧師が配信するもの中にも、そのような傾向がないと言えません。
「自分に都合の良いことを聞こうと」と訳されているところは、新改訳聖書では「耳に心地よい話を聞こうと」と訳されています。フランシスコ会訳聖書は「自分に都合の良いように耳を楽しませる教師たちを集め」と訳します。もとの言葉は、「耳をくすぐる」という言葉が使われています。
聖書のみ言葉は、いつも心地よい言葉だけとは限りません。ときに人の心を鋭く突きさし、悔い改めに導くような言葉が書かれています。わたしたち自身の心の闇、罪を咎め、戒め、主イエス・キリストの十字架による赦しを指し示す言葉が記される時、伝道者は、それをまっすぐに語らなければならないでしょう。「宣べ伝えなさい」と訳されている元の言葉はケリュッソウというギリシャ語です。「ケリュグマ」という言葉があります。神学の世界で「宣教された事柄、その中心点」という意味で用いられます。新約聖書で伝道する、宣べ伝えると訳される言葉は大体二つで、一つはエウワンゲリゾー、もうひとつはケリュッソーです。エウワンゲリゾーは「良いしらせを持ってくる」「福音を宣べ伝える」と訳されます。ケリュッソーはと言いますと「布告する、宣言する、ふれてまわる」「福音を宣べ伝える」と訳されます。今朝のみ言葉でパウロが用いているのはケリュッソーです。主イエス・キリストの救いの事実を世に宣言するのです。
「折が良くても悪くても」と言われています。目に見える成果がどうであろうと、わたしたちは伝道を続けて行か中ればなりませんし、そのことこそ神様が喜んでくださることです。ときが良くても悪くても、この地で福音を宣べ伝え、伝道を続けてゆこうではありませんか。祈りを致します。
愛する天の父なる神様、わたしたちは他の人々に先立って、主イエス・キリストの福音を頂き、罪の赦しと永遠の命を与えられております。主イエス様の愛に満たされ、またその主イエス様の愛のうちに神と隣人を愛する自由と喜びを与えられています。この喜びを、また一人でも多くの人々の伝えて行くことが出来ますように、またあなたの宣教命令に従って行くことが出来ますよう、同か導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。