聖書の言葉 ヨハネによる福音書 15章12節~18節 メッセージ 2023年11月5(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書15章11節~17節「主イエスが友に」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 ただ今、ご一緒にお聞きしました御言葉の16節の始めにこのようにあります。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」。主イエス様が、最後の晩餐の後で弟子たちに向けてお語りになった別れの言葉、告別説教とも呼びますけれども、その中で語られた御言葉であります。 この御言葉を聞きますと一つ思い出すことがあります。もう、30年以上前のことですけれども、ある教会の牧師就職式がありました。当時、わたくしは若いながらもその教会の長老をしておりました。中会から派遣されました就職式の特命委員のお一人は、当時の堺みくに教会の津崎幸之助長老でありました。当時は、大阪船場で会社の社長さんとして商いをなさっておられ、また長年にわたって西部中会の財務委員をなさっておられた名物長老でした。津崎長老は、新しい牧師を迎える教会員に対する勧め、勧告の中で、このヨハネ15章16節の御言葉を引用されたのであります。 「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」 そのとき津崎長老は、「ちょっとつながりが違うのかもしれないけれども」と前置きなさいまして、あなたがた教会員が牧師を選んだのでは決してない、神様がそのように導いてくださったのだ、イエス様が、この牧師を選んでくださったのだということを忘れないようにしてほしいと勧告して下さいました。 確かに、このヨハネ15章16節の御言葉は、主イエス様がその弟子を選んでくださったと言う御言葉であり、人が信仰をいただく際の神様の恵み、神様の側の主導権について語る御言葉であります。従って、牧師就職式での勧告の趣旨とは少し筋が違うと言えば違います。けれども津崎長老にしてみますと、神様の主導権、神の主権の中ですべてのことがなされているという信仰があるのですね。とりわけ、主イエス様は、ご自身の教会を愛し、愛しぬいておられるがゆえに、確かな主導権をもって教会と教会員とを導いてくださる、その中で新しい牧師が与えられたのだということをおっしゃりたかったのであります。 このことは今一生懸命に次期牧師の招聘活動をしているわたしたちに熊本教会において当てはまることだと思います。主が主導権を持って導いてくださる中でふさわしい方が与えられる、この信仰をもって伝道所が歩みを続けて行くことが出来るよう祈っています。 2 さて今朝の説教題を「主イエスが友に」といたしました。16節の前にある15節をお読みします。「もはやわたしはあなたがたのことを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。ここで御言葉を聞いている弟子たちはわたしたちの代表ですから、主イエス様は、わたしたちのことを友と呼ばれるということです。つまり主イエス様とわたしたちの関係は、僕ではなく友であるということです。 これから幼稚園に入る幼い子供たちに「たくさんお友達ができるといいね」といって送り出すことがあります。大きくなって、いっときの遊びや趣味、また学びに付き合ってくれる友はいても、果たして本当の友、親友と言うべき人が自分にいるかと問うことがあります。本当の友達が欲しいとわたしたちは願います。けれども、それは果たせぬ夢なのかも知れないと思ったりいたします。 実は、ここで主イエス様が、わたしたちのことを友と呼んでくださるという、そのことと、13節に思いがけなく出てきます主イエス様の御言葉とは深くつながっていることを理解しなければならないと思います。13節で、主イエス様はこう言っておられます。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。ここでは主イエス様は愛について語っておられます。わたしたちは、この世界に真実の愛というものが本当にあるのかという疑問を持ちます。とりわけ自分が愛の行為をしているか、愛に生きているかと問うときにそのことを覚えます。けれども、ここで主イエス様は、愛について「大きな愛」と「小さな愛」ということを考えておられることが分かります。 確かに完全な愛、真実の愛ということを人は持ち得るのかという疑問は正しい疑問だと思います。それだからと言って、この世界に愛などというものはないと絶望する必要もない。不完全な愛、結果として願っていることをなし得ないような愛でも、それは十分に愛と言うことが出来ます。わたしたちは希望を持って良いのです。愛において、大きい小さいという評価をすることが出来るというのです。そして、主イエス様はここでは「友」ということと「愛」ということを結びつけておられます。真実の友が欲しいと願うけれども果たせないわたしたちの悲しみは、真実の愛を見いだせないという悲しみと重なってくるのです。 「これ以上に大きな愛はない」と訳されています元の言葉を見ますと、「これより大きな愛は誰も持っていない」という言葉が初めにありまして、その後に「その人が友のために自分の命を捨てること」と続きます。 新改訳聖書は、13節をこう訳します。「人が自分の友のために命を捨てること、これより大きな愛は誰も持っていません。」カトリックのフランシスコ会聖書もまた同様の訳を記します。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛を人は持ちえない」。自分の名誉のためや、苦しみからの解放、あるいは家族を守るために死ぬ人はいるかも知れません。そうではなくて、直接利害関係のない人、友のために命を捨てる人は誰もいないというのです。愛について言えば、愛において大きい、小さいという評価をすることが出来る。けれども、やはり誰もなすことが出来ない愛、真実の愛というものがある。けれどもこの世界において、人は真実の愛を実践する真実の友には誰もなることが出来ないのです。 この御言葉を語られた主イエス様は、今どこで語っておられるのでしょうか。最後の晩餐の席におられます。この夜、主イエス様は弟子たちと最後の晩餐を終えられ、翌日に十字架にお架かりになります。その場面で主イエス様は、わたしたちのことを友と呼んでくださいます。それはこの世界には通常はありえないような友なのです。主イエス様は、本来は神様の前に罪を犯して救いを得られないわたしたちのために罪の償いをして下さる、命を捨てて下さる、そういう意味でわたしたちの本当の友、この世界で唯一無二の「友」となられるのです。 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」この主イエス様の言葉には考えられないような重さがあります。主イエス様は、わたしたちにとって、この世の誰もなることのできない真実の友、本当の意味での友であられます。 3、 16節と17節は、ヨハネによる福音書における主イエス様の決別説教の中心聖句の一つであります。「あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」 ここには、第一に示されていることは神の選びと言いうことであります。わたしたちが神を選んだのではなく神がわたしたちを選んでくださいました。そして第二は、その選びの目的です。言い換えるとそれはわたしたちにとっては与えられた使命ですけれども、選びの目的が示さます。そして、第三に選ばれたものにとっての祈りの恵みの大きさという三つのことが、重なり合って示されています。 「あなたがた出かけて行って実を結び、その実が残るようにと・・、あなた方を任命したのである。」 選ばれたものは、使命を与えられ出かけて行く、そして実を結ぶのだと主イエス様はおっしゃいました。これこそが、わたし達を選んでくださった主イエス様がわたしたちに望んでおられること、願っておられることです。 教会は、主イエス様の主導権によって、恵みによって、この世から選び出されました。主イエス様のもとに引き寄せられたのです。そのように選ばれたものは、今度はその向きを変えて、主イエス様のところから、外へ、この世へと出かけて行きます。礼拝の最後に、牧師がすることは、皆様に祝福と派遣の言葉をかけるということです。わたしたちは、この礼拝から、再びこの世へと、与えられた働きへと遣わされてゆくのです。 主イエス様が「実を結ぶ」と言われたことは、この前の段落に関係することです。つまり、主イエス様がぶどうの木であること、弟子たちはぶどうの枝であって、ぶどうの枝は実を結ぶことを求められるということです。 ぶどうの木にとって、実を結ぶということは、どういうことでしょうか。これまでは実はなかったのですけれども、それが実をならせるのです。見えなかったものが見えるようになる、目に見える形で主イエス様が望んでおられる事柄が実現することです。主イエス様のぶどうの木につながる枝に例えられているのは、信じるものの生活であり、教会の働きそのものです。 実を結ぶとは、第一に、信じるものの生活において主が願っておられる姿になるということです。言い換えますと、悔い改めの実を結ぶことであり、愛の働きに生きることです。ガラテヤの信徒への手紙5章には御霊の実、聖霊によって結ぶ実りのことが記されています。それによりますと、御霊の実は第一に愛であり、そこから生まれる「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である」と教えられます。それは肉の業、つまり救われていない罪の自分がなすわざと正反対のことです。それらはわたしたちの人生に大きな幸いをもたらします。 実を結ぶということの第二は、伝道の実りを得ることです。つまり、教会が、主イエス様を信じるものを生み出すことです。教会が、教会の外の世界の人々に福音を宣べ伝え、その結果として信じるものが新しく起こされます。それらは、先に信じた者たちの喜びの生活とさまざまな奉仕の結果として与えられます。信仰者一人一人の生活に恵みがあふれ、わたしたちが喜びに満ちているということが重要です。主イエス様の与える水を飲むものは、その腹から川のように生きた水が流れ出るのです。そのような喜びの姿がないならば、教会がどんなに伝道に励んでも実りを得ることは難しいのです。神様を信じ、主イエス様を信じたら、あのように力が与えられ、試練や困難に遭遇しても忍耐することが出来、また、心に平安と感謝が満ち溢れる、人々がそのように思う、そういった姿そのものが直ちに伝道の実りへとつながります。 伝道のことを言います時に大切なことは、実りそのものは人間によるのではなく、神によるということです。信仰は、主イエス様の主導権によって与えられるのであり、神の選びによることです。教会は、その実を収穫する働き人なのです。しかし、その神の働きは、先に信じた人の業を通してなされてゆきます。信仰を与えるのは主イエス様と聖霊です。けれども、誰かが宣べ伝えなければ、あるいは誰かがその人を主イエス様のところに招待する、連れてこなければ、福音伝道の実りを得ることはできないと思います。 教会は、内輪だけの美しい交わりを楽しむだけでは伝道の実を実らせることはできません。わたしたちは、教会の外の人々に関心を持ち、出かけてゆきたいと思うのです。 4、 主イエス様が、わたしたちを選んでご自身の友とし、また弟子としてくださった結果、起こることが16節の最後の部分に示されています。それは、わたしたちは父なる神に祈り願うならば、何でも与えられるということです。 ここには、祈りについての二つの条件があります。それは第一に「わたしの名によって」つまり、主イエス様の名によって祈るということです。「名」はそん名で示されるものの本体、本質を表しています。主イエス様の名によって祈ることは、主イエス様によって救われ、罪の赦しを受け、清くされ、主イエス様と一つになった、その姿で祈ることです。それ以外の祈りは決して聞きあげられるということはありません。第二に、主イエス様の父、天の父に向かって祈るということです。他のものに向かって祈るのではありません。生きておられる真の神様に向かって祈るということです。そのようにして祈る、父なる神がその祈りを必ず聞きあげて下さり、どんなことでも願いどおりに与えられるというのです。 これは主イエスの選びによって神の子とされたものの特権です。 初代教会の指導者であったパウロという人は、テサロニケの信徒への手紙1、5章15節にこう書きました。わたしたちの今年度の目標聖句です。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません」 「絶えず祈る」とは、継続的に祈る、祈ることを決してやめない、祈り続けるということを意味しています。祈りの習慣をつけることです。朝祈り、食事の前に祈り、夜祈ることです。水曜日の午前と夜にわたしたちは祈祷会を持っています。そのほか、毎朝の礼拝、早天祈祷会を月曜日から金曜日まで続けて行います。すべてこれらは、わたしたちの祈りの生活の訓練であり、また祈りの生活そのものと言って良いと思います。多くの方がご一緒に参加して下さることを願っています。 教会が祈ることをやめたなら、それは教会ではなくなります。信仰の生活はなくなります。実を実らせることもまた難しくなります。反対にわたしたちが、熱心に祈るなら、ぶどうの木に実る、そのぶどうの実は、わたしたちの思いを越えて豊かなものとなるのです。 主イエス様は、わたしたちを全く自由な御心の中で選び、弟子とし、また友としてくださいました。それは、わたしたちが出かけて行って、実を結ぶためであり、またわたしたちが主イエス様の名によって祈ることを必ず叶えて下さるということのためでありました。 主イエス様はこう言われます。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」。そしてこう言われました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」 わたしたちには、わたくしたちをその働きへと召し出された神の選びの中で果たす使命があります。そして同じく神によって選ばれた人々のために、教会の働きを致します。一つでも多くの実が、この地で実るように、また主によって願う願いを叶えていただくということのために、主イエス様の恵みを信じ、喜んで主イエス様にお仕えしてゆきたいと決心しています。友となってくださる主イエス様と共に働きをしてゆこうではありませんか。祈ります。 天におられる救い主、主イエスキリストの父なる神。御名を崇めます。11月に入りました。クリスマスの準備を進めています。わたしたちのために完全な愛を現わして下さり、真実の友となってくださった主イエス様と共に働きをすることが出来ますように、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年11月5(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書15章11節~17節「主イエスが友に」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
ただ今、ご一緒にお聞きしました御言葉の16節の始めにこのようにあります。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」。主イエス様が、最後の晩餐の後で弟子たちに向けてお語りになった別れの言葉、告別説教とも呼びますけれども、その中で語られた御言葉であります。
この御言葉を聞きますと一つ思い出すことがあります。もう、30年以上前のことですけれども、ある教会の牧師就職式がありました。当時、わたくしは若いながらもその教会の長老をしておりました。中会から派遣されました就職式の特命委員のお一人は、当時の堺みくに教会の津崎幸之助長老でありました。当時は、大阪船場で会社の社長さんとして商いをなさっておられ、また長年にわたって西部中会の財務委員をなさっておられた名物長老でした。津崎長老は、新しい牧師を迎える教会員に対する勧め、勧告の中で、このヨハネ15章16節の御言葉を引用されたのであります。
「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」
そのとき津崎長老は、「ちょっとつながりが違うのかもしれないけれども」と前置きなさいまして、あなたがた教会員が牧師を選んだのでは決してない、神様がそのように導いてくださったのだ、イエス様が、この牧師を選んでくださったのだということを忘れないようにしてほしいと勧告して下さいました。
確かに、このヨハネ15章16節の御言葉は、主イエス様がその弟子を選んでくださったと言う御言葉であり、人が信仰をいただく際の神様の恵み、神様の側の主導権について語る御言葉であります。従って、牧師就職式での勧告の趣旨とは少し筋が違うと言えば違います。けれども津崎長老にしてみますと、神様の主導権、神の主権の中ですべてのことがなされているという信仰があるのですね。とりわけ、主イエス様は、ご自身の教会を愛し、愛しぬいておられるがゆえに、確かな主導権をもって教会と教会員とを導いてくださる、その中で新しい牧師が与えられたのだということをおっしゃりたかったのであります。
このことは今一生懸命に次期牧師の招聘活動をしているわたしたちに熊本教会において当てはまることだと思います。主が主導権を持って導いてくださる中でふさわしい方が与えられる、この信仰をもって伝道所が歩みを続けて行くことが出来るよう祈っています。
2
さて今朝の説教題を「主イエスが友に」といたしました。16節の前にある15節をお読みします。「もはやわたしはあなたがたのことを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。ここで御言葉を聞いている弟子たちはわたしたちの代表ですから、主イエス様は、わたしたちのことを友と呼ばれるということです。つまり主イエス様とわたしたちの関係は、僕ではなく友であるということです。
これから幼稚園に入る幼い子供たちに「たくさんお友達ができるといいね」といって送り出すことがあります。大きくなって、いっときの遊びや趣味、また学びに付き合ってくれる友はいても、果たして本当の友、親友と言うべき人が自分にいるかと問うことがあります。本当の友達が欲しいとわたしたちは願います。けれども、それは果たせぬ夢なのかも知れないと思ったりいたします。
実は、ここで主イエス様が、わたしたちのことを友と呼んでくださるという、そのことと、13節に思いがけなく出てきます主イエス様の御言葉とは深くつながっていることを理解しなければならないと思います。13節で、主イエス様はこう言っておられます。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。ここでは主イエス様は愛について語っておられます。わたしたちは、この世界に真実の愛というものが本当にあるのかという疑問を持ちます。とりわけ自分が愛の行為をしているか、愛に生きているかと問うときにそのことを覚えます。けれども、ここで主イエス様は、愛について「大きな愛」と「小さな愛」ということを考えておられることが分かります。
確かに完全な愛、真実の愛ということを人は持ち得るのかという疑問は正しい疑問だと思います。それだからと言って、この世界に愛などというものはないと絶望する必要もない。不完全な愛、結果として願っていることをなし得ないような愛でも、それは十分に愛と言うことが出来ます。わたしたちは希望を持って良いのです。愛において、大きい小さいという評価をすることが出来るというのです。そして、主イエス様はここでは「友」ということと「愛」ということを結びつけておられます。真実の友が欲しいと願うけれども果たせないわたしたちの悲しみは、真実の愛を見いだせないという悲しみと重なってくるのです。
「これ以上に大きな愛はない」と訳されています元の言葉を見ますと、「これより大きな愛は誰も持っていない」という言葉が初めにありまして、その後に「その人が友のために自分の命を捨てること」と続きます。
新改訳聖書は、13節をこう訳します。「人が自分の友のために命を捨てること、これより大きな愛は誰も持っていません。」カトリックのフランシスコ会聖書もまた同様の訳を記します。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛を人は持ちえない」。自分の名誉のためや、苦しみからの解放、あるいは家族を守るために死ぬ人はいるかも知れません。そうではなくて、直接利害関係のない人、友のために命を捨てる人は誰もいないというのです。愛について言えば、愛において大きい、小さいという評価をすることが出来る。けれども、やはり誰もなすことが出来ない愛、真実の愛というものがある。けれどもこの世界において、人は真実の愛を実践する真実の友には誰もなることが出来ないのです。
この御言葉を語られた主イエス様は、今どこで語っておられるのでしょうか。最後の晩餐の席におられます。この夜、主イエス様は弟子たちと最後の晩餐を終えられ、翌日に十字架にお架かりになります。その場面で主イエス様は、わたしたちのことを友と呼んでくださいます。それはこの世界には通常はありえないような友なのです。主イエス様は、本来は神様の前に罪を犯して救いを得られないわたしたちのために罪の償いをして下さる、命を捨てて下さる、そういう意味でわたしたちの本当の友、この世界で唯一無二の「友」となられるのです。
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」この主イエス様の言葉には考えられないような重さがあります。主イエス様は、わたしたちにとって、この世の誰もなることのできない真実の友、本当の意味での友であられます。
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16節と17節は、ヨハネによる福音書における主イエス様の決別説教の中心聖句の一つであります。「あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」
ここには、第一に示されていることは神の選びと言いうことであります。わたしたちが神を選んだのではなく神がわたしたちを選んでくださいました。そして第二は、その選びの目的です。言い換えるとそれはわたしたちにとっては与えられた使命ですけれども、選びの目的が示さます。そして、第三に選ばれたものにとっての祈りの恵みの大きさという三つのことが、重なり合って示されています。
「あなたがた出かけて行って実を結び、その実が残るようにと・・、あなた方を任命したのである。」
選ばれたものは、使命を与えられ出かけて行く、そして実を結ぶのだと主イエス様はおっしゃいました。これこそが、わたし達を選んでくださった主イエス様がわたしたちに望んでおられること、願っておられることです。
教会は、主イエス様の主導権によって、恵みによって、この世から選び出されました。主イエス様のもとに引き寄せられたのです。そのように選ばれたものは、今度はその向きを変えて、主イエス様のところから、外へ、この世へと出かけて行きます。礼拝の最後に、牧師がすることは、皆様に祝福と派遣の言葉をかけるということです。わたしたちは、この礼拝から、再びこの世へと、与えられた働きへと遣わされてゆくのです。
主イエス様が「実を結ぶ」と言われたことは、この前の段落に関係することです。つまり、主イエス様がぶどうの木であること、弟子たちはぶどうの枝であって、ぶどうの枝は実を結ぶことを求められるということです。
ぶどうの木にとって、実を結ぶということは、どういうことでしょうか。これまでは実はなかったのですけれども、それが実をならせるのです。見えなかったものが見えるようになる、目に見える形で主イエス様が望んでおられる事柄が実現することです。主イエス様のぶどうの木につながる枝に例えられているのは、信じるものの生活であり、教会の働きそのものです。
実を結ぶとは、第一に、信じるものの生活において主が願っておられる姿になるということです。言い換えますと、悔い改めの実を結ぶことであり、愛の働きに生きることです。ガラテヤの信徒への手紙5章には御霊の実、聖霊によって結ぶ実りのことが記されています。それによりますと、御霊の実は第一に愛であり、そこから生まれる「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である」と教えられます。それは肉の業、つまり救われていない罪の自分がなすわざと正反対のことです。それらはわたしたちの人生に大きな幸いをもたらします。
実を結ぶということの第二は、伝道の実りを得ることです。つまり、教会が、主イエス様を信じるものを生み出すことです。教会が、教会の外の世界の人々に福音を宣べ伝え、その結果として信じるものが新しく起こされます。それらは、先に信じた者たちの喜びの生活とさまざまな奉仕の結果として与えられます。信仰者一人一人の生活に恵みがあふれ、わたしたちが喜びに満ちているということが重要です。主イエス様の与える水を飲むものは、その腹から川のように生きた水が流れ出るのです。そのような喜びの姿がないならば、教会がどんなに伝道に励んでも実りを得ることは難しいのです。神様を信じ、主イエス様を信じたら、あのように力が与えられ、試練や困難に遭遇しても忍耐することが出来、また、心に平安と感謝が満ち溢れる、人々がそのように思う、そういった姿そのものが直ちに伝道の実りへとつながります。
伝道のことを言います時に大切なことは、実りそのものは人間によるのではなく、神によるということです。信仰は、主イエス様の主導権によって与えられるのであり、神の選びによることです。教会は、その実を収穫する働き人なのです。しかし、その神の働きは、先に信じた人の業を通してなされてゆきます。信仰を与えるのは主イエス様と聖霊です。けれども、誰かが宣べ伝えなければ、あるいは誰かがその人を主イエス様のところに招待する、連れてこなければ、福音伝道の実りを得ることはできないと思います。
教会は、内輪だけの美しい交わりを楽しむだけでは伝道の実を実らせることはできません。わたしたちは、教会の外の人々に関心を持ち、出かけてゆきたいと思うのです。
4、
主イエス様が、わたしたちを選んでご自身の友とし、また弟子としてくださった結果、起こることが16節の最後の部分に示されています。それは、わたしたちは父なる神に祈り願うならば、何でも与えられるということです。
ここには、祈りについての二つの条件があります。それは第一に「わたしの名によって」つまり、主イエス様の名によって祈るということです。「名」はそん名で示されるものの本体、本質を表しています。主イエス様の名によって祈ることは、主イエス様によって救われ、罪の赦しを受け、清くされ、主イエス様と一つになった、その姿で祈ることです。それ以外の祈りは決して聞きあげられるということはありません。第二に、主イエス様の父、天の父に向かって祈るということです。他のものに向かって祈るのではありません。生きておられる真の神様に向かって祈るということです。そのようにして祈る、父なる神がその祈りを必ず聞きあげて下さり、どんなことでも願いどおりに与えられるというのです。
これは主イエスの選びによって神の子とされたものの特権です。
初代教会の指導者であったパウロという人は、テサロニケの信徒への手紙1、5章15節にこう書きました。わたしたちの今年度の目標聖句です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません」
「絶えず祈る」とは、継続的に祈る、祈ることを決してやめない、祈り続けるということを意味しています。祈りの習慣をつけることです。朝祈り、食事の前に祈り、夜祈ることです。水曜日の午前と夜にわたしたちは祈祷会を持っています。そのほか、毎朝の礼拝、早天祈祷会を月曜日から金曜日まで続けて行います。すべてこれらは、わたしたちの祈りの生活の訓練であり、また祈りの生活そのものと言って良いと思います。多くの方がご一緒に参加して下さることを願っています。
教会が祈ることをやめたなら、それは教会ではなくなります。信仰の生活はなくなります。実を実らせることもまた難しくなります。反対にわたしたちが、熱心に祈るなら、ぶどうの木に実る、そのぶどうの実は、わたしたちの思いを越えて豊かなものとなるのです。
主イエス様は、わたしたちを全く自由な御心の中で選び、弟子とし、また友としてくださいました。それは、わたしたちが出かけて行って、実を結ぶためであり、またわたしたちが主イエス様の名によって祈ることを必ず叶えて下さるということのためでありました。
主イエス様はこう言われます。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」。そしてこう言われました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」
わたしたちには、わたくしたちをその働きへと召し出された神の選びの中で果たす使命があります。そして同じく神によって選ばれた人々のために、教会の働きを致します。一つでも多くの実が、この地で実るように、また主によって願う願いを叶えていただくということのために、主イエス様の恵みを信じ、喜んで主イエス様にお仕えしてゆきたいと決心しています。友となってくださる主イエス様と共に働きをしてゆこうではありませんか。祈ります。
天におられる救い主、主イエスキリストの父なる神。御名を崇めます。11月に入りました。クリスマスの準備を進めています。わたしたちのために完全な愛を現わして下さり、真実の友となってくださった主イエス様と共に働きをすることが出来ますように、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。