聖書の言葉 ヨハネによる福音書 17章1節~6節 メッセージ 2023年12月10日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書17章1節~8節「永遠の命とは?」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。今朝の御言葉の初めのところ、17章1節にこう書かれております。1節の前半をもう一度お読みします。「イエスは、これらのことを話してから、天を仰いで言われた。」 元の言葉を直訳しますと、この時の主イエス様の動きというものがさらに分かるような表現になります。「イエスは、これらのことを話された。そして、目を天の方へ上げて言われた」。 これまで、弟子たちの方を見ながら説教してくださった主イエス様でありますが、ここで説教を 終えられて、今度は、そのまなざしを天に向けて、天におられる父なる神様に顔をお向けになり 声を出されたというのであります。地上から、天へ、主イエス様の心と体の向きがここで変化し ております。 さきほど、元のギリシャ語の直訳を言いましたが、そこでは「主イエス様は天に向かって声を出された」と言いました。つまり「祈られた」とは言いませんでした。新共同訳聖書の小見出しには「イエスの祈り」と書かれていますが、実は、「祈られた」、あるいは「祈ります」という言葉は、ここでは使われていないのですね。 もちろん、「祈る」という言葉が使われていなくとも、主イエス様は、まず「父よ」と語りかけて、この長い言葉をはじめられました。そしてこの17章全体の言葉の中には、「お願いします」「何々してください」という言葉がちりばめられています。ですから、ここは主イエス様の「祈り」であることは間違いありません。しかし、それと同時に、ただ、何々してください、お願いしますというような神様に何かを求める言葉だけではないことも確かです。「時がきました」であるとか、「あなたは何々してくださいました。それは何々だからです」というような神様のお取りはからいをもう一度確認するような言葉などもまた多くあります。 つまり、わたしたちは、この主イエス様の祈りを通して、祈りと云うものが、ただお願いするというのではなく、実は神様との対話であり、交わりであるということをはっきりと知ることが出来るのだと思うのです。感謝があり、ときに嘆きがある、あるいはまた信仰の告白がある、そのすべてが、広い意味での祈りなのであります。そういう意味では、私たちがいつも礼拝の中で捧げている「主の祈り」とは違っております。同じ主イエス様の祈りでありますけれども、主の祈りが、初めの呼びかけと最後の賛美頌栄の言葉に合わせて6つの願い事、何々したまえ、何々させたまえという、祈り願う言葉をその中心としていることとは、ずいぶん違っております。 多くの聖書注解者は、この17章全体を「大祭司の祈り」とよびます。これは、この祈りが、たとえば主の祈りのように、わたしたち自身が祈るように求められている祈りの模範、手本ではなくて、神の御子、神ご自身である主イエス様しか祈ることが出来ない独特無比の祈りであるためであると解説します。 しかし、一方で、わたしたちは、確かにこの祈りは独特無比のものであっても、しかし、この祈りにあるような祈りの豊かさ、つまり神様に向かって、心にあることのすべてを打ち明けて、お話をする、対話をする、つまり、感謝や告白や神の御業の自分なりの解釈を含めて、このような祈りのあり方を教えられるという意味で祈りの模範となるのではないかと思うのであります。 次になぜ、この祈りが「大祭司の祈り」と呼ばれるのかと言いますと、この祈りの内容が、弟子たち、あるいは弟子たちの福音説教によって主イエス様を信じる人々全体に対する執り成しの言葉であるからです。「とりなす」ということは、これまでうまくいっていないある人と、もう一人の別の人との間の関係が正されるよう、うまくゆくように、第三者の立場から働きかけることです。 ここでは主イエス様は、主として弟子たちや教会のために神に祈っておられます。しかしそれに先立って、1節から5節までは、主イエス様ご自身のために祈りが来ています。まずは、とりなす者自身が神様との正しい関係に入らなければなりませんから、これは当然のことです。 このとりなすという働きを旧約時代の祭司、大祭司の働きの中に見て、主イエス様は、その祭司の働きをしているのだと理解するのです。旧約時代、祭司は、朝に夕に、祭壇に入り、ともし火をともして民のために祈りました。さらに、神の民イスラエルのために、神に犠牲の動物を捧げました。動物を屠り、切り刻み、焼き尽くして神に捧げました。その動物の血を祭壇に振り掛けて罪の贖いをしました。この動物は、神の民の罪の赦しのためにささげられる、いわば身代わりでありました。 主イエス様は、ここでは動物を捧げることはしておりません。捧げられるのは、主イエス様ご自身の命、罪のない神の子の聖なる命だからです。それを神に捧げて信じる者のための身代わりに死んでくださるお方が、ここで祈っておられます。主イエス様というお方は、旧約時代の祭司の働きをさらに進めて、それを完成するお方なのです。主イエス様は、聖書の全体が指し示す祭司の中の祭司、祭司の代表、大祭司であるのです。この方の祈りでありますから、「大祭司の祈り」と呼びます。またその祈りの内容が執り成しの祈りであるので、大祭司の祈りと呼ぶのであります。 2、 この17章の全体に及ぶ主イエス様のお祈りは、内容的に、さらに三つの部分に分けることが出来ると思います。第一は、1節から5節で、ここでは主イエス様はご自分がこれから目指される十字架のことについて祈っておられます。「子に栄光を与えて下さい」。「父よ」と呼びかけてこう祈ります。「父よ、あなたの子である、このわたしに栄光を与えて下さい」、1節の終わりと5節の初め、二度繰り返してこう祈ります。 この世の人にとって、栄光を受ける、あるいは栄光に輝くとは、自分自身が大きな成果を上げて人々から称賛されることです。しかし、主イエス様にとりましては、どんな時でも人間の評価が問題なのではなく、神様の評価のことが第一であります。「時が来ました」、この時とは、神の子である主イエス様が、神から委ねられた人々に永遠の命を与える「その時」、すなわち十字架と復活の時がいよいよ来たことを表しています。弟子たちと最後の晩餐を囲み、最初の聖餐式を執り行い、そして、決別の説教をし終えて、今、十字架にお係りになる、いよいよ、その時が来たのです。実際には、次の18章から先で、十字架と復活のことが語られますが、ここでは、まさにその時がすでに来たことを改めて父なる神に確かめているのです。 十字架に架かることは、そこで主イエス様の命がさいなまれ、そして失われてしまうことです。主イエス様の非常に大きな苦難、苦痛がこれから始まります。それは人間的に見ると滅びであり、裁きなのですが、しかし、主イエス様と父なる神にとりましては、栄光に満ちた神の時なのであります。十字架、復活、そして昇天を経て、主イエス様は天地万物すべてをご支配される権能を与えられます。ここでは、もうそのことが実現したこととして祈ります。「あなたは子にすべての人を支配する権能をゆだねられました。」 そして、そのすべての人、すべてのものの中から、特に選ばれて天の父なる神から主イエス様に委ねられた人々に、主イエス様は、永遠の命を与えることが出来るといいます。そのためには主イエス様の十字架の業が計画通りになされなければなりません。主イエス様はそのことのために祈るのです。「父よ、子に栄光を与えて下さい」 聖書は、主イエス様だけでなく、世に生きる私たちもまた神から栄光をいただくこと、神の栄光を自ら現わして生きることをその目的としていると語ります。詩編の作者が歌ったように、海も山も目に見える自然のすべてでさえ、神様の栄光を現わしているというのであれば、神によって造られた人間こそが、神様の栄光を現わして生きるべきであります。罪から神に立ち返り、私たちもまた、生きてゆく方向を、自分の欲望の充足ではなく、神様に喜んでいただくことに向きかえて神の子となって生きるのです。 5節の終わりには、主イエス様が受ける栄光は、実は、世界が造られる前、つまり天地創造よりも前に主イエス様が持っておられた栄光であるとあります。世界が作られる前に主イエス様は、まだ人としてお生まれにはなっていないのですけれども、霊的なご存在としてはすでにおられたのであります。 このことを神学的な言葉では、御子の先在、先に存在すると呼びます。父なる神と子なる神、そして聖霊の神という三つにして一人の神は、世界が造られる前、永遠から永遠に、存在され、その麗しい愛の交わりを体現しておられたのです。世界が造られ始まる前に、神は世界をおつくりになり、人間をおつくりになることをあらかじめ計画され、そしてそのご計画通りに、大いなる恵みと祝福の内に、この世界と人とをおつくりになりました。そして、その直後に起きたのが人の堕落であります。神に対する人間の反逆、背き、堕落という神の御心に反する人の行いに対して、神は深くお悩みになって、御子イエスを世にお遣わしになり、罪の贖いをなさったのです。人の罪を御子であるイエスが贖うこと、つまり、「一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ」と言われた、そのお言葉通りに、ご自身の命を与えたことが神ご自身の栄光であり、また御子の栄光であります。 3、 3節をお読みします。「3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 わたしたちは、いつも第一主日の礼拝の中で「使徒信条」を唱和告白します。その最後のフレーズは「とこしえの命を信ず。アーメン。」であります。 使徒信条の日本語訳では、永遠の命と書いて、「とこしえ」と振り仮名をつけています。この振り仮名の付け方は、実は、正しい日本語とは言えないものです。広辞苑などの辞書で、「とこしえ」という言葉を引きまして、これを漢字で書くとどうなるかを調べますと、永遠という言葉ではなく、永久と書いて「とこしえ」と呼ぶのが正しいとされています。しかし使徒信条では、とこしえの命と告白します。これは明治大正の文語訳聖書が、通例に反して、永遠と書いて「とこしえ」とルビを振ったのが起源であるようです。ただ今の17章3節は文語訳ではこう訳されます。 「とこしえの命は、唯一のまことの神にいます汝と汝の遣わし給いしイエス・キリストを知るにあり」 ここで永遠という漢字を書いて「トコシエ」と読ませていますので、このような文語訳に準じて訳された使徒信条もまた、永遠と書いて「とこしえ」と読むようにいたしました。永遠という漢字語を大和言葉に訳し変えているだけで、基本の意味は同じです。しかし「遠い」という漢字に「久しい」を表す「とこしえ」というようにルビふったことにより、時間的と空間的という二つの意味が出ています。単に時間的に長い、終わることがないというだけでないのではない。例えて言うと空間に終りも始めもない一本の線があるとするならば、初めと終わりがある有限なものが、この世の世界、目に見える世界です。目に見える人間の命は、有限であって死という区切りによって終わります。しかし、神様にははっきりと見えている本当のいのち、目に見ない命は終わることがないのです。神の世界においては死後の復活があり、新天新地という新しくされた世界で、あがなわれたものは永遠に生きることになります。 しかし、ここで主イエス様が天の父なる神に願っていることは、そういった一種理論的なことではないようです。そうではなく十字架の救いが完成されて、神ご自身の栄光が御子に与えられることです。主イエス様に委ねられるすべての人は、間違いなく永遠の命を持つのであり、そして永遠の命とは神を知り、その神が遣わされたイエス・キリストを知ることだというのです。生きていても、また死んだ後でも、神を知り、御子イエスキリストを知ったものは、すでに永遠の命に生きているのです。 永遠の命という言葉を聞いて、わたしたちが考えることは、終わることない命ということでしょう。そうしますとどうしても死んだあとのこと、天国のことに心が向かってしまいます。しかし、主イエス様が、ここで告白しておられるのは、そうではなくて、生きているときのことです。今の時のことなのです。わたしたちが「永遠の命」をもって、神様の栄光を現わして生きるのか、そうでないかの違いなのです。知るということは、信じるということを含みます。しかし、ここではもっと深いことを言っていると思うのです。神様、あるいはイエス様、わたしは今、やっとあなたを知ることが出来ましたというときの「知る」とは、わかるとか悟る、それがある一線を超えたことを表します。言い換えると、交わりに入るということを表します。知識のことではなく、信仰のことです。人格的なふれあいであり、場合によってはもっと深い交わりです。その時私たちはすでに永遠の命に生きているのです。永遠の命、とこしえの命とは、命の時間的な長さ、量的な言葉ではあません。そうではなく、命の性質、質的な意味で言われる言葉なのです。 4, 17章の6節から8節は、その永遠の命の内容を別の言葉で表したものです。お読みします。 「6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」 永遠の命とは何でしょうか。ここには二つのことが示されています。第一に、6節にあるように、主イエス様のものとなった命です。それは主イエス様の御言葉を守って生きるようになるということです。そして、第二に、主イエス様の言葉を受け入れて生きることです。主イエス様の言葉を信じ、主イエス様を神がお遣わしになった神の子であると知っている、そのような命が永遠の命なのです。 はじめに、この17章全体が大祭司の祈りと呼ばれていることを語りました。旧約の祭司、またその代表である大祭司は、神の民のために執り成しをするという務めを与えられていました。主イエス様の十字架のことをもう一度思い返してみて欲しいと思います。主イエス様が、十字架に架かられたのは、何のためであったのでしょうか。それは、罪のために滅びに向かう命であったわたしたちの命が、永遠の命、神の救いに与った命へと生まれ変わるためでした。それは聖霊の神に心を開かれて、この神の愛を知るということにおいて、つまりただ信じるということにおいて、与えられる神の命です。 この17章の祈りの全体が、「大祭司の祈り」と呼ばれるのは、主イエスご自身が祭司の中の祭司、真の大祭司であって、民の救いを成し遂げてくださったからです。十字架によってわたしたちを救ってくださった主イエス、そのお方の祈りであるので、大祭司の祈りなのであります。今週から、あらためて、この17章の全体を読みますが、読めば読むほどに、わたしたちは、この祈りの中へ巻き込まれてゆくような気がいたします。わたしたちに永遠の命を与える祈りがここに祈られています。わたし達も、主イエスに合わせて、共に祈りたいと思います。祈りを致します。 天地万物をおつくりなり、そのすべてを祝福された恵みの神、主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。あなたは大祭司として、旧約の祭司の務めを完成させ、命を捧げて、十字架にかかってくださいました。わたしたちの罪を贖い、永遠の命を得させるためでした。この世にあて、あなたを知り、神を信じて生きることはなんと幸いなことでしょうか。これこそまさに神の命、永遠の命に生きることです。どうか絶えず、あなたの御言葉に導かれ、従順に、またいつも喜んで日々の歩みをなすことが出来ますよう、導いてください。主イエス様の御名によって祈ります、アーメン。
2023年12月10日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書17章1節~8節「永遠の命とは?」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。今朝の御言葉の初めのところ、17章1節にこう書かれております。1節の前半をもう一度お読みします。「イエスは、これらのことを話してから、天を仰いで言われた。」
元の言葉を直訳しますと、この時の主イエス様の動きというものがさらに分かるような表現になります。「イエスは、これらのことを話された。そして、目を天の方へ上げて言われた」。
これまで、弟子たちの方を見ながら説教してくださった主イエス様でありますが、ここで説教を
終えられて、今度は、そのまなざしを天に向けて、天におられる父なる神様に顔をお向けになり
声を出されたというのであります。地上から、天へ、主イエス様の心と体の向きがここで変化し
ております。
さきほど、元のギリシャ語の直訳を言いましたが、そこでは「主イエス様は天に向かって声を出された」と言いました。つまり「祈られた」とは言いませんでした。新共同訳聖書の小見出しには「イエスの祈り」と書かれていますが、実は、「祈られた」、あるいは「祈ります」という言葉は、ここでは使われていないのですね。
もちろん、「祈る」という言葉が使われていなくとも、主イエス様は、まず「父よ」と語りかけて、この長い言葉をはじめられました。そしてこの17章全体の言葉の中には、「お願いします」「何々してください」という言葉がちりばめられています。ですから、ここは主イエス様の「祈り」であることは間違いありません。しかし、それと同時に、ただ、何々してください、お願いしますというような神様に何かを求める言葉だけではないことも確かです。「時がきました」であるとか、「あなたは何々してくださいました。それは何々だからです」というような神様のお取りはからいをもう一度確認するような言葉などもまた多くあります。
つまり、わたしたちは、この主イエス様の祈りを通して、祈りと云うものが、ただお願いするというのではなく、実は神様との対話であり、交わりであるということをはっきりと知ることが出来るのだと思うのです。感謝があり、ときに嘆きがある、あるいはまた信仰の告白がある、そのすべてが、広い意味での祈りなのであります。そういう意味では、私たちがいつも礼拝の中で捧げている「主の祈り」とは違っております。同じ主イエス様の祈りでありますけれども、主の祈りが、初めの呼びかけと最後の賛美頌栄の言葉に合わせて6つの願い事、何々したまえ、何々させたまえという、祈り願う言葉をその中心としていることとは、ずいぶん違っております。
多くの聖書注解者は、この17章全体を「大祭司の祈り」とよびます。これは、この祈りが、たとえば主の祈りのように、わたしたち自身が祈るように求められている祈りの模範、手本ではなくて、神の御子、神ご自身である主イエス様しか祈ることが出来ない独特無比の祈りであるためであると解説します。
しかし、一方で、わたしたちは、確かにこの祈りは独特無比のものであっても、しかし、この祈りにあるような祈りの豊かさ、つまり神様に向かって、心にあることのすべてを打ち明けて、お話をする、対話をする、つまり、感謝や告白や神の御業の自分なりの解釈を含めて、このような祈りのあり方を教えられるという意味で祈りの模範となるのではないかと思うのであります。
次になぜ、この祈りが「大祭司の祈り」と呼ばれるのかと言いますと、この祈りの内容が、弟子たち、あるいは弟子たちの福音説教によって主イエス様を信じる人々全体に対する執り成しの言葉であるからです。「とりなす」ということは、これまでうまくいっていないある人と、もう一人の別の人との間の関係が正されるよう、うまくゆくように、第三者の立場から働きかけることです。
ここでは主イエス様は、主として弟子たちや教会のために神に祈っておられます。しかしそれに先立って、1節から5節までは、主イエス様ご自身のために祈りが来ています。まずは、とりなす者自身が神様との正しい関係に入らなければなりませんから、これは当然のことです。
このとりなすという働きを旧約時代の祭司、大祭司の働きの中に見て、主イエス様は、その祭司の働きをしているのだと理解するのです。旧約時代、祭司は、朝に夕に、祭壇に入り、ともし火をともして民のために祈りました。さらに、神の民イスラエルのために、神に犠牲の動物を捧げました。動物を屠り、切り刻み、焼き尽くして神に捧げました。その動物の血を祭壇に振り掛けて罪の贖いをしました。この動物は、神の民の罪の赦しのためにささげられる、いわば身代わりでありました。
主イエス様は、ここでは動物を捧げることはしておりません。捧げられるのは、主イエス様ご自身の命、罪のない神の子の聖なる命だからです。それを神に捧げて信じる者のための身代わりに死んでくださるお方が、ここで祈っておられます。主イエス様というお方は、旧約時代の祭司の働きをさらに進めて、それを完成するお方なのです。主イエス様は、聖書の全体が指し示す祭司の中の祭司、祭司の代表、大祭司であるのです。この方の祈りでありますから、「大祭司の祈り」と呼びます。またその祈りの内容が執り成しの祈りであるので、大祭司の祈りと呼ぶのであります。
2、
この17章の全体に及ぶ主イエス様のお祈りは、内容的に、さらに三つの部分に分けることが出来ると思います。第一は、1節から5節で、ここでは主イエス様はご自分がこれから目指される十字架のことについて祈っておられます。「子に栄光を与えて下さい」。「父よ」と呼びかけてこう祈ります。「父よ、あなたの子である、このわたしに栄光を与えて下さい」、1節の終わりと5節の初め、二度繰り返してこう祈ります。
この世の人にとって、栄光を受ける、あるいは栄光に輝くとは、自分自身が大きな成果を上げて人々から称賛されることです。しかし、主イエス様にとりましては、どんな時でも人間の評価が問題なのではなく、神様の評価のことが第一であります。「時が来ました」、この時とは、神の子である主イエス様が、神から委ねられた人々に永遠の命を与える「その時」、すなわち十字架と復活の時がいよいよ来たことを表しています。弟子たちと最後の晩餐を囲み、最初の聖餐式を執り行い、そして、決別の説教をし終えて、今、十字架にお係りになる、いよいよ、その時が来たのです。実際には、次の18章から先で、十字架と復活のことが語られますが、ここでは、まさにその時がすでに来たことを改めて父なる神に確かめているのです。
十字架に架かることは、そこで主イエス様の命がさいなまれ、そして失われてしまうことです。主イエス様の非常に大きな苦難、苦痛がこれから始まります。それは人間的に見ると滅びであり、裁きなのですが、しかし、主イエス様と父なる神にとりましては、栄光に満ちた神の時なのであります。十字架、復活、そして昇天を経て、主イエス様は天地万物すべてをご支配される権能を与えられます。ここでは、もうそのことが実現したこととして祈ります。「あなたは子にすべての人を支配する権能をゆだねられました。」
そして、そのすべての人、すべてのものの中から、特に選ばれて天の父なる神から主イエス様に委ねられた人々に、主イエス様は、永遠の命を与えることが出来るといいます。そのためには主イエス様の十字架の業が計画通りになされなければなりません。主イエス様はそのことのために祈るのです。「父よ、子に栄光を与えて下さい」
聖書は、主イエス様だけでなく、世に生きる私たちもまた神から栄光をいただくこと、神の栄光を自ら現わして生きることをその目的としていると語ります。詩編の作者が歌ったように、海も山も目に見える自然のすべてでさえ、神様の栄光を現わしているというのであれば、神によって造られた人間こそが、神様の栄光を現わして生きるべきであります。罪から神に立ち返り、私たちもまた、生きてゆく方向を、自分の欲望の充足ではなく、神様に喜んでいただくことに向きかえて神の子となって生きるのです。
5節の終わりには、主イエス様が受ける栄光は、実は、世界が造られる前、つまり天地創造よりも前に主イエス様が持っておられた栄光であるとあります。世界が作られる前に主イエス様は、まだ人としてお生まれにはなっていないのですけれども、霊的なご存在としてはすでにおられたのであります。
このことを神学的な言葉では、御子の先在、先に存在すると呼びます。父なる神と子なる神、そして聖霊の神という三つにして一人の神は、世界が造られる前、永遠から永遠に、存在され、その麗しい愛の交わりを体現しておられたのです。世界が造られ始まる前に、神は世界をおつくりになり、人間をおつくりになることをあらかじめ計画され、そしてそのご計画通りに、大いなる恵みと祝福の内に、この世界と人とをおつくりになりました。そして、その直後に起きたのが人の堕落であります。神に対する人間の反逆、背き、堕落という神の御心に反する人の行いに対して、神は深くお悩みになって、御子イエスを世にお遣わしになり、罪の贖いをなさったのです。人の罪を御子であるイエスが贖うこと、つまり、「一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ」と言われた、そのお言葉通りに、ご自身の命を与えたことが神ご自身の栄光であり、また御子の栄光であります。
3、
3節をお読みします。「3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
わたしたちは、いつも第一主日の礼拝の中で「使徒信条」を唱和告白します。その最後のフレーズは「とこしえの命を信ず。アーメン。」であります。
使徒信条の日本語訳では、永遠の命と書いて、「とこしえ」と振り仮名をつけています。この振り仮名の付け方は、実は、正しい日本語とは言えないものです。広辞苑などの辞書で、「とこしえ」という言葉を引きまして、これを漢字で書くとどうなるかを調べますと、永遠という言葉ではなく、永久と書いて「とこしえ」と呼ぶのが正しいとされています。しかし使徒信条では、とこしえの命と告白します。これは明治大正の文語訳聖書が、通例に反して、永遠と書いて「とこしえ」とルビを振ったのが起源であるようです。ただ今の17章3節は文語訳ではこう訳されます。
「とこしえの命は、唯一のまことの神にいます汝と汝の遣わし給いしイエス・キリストを知るにあり」
ここで永遠という漢字を書いて「トコシエ」と読ませていますので、このような文語訳に準じて訳された使徒信条もまた、永遠と書いて「とこしえ」と読むようにいたしました。永遠という漢字語を大和言葉に訳し変えているだけで、基本の意味は同じです。しかし「遠い」という漢字に「久しい」を表す「とこしえ」というようにルビふったことにより、時間的と空間的という二つの意味が出ています。単に時間的に長い、終わることがないというだけでないのではない。例えて言うと空間に終りも始めもない一本の線があるとするならば、初めと終わりがある有限なものが、この世の世界、目に見える世界です。目に見える人間の命は、有限であって死という区切りによって終わります。しかし、神様にははっきりと見えている本当のいのち、目に見ない命は終わることがないのです。神の世界においては死後の復活があり、新天新地という新しくされた世界で、あがなわれたものは永遠に生きることになります。
しかし、ここで主イエス様が天の父なる神に願っていることは、そういった一種理論的なことではないようです。そうではなく十字架の救いが完成されて、神ご自身の栄光が御子に与えられることです。主イエス様に委ねられるすべての人は、間違いなく永遠の命を持つのであり、そして永遠の命とは神を知り、その神が遣わされたイエス・キリストを知ることだというのです。生きていても、また死んだ後でも、神を知り、御子イエスキリストを知ったものは、すでに永遠の命に生きているのです。
永遠の命という言葉を聞いて、わたしたちが考えることは、終わることない命ということでしょう。そうしますとどうしても死んだあとのこと、天国のことに心が向かってしまいます。しかし、主イエス様が、ここで告白しておられるのは、そうではなくて、生きているときのことです。今の時のことなのです。わたしたちが「永遠の命」をもって、神様の栄光を現わして生きるのか、そうでないかの違いなのです。知るということは、信じるということを含みます。しかし、ここではもっと深いことを言っていると思うのです。神様、あるいはイエス様、わたしは今、やっとあなたを知ることが出来ましたというときの「知る」とは、わかるとか悟る、それがある一線を超えたことを表します。言い換えると、交わりに入るということを表します。知識のことではなく、信仰のことです。人格的なふれあいであり、場合によってはもっと深い交わりです。その時私たちはすでに永遠の命に生きているのです。永遠の命、とこしえの命とは、命の時間的な長さ、量的な言葉ではあません。そうではなく、命の性質、質的な意味で言われる言葉なのです。
4,
17章の6節から8節は、その永遠の命の内容を別の言葉で表したものです。お読みします。
「6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」
永遠の命とは何でしょうか。ここには二つのことが示されています。第一に、6節にあるように、主イエス様のものとなった命です。それは主イエス様の御言葉を守って生きるようになるということです。そして、第二に、主イエス様の言葉を受け入れて生きることです。主イエス様の言葉を信じ、主イエス様を神がお遣わしになった神の子であると知っている、そのような命が永遠の命なのです。
はじめに、この17章全体が大祭司の祈りと呼ばれていることを語りました。旧約の祭司、またその代表である大祭司は、神の民のために執り成しをするという務めを与えられていました。主イエス様の十字架のことをもう一度思い返してみて欲しいと思います。主イエス様が、十字架に架かられたのは、何のためであったのでしょうか。それは、罪のために滅びに向かう命であったわたしたちの命が、永遠の命、神の救いに与った命へと生まれ変わるためでした。それは聖霊の神に心を開かれて、この神の愛を知るということにおいて、つまりただ信じるということにおいて、与えられる神の命です。
この17章の祈りの全体が、「大祭司の祈り」と呼ばれるのは、主イエスご自身が祭司の中の祭司、真の大祭司であって、民の救いを成し遂げてくださったからです。十字架によってわたしたちを救ってくださった主イエス、そのお方の祈りであるので、大祭司の祈りなのであります。今週から、あらためて、この17章の全体を読みますが、読めば読むほどに、わたしたちは、この祈りの中へ巻き込まれてゆくような気がいたします。わたしたちに永遠の命を与える祈りがここに祈られています。わたし達も、主イエスに合わせて、共に祈りたいと思います。祈りを致します。
天地万物をおつくりなり、そのすべてを祝福された恵みの神、主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。あなたは大祭司として、旧約の祭司の務めを完成させ、命を捧げて、十字架にかかってくださいました。わたしたちの罪を贖い、永遠の命を得させるためでした。この世にあて、あなたを知り、神を信じて生きることはなんと幸いなことでしょうか。これこそまさに神の命、永遠の命に生きることです。どうか絶えず、あなたの御言葉に導かれ、従順に、またいつも喜んで日々の歩みをなすことが出来ますよう、導いてください。主イエス様の御名によって祈ります、アーメン。