聖書の言葉 ヨハネによる福音書 16章25節~33節 メッセージ 2023年12月3日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書16章25節~33節「勇気を出しなさい」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 今朝のみ言葉は、主イエス様が十字架にお掛かりなる前夜に弟子たちに語ってくださった別れの説教のまさに最後の部分であります。主イエス様の地上における最後の説教の、そのまた最後の部分になります。振り返りますと、すでに主イエス様の説教は13章の半ばから長く続いているのですが、この主イエス様の説教をこのようなまとまった形で書き記したのは4つの福音書の中でヨハネによる福音書だけであります。それだけに貴重なみ言葉であります。 33節、今朝のみ言葉の最後のところですが、こう書かれています。主イエス様は、弟子たちに対して、こう言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 ヨハネによる福音書は、ほかの福音書と違って主イエス様の夜を徹した祈りである「ゲツセマネの祈り」について記していません。いわば説教後の祈りに当たります次の17章を終えて18章に行きますと、直ちにキドロンの谷の向こうにある園に場面が変わってしまいます。そこに、ローマの兵士たちや祭司長やファリサイ派が遣わした下役がやってきて、主イエス様を捕らえて行ってしまうのであります。案内役はイスカリオエテのユダでありました。そして、こののち、主イエス様がおよみがえりになるまで、弟子たちとは、もはや直接お話しをするということはありません。 最後の御言葉の33節をもう一度お読みします。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 こうおっしゃられて、主イエス様は十字架のもとに行かれました。その直前に、「あなた方には世で苦難がある」とおっしゃいました。苦難があるというのは、これから先の弟子たちについてのことです。それは、主イエス様の十字架と復活の後、弟子たちがこの世で福音を伝えてゆく、そういうときのことです。これから先のことを言っております。ですから、「勇気を出しなさい」という励ましもまた、最後の晩餐の今この時だけではなくて、これから先のすべてのことについての主イエス様の励ましであります。 「勇気を出しなさい」と訳されている言葉は、新約聖書の中で7回ほど出てきます。サルレオオー、またはサルセオーと言う言葉ですが、その7回がみなそれぞれ違う言葉に訳されています。それだけ広い意味を持つ言葉です。あるときには、「しっかりする」、あるところでは、「喜ぶ」、あるところでは「安心する」、と訳されています。このヨハネによる福音書16章のところは伝統的に「勇気を出しなさい。」と訳します。文語訳では「雄々しかれ」、新改訳では「勇敢でありなさい」と訳されます。「勇気を出す」といいますと、危険を感じながらも、しかし思い切って何事かをするという感覚です。しかし、元の言葉は、もともとは、「元気である」とか「平安である」、という、もっと落ち着いた感じの意味の言葉のようです。 主イエス様の弟子であるということによって受ける苦難がこの世にはある、確かにあるのです。キリストの弟子たちはこの世から嫌われたり、迫害されたりするのです。しかし、それにも拘わらず、あなた方は勇気を出しなさい、平安でいなさい、元気でいなさい、大丈夫であると思いなさいと励ましてくださるのです。 それはなぜでしょうか。たとえわたしたちに苦難があるとしても、大丈夫と思い、安心していることが出来るのはなぜでしょうか。それは、ここではただ一つのことです。主イエス様はすでに世に勝っている、それだけです。主イエス様を信じ、主イエス様に従うわたしたちは、いつも、主イエス様と一緒にいます。そうであれば、主イエス様と同じように、わたしたちは弱くても、しかし世に勝つことが出来る、その主イエス様が共にいてくださるからであります。だから勇気を出しなさい。安心しなさい。元気でいなさいと言われるのです。 2、 今朝の御言葉の前半は、祈りについての主イエス様の教えです。26節です。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」 私たち主イエス様の名によって祈るということは、実は、すでに15章の16節で言われていたことでした。そこでは主イエス様がこの世から弟子たちを選んだ目的が二つ示されていました。一つは、弟子たちが出かけて行って実を結ぶこと、つまり福音伝道のことであり、もう一つが、主イエスの名によって祈るなら何でも与えられる、そういう身分となるためでありました。 この主イエスの名によって祈る、そのことによって父なる神は祈り願いを聞いてくださる、かなえてくださることが、ここでもう一度教えられています。 「祈る」ということは、教会でなくとも、神社でも、お寺でも、あるいはイスラム教のモスクでもなされていることです。祈りの熱心さということでは、毎朝毎晩お経をあげるお坊さんや、一日に5回礼拝するイスラム教徒たちの方がまさっているのかもしれません。しかし、わたしたちの祈りにだけ特別に存在することがあります。 それは、ここで教えられている「主イエス様の名によって祈る」ということです。わたしたちが、何か、祈りをささげた時、最後に「これを主イエス様のみ名によって祈ります」と言って終えてアーメンという、あるいは一緒に祈るときには、祈った人とは別の人もまた、ここでは声を揃えてアーメンという、これがすべてのキリスト教会の共通の伝統になっているのは、この主イエス様の御言葉があるからであります。 しかし、このことは、弟子たちと主イエス様が地上で共に過ごしていた時には決してなされなかったことです。主イエス様が父なる神に祈られるときと同じように、弟子たちもまた、直接、父なる神に向かってお祈りをしていました。しかし、このあと、主イエス様が十字架におかかりになり、死んでおよみがえりになり、そして聖霊が遣わされたときには、弟子たちは、主イエス様の名によって祈り願うようになったのであります。 このことのもとになった御言葉の一つである26節ですけれども、その後半部と27節には、少し府に落ちない御言葉が続いています。 「わたしがあなた方のために父に願ってあげる、とは言わない。父ご自身が、あなた方を愛しておられるのである」 主イエス様の名によって祈るという時に、わたしたちが、まず心に思い浮かべることは、今は、つまり主イエス様が天に帰って行かれた後ですけれども、天におられる父なる神の右に、主イエス様もまた共に座しておられる、そして、わたしたちの願いをまずは主イエス様が聞いてくださり、次に、それを主イエス様が父なる神様に取り次いでくださるということであろうかと思います。 ちょうど、江戸時代の偉い御殿様に向かって、一般庶民が何かを願う時に、間にお奉行さんがいて、人々は、直接、御殿様に何かを言いうことが許されないものですから、間にいる人に向かって、話をする。すると、その人が御殿様に、このものは、かれこれのことを言っておりますと伝えてくれて、今度は、御殿様がお奉行さんに答えて、お奉行さんから「殿はこう申しておられる」とお沙汰が下される、ということです。しかし、主イエス様と父なる神とわたしたちの関係は決してそういうようなものではないと言われるのであります。 すなわち、主イエス様がわたしたちのためにとりなしていてくださるというのは、わたしたちが神様を信じ、主イエス様を信じた時に、言い換えますと、わたし達に聖霊の神様がお働き下さるときには、もうすでにそのことが起こりはじめる。そういうことです。信仰をいただいたというときには、すでに、わたしたち自身が、主イエス様の名によって生きるものとなっているのであります。だから、わたしたちは、祈りにおいても主イエス様の名によって祈るのだということです。 ガラテヤの信徒への手紙の著者であり主イエス様の使徒、弟子であったパウロという人が、ちょっと驚くようなことですが、パウロ自身と主イエス様との関係についてこのように証言しています。 「いきているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」ガラテヤの信徒への手紙2章20節、有名な言葉です。 主イエス様と弟子であるパウロとは、そこまで一体となっているというのです。実は、このことはパウロ先生にだけ起こっている特別なことでは決してありません。聖霊を受け、主イエス様を信じますと告白し、洗礼を受けた人は、皆が同じように証しすることが出来る現実であります。わたしの内に主イエス様が生きておられる、つまり主イエス様のお送り下さる神の霊、聖霊がわたしたちの心に住んでいてくださるということは、まさにそういうことです。主イエス様がわたしたちと一つになってくださるということは、わたし達においても起こっていることなのです。 ですから、わたしたちの祈りは、すべて主イエス様の名によって祈られます。祈りだけでなく、わたしたちの思いや行いのすべてにおいて、実は主イエス様は、一緒にいてくださいます。けれども特に祈りという出来事においては、何よりも共にいてくださる。そうであるがゆえに、主イエス様の名によってわたしたちが祈る、聖霊に導かれて祈るのです。そのようにして祈る祈りを父なる神は、直接聞きあげてくださるのです。 しかし、このような現実は、どこまでも主イエス様が、わたしたちの罪のために死んでくださった、十字架による罪の赦しと復活による新しい命をいただいた、そのことによってだけ、もたらされたものであります。主イエス様というご存在によって、はじめて、父なる神と親しく交わることが出来るのです。主イエス様を抜きにして、直接に父なる神様と愛の関係を結ぶことが出来るということではなく、罪の赦しと新しい命という主イエス様の御救いいただいてこそ、このようなことが起こるのであります。そのことを覚えながら、わたしたちはいつも主イエス様の名によって祈るのであります。 3、 28節をお読みします。「わたしは父のもとから出てきたが、今、世を去って、父のもとに行く」主イエス様の言葉であります。これを聞きました弟子たちは、今は、譬えを用いた仕方でなく、ずばりご自身が神のもとから来た、そして、世を去ると、はっきりとお話になられたので、わたしたちはそれを信じます、と信仰を告白いたしました。 これまでは、主イエス様は弟子たちに譬えなどを用いて、いわば「なぞがけ」のように語ってこられたことは、主イエス様ご自身が認めておられます。「わたしはこれらのことを譬えを用いて話してきた」と25節にあります。しかし、25節では、譬えに依らずはっきりと話をすることは、今ではなく、これから後に起こることだと言っておられます。「もはや、たとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」これは今の時ではなく将来のとき、のちの時のことです。 またここで弟子たちは、あなたは、はっきりと今、語ってくださったといいまして、「語る」という言葉を用いているのですが、主イエス様の方は、「はっきり知らせる」と表現します。このことは、実は、16章の前半でお語りになりました聖霊のお働きをもう一度ここで確認しているのです。つまり神様について、主イエス様について弟子たちにはっきりと悟らせるのは聖霊によるのです。つまり弟子たちは、ここでは早とちりをしてしまっているのです。その早とちりの中において、弟子たちは、主イエス様に対する信仰を告白したのです。しかし、主イエス様の方は、この弟子たちの信仰について十分であるとは認めておられません。今信仰を告白したばかりのあなた方だが、しかし、あなたがたは、結局はわたしを見捨てると予告なさるのであります。 「だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにするときがくる、いやすでに来ている。」32節の御言葉です。 主イエス様、あなたを信じますと告白した弟子たちであっても、主イエス様ご自身は、わたしはその信仰には期待できない、やがて、あなた方は逃げ出すし、その信仰の内実においては、もうわたしを捨てているも同然であるとおっしゃったのであります。 しかし、ここで主イエス様が、そんな弟子たちに向かって、あなた方は今ようやく信じるようになったのか」と言われたことは重要であります。ようやくここまで来たかとおっしゃって、その信仰が不十分であるということよりも、むしろ不十分であっても、ここまで来たのかと、既に与えられている信仰を認めてくださっているからであります。 わたくしたちが信仰の生活を送っていると言いながら、絶えず思い知らされることは自分自身の信仰の不十分さであり、貧しさであります。これは牧師をしていても同じであります。 わたくしは、1975年に初めてキリスト教会の門をくぐりました。その最初の教会が千里摂理教会でした。その千里摂理教会で25歳から40歳まで信仰生活を送り、東京に転勤になったために、稲毛海岸教会に移り、そこで6年間過ごしました。そして1997年に献身して神学校に入り、2000年から京都府八幡市の男山教会に牧師として赴任しました。実は、つい最近、男山教会の50周年記念誌、と稲毛海岸教会の50周年記念誌が出されることになりまして両方の教会から原稿を頼まれました。この二つの教会で過ごしました信徒あるいは教会役員、また牧師としての歩みについて改めて振り返ってみる機会を与えられたということが出来ます。短い間に、わたくしの入信から、千葉の教会への転入転出、そして献身して神学校にはいり、卒業して牧師となるという、信仰生活の歴史を訪ねる機会を与えられたということです。25歳からの信仰生活を振り返り、わたしの信仰は成長しているのかと問いますと、甚だ、自信がないのであります。それどころか、初めに主イエス様を信じたそのときの初々しい信仰から比べると、成長どころから、むしろ後退しているのではないとさえ思うのであります。信仰の戦いを戦っているのかという主イエス様の御声を心に聞くのです。世との闘いに負けて沈んでしまいそうになっている自分がいるのです。 主イエス様は信仰の不十分な弟子たちを突き放すかのように言われました。「あなたがたは、この世で苦難がある」、しかし、そのあとでこうつけ加えてくださいました。 「しかし。勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 ここであなた方は、この世で苦難があると言われた「苦難」とは、直接には、わたくしたちが病気になったり、お金のことで苦労したりという、この世の人生における苦難のことではありません。信仰をもったら、病気も治る、お金にも不自由しない、すべてに成功するという仕方で苦難を克服する、だから勇気を出しなさいということではないのです。むしろ、そのようないろいろの出来事、失敗にも成功にも向き合う時のわたしたちの心の持ち方において信仰の戦いがあるのです。神様への信頼の中ですべてを捕らえることが出来るかどうかという問題であります。もちろん、この時の弟子たちにとっては、直接的には、信仰のゆえに受ける苦難のことを指して言っていると言うべきでしょう。その苦難に際しても、主イエス様は、すでに世に打ち勝っておられるということが大切なのであります。この勝利のイエス様と、わたしたちは結ばれている、一体となっている、だからこそ、勇気を出しなさい、平安でありなさい、元気でいなさい、平安があるようにと、主イエス様はわたし達を励ましてくださっているのです。 あなた方の信仰が不十分であり、未熟であり、あるいはまた、最初の感激や昂揚感を失ってしまっているとしても、決してあなたを捨てることはないと言われるのです。勇気や平安は、わたしたちの内側から出るものではなく、むしろ、わたしたちの外から来るのです。恵みは、神様の憐みによって与えられます。私たちが十分に信仰深いからではなく、むしろそうでないからこそ、主イエス様の恵みが注がれます。主イエスと共にいるわたしたちを父なる神ご自身が、愛してくださるからです。わたしはすでに世に勝っている、こう言われる主イエス様を仰ぎ見て歩もうではありませんか。祈りを致します。 祈り 天にいます父なる神様、あなたから命を頂き救いの恵みの中に入れて頂きましたわたしたちは、まったく不十分なものであり、今もってあなたの恵みなくしては生きられないものです。勇気をもって世と戦うことのできないものであります。そのようなわたしたちに、わたしはすでに世に勝っている、勇気を出しなさい、安心しなさいとあなたは励ましてくださることを感謝します。この世的な勝利、目に見える成功よりさらに深い霊的な勝利をくださる恵みをありがとうございます。この週もまた勝利の主、生けておられる救い主イエス様が共にいて導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2023年12月3日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書16章25節~33節「勇気を出しなさい」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
今朝のみ言葉は、主イエス様が十字架にお掛かりなる前夜に弟子たちに語ってくださった別れの説教のまさに最後の部分であります。主イエス様の地上における最後の説教の、そのまた最後の部分になります。振り返りますと、すでに主イエス様の説教は13章の半ばから長く続いているのですが、この主イエス様の説教をこのようなまとまった形で書き記したのは4つの福音書の中でヨハネによる福音書だけであります。それだけに貴重なみ言葉であります。
33節、今朝のみ言葉の最後のところですが、こう書かれています。主イエス様は、弟子たちに対して、こう言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」
ヨハネによる福音書は、ほかの福音書と違って主イエス様の夜を徹した祈りである「ゲツセマネの祈り」について記していません。いわば説教後の祈りに当たります次の17章を終えて18章に行きますと、直ちにキドロンの谷の向こうにある園に場面が変わってしまいます。そこに、ローマの兵士たちや祭司長やファリサイ派が遣わした下役がやってきて、主イエス様を捕らえて行ってしまうのであります。案内役はイスカリオエテのユダでありました。そして、こののち、主イエス様がおよみがえりになるまで、弟子たちとは、もはや直接お話しをするということはありません。
最後の御言葉の33節をもう一度お読みします。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」
こうおっしゃられて、主イエス様は十字架のもとに行かれました。その直前に、「あなた方には世で苦難がある」とおっしゃいました。苦難があるというのは、これから先の弟子たちについてのことです。それは、主イエス様の十字架と復活の後、弟子たちがこの世で福音を伝えてゆく、そういうときのことです。これから先のことを言っております。ですから、「勇気を出しなさい」という励ましもまた、最後の晩餐の今この時だけではなくて、これから先のすべてのことについての主イエス様の励ましであります。
「勇気を出しなさい」と訳されている言葉は、新約聖書の中で7回ほど出てきます。サルレオオー、またはサルセオーと言う言葉ですが、その7回がみなそれぞれ違う言葉に訳されています。それだけ広い意味を持つ言葉です。あるときには、「しっかりする」、あるところでは、「喜ぶ」、あるところでは「安心する」、と訳されています。このヨハネによる福音書16章のところは伝統的に「勇気を出しなさい。」と訳します。文語訳では「雄々しかれ」、新改訳では「勇敢でありなさい」と訳されます。「勇気を出す」といいますと、危険を感じながらも、しかし思い切って何事かをするという感覚です。しかし、元の言葉は、もともとは、「元気である」とか「平安である」、という、もっと落ち着いた感じの意味の言葉のようです。
主イエス様の弟子であるということによって受ける苦難がこの世にはある、確かにあるのです。キリストの弟子たちはこの世から嫌われたり、迫害されたりするのです。しかし、それにも拘わらず、あなた方は勇気を出しなさい、平安でいなさい、元気でいなさい、大丈夫であると思いなさいと励ましてくださるのです。
それはなぜでしょうか。たとえわたしたちに苦難があるとしても、大丈夫と思い、安心していることが出来るのはなぜでしょうか。それは、ここではただ一つのことです。主イエス様はすでに世に勝っている、それだけです。主イエス様を信じ、主イエス様に従うわたしたちは、いつも、主イエス様と一緒にいます。そうであれば、主イエス様と同じように、わたしたちは弱くても、しかし世に勝つことが出来る、その主イエス様が共にいてくださるからであります。だから勇気を出しなさい。安心しなさい。元気でいなさいと言われるのです。
2、
今朝の御言葉の前半は、祈りについての主イエス様の教えです。26節です。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」
私たち主イエス様の名によって祈るということは、実は、すでに15章の16節で言われていたことでした。そこでは主イエス様がこの世から弟子たちを選んだ目的が二つ示されていました。一つは、弟子たちが出かけて行って実を結ぶこと、つまり福音伝道のことであり、もう一つが、主イエスの名によって祈るなら何でも与えられる、そういう身分となるためでありました。
この主イエスの名によって祈る、そのことによって父なる神は祈り願いを聞いてくださる、かなえてくださることが、ここでもう一度教えられています。
「祈る」ということは、教会でなくとも、神社でも、お寺でも、あるいはイスラム教のモスクでもなされていることです。祈りの熱心さということでは、毎朝毎晩お経をあげるお坊さんや、一日に5回礼拝するイスラム教徒たちの方がまさっているのかもしれません。しかし、わたしたちの祈りにだけ特別に存在することがあります。
それは、ここで教えられている「主イエス様の名によって祈る」ということです。わたしたちが、何か、祈りをささげた時、最後に「これを主イエス様のみ名によって祈ります」と言って終えてアーメンという、あるいは一緒に祈るときには、祈った人とは別の人もまた、ここでは声を揃えてアーメンという、これがすべてのキリスト教会の共通の伝統になっているのは、この主イエス様の御言葉があるからであります。
しかし、このことは、弟子たちと主イエス様が地上で共に過ごしていた時には決してなされなかったことです。主イエス様が父なる神に祈られるときと同じように、弟子たちもまた、直接、父なる神に向かってお祈りをしていました。しかし、このあと、主イエス様が十字架におかかりになり、死んでおよみがえりになり、そして聖霊が遣わされたときには、弟子たちは、主イエス様の名によって祈り願うようになったのであります。
このことのもとになった御言葉の一つである26節ですけれども、その後半部と27節には、少し府に落ちない御言葉が続いています。
「わたしがあなた方のために父に願ってあげる、とは言わない。父ご自身が、あなた方を愛しておられるのである」
主イエス様の名によって祈るという時に、わたしたちが、まず心に思い浮かべることは、今は、つまり主イエス様が天に帰って行かれた後ですけれども、天におられる父なる神の右に、主イエス様もまた共に座しておられる、そして、わたしたちの願いをまずは主イエス様が聞いてくださり、次に、それを主イエス様が父なる神様に取り次いでくださるということであろうかと思います。
ちょうど、江戸時代の偉い御殿様に向かって、一般庶民が何かを願う時に、間にお奉行さんがいて、人々は、直接、御殿様に何かを言いうことが許されないものですから、間にいる人に向かって、話をする。すると、その人が御殿様に、このものは、かれこれのことを言っておりますと伝えてくれて、今度は、御殿様がお奉行さんに答えて、お奉行さんから「殿はこう申しておられる」とお沙汰が下される、ということです。しかし、主イエス様と父なる神とわたしたちの関係は決してそういうようなものではないと言われるのであります。
すなわち、主イエス様がわたしたちのためにとりなしていてくださるというのは、わたしたちが神様を信じ、主イエス様を信じた時に、言い換えますと、わたし達に聖霊の神様がお働き下さるときには、もうすでにそのことが起こりはじめる。そういうことです。信仰をいただいたというときには、すでに、わたしたち自身が、主イエス様の名によって生きるものとなっているのであります。だから、わたしたちは、祈りにおいても主イエス様の名によって祈るのだということです。
ガラテヤの信徒への手紙の著者であり主イエス様の使徒、弟子であったパウロという人が、ちょっと驚くようなことですが、パウロ自身と主イエス様との関係についてこのように証言しています。
「いきているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」ガラテヤの信徒への手紙2章20節、有名な言葉です。
主イエス様と弟子であるパウロとは、そこまで一体となっているというのです。実は、このことはパウロ先生にだけ起こっている特別なことでは決してありません。聖霊を受け、主イエス様を信じますと告白し、洗礼を受けた人は、皆が同じように証しすることが出来る現実であります。わたしの内に主イエス様が生きておられる、つまり主イエス様のお送り下さる神の霊、聖霊がわたしたちの心に住んでいてくださるということは、まさにそういうことです。主イエス様がわたしたちと一つになってくださるということは、わたし達においても起こっていることなのです。
ですから、わたしたちの祈りは、すべて主イエス様の名によって祈られます。祈りだけでなく、わたしたちの思いや行いのすべてにおいて、実は主イエス様は、一緒にいてくださいます。けれども特に祈りという出来事においては、何よりも共にいてくださる。そうであるがゆえに、主イエス様の名によってわたしたちが祈る、聖霊に導かれて祈るのです。そのようにして祈る祈りを父なる神は、直接聞きあげてくださるのです。
しかし、このような現実は、どこまでも主イエス様が、わたしたちの罪のために死んでくださった、十字架による罪の赦しと復活による新しい命をいただいた、そのことによってだけ、もたらされたものであります。主イエス様というご存在によって、はじめて、父なる神と親しく交わることが出来るのです。主イエス様を抜きにして、直接に父なる神様と愛の関係を結ぶことが出来るということではなく、罪の赦しと新しい命という主イエス様の御救いいただいてこそ、このようなことが起こるのであります。そのことを覚えながら、わたしたちはいつも主イエス様の名によって祈るのであります。
3、
28節をお読みします。「わたしは父のもとから出てきたが、今、世を去って、父のもとに行く」主イエス様の言葉であります。これを聞きました弟子たちは、今は、譬えを用いた仕方でなく、ずばりご自身が神のもとから来た、そして、世を去ると、はっきりとお話になられたので、わたしたちはそれを信じます、と信仰を告白いたしました。
これまでは、主イエス様は弟子たちに譬えなどを用いて、いわば「なぞがけ」のように語ってこられたことは、主イエス様ご自身が認めておられます。「わたしはこれらのことを譬えを用いて話してきた」と25節にあります。しかし、25節では、譬えに依らずはっきりと話をすることは、今ではなく、これから後に起こることだと言っておられます。「もはや、たとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」これは今の時ではなく将来のとき、のちの時のことです。
またここで弟子たちは、あなたは、はっきりと今、語ってくださったといいまして、「語る」という言葉を用いているのですが、主イエス様の方は、「はっきり知らせる」と表現します。このことは、実は、16章の前半でお語りになりました聖霊のお働きをもう一度ここで確認しているのです。つまり神様について、主イエス様について弟子たちにはっきりと悟らせるのは聖霊によるのです。つまり弟子たちは、ここでは早とちりをしてしまっているのです。その早とちりの中において、弟子たちは、主イエス様に対する信仰を告白したのです。しかし、主イエス様の方は、この弟子たちの信仰について十分であるとは認めておられません。今信仰を告白したばかりのあなた方だが、しかし、あなたがたは、結局はわたしを見捨てると予告なさるのであります。
「だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにするときがくる、いやすでに来ている。」32節の御言葉です。
主イエス様、あなたを信じますと告白した弟子たちであっても、主イエス様ご自身は、わたしはその信仰には期待できない、やがて、あなた方は逃げ出すし、その信仰の内実においては、もうわたしを捨てているも同然であるとおっしゃったのであります。
しかし、ここで主イエス様が、そんな弟子たちに向かって、あなた方は今ようやく信じるようになったのか」と言われたことは重要であります。ようやくここまで来たかとおっしゃって、その信仰が不十分であるということよりも、むしろ不十分であっても、ここまで来たのかと、既に与えられている信仰を認めてくださっているからであります。
わたくしたちが信仰の生活を送っていると言いながら、絶えず思い知らされることは自分自身の信仰の不十分さであり、貧しさであります。これは牧師をしていても同じであります。
わたくしは、1975年に初めてキリスト教会の門をくぐりました。その最初の教会が千里摂理教会でした。その千里摂理教会で25歳から40歳まで信仰生活を送り、東京に転勤になったために、稲毛海岸教会に移り、そこで6年間過ごしました。そして1997年に献身して神学校に入り、2000年から京都府八幡市の男山教会に牧師として赴任しました。実は、つい最近、男山教会の50周年記念誌、と稲毛海岸教会の50周年記念誌が出されることになりまして両方の教会から原稿を頼まれました。この二つの教会で過ごしました信徒あるいは教会役員、また牧師としての歩みについて改めて振り返ってみる機会を与えられたということが出来ます。短い間に、わたくしの入信から、千葉の教会への転入転出、そして献身して神学校にはいり、卒業して牧師となるという、信仰生活の歴史を訪ねる機会を与えられたということです。25歳からの信仰生活を振り返り、わたしの信仰は成長しているのかと問いますと、甚だ、自信がないのであります。それどころか、初めに主イエス様を信じたそのときの初々しい信仰から比べると、成長どころから、むしろ後退しているのではないとさえ思うのであります。信仰の戦いを戦っているのかという主イエス様の御声を心に聞くのです。世との闘いに負けて沈んでしまいそうになっている自分がいるのです。
主イエス様は信仰の不十分な弟子たちを突き放すかのように言われました。「あなたがたは、この世で苦難がある」、しかし、そのあとでこうつけ加えてくださいました。
「しかし。勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」
ここであなた方は、この世で苦難があると言われた「苦難」とは、直接には、わたくしたちが病気になったり、お金のことで苦労したりという、この世の人生における苦難のことではありません。信仰をもったら、病気も治る、お金にも不自由しない、すべてに成功するという仕方で苦難を克服する、だから勇気を出しなさいということではないのです。むしろ、そのようないろいろの出来事、失敗にも成功にも向き合う時のわたしたちの心の持ち方において信仰の戦いがあるのです。神様への信頼の中ですべてを捕らえることが出来るかどうかという問題であります。もちろん、この時の弟子たちにとっては、直接的には、信仰のゆえに受ける苦難のことを指して言っていると言うべきでしょう。その苦難に際しても、主イエス様は、すでに世に打ち勝っておられるということが大切なのであります。この勝利のイエス様と、わたしたちは結ばれている、一体となっている、だからこそ、勇気を出しなさい、平安でありなさい、元気でいなさい、平安があるようにと、主イエス様はわたし達を励ましてくださっているのです。
あなた方の信仰が不十分であり、未熟であり、あるいはまた、最初の感激や昂揚感を失ってしまっているとしても、決してあなたを捨てることはないと言われるのです。勇気や平安は、わたしたちの内側から出るものではなく、むしろ、わたしたちの外から来るのです。恵みは、神様の憐みによって与えられます。私たちが十分に信仰深いからではなく、むしろそうでないからこそ、主イエス様の恵みが注がれます。主イエスと共にいるわたしたちを父なる神ご自身が、愛してくださるからです。わたしはすでに世に勝っている、こう言われる主イエス様を仰ぎ見て歩もうではありませんか。祈りを致します。
祈り
天にいます父なる神様、あなたから命を頂き救いの恵みの中に入れて頂きましたわたしたちは、まったく不十分なものであり、今もってあなたの恵みなくしては生きられないものです。勇気をもって世と戦うことのできないものであります。そのようなわたしたちに、わたしはすでに世に勝っている、勇気を出しなさい、安心しなさいとあなたは励ましてくださることを感謝します。この世的な勝利、目に見える成功よりさらに深い霊的な勝利をくださる恵みをありがとうございます。この週もまた勝利の主、生けておられる救い主イエス様が共にいて導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。