聖書の言葉 ヨハネによる福音書 14章22節~31節 メッセージ 2023年10月8日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書14章22節~31節「平和を与える神」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 先ほどご一緒に聞きかました御言葉の中で、どうしても通り過ぎてしまうことのできないものが27節です。もう言う一度お読みします。「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」この27節には平和という言葉が二回出てまいります。 平和と訳されているところは、以前の口語訳聖書や新改訳聖書では「平安」と訳されていました。英語の聖書ではどの聖書も「ピース」です。ですから、日本語訳も一貫して平和と訳すことに一理はあると思います。けれども、わたくしは、ここのところは以前のように「平安」という訳を残したほうがよかったと思っているのです。わたくしたちが「平和」という言葉を聞いて初めに思い浮かべることは、おそらく「戦争」の反対語としての平和であろうと思います。世界や身の回りに争いや問題がないというイメージであると思います。けれども、主イエス様がここで語っておられる平和は、それとは異なる側面を持っているのに違いありません。つまり同じ平和と言いましても、主イエス様が下さる平和は、まずもって、わたしたちの内面、心の内側における平和、平安であるからです。聖霊によって、わたしたちの心の内側にその起源を与えられる平安です。霊的な平和、平安であります。 ヘブライ語にシャロームという言葉があります。「こんにちは」とか「さようなら」といった挨拶の言葉としても使われます。聖書に使われているギリシャ語の平和、エイレーネという言葉は、このシャロームのギリシャ語訳であると思われます。単に争いがあるとかないということではなく、もっと積極的な祝福、霊的な、あるいは物質的なこともすべて含めて、神様から与えられる祝福という意味です。 主イエス様は、この後十字架におかかりになります。そのような状況で語られた御言葉です。その別れのことを弟子たちに打ち分けました。当然弟子たちの心には嵐のような戸惑いが生まれたと思います。けれども、主イエス様は、これから先、あなた方にどんなことが起ころうともあなた方に平安を与えるという約束をなさったのです。27節をもう一度お読みします。ここでは平和をあえて、「平安」と訳します。 「わたしは平安をあなた方に残し、わたしの平安を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」 主イエス様は、この平安というものを「世が与えるようには与えない」、と言われています。この世が与える平安は、外面的なものでありましょう。戦争が終わった、望んでいたものが与えられた、おいしいものや素敵なものが与えられた、そうすると、わたしたちの心は平安になるでしょう。しかし、これらは、あくまで条件的な平安です。外面的なものによる平安は、与えられていたものがなくなってしまったら消えてしまいます。また、不安の要素がまし加わってくるなら、たちまち崩れ去り消え去ってしまいます。けれども、主イエス様がわたしたちにくださる平和、平安は、決して消えることのない平和、平安です。なぜなら、それはわたしたちの心の状態と関係しているからです。 長年、牧師をしていて驚くことは、通常では考えられないような困難、苦難にある信徒の方が、実に普通に人々と接し、わたくしとも接してくださることが多いということです。もう何時間もベッドにもぐりこんで泣き叫ぶような、もう誰とも顔を合わせたくないというような事柄に遭遇するとしても、そんなようには見えない態度でおられる方に数多く出会いました。例えば、終末期の緩和治療の中でのことです。ある方は、意識がもうろうとするほどに鎮痛剤を処方されていたのですが、わたくしの顔を見ると、ゆっくりと目を開いてくださって「今はちょっと薬を打たれて、もうろうとしていまして」などと言われてほほ笑んでくださいました。そして、「あの方はお元気ですか、少し休んでおられたようですが教会に戻ってこれらましたか、いつも祈っているんです」と言って、自分のことよりも他の方のことを心配されている。本当に美しい心で過ごしておられるのです。 この平安は、神の恵みによるとしか思えないのであります。死というものが迫る中でも平安である、それは私たちの内にある死への恐れや、わたしたちの汚れや醜さを、主イエス様が、ご自身の命により、十字架の上で完全に打ち破ってくださったことによって与えられた平和、平安だからではないでしょうか。外面的、外形的な状況に決して左右されることのない平和、平安、それが、主イエス様の下さる平安です。 2、 さて、14章から16章まで続いいています、この主イエス様の決別説教、別れの説教ですけれども、この全体は、ペトロ、トマス、フィリポ、そして今朝のところはイスカリオテでない方のユダという4人の弟子たちの質問に次々とお答えなるという構造を持っています。いわば質疑応答型の説教です。今朝の質問者イスカリオテでないユダは、ルカによる福音書6章の12弟子の表によればヤコブの子ユダであります。彼の名は、このルカ6章、そして、わたしたちが今読んでいますヨハネ14章にしか出てきません。 主イエス様の説教は、14章から16章の最後まで続きます。今朝のところでいったん大きな切れ目をつくっております。31節に「さあ立て、ここから出かけよう」という主イエス様の御言葉があるからです。説教はここでいったん終わるのです。 そうしますと15章以下のところは、どうなるか、主イエス様は、出かけようとおっしゃったのですが、すぐには出発しないで、更に説教が続きました。けれども、福音書記者のヨハネはおかしいとは思っていないようです。ヨハネは、この後、弟子たちは皆、主イエス様と一緒にオリーブ山に行き、主イエス様がそこで捕らえられるということは初めから分かってこれを書いています。主イエス様もそのことを知っておられます。しかし、ここでは「さあ出かけよう」おっしゃいました。この主イエス様の言葉は、ヨハネにとっては説教の最初を記している時から心の内に響いていたと思います。 このあと、16章の17節から19節では、主イエス様の言葉を聞いて、これは何のことだろうと互いに論じあう弟子たちの姿も記されています。つまり説教の途中で討論会まで開かれている、ですから、この最後の晩餐の後の告別の説教は、おそらく夜遅くまで、休憩をはさみながら何回にも分けてなされたのだと考えられます。 22節のユダの質問は、主イエス様が、いよいよ熱心にご自分の働きや聖霊の神についてお語りになるのに、それは弟子たちだけに対してであり、世の人々には語られないのはなぜかと言う問いでありました。 これは主イエスの弟子であるものと、そうでないものの区別の問題です。人間の側がどう思おうとも、主イエス様のほうは、ご自分を愛するもの、つまり主イエス様の弟子たちと、そうでない人たちを明らかに区別しておられるようであります。 その違いは、どこから来るのか、なぜなのか、それがユダの抱いた疑問でありました。しかし主イエス様は、それにはお答えにならず、いずれにせよ、今、主イエス様の周りには、二通りの人がいるとおっしゃられます。主イエス様を愛し、主イエス様の愛の掟に従う人と、そうでない人です。「父とわたしは」、つまり天の父なる神様と主イエス様は、主イエス様を愛する主イエス様の弟子たちとだけ、聖霊の神様をお送りくださり、一緒に住んでくださるのです。そうでない人たち、これは当時の弟子たちを取り巻く状況の中で語られているのですけれども、主イエス様と敵対し、主イエス様を受け入れない人は主イエス様の言葉を守らない。だからこの人たちは聖霊が一緒に住んでおられるのではないのです。主イエス様は、聖霊において主イエス様を愛する人、信じる人にだけ一緒にいてくださいます。 3、 聖霊の神のお働きは、そのように主イエス様がいつも共にいてくださるというお働きだけではありません。25節26節をお読みします。 「わたしはあなた方といたとき、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。」 「これらのこと」とは、弟子たちに、今ここで主イエス様が語ってくださっていることだけでなく、これまで語ってこられたすべての言葉のことを指しています。弟子たちは、これらのすべてを理解できたというわけではありませんした。けれども、やがて、主イエス様と入れ替わるようにしてこられる聖霊の神は、この主イエス様の語られた言葉を心の中でもう一度わかるようにしてくださる。暗いところに明かりをつけるようにしてくださるというのです。そして、あの時おっしゃったことの意味は、こういう意味であったのか思い起こすと言われるのです。 弟子たちは、やがて、聖書を書くことになるのですが、彼らが聖書を書いた時には、まさにこの聖霊の神の霊感によって、聖書のみ言葉を記しながらその心の中に明かりを照らす光として聖霊が力を発揮したということであります。そしてわたしたちが、聖書を読むときにも、この聖霊の神はお働きになって、わたしたちの心を照らして、聖書の意味を悟り信じるように導いてくださるのです。 この主イエス様の御言葉の大切な点は、聖霊があくまで主イエスの御言葉、つまり主イエス様が「わたしの言葉」と呼んでいる「神の言葉」と共に働かれるということです。聖書と聖霊の関係と言ってもよいと思います。もし誰かが、聖霊に導かれたと言って、聖書にかかわりのないことや聖書に反するようなことを勝手に言い出しても、それは聖霊のお働きとは言えないのであります。そうではなくて、聖霊の神のお働きは、主イエス様を愛する人を導いて、主イエス様の救いの御言葉をもっとよくわかるようにしてくださるということです。 28節で主イエス様は弟子たちにこう言われました。 「わたしは去ってゆくがまたあなた方のところに戻ってくる。」と言ったのをあなた方は聞いた。わたしを愛しているのならわたしが父のもとへ行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」 弟子たちが、主イエス様が天の父なる神様の御心に従って去ってゆくことを受けいれるよう主イエス様は願われました。それが父なる神の御心であるからです。人間として主イエス様と別れることはつらいことであるとしても、天の父なる神の御心に従うべきであるというのです。 4, 主イエス様は、このさき、十字架におかかりになり、その命を捨て、もはや地上の人ではなくなってしまいます。しかし、「わたしは聖霊を送る」、また、「父なる神のもとから聖霊が来る」と約束され、事実、そのようになったのです。 わたくしは、この夏、7月に72回目の誕生日を迎えました。振り返ってみますと遥か昔のように感じられますが、25歳の時に初めて教会に行って、一年もたたないうちに洗礼を受けました。このことはわたくしの人生における最大の事件であったと思います。それを境に、わたくしの人生は大きく変わりました。もちろん、外から見るなら、何も変わっていないように見えるかもしれません。けれども、その心には光がともりました。相変わらず、平日はこれまで通り会社で働き、休日は休む、そういう生活ですが、日曜日は教会に行って主イエス様において神様を礼拝し、み言葉を聞く、そういう生活が始まりました。この世の生活だけで終わらない、天におられる神との交わりのある人生が始まった。イエス様を神の子、生きておられる神と信じて、その言葉をわたしの道の光、従うべき基準とする、そして何よりも神様はわたしを愛し、十字架の恵みによってわつぃのすべての罪が赦されたのです。その主イエス様が人生を導いてくださることを前提として生きるようになりました。 やがて結婚し、家庭が出来、そして45歳で会社を辞めて神学校に入りました。今はこの熊本教会に遣わされています。もちろんこれまでには、いろいろな困難、苦労もあります。しかし、心乱れるような経験をしましても、最後には平安がいつもあります。昨日も今日も変わることないお方が、わたしの心に聖霊を住まわせてくださったからです。 信仰者に人生の苦労がないということでは決してありません。この世の人と同じように、病気もします。年も取ります。家庭の問題も起こります。仕事上の悩みも起こってきます。心配だらけ、また失敗だらけの歩みです。しかし違うところがある、主イエス様が共にいてくださる、神様の愛の中で生きることが出来ることです。そしてこのお方は、わたしたちを愛して最後までそれぞれの人生の責任を取ってくださるお方であります。何しろ生きておられる神様であるからです。本当に感謝なことです。だから、わたしたちの生活の根底に変わらない平安があるのです。主イエス様が聖霊を遣わし、父なる神もまたご自身で聖霊を遣わしてくださる。聖霊において、主イエス様が一緒に住んでくださるので、あなた方には平安があると主イエス様は約束してくださっています。 主イエス様は、この決別説教の最初にこう言われました。「心を騒がせるな、おびえるな」これは命令のかたちですが、励ましの言葉です。そして今朝の御言葉の中ほどにも、平和を与える約束のすぐ後で、同じ励ましの言葉があります。27節の後半です。「心を騒がせるな。おびえるな。わたしは去って行くがまた、あなたがたのところに戻ってくる」 私たちは今、主イエス様を肉の目では見ることが出来ません。けれども、父なる神様と主イエス様は、聖霊をわたしたちの心に、またこの世界に遣わしてくださいました。御言葉を悟る力を与え、心を御神に向ける力を与えて下さいますので、私たちは平安を頂きます。それは、この世の与える平和や平安とは全く異なる平安です。普通であるなら、心騒がせ、おびえてしまう、そういった状況の中でも、主イエス様は、あなた方は平安に生きる、そしてなすべきことをすることが出来ると約束してくださいました。世の支配者たちは、この世界では力を振るっているように見えても、最終的に、主イエス様を自分の思うようにすることはできません。わたしたちに対してもそうであります。世が与えるようなものとは違う平安、永遠に消えることない平安が主イエス様によって与えられます。 だからこそ、主イエス様はわたしたちに積極的に生きるようにと勧めてくださいます。何が起ころうとも、主イエス様はわたしたちを励ましてくださいます。 「さあ立て。ここから出かけよう」 うずくまっていないで、立ち上がることが出来る。前に進んでゆくことが出来る。思いがけないことが起こっても主イエス様が共にいてくださる。平安をいつもくださるからであります。 祈ります。 祈り 天の父と主イエス様ご自身が、聖霊の神様を世に遣わし、信じる者のひとりひとりを支えて下さり、平安を必ず与えると約束されたことを感謝します。その約束通りに、この理不尽な、暗闇とも思える世界の中で、聖霊の神がわたしたちに与えられていること感謝いたします。「さあ出かけよう」と声をかけて下さるあなたにおゆだねして、この週も歩ませてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2023年10月8日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書14章22節~31節「平和を与える神」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
先ほどご一緒に聞きかました御言葉の中で、どうしても通り過ぎてしまうことのできないものが27節です。もう言う一度お読みします。「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」この27節には平和という言葉が二回出てまいります。
平和と訳されているところは、以前の口語訳聖書や新改訳聖書では「平安」と訳されていました。英語の聖書ではどの聖書も「ピース」です。ですから、日本語訳も一貫して平和と訳すことに一理はあると思います。けれども、わたくしは、ここのところは以前のように「平安」という訳を残したほうがよかったと思っているのです。わたくしたちが「平和」という言葉を聞いて初めに思い浮かべることは、おそらく「戦争」の反対語としての平和であろうと思います。世界や身の回りに争いや問題がないというイメージであると思います。けれども、主イエス様がここで語っておられる平和は、それとは異なる側面を持っているのに違いありません。つまり同じ平和と言いましても、主イエス様が下さる平和は、まずもって、わたしたちの内面、心の内側における平和、平安であるからです。聖霊によって、わたしたちの心の内側にその起源を与えられる平安です。霊的な平和、平安であります。
ヘブライ語にシャロームという言葉があります。「こんにちは」とか「さようなら」といった挨拶の言葉としても使われます。聖書に使われているギリシャ語の平和、エイレーネという言葉は、このシャロームのギリシャ語訳であると思われます。単に争いがあるとかないということではなく、もっと積極的な祝福、霊的な、あるいは物質的なこともすべて含めて、神様から与えられる祝福という意味です。
主イエス様は、この後十字架におかかりになります。そのような状況で語られた御言葉です。その別れのことを弟子たちに打ち分けました。当然弟子たちの心には嵐のような戸惑いが生まれたと思います。けれども、主イエス様は、これから先、あなた方にどんなことが起ころうともあなた方に平安を与えるという約束をなさったのです。27節をもう一度お読みします。ここでは平和をあえて、「平安」と訳します。
「わたしは平安をあなた方に残し、わたしの平安を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」
主イエス様は、この平安というものを「世が与えるようには与えない」、と言われています。この世が与える平安は、外面的なものでありましょう。戦争が終わった、望んでいたものが与えられた、おいしいものや素敵なものが与えられた、そうすると、わたしたちの心は平安になるでしょう。しかし、これらは、あくまで条件的な平安です。外面的なものによる平安は、与えられていたものがなくなってしまったら消えてしまいます。また、不安の要素がまし加わってくるなら、たちまち崩れ去り消え去ってしまいます。けれども、主イエス様がわたしたちにくださる平和、平安は、決して消えることのない平和、平安です。なぜなら、それはわたしたちの心の状態と関係しているからです。
長年、牧師をしていて驚くことは、通常では考えられないような困難、苦難にある信徒の方が、実に普通に人々と接し、わたくしとも接してくださることが多いということです。もう何時間もベッドにもぐりこんで泣き叫ぶような、もう誰とも顔を合わせたくないというような事柄に遭遇するとしても、そんなようには見えない態度でおられる方に数多く出会いました。例えば、終末期の緩和治療の中でのことです。ある方は、意識がもうろうとするほどに鎮痛剤を処方されていたのですが、わたくしの顔を見ると、ゆっくりと目を開いてくださって「今はちょっと薬を打たれて、もうろうとしていまして」などと言われてほほ笑んでくださいました。そして、「あの方はお元気ですか、少し休んでおられたようですが教会に戻ってこれらましたか、いつも祈っているんです」と言って、自分のことよりも他の方のことを心配されている。本当に美しい心で過ごしておられるのです。
この平安は、神の恵みによるとしか思えないのであります。死というものが迫る中でも平安である、それは私たちの内にある死への恐れや、わたしたちの汚れや醜さを、主イエス様が、ご自身の命により、十字架の上で完全に打ち破ってくださったことによって与えられた平和、平安だからではないでしょうか。外面的、外形的な状況に決して左右されることのない平和、平安、それが、主イエス様の下さる平安です。
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さて、14章から16章まで続いいています、この主イエス様の決別説教、別れの説教ですけれども、この全体は、ペトロ、トマス、フィリポ、そして今朝のところはイスカリオテでない方のユダという4人の弟子たちの質問に次々とお答えなるという構造を持っています。いわば質疑応答型の説教です。今朝の質問者イスカリオテでないユダは、ルカによる福音書6章の12弟子の表によればヤコブの子ユダであります。彼の名は、このルカ6章、そして、わたしたちが今読んでいますヨハネ14章にしか出てきません。
主イエス様の説教は、14章から16章の最後まで続きます。今朝のところでいったん大きな切れ目をつくっております。31節に「さあ立て、ここから出かけよう」という主イエス様の御言葉があるからです。説教はここでいったん終わるのです。
そうしますと15章以下のところは、どうなるか、主イエス様は、出かけようとおっしゃったのですが、すぐには出発しないで、更に説教が続きました。けれども、福音書記者のヨハネはおかしいとは思っていないようです。ヨハネは、この後、弟子たちは皆、主イエス様と一緒にオリーブ山に行き、主イエス様がそこで捕らえられるということは初めから分かってこれを書いています。主イエス様もそのことを知っておられます。しかし、ここでは「さあ出かけよう」おっしゃいました。この主イエス様の言葉は、ヨハネにとっては説教の最初を記している時から心の内に響いていたと思います。
このあと、16章の17節から19節では、主イエス様の言葉を聞いて、これは何のことだろうと互いに論じあう弟子たちの姿も記されています。つまり説教の途中で討論会まで開かれている、ですから、この最後の晩餐の後の告別の説教は、おそらく夜遅くまで、休憩をはさみながら何回にも分けてなされたのだと考えられます。
22節のユダの質問は、主イエス様が、いよいよ熱心にご自分の働きや聖霊の神についてお語りになるのに、それは弟子たちだけに対してであり、世の人々には語られないのはなぜかと言う問いでありました。
これは主イエスの弟子であるものと、そうでないものの区別の問題です。人間の側がどう思おうとも、主イエス様のほうは、ご自分を愛するもの、つまり主イエス様の弟子たちと、そうでない人たちを明らかに区別しておられるようであります。
その違いは、どこから来るのか、なぜなのか、それがユダの抱いた疑問でありました。しかし主イエス様は、それにはお答えにならず、いずれにせよ、今、主イエス様の周りには、二通りの人がいるとおっしゃられます。主イエス様を愛し、主イエス様の愛の掟に従う人と、そうでない人です。「父とわたしは」、つまり天の父なる神様と主イエス様は、主イエス様を愛する主イエス様の弟子たちとだけ、聖霊の神様をお送りくださり、一緒に住んでくださるのです。そうでない人たち、これは当時の弟子たちを取り巻く状況の中で語られているのですけれども、主イエス様と敵対し、主イエス様を受け入れない人は主イエス様の言葉を守らない。だからこの人たちは聖霊が一緒に住んでおられるのではないのです。主イエス様は、聖霊において主イエス様を愛する人、信じる人にだけ一緒にいてくださいます。
3、
聖霊の神のお働きは、そのように主イエス様がいつも共にいてくださるというお働きだけではありません。25節26節をお読みします。
「わたしはあなた方といたとき、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。」
「これらのこと」とは、弟子たちに、今ここで主イエス様が語ってくださっていることだけでなく、これまで語ってこられたすべての言葉のことを指しています。弟子たちは、これらのすべてを理解できたというわけではありませんした。けれども、やがて、主イエス様と入れ替わるようにしてこられる聖霊の神は、この主イエス様の語られた言葉を心の中でもう一度わかるようにしてくださる。暗いところに明かりをつけるようにしてくださるというのです。そして、あの時おっしゃったことの意味は、こういう意味であったのか思い起こすと言われるのです。
弟子たちは、やがて、聖書を書くことになるのですが、彼らが聖書を書いた時には、まさにこの聖霊の神の霊感によって、聖書のみ言葉を記しながらその心の中に明かりを照らす光として聖霊が力を発揮したということであります。そしてわたしたちが、聖書を読むときにも、この聖霊の神はお働きになって、わたしたちの心を照らして、聖書の意味を悟り信じるように導いてくださるのです。
この主イエス様の御言葉の大切な点は、聖霊があくまで主イエスの御言葉、つまり主イエス様が「わたしの言葉」と呼んでいる「神の言葉」と共に働かれるということです。聖書と聖霊の関係と言ってもよいと思います。もし誰かが、聖霊に導かれたと言って、聖書にかかわりのないことや聖書に反するようなことを勝手に言い出しても、それは聖霊のお働きとは言えないのであります。そうではなくて、聖霊の神のお働きは、主イエス様を愛する人を導いて、主イエス様の救いの御言葉をもっとよくわかるようにしてくださるということです。
28節で主イエス様は弟子たちにこう言われました。
「わたしは去ってゆくがまたあなた方のところに戻ってくる。」と言ったのをあなた方は聞いた。わたしを愛しているのならわたしが父のもとへ行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」
弟子たちが、主イエス様が天の父なる神様の御心に従って去ってゆくことを受けいれるよう主イエス様は願われました。それが父なる神の御心であるからです。人間として主イエス様と別れることはつらいことであるとしても、天の父なる神の御心に従うべきであるというのです。
4,
主イエス様は、このさき、十字架におかかりになり、その命を捨て、もはや地上の人ではなくなってしまいます。しかし、「わたしは聖霊を送る」、また、「父なる神のもとから聖霊が来る」と約束され、事実、そのようになったのです。
わたくしは、この夏、7月に72回目の誕生日を迎えました。振り返ってみますと遥か昔のように感じられますが、25歳の時に初めて教会に行って、一年もたたないうちに洗礼を受けました。このことはわたくしの人生における最大の事件であったと思います。それを境に、わたくしの人生は大きく変わりました。もちろん、外から見るなら、何も変わっていないように見えるかもしれません。けれども、その心には光がともりました。相変わらず、平日はこれまで通り会社で働き、休日は休む、そういう生活ですが、日曜日は教会に行って主イエス様において神様を礼拝し、み言葉を聞く、そういう生活が始まりました。この世の生活だけで終わらない、天におられる神との交わりのある人生が始まった。イエス様を神の子、生きておられる神と信じて、その言葉をわたしの道の光、従うべき基準とする、そして何よりも神様はわたしを愛し、十字架の恵みによってわつぃのすべての罪が赦されたのです。その主イエス様が人生を導いてくださることを前提として生きるようになりました。
やがて結婚し、家庭が出来、そして45歳で会社を辞めて神学校に入りました。今はこの熊本教会に遣わされています。もちろんこれまでには、いろいろな困難、苦労もあります。しかし、心乱れるような経験をしましても、最後には平安がいつもあります。昨日も今日も変わることないお方が、わたしの心に聖霊を住まわせてくださったからです。
信仰者に人生の苦労がないということでは決してありません。この世の人と同じように、病気もします。年も取ります。家庭の問題も起こります。仕事上の悩みも起こってきます。心配だらけ、また失敗だらけの歩みです。しかし違うところがある、主イエス様が共にいてくださる、神様の愛の中で生きることが出来ることです。そしてこのお方は、わたしたちを愛して最後までそれぞれの人生の責任を取ってくださるお方であります。何しろ生きておられる神様であるからです。本当に感謝なことです。だから、わたしたちの生活の根底に変わらない平安があるのです。主イエス様が聖霊を遣わし、父なる神もまたご自身で聖霊を遣わしてくださる。聖霊において、主イエス様が一緒に住んでくださるので、あなた方には平安があると主イエス様は約束してくださっています。
主イエス様は、この決別説教の最初にこう言われました。「心を騒がせるな、おびえるな」これは命令のかたちですが、励ましの言葉です。そして今朝の御言葉の中ほどにも、平和を与える約束のすぐ後で、同じ励ましの言葉があります。27節の後半です。「心を騒がせるな。おびえるな。わたしは去って行くがまた、あなたがたのところに戻ってくる」
私たちは今、主イエス様を肉の目では見ることが出来ません。けれども、父なる神様と主イエス様は、聖霊をわたしたちの心に、またこの世界に遣わしてくださいました。御言葉を悟る力を与え、心を御神に向ける力を与えて下さいますので、私たちは平安を頂きます。それは、この世の与える平和や平安とは全く異なる平安です。普通であるなら、心騒がせ、おびえてしまう、そういった状況の中でも、主イエス様は、あなた方は平安に生きる、そしてなすべきことをすることが出来ると約束してくださいました。世の支配者たちは、この世界では力を振るっているように見えても、最終的に、主イエス様を自分の思うようにすることはできません。わたしたちに対してもそうであります。世が与えるようなものとは違う平安、永遠に消えることない平安が主イエス様によって与えられます。
だからこそ、主イエス様はわたしたちに積極的に生きるようにと勧めてくださいます。何が起ころうとも、主イエス様はわたしたちを励ましてくださいます。
「さあ立て。ここから出かけよう」
うずくまっていないで、立ち上がることが出来る。前に進んでゆくことが出来る。思いがけないことが起こっても主イエス様が共にいてくださる。平安をいつもくださるからであります。
祈ります。
祈り
天の父と主イエス様ご自身が、聖霊の神様を世に遣わし、信じる者のひとりひとりを支えて下さり、平安を必ず与えると約束されたことを感謝します。その約束通りに、この理不尽な、暗闇とも思える世界の中で、聖霊の神がわたしたちに与えられていること感謝いたします。「さあ出かけよう」と声をかけて下さるあなたにおゆだねして、この週も歩ませてください。主の名によって祈ります。アーメン。