2023年12月17日「主イエスにあって一つ」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 17章9~19節

メッセージ

2023年12月17日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書17章9節~19節「主イエスにあって一つ」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

ただ今、ご一緒に聞きました御言葉の初めのところ、9節にはこのように言われています。「彼らのためにお願いします」 

ここで主イエス様が父なる神様に向かって「彼ら」と呼んでおられるのは、この前後の主イエス様の御言葉から判断しまして、主イエス様がその肉の体をもって地上を歩まれた間に主イエス様の弟子となった人々のことに違いないのであります。それ以外ではないのです。いわば原始教会、原始時代の原始という漢字ですけれども、原始教会の会員たちのための祈りです。使徒言行録、第1章15節によりますと、復活し昇天、天に昇ってゆく主イエス様を見送り、聖霊が遣わされるまでの間、二階座敷に集まって祈っていた人々の数は合わせて120人ほどであります。

この後の20節に目を転じますと主イエス様はここから、もう一つ別の祈りをはじめておられます。「また彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします」20節です。

そうしますと、今朝の御言葉、つまり9節から19節は、主イエス様と同じ時代の信者のための祈りであり、20節から先の祈りは、のちの時代の教会員たちのための祈りであるということが出来ます。主イエス様よりも後の時代の教会員、つまりわたしたちもその中に含まれますが、そのための執り成しの祈りは、この次のところにちゃんとあるのです。今朝のところは、それとは区別された最初の弟子たちのための祈りなのであります。

今日、全世界のキリスト教徒の数は20億人とも言われています。ヨーロッパやアメリカだけでなく、今やアジアやアフリカの全域に福音は広がりました。韓国は実質的にキリスト教国と言ってもよい状態ですし、また中国でも信者の数はますます増えていると言います。そして極東の島国である、この日本にも小さいながら教会がたてられています。しかし、その最初期の教会はわずか120人ほどであったということは、実のところ驚くべきことではないでしょうか。都エルサレムの町のはずれの一軒の家に集まって祈りをささげていた、たった120人の弟子たちによってキリストの教会はスタートしたのであります。

さて前回、お読みしました聖書箇所ですけれど、少し前の6節に「父なる神が世から選び出してわたしに、与えて下さった人々」という御言葉があります。まさしく、この120人が、そのような人々でありました。主イエス様ご自身の思いによれば、彼らは「神が主イエス様に与えて下さった人々」であります。主イエス様が何かご自分の技術や才覚によって集めた人々というのではない、「神が与えて下さった」そのような者たちであると主イエス様は告白します。それは、今日、20億人の人々にまで広がった現在の信徒たちもまた同じなのであろうと思います。6節の初めには「世から選び出して」という主イエス様の言葉があります。初めに神の選びがあり、そして、その人たちが主イエス様の弟子になる、主イエス様のものとなって人生を歩み始めるのです。伝道の主導権はどこまでも、人間の側にはなく、神様の側にあります。

主イエス様はその人たちに「ご自身を現わした」とあります。地上を歩まれた主イエス様に従って、エルサレムまでやってきた人々は、主イエス様をその目で実際に見ました。そして主イエス様の言葉を聞き、また主イエス様と語り合い、恵みを受け、共に旅をする中で、主イエス様をその霊的な意味において知ったのであります。

2、

彼らへの祈りは、大きく分けて二つのことであります。第一は、彼らを守ってくださいという祈りです。主イエス様が地上におられる間、主イエス様は弟子たちのリーダーであり、教師であり、あらゆる意味において守り手でありました。しかし、主イエス様は、十字架にお掛りになり、世を去って行かれます。その後、復活という仕方で、40日間、弟子たちに姿を現してくださいましたが、しかし、聖霊なる神様と入れ替わるようにして天に帰って行かれました。もうイエス様が見える形ではいて下さらない、そういう中で教会が存続してゆく、それだけでなく右にも左にも曲がらずに守られ、その働きを力強く進めてゆく、そのことを主イエス様は祈っておられます。

第二は、彼らを聖なる者としてくださいという祈りです。18節には、わたしは彼らを世に遣わしましたという告白があります。原始教会が、世とまじりあってしまうことがなく、彼らを遣わした主イエス様の教えと姿とを保ち続けるようにという祈りであります。主イエス様が天に帰られた後、原始教会が伝道してゆく、その中で、何を旗印にしてゆくのか、何を伝えるのか、どんな姿勢で伝道してゆくのか、それは主イエスの御言葉、神の言葉によって取り分けられたものとして、この世との違いを保ち続けて下さいと言う祈りであります。

主イエス様のお働きを通し、神によって選ばれ、立てられた教会、原始教会の役員は、このとき11人の特別な弟子たちでありました。彼らこそ、この主イエス様の祈りの声をまじかに聞いた者たちであります。

最後の晩餐を終え、世界で最初の聖餐式を守り、そして主イエス様の長い決別の説教を聞いて礼拝を捧げた11人が、そこにはいました。今朝のみ言葉の11節と13節には、「わたしはみもとに参ります」という言葉が二度繰り返されます。このあと主イエス様は十字架によって処刑されるという仕方で、世を去られます。主イエス様は、その後、復活してもう一度弟子たちと共に過ごされ、最終的な別れは40日後になりますけれども、今はもっぱら翌日に迫っている十字架の別れのことが心にあると思います。主イエス様は、そこに残される弟子たちのことを特別な思いで祈っておられます。「彼らのためにお願いします」という主イエス様の御声を聞きながら、弟子たちは、主イエス様が自分たちのために今祈っていてくださることをはっきりと心に留めていると思います。

ある人が自分のために執り成しの祈りをしてするのを、その場で直接聞くという経験をなさったことがあるでしょうか。なんだか恥ずかしいような嬉しいような思いがいたします。ある神学生がこういいました。「祈りの会で、その人が自分のために祈っている、その声を聴くとき、何か、その人と風呂場で肌と肌とが触れ合ったような気がする」

まさしく、そんな気持ちになるのですね。11人の弟子たちは、わたしたちの主であるお方、間違いなく神のもとからおいでになった神の子であるお方が、今わたしたちのために祈っていてくださる、その直接の声をききながら、彼らは、決して忘れることが出来ない、心ふるえるような思いがしたのだと思います。

わたしたちは、ここに本当の意味での執り成しの祈りを見ているのだと思います。わたしたちが祈る祈りを主イエス様が取り次いでくださるというのではなく、わたしたちについての祈りを主イエス様がして下さるということです。その祈りの中身はわたしたちが実際にいつも考えている願い、願望を越えているのです。わたしたちは、自分の思いで祈るのでなく、主イエス様の思いの中で祈られるのであります。素晴らしいことであります。

 第一の祈りである、初代教会が世にあって存続し、守られるようにという祈りの言葉を良く読みますと、そこには、いくつかの主イエス様ご自身の信仰告白と、この時点での、いろいろな判断や思いが付け加えられています。弟子たちは、主イエス様のものであるとともに父なる神様のものであると言われます。神がご自身の民を世から選びだして主イエス様に与えて下さったものだと言います。そして、10節には、こんな言葉があります。「わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」

 通常の人間同士の間でも、言葉の上ではありえても、現実にはこのような関係はあり得ないことです。そのつもりでいるという一種のたとえとしては、言われることがありますが、人間関係の中で最も深い家族や夫婦の間でも、親しき中にも礼儀ありといいます。

「わたしのものはあなたのものです」。これは自分が自由にできる自分のものについてのことですから、言葉の上でこれを言うということは可能です。例えば、恋人同士の愛の告白と言うような場面です。しかし、聞いた人が本気にするといろいろ問題が起きて来るものです。ましてや、「あなたのものはわたしのものです」などということは、通常は言わないことであります。

 しかし、主イエス様と父なる神様の間柄と言いうのは、親子とは兄弟、或いは友人というような、単なる親しい関係ではない、それを超えた関係なのです。つまり三位一体の深い交わり、一つであって三つ、三つであって一つという特別な関係なのです。一人の人が神の愛を信じ、主イエス様を信じるということは、主イエス様のものになると同時に父なる神様のものとなるという特別な関係に入れられるのであります。

 そして主イエス様は「わたしたちのように彼らが一つとなるように」、彼らを守ってくださいと祈ります。弟子たちの間に分裂がなく、彼らが一体となって、ひとつとなって働くことが主イエス様の御心でありました。もちろん、すでにわたしたちが知っているように、主イエス様が生きているときに、12弟子のひとりイスカリオテのユダが、主イエス様を裏切り、弟子たちを裏切りました。しかし、彼は、滅びの子であったと主イエス様は語ります。

「滅びの子」については旧約聖書において預言されていました。その預言は詩編41編10節と言われています。こう記されています。

「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べるものが威張ってわたしを足蹴にします。」、新改訳聖書はこう訳します。「わたしが信頼し、わたしのパンを食べた親しい友までが。わたしに背いて,かかとを上げた」。主イエス様は、13章18節のユダの裏切りを告げた個所で、この詩編の御言葉を直接に引用されました。「「わたしのパンを食べているものがわたしに逆らった」という聖書の言葉は実現しなければならない」主イエス様の御言葉でした。しかし、その滅びの子以外は誰も滅びない、誰もが滅びるべきものであったのに、主イエス様の十字架の愛を受け聖霊の導きを受けて、誰も滅びない、これが神の選びの恵みであります。

一つに守られるということは、単に分裂や対立がない、仲良くしているということではないのです。そうではなく主イエス様の御名によって一つである、つまり主イエス様ご自身と一つであることも含みます。人間の喜び、この世の喜びではなく、主イエス様の喜びが、弟子たちの間にも満ち溢れるのです。そのための一致であり、交わりなのであります。

主イエス・キリストの恵みによる一致、これこそがすべてのキリスト者の共通の原理となります。それはこの世とは違う基準、ルールです。「キリストにあって一つ」。これによって弟子たちは生活します。従って、世から憎まれてしまうと言います。それでも彼らは、悪いもの、つまり神と対立する悪魔的なものから守られるのです。

 ここで主イエス様が弟子たちのために祈ってくださいました、「この世との区別」ということは、17節の「真理」という言葉、また「聖なる者としてください」と言う主イエス様の祈りと重なるものです。

わたしたちは、毎週第一主日に告白している使徒信条の中で、「我は聖霊を信ず」と言い、その後で「聖なる公同の教会を信じる」と告白します。教会が聖なるものであるということの意味は、この世と区別されている、この世から取り分けられているという意味にほかならないのです。

 教会自身は、その中に汚れがあり、悪いものが含まれている、そのような存在であるかもしれません。あるときには本当に清い汚れのない自己犠牲や奉仕の姿を現すことがあっても、またあるときには、この世の人たち以上のねたみや蔑み、けがれた思いにとらわれてします、それが現実の教会の姿です。福音書や使徒言行録には、使徒たちの素晴らしい働きと共に、数々の失敗や怠慢や争いの姿さえ描かれています。しかし、それでも教会は、神様によってこの世から区別され、取り分けられたもの、神の器として用いられるのであります。このことは原始教会から一貫していることなのです。

4、

 18節にこうあります。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」。この遣わすというギリシャ語から「使徒」、「アポストロス」という言葉が生まれました。主イエス様は、ご自身に栄光を下さいと祈られ、また、弟子たちによって栄光を受けましたと語ります。しかし、主イエス様が口にされた「栄光」は、断じて、この世の栄光ではありませんでした。神が、僕のように、人間のお姿をとられるということが、主イエス様の栄光でありました。世を愛し、愛しぬいて十字架にお係りになることが、栄光でありました。その、謙遜のお姿、僕のお姿こそが、主イエス様が、世に遣わされたお姿にほかならないのです。そうしますと、弟子たちが主イエス様のように世に遣わされているということは、やはり、この世的な栄光に生きるためではなく、主イエス様のように世を愛し、世に仕えるということにほかなりません。福音の伝道、教会の宣教というものの本質はそこにあるのです。

 わたしたちは、伝道とか福音宣教とか言う時に、すぐに、何人の人が集まったとか、洗礼を受ける人がこれだけ与えられて教会が成長したというようなことを思うのですが、しかし、主イエス様が弟子たちを世に遣わした目的は、もっと深いものではないでしょうか。主イエス様が神の身分でありながら人として、この世に遣わされた、その在り方を教会もまた身にまとっているべきなのです。

 主イエス様がご自分の命を捧げて下さったように、弟子たちもまた、その存在を神に捧げて、神様によって用いられます。

19節にこう書かれています。

「19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」

ここで「捧げられたものとなる」といわれていますのは、「聖なる者となる」、あるいは「聖別され、取り分けられている」という意味にほかなりません。

 神様は、原始教会をこの世から取り分け、神の器として用いられるものとしてくださいました。それは、この主イエス様の執り成しの祈りに導かれている、そのために神がそのようにしてくださるからであります。

わたしたちに福音を伝えた最初の群れ、12弟子の教会、原始教会は、主イエス様によって、主イエス様ご自身の喜びに満たされるように祈られていました。そして彼らが、実際に迫害や苦難の中でも、喜びに満ち溢れていたように、わたしたちもまた、喜びに満ちふれて福音を伝えたいと思います。弟子たちと同様、わたしたちもまた、これらの主イエス様の祈り、執り成しの祈りの中に、今もおかれていることを、そのことを喜びをもって覚えたいのです。祈ります。

天の父なる神様、主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美します。十字架にお架かりになる前の夜、主イエス様は、まずご自身にために祈られ、続いて目の目にいる11人の弟子たちのために祈りを捧げられました。更に、それに続いて使徒たちによって立てられて行く教会、すなわちわたしたちのために祈られました。わたしたちはこの主イエス様の祈りの中に今も置かれていることを覚えさせてください。教会が争いや分裂ではなく、一致があり一つであるように、何よりも主イエス様と結ばれて一つとなるよう導いてください。そして世から守られて力強く働きを続けて行くことが出来ますようお願いいたします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。