聖書の言葉 ヨハネによる福音書 18章12節~27節 メッセージ 2024年1月21日(日)熊本教会朝拝説教 ヨハネによる福音書18章12節~27節「イエスの逮捕、ペトロの裏切り」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 主イエス様は、最後の晩餐を終えられて、弟子たちとゲッセマネの園に向かわれました。その 場夜で夜通し祈りをするためです。そのさなかに、松明と棒、剣で武装した大勢のユダヤ人たちの神殿警備隊とローマ軍が姿を現わしました。彼らを案内してきたのはイスカリオテのユダであったことが、先週お読みしました18章3節に記されていました。 その時の主イエス様のご様子は、おびえたり慌てたりすることが全くない、本当に堂々として力強いお姿でありました。弟子たちはと言いますと、主イエス様とは対照的に、ここでは本当に狼狽し、慌てふためいうています。弟子たちのリーダーでありますペトロは、剣をかざして大祭司の手下に切りつけました。けれども、結局は他の弟子たちと共に、その場を逃れ去ってしまいます。 今朝のみ言葉の後半は、主イエス様が捕らえられる場面であり、そしてその後、弟子たちのリーダーのペトロが勇気を振り絞り、主イエス様が連行された場所、今まさに裁判がおこなわれようとしている大祭司の屋敷に入って行く、そういう場面です。もちろんペトロは、屋敷に入っても主イエス様を取り戻そうとすることも、また彼らに抗議するつもりもないのです。しかし、どうしても行かなければならなかった、あなたのためなら命も捨てますという決意を忘れることが出来ず、主イエス様に従って行きたかったのです。 さて主イエス様は、ただちにユダヤ教の大祭司アンナスのところへ連れてゆかれます。この後の第19章までの主イエス様の受難物語が続いてゆきます。主イエス様の周りには弟子たちは誰もいません。主イエス様は、ご自身に敵対するものたちに囲まれています。そしてアンナスの屋敷、カイアファの屋敷、ヘロデ王、総督ピラトと次々に引きまわされ、最後は十字架につけられ、死んで墓に葬られます。わたしたちが目にするのは、そのような主イエス様のお姿です。 最初に入ったのはアンナスのところですが、実はこの時、アンナスはすでに大祭司を引退していました。そして娘婿のカイアファが正式の大祭司として就任していました。聖書以外の当時の様子を教えてくれる文献によりますと、このときアンナスとカイアファは、共に大祭司と呼ばれていたことが明らかになっています。このことはルカによる福音書の第3章の冒頭にもさりげなく記録されています。洗礼者ヨハネの登場のときの時代背景を記した個所です。ルカによる福音書3章1節と2節をお読みします。 「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリヤの子ヨハネに降った。」 先の大祭司アンナスは、ここではその事情は省きますが、ローマ帝国の命令によって強制的に退位させられてしまいまして、その娘婿のカイアファが大祭司として任命されました。しかし、生きている間に大祭司を引退し、次の人に交代するということはユダヤでは極めて異例のことでありましたので、カイアファが大祭司に就任したあとも、カイアファの舅(しゅうと)であるアンナスも依然として大祭司と呼ばれていたということであります。そこで二人の大祭司が存在することとなりました。 大祭司アンナスが主イエス様を取り調べたことは、このヨハネによる福音書だけが記しています。そして24節を見ますと「アンナスは、主イエス様をカイアファのもとへ送った」とあります。 人々はまず主イエス様をアンナスに引き合わせ、そのあと正式の大祭司カイアファのもとで裁判をしたのです。アンナスとカイアファは婿と舅の関係です。同じ屋敷の中の別の建物に住んでいたか、屋敷が別であったとしても、それは隣り合った一続きになった二つの屋敷であったとか言われています。ヨハネよる福音書は、その理由は分かりませんけれども、他の三つの福音書が伝えているカイアファによる裁判についてはこれを省き、反対に、ほかの三つの福音書が省いているアンナスの屋敷での裁判を、このあとの19節から24節に記しています。それを見ますと、このアンナスの裁判は実体のない実に形式的なものだということが分かります。 さて今朝のみ言葉の14節にこのように書かれております。これは、主イエス様の言葉ではなく、いわば敵側の人の言葉です。けれども、実は大変大きな意味を持っているみ言葉であります。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」 2 13節には、アンナスは、その年の大祭司カイアファの舅であると、注釈がつけられています。アンナスについての説明はすぐに終わって、次の14節ではアンナスの義理の息子のカイアファが以前に主イエス様を死刑にすることを公に主張していたのだということが語らます。 カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言した」、ここでこう記されています。このサンヘドリンにおけるカイアファの助言は、わたしたちがだいぶ前に読みました御言葉でありますけれども、ヨハネによる福音書の11章50節に記されております。 開きませんけれども、その消息を見てみたいと思います。それは、主イエス様がラザロという、死んで墓に葬られ、すでに四日も経っていた死人に再び命を与えた、よみがえらせたという奇跡をなさり、それがユダヤ人たちの間にたちまち知れ渡ってしまったときのことでした。大祭司カイアファは、臨時の最高法院の会議を招集しました。何しろ死んだ人間をよみがえらせるという奇跡中の奇跡を主イエス様がなさったというのです。このままにしておけば、あのイエスという男を皆が信じてしまう、そうなるとユダヤの国は大騒ぎになり、ローマ軍が介入してくるかもしれない、そうならないために、あの男、イエスを殺すべきだと主張したのです。 ヨハネによる福音書の11章50節をお読みします。 「あなたがたは何もわかっていない。ひとりの人間が民の死に、国民全体が滅びないで済む方が好都合だと考えないか」 今朝お読みしました18章14節には、この11章50節に記されていたカイアファの言葉が、もう一度繰り返されているのです。 「好都合」と翻訳されている言葉は、新改訳聖書やフランシスコ会訳では「得策だ」とも訳されています。自分たちのために役に立つという意味の、いうなれば自己中心的な言葉です。彼らは当時の支配者であるローマ帝国から嫌われることを恐れていました。 しかし、ヨハネによる福音書は、このカイアファの言葉は、彼自身のずるがしこい思いを越えて、実は一種の預言、神の言葉だったのであって、図らずも神の真理を表したものだったとわたしたちに告げています。 ヨハネによる福音書11章51節52節をお読みします。 「これはカイアファが自分の考えで話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスは、国民のためばかりでなく、散らされている神の子を一つに集めるためにも死ぬと言ったのである」 「散らされている神の子を一つに集める」、「散らされている神の子を一つに集める」実にそれは、わたしたちが今ここで捧げている礼拝のことであります。 主イエス様が、十字架におかかりになり、死んでくださった、だからこそ、わたしたちは今、救いの恵みを受け、一つに集められた神の子として礼拝を捧げております。主イエス様は、そのことのために十字架にお掛りになりました。そしてそれは主イエス様ご自身の私たちに対する燃えるような愛の表れでした。主イエス様は、わたしたちのために、わたしのために、自ら進んで、十字架にお掛かりになったのです。 今朝の聖書個所のはじめのほうですけれども4節にこう書かれています。 「イエスはご自分の身に起こることを何かも知っておられ、進み出て、「誰を捜しているのか」と言われた。」 今日のところで主イエス様は、追手の者たちに向かって、誰を探しているのか、わたしがイエスだと二度も繰り返されておられます。まことに堂々とした主イエス様のお姿であります。この「わたしである」という言葉は、旧約聖書出エジプト記第三章に一度だけ記されている神様ご自身の名前、「わたしはある」と重なるものでした。 ご自分がこれから捕らえられ、十字架にかけられ、死んでおよみがえりになる、そして神の子の救いがたくさんの人々に及び、教会がたてられる、ここまで主イエス様は知っておられたということではないでしょうか。そのことがすべて成し遂げられるために、自分を捕らえに来たユダヤ人たちの前に自ら進み出られたのです。 3, この大祭司の屋敷で起こる大きな出来事は、もちろん主イエス様が死刑判決を受けたということです。しかし、それとは別にわたしたちにとって大きな意味を持っているのは、使徒ペトロがここで主イエス様を否んだ、否定したということです。「わたしはあの人を知らない、あの人の弟子ではない」と人々に宣言したことです。 このペトロの否認、裏切りは、今朝の個所とその後の25節、そして27節の三か所に分けて記されます。一度目は、門番の女中の問いかけに対して、そして二度目は、一緒に焚火に当たっていた人々に対して、そして三度目はペトロに耳を切り落とされたマルコスと言う人の身内の証言に対してでありました。最後の27節には「すると鶏が鳴いた」と書かれています。 他の福音書は、このペトロの挫折について大変詳しく記しています。しかし、ヨハネはどちらかとあっさりとした書きぶりです。けれども、このペトロの失敗が四つの福音書のすべてに記されていることには大きな意味があると言わなければならないと思います。 ペトロは、使徒たちのリーダーであり、その後も教会の中心的な人物となった人物です。その使徒ペトロの挫折、失敗なのです。そのことが包み隠さずに聖書にしるされています。このことは何を意味しているのでしょうか。それは、あの使徒ペトロ、弟子の代表であるペトロでさえも、このような失敗、挫折を経験するということです。 そういう意味で、ペトロは、すべてのキリスト者の代表なのです。教会に集う人はみな、わたしはペトロですと言うべきなのです。すなわち、信じる者のすべて、誰であっても、信仰の挫折、あるいは信仰の試練があるということなのであります。 わたしたちはこの日本という国で、国民の99パーセントが主イエス様を信じていない、それどころか、この世界を超えた存在としての一般的な神についてさえ、真剣に考えていない人々に囲まれて生きています。これは極めて特殊な状況なのです。欧米や中東、アジアの多くの国ではそうではありません。 そういう中で、わたしたちは、自分が、「わたしは神さまを信じている」、さらに「主イエス様の仲間である」、「キリストの教会の一員である」とを公にはしたくないと思っていると思います。わたくしは、今は牧師をしていますので、逃げも隠れも出来ません。牧師ですけれども、実は神様がおられるかどうかわかりませんなどと言うことは出来ません。むしろ世の人たちは牧師なら当然、イエス・キリストの仲間だと初めから思っていますし、そういう前提で接して来られます。これはむしろ気が楽なことでもあります。 4 しかし、わたしは45歳で、献身して神学校に入る前はそうではありませんでした。わたしは、全く、教会とは関係のない家で育ち、東京の学校を卒業し就職して関西にきて5年目ごろに、突然、教会に行ってみたくなり、どういうわけか恵みによって、最初に行った日曜日以来、現在まで主の日の礼拝に与かり続けることなりました。 まるで真っ暗な大海原を行方の分からない船に乗っているような不安と恐れの中で生きて来た人間が、光を見ることが出来たのです。そうか神さまがおられる、わたしを認め、愛し、罪の赦しの平安と命の喜びを与えて下さる、このことがうれしくたまりませんでした。その喜び、感激に比べれば、日曜日に「遊びに行こう」とこれまで通り誘ってくる独身寮の友人に、「日曜は教会に行くので付き合えない」と明言することはそれ程大変なことではありませんでした。 けれども、会社の同僚が何人か集まっているときに、なかなかそれを言う機会がありませんでした。一対一ではなくて、食堂で何人かと一緒に話をしている時に、宗教とか、キリスト教のことが話題になると冷や汗が出てくるという経験もしました。 それで、考えたことは転勤や部署の変更があってみんなで歓迎会をしてくれる、或いは誰かの歓迎会をする、そういう時にみんなにまとめてこれを打ち明けるということでした。つまり、自己紹介のときに、自分はいついつから教会に通っていて、洗礼を受けました、と明言したのです。これは、何か聞かれた時にいちいち返事をするよりも気持ちに抵抗なくすることが出来ました。そしてみんなの反応も、何事もなく、ああそうなんだと受け流してくれているように思えました。中には、実は私もクリスチャンで、どこどこの教会に行っていると話しかけてくる人も現れたのです。 ペトロの場合は、主イエス様の裁判が行われている大祭司の屋敷の中の出来事です。もし、自分も主イエス様の仲間だと言えば、自分もまた捕らえられるかも知れないということが明確な場面でした。幸い今の日本では、そのようなあからさまな迫害はないと思います。しかしかつては激しいキリシタン迫害があった国です。わたしたちの隠れた意識の中では、主イエス様を信じるということと迫害を受けるということが結びついているような気持ちがします。 ペトロの挫折は、決してわたしたちと無関係なことではありません。そしてわたしたちにとって、この後の復活の主イエス様とペトロとの会話が大切です。ヨハネによる福音書の最後の章である21章です。そこで記されていることは、ペトロの後悔と主イエス様の赦しと励ましです。そこでは、その恵みの出来事が、他のどの福音書よりも詳しく記されています。それは、ペトロが、この挫折失敗を通して、自分の弱さを知り、いよいよ主イエス様の恵みにより頼むようになった信仰の成長の有様であり、それをもたらしてくださる主イエス様の愛の深さを表します。 新しい年が、始まっています。次週には教会の大切な会議である定期会員総会も予定されています。あらためて主イエス様の愛の真実、その愛の深さを覚えて、この週も歩んでゆきたいと願います。祈ります。 天の父なる神さま、御名を崇めます。使徒ペトロの弱さは、わたしたちの弱さでもあります。そして主イエス様はその弱さを覆って下さり、恵みと力と赦しを与えてくださいます。ありがとうございます。次週は定期会員総会も予定されています。弱いわたしたちを強めてくださいますようお願いいたします。神さま、今、能登半島地震の被害がいよいよ深刻であることが判明しつつあります。15,000人に及ぶ方々が避難所におられ、また地域の中の被害を受けた自宅で過ごしておられる方も多くいます。あなたが助けてください。尊き主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2024年1月21日(日)熊本教会朝拝説教
ヨハネによる福音書18章12節~27節「イエスの逮捕、ペトロの裏切り」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
主イエス様は、最後の晩餐を終えられて、弟子たちとゲッセマネの園に向かわれました。その
場夜で夜通し祈りをするためです。そのさなかに、松明と棒、剣で武装した大勢のユダヤ人たちの神殿警備隊とローマ軍が姿を現わしました。彼らを案内してきたのはイスカリオテのユダであったことが、先週お読みしました18章3節に記されていました。
その時の主イエス様のご様子は、おびえたり慌てたりすることが全くない、本当に堂々として力強いお姿でありました。弟子たちはと言いますと、主イエス様とは対照的に、ここでは本当に狼狽し、慌てふためいうています。弟子たちのリーダーでありますペトロは、剣をかざして大祭司の手下に切りつけました。けれども、結局は他の弟子たちと共に、その場を逃れ去ってしまいます。
今朝のみ言葉の後半は、主イエス様が捕らえられる場面であり、そしてその後、弟子たちのリーダーのペトロが勇気を振り絞り、主イエス様が連行された場所、今まさに裁判がおこなわれようとしている大祭司の屋敷に入って行く、そういう場面です。もちろんペトロは、屋敷に入っても主イエス様を取り戻そうとすることも、また彼らに抗議するつもりもないのです。しかし、どうしても行かなければならなかった、あなたのためなら命も捨てますという決意を忘れることが出来ず、主イエス様に従って行きたかったのです。
さて主イエス様は、ただちにユダヤ教の大祭司アンナスのところへ連れてゆかれます。この後の第19章までの主イエス様の受難物語が続いてゆきます。主イエス様の周りには弟子たちは誰もいません。主イエス様は、ご自身に敵対するものたちに囲まれています。そしてアンナスの屋敷、カイアファの屋敷、ヘロデ王、総督ピラトと次々に引きまわされ、最後は十字架につけられ、死んで墓に葬られます。わたしたちが目にするのは、そのような主イエス様のお姿です。
最初に入ったのはアンナスのところですが、実はこの時、アンナスはすでに大祭司を引退していました。そして娘婿のカイアファが正式の大祭司として就任していました。聖書以外の当時の様子を教えてくれる文献によりますと、このときアンナスとカイアファは、共に大祭司と呼ばれていたことが明らかになっています。このことはルカによる福音書の第3章の冒頭にもさりげなく記録されています。洗礼者ヨハネの登場のときの時代背景を記した個所です。ルカによる福音書3章1節と2節をお読みします。
「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリヤの子ヨハネに降った。」
先の大祭司アンナスは、ここではその事情は省きますが、ローマ帝国の命令によって強制的に退位させられてしまいまして、その娘婿のカイアファが大祭司として任命されました。しかし、生きている間に大祭司を引退し、次の人に交代するということはユダヤでは極めて異例のことでありましたので、カイアファが大祭司に就任したあとも、カイアファの舅(しゅうと)であるアンナスも依然として大祭司と呼ばれていたということであります。そこで二人の大祭司が存在することとなりました。
大祭司アンナスが主イエス様を取り調べたことは、このヨハネによる福音書だけが記しています。そして24節を見ますと「アンナスは、主イエス様をカイアファのもとへ送った」とあります。
人々はまず主イエス様をアンナスに引き合わせ、そのあと正式の大祭司カイアファのもとで裁判をしたのです。アンナスとカイアファは婿と舅の関係です。同じ屋敷の中の別の建物に住んでいたか、屋敷が別であったとしても、それは隣り合った一続きになった二つの屋敷であったとか言われています。ヨハネよる福音書は、その理由は分かりませんけれども、他の三つの福音書が伝えているカイアファによる裁判についてはこれを省き、反対に、ほかの三つの福音書が省いているアンナスの屋敷での裁判を、このあとの19節から24節に記しています。それを見ますと、このアンナスの裁判は実体のない実に形式的なものだということが分かります。
さて今朝のみ言葉の14節にこのように書かれております。これは、主イエス様の言葉ではなく、いわば敵側の人の言葉です。けれども、実は大変大きな意味を持っているみ言葉であります。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」
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13節には、アンナスは、その年の大祭司カイアファの舅であると、注釈がつけられています。アンナスについての説明はすぐに終わって、次の14節ではアンナスの義理の息子のカイアファが以前に主イエス様を死刑にすることを公に主張していたのだということが語らます。
カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言した」、ここでこう記されています。このサンヘドリンにおけるカイアファの助言は、わたしたちがだいぶ前に読みました御言葉でありますけれども、ヨハネによる福音書の11章50節に記されております。
開きませんけれども、その消息を見てみたいと思います。それは、主イエス様がラザロという、死んで墓に葬られ、すでに四日も経っていた死人に再び命を与えた、よみがえらせたという奇跡をなさり、それがユダヤ人たちの間にたちまち知れ渡ってしまったときのことでした。大祭司カイアファは、臨時の最高法院の会議を招集しました。何しろ死んだ人間をよみがえらせるという奇跡中の奇跡を主イエス様がなさったというのです。このままにしておけば、あのイエスという男を皆が信じてしまう、そうなるとユダヤの国は大騒ぎになり、ローマ軍が介入してくるかもしれない、そうならないために、あの男、イエスを殺すべきだと主張したのです。
ヨハネによる福音書の11章50節をお読みします。
「あなたがたは何もわかっていない。ひとりの人間が民の死に、国民全体が滅びないで済む方が好都合だと考えないか」
今朝お読みしました18章14節には、この11章50節に記されていたカイアファの言葉が、もう一度繰り返されているのです。
「好都合」と翻訳されている言葉は、新改訳聖書やフランシスコ会訳では「得策だ」とも訳されています。自分たちのために役に立つという意味の、いうなれば自己中心的な言葉です。彼らは当時の支配者であるローマ帝国から嫌われることを恐れていました。
しかし、ヨハネによる福音書は、このカイアファの言葉は、彼自身のずるがしこい思いを越えて、実は一種の預言、神の言葉だったのであって、図らずも神の真理を表したものだったとわたしたちに告げています。
ヨハネによる福音書11章51節52節をお読みします。
「これはカイアファが自分の考えで話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスは、国民のためばかりでなく、散らされている神の子を一つに集めるためにも死ぬと言ったのである」
「散らされている神の子を一つに集める」、「散らされている神の子を一つに集める」実にそれは、わたしたちが今ここで捧げている礼拝のことであります。
主イエス様が、十字架におかかりになり、死んでくださった、だからこそ、わたしたちは今、救いの恵みを受け、一つに集められた神の子として礼拝を捧げております。主イエス様は、そのことのために十字架にお掛りになりました。そしてそれは主イエス様ご自身の私たちに対する燃えるような愛の表れでした。主イエス様は、わたしたちのために、わたしのために、自ら進んで、十字架にお掛かりになったのです。
今朝の聖書個所のはじめのほうですけれども4節にこう書かれています。
「イエスはご自分の身に起こることを何かも知っておられ、進み出て、「誰を捜しているのか」と言われた。」
今日のところで主イエス様は、追手の者たちに向かって、誰を探しているのか、わたしがイエスだと二度も繰り返されておられます。まことに堂々とした主イエス様のお姿であります。この「わたしである」という言葉は、旧約聖書出エジプト記第三章に一度だけ記されている神様ご自身の名前、「わたしはある」と重なるものでした。
ご自分がこれから捕らえられ、十字架にかけられ、死んでおよみがえりになる、そして神の子の救いがたくさんの人々に及び、教会がたてられる、ここまで主イエス様は知っておられたということではないでしょうか。そのことがすべて成し遂げられるために、自分を捕らえに来たユダヤ人たちの前に自ら進み出られたのです。
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この大祭司の屋敷で起こる大きな出来事は、もちろん主イエス様が死刑判決を受けたということです。しかし、それとは別にわたしたちにとって大きな意味を持っているのは、使徒ペトロがここで主イエス様を否んだ、否定したということです。「わたしはあの人を知らない、あの人の弟子ではない」と人々に宣言したことです。
このペトロの否認、裏切りは、今朝の個所とその後の25節、そして27節の三か所に分けて記されます。一度目は、門番の女中の問いかけに対して、そして二度目は、一緒に焚火に当たっていた人々に対して、そして三度目はペトロに耳を切り落とされたマルコスと言う人の身内の証言に対してでありました。最後の27節には「すると鶏が鳴いた」と書かれています。
他の福音書は、このペトロの挫折について大変詳しく記しています。しかし、ヨハネはどちらかとあっさりとした書きぶりです。けれども、このペトロの失敗が四つの福音書のすべてに記されていることには大きな意味があると言わなければならないと思います。
ペトロは、使徒たちのリーダーであり、その後も教会の中心的な人物となった人物です。その使徒ペトロの挫折、失敗なのです。そのことが包み隠さずに聖書にしるされています。このことは何を意味しているのでしょうか。それは、あの使徒ペトロ、弟子の代表であるペトロでさえも、このような失敗、挫折を経験するということです。
そういう意味で、ペトロは、すべてのキリスト者の代表なのです。教会に集う人はみな、わたしはペトロですと言うべきなのです。すなわち、信じる者のすべて、誰であっても、信仰の挫折、あるいは信仰の試練があるということなのであります。
わたしたちはこの日本という国で、国民の99パーセントが主イエス様を信じていない、それどころか、この世界を超えた存在としての一般的な神についてさえ、真剣に考えていない人々に囲まれて生きています。これは極めて特殊な状況なのです。欧米や中東、アジアの多くの国ではそうではありません。
そういう中で、わたしたちは、自分が、「わたしは神さまを信じている」、さらに「主イエス様の仲間である」、「キリストの教会の一員である」とを公にはしたくないと思っていると思います。わたくしは、今は牧師をしていますので、逃げも隠れも出来ません。牧師ですけれども、実は神様がおられるかどうかわかりませんなどと言うことは出来ません。むしろ世の人たちは牧師なら当然、イエス・キリストの仲間だと初めから思っていますし、そういう前提で接して来られます。これはむしろ気が楽なことでもあります。
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しかし、わたしは45歳で、献身して神学校に入る前はそうではありませんでした。わたしは、全く、教会とは関係のない家で育ち、東京の学校を卒業し就職して関西にきて5年目ごろに、突然、教会に行ってみたくなり、どういうわけか恵みによって、最初に行った日曜日以来、現在まで主の日の礼拝に与かり続けることなりました。
まるで真っ暗な大海原を行方の分からない船に乗っているような不安と恐れの中で生きて来た人間が、光を見ることが出来たのです。そうか神さまがおられる、わたしを認め、愛し、罪の赦しの平安と命の喜びを与えて下さる、このことがうれしくたまりませんでした。その喜び、感激に比べれば、日曜日に「遊びに行こう」とこれまで通り誘ってくる独身寮の友人に、「日曜は教会に行くので付き合えない」と明言することはそれ程大変なことではありませんでした。
けれども、会社の同僚が何人か集まっているときに、なかなかそれを言う機会がありませんでした。一対一ではなくて、食堂で何人かと一緒に話をしている時に、宗教とか、キリスト教のことが話題になると冷や汗が出てくるという経験もしました。
それで、考えたことは転勤や部署の変更があってみんなで歓迎会をしてくれる、或いは誰かの歓迎会をする、そういう時にみんなにまとめてこれを打ち明けるということでした。つまり、自己紹介のときに、自分はいついつから教会に通っていて、洗礼を受けました、と明言したのです。これは、何か聞かれた時にいちいち返事をするよりも気持ちに抵抗なくすることが出来ました。そしてみんなの反応も、何事もなく、ああそうなんだと受け流してくれているように思えました。中には、実は私もクリスチャンで、どこどこの教会に行っていると話しかけてくる人も現れたのです。
ペトロの場合は、主イエス様の裁判が行われている大祭司の屋敷の中の出来事です。もし、自分も主イエス様の仲間だと言えば、自分もまた捕らえられるかも知れないということが明確な場面でした。幸い今の日本では、そのようなあからさまな迫害はないと思います。しかしかつては激しいキリシタン迫害があった国です。わたしたちの隠れた意識の中では、主イエス様を信じるということと迫害を受けるということが結びついているような気持ちがします。
ペトロの挫折は、決してわたしたちと無関係なことではありません。そしてわたしたちにとって、この後の復活の主イエス様とペトロとの会話が大切です。ヨハネによる福音書の最後の章である21章です。そこで記されていることは、ペトロの後悔と主イエス様の赦しと励ましです。そこでは、その恵みの出来事が、他のどの福音書よりも詳しく記されています。それは、ペトロが、この挫折失敗を通して、自分の弱さを知り、いよいよ主イエス様の恵みにより頼むようになった信仰の成長の有様であり、それをもたらしてくださる主イエス様の愛の深さを表します。
新しい年が、始まっています。次週には教会の大切な会議である定期会員総会も予定されています。あらためて主イエス様の愛の真実、その愛の深さを覚えて、この週も歩んでゆきたいと願います。祈ります。
天の父なる神さま、御名を崇めます。使徒ペトロの弱さは、わたしたちの弱さでもあります。そして主イエス様はその弱さを覆って下さり、恵みと力と赦しを与えてくださいます。ありがとうございます。次週は定期会員総会も予定されています。弱いわたしたちを強めてくださいますようお願いいたします。神さま、今、能登半島地震の被害がいよいよ深刻であることが判明しつつあります。15,000人に及ぶ方々が避難所におられ、また地域の中の被害を受けた自宅で過ごしておられる方も多くいます。あなたが助けてください。尊き主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。