この17章の祈りの中で、主イエス様は「何々してください」と何回も語っておられます。元のギリシャ語を見ますと、実は24節だけが、それまでの「祈る」、あるいは「願う」という意味の単語とは違う単語が使われています。その単語は24節だけに出てくるのですけれども、「祈る、願う」という意味と、「思う、決心する、しようとする」、という意味の二つの意味を持っています。多くの日本語訳聖書は文語訳聖書も含めて、すべてを同じように「してください」と訳しています。また多くの英語訳聖書も同じように、 I desire 「望みます、欲します」と訳します。これは前後の文脈からそう訳すのですけれども、実は、この言葉は「わたしは何々いたします。」「決意しています」と訳すことも可能なのです。
1611年、最初の英語の公認訳聖書でありました欽定訳聖書、キング・ジェームス・ヴァ―ジョンは、ここを「I will 」、「するつもりです。そう致します。」と訳していることを見つけました。つまり24節は、主イエス様の祈りの言葉の中に含まれている、主イエス様ご自身の決意表明、あるいは告白の言葉であると理解するのです。定評のあるドイツの新約注解書、NTD新約聖書注解、ダス・ネウエ・テスタメント・ドイチェの中のシークフリート・シュルツという人もその立場を取っています。この方はスイスのチューリッヒ大学の神学部教授の先生ですが、わたくしもまたこの読み方に心惹かれるものがあるのです。
2023年12月31日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書17章20節~26節「神の愛の中で」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
今朝は今年最後の礼拝となりました。また今日は、12月31日大晦日を迎えていまして、本年最後の日でもあります。この一年を振り返ってみますと、改めて熊本教会とそれにつながっているお一人お一人が神様の愛の中で守られたことを思います。もちろんわたしたちは不完全なものであり、また闇を伴っているこの世界の中で生きていますので、決して良いことだけではなく、悲しいことや辛いことも経験したのだと思います。その中で、わたしたち自身の怠惰や足りなさ、あるいは罪深さをも覚えるものです。けれども、それにも関わらず神様の愛を受けた一年であったと思うのであります。
今日の説教題は「神の愛の中で」といたしました。先ほどご一緒に聞きました聖書の言葉は、17章1節から続いていました主イエス様の祈りのまさしく最後の部分にあたります。次の18章では、もう主イエス様はゲッセマネの園,キドロンの谷におられ、そこで兵士や祭司長やファリサイ派が遣わした下役たちにより逮捕され、その日のうちに十字架に架けられることになります。十字架前夜の最後の祈りの、その最後の部分を聞いたのですけれども、その終わりに近い所に「愛」という言葉が、3回出てきています。そしてそのいずれもが神の愛をさしてつかわれています。
23節に、二回用いられていて、最初は、天の父なる神が御子イエス様を愛されるという神の愛です。後半では、その同じ愛、つまり御子イエス様を愛される父なる神の愛が、今度は「彼ら」に注がれると祈っておられます。「彼ら」とは、つまり11人の弟子たちの言葉を聞いてイエス様を信じる人々であり、それだけではなく、使徒の言葉としての新約聖書と聖霊の恵みによって主イエス様を信じる人、つまりわたしたちにも注がれると言われるのです。
そのことを世が知るようになるために、彼らを一つにしてくださいと祈られたのです。教会が主にあって一つであるということによって、世の人たちに神様の愛が知られるようになるのだと約束されるのです。そして三回目に出てきます「愛は」、最後の26節で、主イエス様が御自身をわたしたちに知らせて下さった目的に関わるものです。それは神の愛がわたしたちの内にあるためなのだと明言されています。わたしたちが主イエス様を知り、主イエス様を信じることは、主イエス様がわたしたちの内にいることと一つであり、神の愛が、そこにあるということと一つのことなのです。その神の愛の中で、今年もまた守られたし、新しい年もまた、わたしたちは恵みを受けるのであります。
2,
今朝のみ言葉は17章全体に記されている主イエス様の祈りの結びです。けれども、それだけではなくて、実は13章1節からずっと聞きつづけてきました、最後の晩餐の日の初めから終わりまでの一部始終が、まさに今日のところで終わるところでもあります。
わたくしの主の日の説教でヨハネによる福音書の13章に入りましたのは、夏の盛り8月13日でありました。もう4か月間も最後の晩餐の夜、一晩の出来事についての御言葉を聞きつづけたことになります。「いよいよ」と言いますか、「とうとう」と言いましょうか、次の18章では、主イエス様の十字架のことが記されてゆきます。今朝の御言葉は、そのような大切なところであります。
改めて、これまでのことをたどってみたいと思います。主イエス様は、十字架にお架かりになる前の夜に弟子たちと共にあらかじめ用意された部屋に集いました。13章1節に、それはユダヤ教最大の祭りである過ぎ越し祭の前のことであったと書かれています。
食事の前、主イエス様は、まず弟子たちの足を一人一人洗って下さいました。そして、あなたがたも互いに愛し合いなさい、互いにこのようにしなさいと教えられました。そのあと一緒に過ぎ越しの食事をしました。そしてその後で、13章31節から16章の終わりまで続く、長い決別の説教をされました。そしてまるで説教後の祈りのように、17章全体にまたがる長いお祈り、大祭司の祈りとも呼ばれる祈りをなさったのであります。
祈りの中で、主イエス様は、まずご自身のこれからの使命、救いの御業のために祈られました。わたしに十字架の栄光を下さいと祈られました。次に、目の前にいる11人の弟子のために祈られました。そして、それに続く今朝の御言葉が、これから、その弟子たちの言葉を聞いて主イエス様を信じるようになるすべての人のために執り成しの祈りであります。つまり、わたしたちのために、祈ってくださった、それが今朝の御言葉であります。
あの11人の弟子たちのように、目の前に主イエス様がおられて、わたしたちのために祈ってくださる、わたしたちは、その御声を直接聞いているわけではありませんが、しかし、このように、聖書の中に、その御言葉が、そのわたしたちのための祈りが、ここに記されているということ、これは胸がどきどきするようなことだと思います。
主イエス様は、わたしたちのための二つの祈りをなさいました。第一は「信じる者たちが一つであるように」です。第二は、「その人たちが主イエスご自身、そして父なる神と一つであり続けるように」と祈る祈りです。この祈り、つまり教会が分裂せずに一つである、一つであり続けるということについては後ほど語りたいと思います。
さて今朝のみ言葉の祈りの中には、祈り願う、祈願だけではなく、告白や決意智取れる主イエス様の言葉が多くあります。24節からの後半部分を見ると、それは「願う」というよりも主イエス様ご自身の思いと言いますか、確信を語っているところではないかと思うのです。祈りは神様との対話、交わりですので、祈りであることに間違いはありませんけれども、祈願、お願いの言葉だけではない言葉がここに記されているのです。
この17章の祈りの中で、主イエス様は「何々してください」と何回も語っておられます。元のギリシャ語を見ますと、実は24節だけが、それまでの「祈る」、あるいは「願う」という意味の単語とは違う単語が使われています。その単語は24節だけに出てくるのですけれども、「祈る、願う」という意味と、「思う、決心する、しようとする」、という意味の二つの意味を持っています。多くの日本語訳聖書は文語訳聖書も含めて、すべてを同じように「してください」と訳しています。また多くの英語訳聖書も同じように、 I desire 「望みます、欲します」と訳します。これは前後の文脈からそう訳すのですけれども、実は、この言葉は「わたしは何々いたします。」「決意しています」と訳すことも可能なのです。
1611年、最初の英語の公認訳聖書でありました欽定訳聖書、キング・ジェームス・ヴァ―ジョンは、ここを「I will 」、「するつもりです。そう致します。」と訳していることを見つけました。つまり24節は、主イエス様の祈りの言葉の中に含まれている、主イエス様ご自身の決意表明、あるいは告白の言葉であると理解するのです。定評のあるドイツの新約注解書、NTD新約聖書注解、ダス・ネウエ・テスタメント・ドイチェの中のシークフリート・シュルツという人もその立場を取っています。この方はスイスのチューリッヒ大学の神学部教授の先生ですが、わたくしもまたこの読み方に心惹かれるものがあるのです。
つまり、ここではまだスイエス様の十字架は成し遂げられていないのですけれども、しかし、それは必ず成し遂げられる、わたしは成し遂げる、そのように、主イエス様は決意しておられます。そのことによって信者たちをみな、わたしのいるところにいるように致します。わたしはそう決意しています、と祈られるのです。
「わたしのいるところ」は、14章3節に記されている「わたしのいるところ」であります。14sy報3節で主イエス様はこう言われたのです。
「心を騒がせるな。わたしの父の家には住むところが沢山ある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、わたしのいるところにあなたがたもいることになる」
つまり、最終的に主イエス様のおられる天の御国、あなたがたが、そこにいるようになる、これからわたしはそう致します。主イエス様ご自身の罪の赦しの御業、十字架の血と墓からのよみがえりによって、必ずわたしのいるところに彼らがいるように致します。こう天の父に告白されたのです。
12月10日(日)の午後に、徳丸洋子姉妹が召されました。12日の火曜日に葬儀を致しました。その葬儀の際に式文に従ってわたくしが読み上げましたのも、このヨハネによる福音書第14章の御言葉でありました。葬儀の前日の祈祷会と最後の火葬式で歌いましたのは488番でした。「はるかに仰ぎ見る、輝きのみくにに、父のそなえましし楽しき住みかあり」。
主イエス様は、その十字架の決意を告白されたあと、17章の24節の後半でこう付け加えられます。「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を彼らに見せるためです。」天の御国では、父なる神と主イエス様の御栄光が輝いているのです。
天地創造の前からの主イエス様の栄光、つまり地上では隠されていたその栄光をわたしたちは、天の御国で必ず見ることが約束されています。世は、神を知らない、しかし、わたしを信じる者たちは、この地上にあっても聖霊によって主イエス様のいるところにいつもいるし、そして最後には、必ず天の御国の主イエス様のもとへと凱旋するのです。
2、
今朝の御言葉の主イエス様の執り成しの祈りにおいては、信じる者たちが一つである、一つになっているということが記されています。その祈りの中で、特に21節の後半部分が大切であります。
主イエス様はこう祈っておられます。「すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」
「すべての人」とは、17章20節に説明されていますが、初代教会の使徒たちの言葉によって、主イエス様を信じるようになるすべての人々のことを指しています。そこにはそれ以降の時間と空間を超えた世界の歴史の中の教会、そして今現在のキリストの教会が含まれています。わたしたちも含めて、みな、「わたしたちの内にいるようにしてください。」これが主イエス様の祈りなのです。
主イエス様が言われる「わたしたち」とは、今ここで主イエス様が祈り、語りかけておられる天の父なる神と主イエス様のご自身のことです。そこには完全な一致があります。信じる者たちが、互いに分裂や争いがないと言うだけでなくて、同時に、三位一体の神の交わりの中に完全に入ってしまう、父なる神と主イエス様ご自身とも一致している、一つであるということがここで祈られています。キリストにある一致、神にある一致であります。
ここでは世々の教会が一つである、一致しているということと、その一致と云うものが、神とキリストとを離れていない、父なる神とキリストの中にあって、ぴったりと結ばれていることが祈られていると思います。つまり、何で一致するのかという点が問われるのです。主イエス様は、信じるものたちが主イエス様ご自身と一致するように願っておられます。
3,
21節には「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」とあります。主イエスさまがまさしく神からおいでになったお方である、神ご自身と一つであるということを世の人々が信じるためには、信仰者たちが、ただ仲良くしている、見かけ上一つになっているというのでなく、本当の意味で、真実に主イエス様を信じているということがなくてはならないのです。
WCC世界教会協議会というキリスト教会の会議があります。世界100か国、345の教会、これにはカトリックや聖公会、ルター派、など様々な教会が含まれますが、全世界、実に多様な教派教会がこれに参加しております。日本では、日本キリスト教団や聖公会は参加していますが、福音派の多くの教会やわたしたち日本キリスト改革派教会はこれに加わってはおりません。
どうしてかと言いますと、決して否定しているのではなくて、どの会議を優先するかという優先順位もあると思います。また一方でエキュメニズム、教会一致運動についての考え方の違いがそこにはあります。
WCCの教会一致運動が大切にしている聖句は、今朝のヨハネによる福音書17章の信じる者たちが一つになるようにという主イエス様の祈りの御言葉です。けれども、わたくしが、ここではずっと、「一つになる」とは言わないで「一つである」「一つであり続ける」といってきましたように、主イエス様は、この祈りの中で、「である」と「になる」とを使い分けてはおられないのです。新共同訳聖書を訳した人々の中心は、カトリックとの共同ということを考えた人達ですから、どうしても、「一つになる」という翻訳をとるわけです。元のギリシャ語では、すべて「一つである」という言葉なのです。
WCCの主張は、今は教会が一つになっていないので、一つになろう、それが主イエス様の祈りだと云うものです。教会が一つであるということを、外見的なこと、制度的なこととして見ています。けれども、主イエス様は、決して、ここでは制度的なことを考えておられるのではなく、むしろ霊的な一致ということ祈っておられます。
確かに、地上の教会は幾つにも分かれていて、互いに論争もあります。しかしまた、同時に互いに関心を持ち、祈りあっています。主イエス様を信じる教会は、実は、一つなのであります。主イエス様から見ますと皆一つであります。わたしたちは、いろいろな人と出会いますけれども、その中で、「わたしも教会に行っています。キリストを信じています。」という人にあった時には、心にあかりがともったような気がしないでしょうか。そして、もしも、その人と一緒に祈ることができたならなんとすばらしいことでしょうか。教会が違っていても、わたしたちは主イエス様にあってひとつだと、言うことが出来るのです。
主イエス様がこのお祈りをされた時代、また、すぐ後の初代の教会においては教団教派と云うものはありません。信じるものはすでに一つです。そして、これからも、そして終りまで、一つであるようにしてくださいと祈っておられます。
主イエス様がぶどうの木であるなら、信じる者たちは、皆、その枝であります。枝同志は違った枝であっても、しかし皆が、一つのぶどうの木です。
わたしたちは、違った教団、教派の人たちとの関係についてもそのように考えればよいのだと思います。大切なことは、一人一人の信仰が全うされることであり、そのことによって、一致が生まれ、共同の働きが生まれてくるのです。
最後の26節で、主イエス様はこういっておられます。「わたしに対するあなたの愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らの内にいるようにしてください」
父なる神様は、主イエスを愛し、そして主イエス様は、信じるものたちを愛していて下さいます。その神の愛が教会にあるということが、主イエスご自身が人々を呼び集め、ご自身の御名、すなわち、主イエス様ご自身の本質、存在を知らせた目的でありました。
主イエス様ご自身は、「これからも」、つまり、初代教会の時代だけでなく、彼らによって信じるようになる人々に対して、世の終わりまでそうなさると約束されます。ご自身の御名を知らせ続けて下さる主イエス様の愛に、わたしたちも満たされることを主イエス様は宣言して下さいます。
今朝の御言葉のはじめの20節に、主イエス様が、教会のことをどう呼んでいるのかを知ることが出来る御言葉があります。「彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々」。これが、主イエス様が心に思っておられる世々の教会です。今、わたしたちは、ここで「彼ら」と呼ばれている使徒たちの言葉を直接、聞くことはできません。しかし、彼らの言葉は、聖霊によって聖書の御言葉となって私たちに与えられています。
聖書に忠実な教会、しかも主イエス様から教えを受けた使徒たちの信仰によって聖書を解釈しようとする教会、このことがわたしたちの目標です。教会の一致もまた、神の言葉である聖書にかたく立つということころから出発するのだと思います。
「信じる者たちをすべて一つにしてください。彼らもまたわたしたちの内にいるようにしてください」、この主イエス様の祈りをいつも覚えていたいと思います。新しい年も神様の愛の中で歩んでまいりましょう。祈ります。
天の父なる神様、最後の晩餐をおえるとき、主イエス様は神の愛がわたしたちに注がれていること、それは主イエス様の救いの御業によること、そして信じる者たちが、主にあって一つであるようにと祈られました。一つの信仰基準と教会政治を共に持つ教団の中の教会だけでなく、すべのキリストの教会が、必要に応じて助け合い、協力しあって一つであるように、これからも導いてください。この熊本教会も、新しい年、神様の愛によって守られ導かれますようお願いたします。主の御名によって祈ります。アーメン。