聖書の言葉 ヨハネによる福音書 14章7節~24節 メッセージ 2023年10月1日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書14章8節~21節「聖霊を送る約束」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。先週から、主イエス様の告別説教と呼ばれております14章に入っております。今朝はその二回目であります16章の終わりまで続きます。先週の週報の予告では聖書の御言葉を24節までといたしましたが、21節までといたします。 この告別説教の御言葉は、大切なものですけれども、新約聖書の全体と言うことを考えてみましても、とても重要なものです。弟子たちにお語りになったものですけれども、実際には、のちの世の弟子たち、つまり教会に向けてお語りになるということを主イエス様は明確に意識しておられました。その上、この個所と同じみ言葉、よく似たみ言葉は他の福音書にはないのであります。ほかの福音書は、最後の晩餐のときの主イエス様による聖餐式制定の御言葉を記しますが、主イエス様の、この長い告別の説教についてはマタイもマルコもルカも全く記録していません。 8節からお読みしました。15節以降のみ言葉が、その前の8節からのトマスへの答えの言葉と深いつながりがあり、特に12節から14節の御言葉と深い関係があるからです。 そして13節14節15節という三つの節は、元の言葉を見ますと文章の構造が共通していることがわかります。主語が「あなた方」であるという点です。12節から14節は、キリスト者が主イエス様の名によって祈る祈りは、すべてかなえられるという約束の御言葉です。大変、うれしい、ありがたい主イエス様の約束ですが、わたしたちはこれだけを取り出して読んではならないのであります。 2, さて13節にこう書いてあります。「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうして父は子によって栄光をお受けになる」 ここの主語は実は「あなた方」ですし、また14節にもこうあります。「わたしの名によって何かを願うなら、わたしがかなえてあげよう。」、これも「あなた方が願うことを」という言葉です。そして15節「あなたがたはわたしを愛しているならば、私の掟を守る」。あなた方が祈ること、願う、あなた方が愛する、そうすればこうであるというみ言葉であります。 わたしたちが、神様にお祈りをするときには、いつもこの主イエス様の約束、御言葉を信じ、これに望みを置いて祈ります。半信半疑で、あわよくば叶えられるだろうといった、いやしい心で祈るのではない、信じて祈る、二心ではなく、一つの心で祈る、これがキリスト者の祈りであります。 ところが、わたしたちの祈りが、なんでも願うとおりにそのまま叶えられるということをわたしたちは実際には経験していないのではないでしょうか。そうではなく、思うようにはならない、なかなか願った通りにはならないということの方を多く経験するのです。そういう中で、このような困難な祈りが聞かれた、かなえられたという「証し」がありますとわたしたちは光を見たような気持になるのです。裏を返しますと、わたしたちの祈りは聞かれないことの方が多いとさえ言いえるのです。ある人は、祈りというものはすぐに叶えられると思うからがっかりするのであって、そうではなく時間をかけて多くのことがなるのだといます。しかし、そうでないこともまたあるわけであります。つまりいくら待っても祈って道が開けない。祈りが聞かれないという体験が多くあるということです。そうしますと、この13節14節の御言葉は、どう解釈されるべきなのでしょうか。わたしは、もうそのままに読めばよいと思います。しかし、それだけに、この後の15節からの聖霊の神様についての御言葉、聖霊様が来てくださる、共にいてくださるということと、この祈りの約束とを切り離すことが出来ないのであります。 それはわたしたちの信仰の深さといますか、真実さということと関係がある、そういわなければなりません。 神戸改革派神学校の前身であります神戸中央神学校を卒業なさいました、わたしたちの大先輩にあたる牧師でもありましたけれども、旧日本キリスト教会出身の島村亀鶴という先生がおりました。この先生が若いころに、自分の信仰を試そうと思って、目の前に見える山を動かしてやろう、あるいは川の水をせき止めてやろうと思って祈りをささげました。 祈りが聞かれるということ、今朝の箇所もそうですが、そのことをもっと直接的に書いてあるところがあるんですね、マタイによる福音書21章21節22節です。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、イチジクの木に起こったようなことが出来るばかりでなく、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』といっても、そのとおりになる。信じて祈るなら、求めるものは何でも得られる」 そこで島村青年は、故郷の高知県の山から川を見渡して、こう祈りました。「山よ立ち上がれ」「川の水よ、とまれ」大きな声で怒鳴ったそうです。しかし、川はいつもと変わりなくとうとうと流れていたので、俺の信仰はまだまだ本物ではないと反省したということです。 これは、祈りについての大きな誤解であると思います。その祈りは、本当に聖霊、神様の霊によって導かれた、御心にかなう祈りであったかどうかということです。主イエスを愛する祈りであったのかということです。そうでない祈りは、自分勝手なわがままな祈りであって、聞かれることはないのです。たまたま実現しても決していいことはない、そういう祈りです。 しかし、祈っている本人は、その祈りが御心にかなう祈りであるか、そうでない祈りであるのか、普通はなかなか見分けがつきません。これは明らかに違うなあという祈りもあるかもしれませんが、けれども私たちは、信仰を働かせて、良かれと思って祈ります。しかし、祈るときに、考える、この祈りは本当に御心にかなう祈りかどうかということです。そういう中で、実は私たちの信仰が鍛えられていく、成長してゆくのです。祈りは神様との対話であり、交わりであるということはまさしくその通りなのであります。 3, 15節では、主イエス様は、いつでもどこでもこれだけは間違いないという主の御心を教えてくださいます。「あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」 「わたしの掟」、これは主イエス様の下さる新しい掟であり、すでに13章34節に言われていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」 「わたしがあなたがたを愛したように」とは、そのすぐ前にある洗足、神である主イエス様がしもべとなって弟子たちの足を洗われたようにということです。そしてそのことは主イエス様の十字架に示された愛を示したものであることはすでに学んだところです。 この15節では、わたしたちが主イエス様を愛することと、わたしたちが互いに愛し合うことが結びつけられています。主イエス様を信じている、主イエス様を愛している、そうであるなら、その愛するお方が命じられた新しい掟を守るはずだというのです。 わたしたちが二人三人いるとします。あるいはもっと多くのキリスト者がいる、その上に主イエス様がおられます。主イエス様はわたしたちを愛してくださる、わたしたちもまた主イエス様を信じる、信じると言うだけでなく、ここでは愛すると言われています。神を愛することは旧約聖書申命記以来の神様の掟です。どの場合にも「あなた方は主イエス様を信じる」という言葉ではなく「主イエス様を愛する」と言われています。主イエス様を愛する。そのうえで、わたしたちは主イエス様の掟に従って、わたしたち同志も互いに愛し合うのであります。愛の三角形と言うべきだと思いますが、このように、私たちが神である主イエス様を愛し、主イエス様もまたわたしたちを愛してくださる、愛しぬいてくださる。そしてわたしたちは、また互いに愛し合うのです。この愛の三角形にかなう祈り、その原理にかなう祈りは、すべて御心にかなう祈りであるとあります。単に「川の水よ止まれ」などという祈りに愛は感じられません。 愛しているなら、あの人を病気にしてくださいとなどいう祈りが出てくるはずがない。癒してくださいと祈る。神様の愛を本当に信じていたら、たとえ病が癒されなくとも御国に招かれるということは間違いなく信じていますので、すべてを御心におゆだねしますと祈ることが出来ます。その祈りの時に、主イエス様は、わたしはあなたがたに聖霊を送ると約束してくださるのです。 聖霊の導きに従うなら、わたしたちは互いに愛し合うことが出来る、そして愛による祈りを祈ることが出来るようになるのです。 16節をお読みします。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。」 これから、主イエス様は去ってゆく、十字架にお掛りになってこの世のものではなくなると言われました後で、主イエス様と入れ替わるようにして別のお方を送ると言われる、そのお方を父なる神様が遣わすのであります。17節の初めに「この方は真理の霊である」とあります。また、この後の26節には、もう少し詳しくこう書かれています。「しかし弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる」 弁護者と訳されている言葉は、実に珍しい言葉です。新約聖書の中では、4回出るのですが、このヨハネによる福音書、しかも、今読んでいます告別説教に三回でてきます。あと一回は、ヨハネの手紙1,2章21節です。パラクレートス、傍らに呼ばれるものという意味です。しかし、主イエス様の時代には、この言葉はもっぱら裁判の時に助けてくれる弁護士のような人を指す言葉でありました。もちろん、弁護士という資格や制度が当時にあるわけでない、とにかく、裁判にかけられる人のために付き添って、助けてくれる人のことです。以前の口語訳聖書や新改訳聖書では「助け主」と訳されていました。これが新共同訳では、本来的な意味に訳しなおされています。このお方は、霊であると言われます。目に見える姿かたちを持たない霊的な存在です。真理の霊と呼ばれ、そして聖霊と呼ばれるのです。 ここで約束された聖霊の神の働きは、第一に、わたしたちと共にいてくださるということです。共にいるその在り方は、わたしたちの内にいてくださるのだと書かれています。わたしたちの心、わたしたちの霊とぴったり寄り添って一緒にいてくださるのです。 第二に、信仰をもつものだけにこのお方は送られてくる。いやそうではなくて、このお方がお働きになるので信仰を持つようになるという方が正確かもしれません。そうでない人、信仰を持たないこの世の人には、送られることはない。17節にこうあります。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることが出来ない」、 聖霊の神のお働きは、この世の人と、主イエス様にある人を区別してしまうということです。信仰者とそうでない人はどう違うのか、それはこの聖霊をいただいているかどうかということであります。そして、一度、この方に導かれたなら、このお方は途中で離れて行ってしまうことはなく、「永遠に」共にいてくださると書かれています。 コリントの信徒への手紙1、12章3節に「神の霊によって語る人は、誰も、「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、「また聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言えないのです」と書かれています。今朝の箇所では、それだけでなく、聖霊は永遠に共にいてくださるというのですから、イエスは主であると一度は告白したけれども、聖霊の神はいつの間にかどこかに行ってしまって、元の木阿弥になってしまうと言うことがない。永遠に共にいてくださって、わたしたちの信仰を守り導いてくださるのです。まさしく、聖霊は助け主であり、わたしたちを導く弁護者です。 聖霊の神のもう一つのお働きは、父なる神と子なる神である主イエスとの深い関係、切っても切れない関係の中に、わたしたち自身が招かれるということであります。先週読みました11節に「私が父の内にあり、父が私の内におられる」という主イエス様の御言葉がありました。これは神学的に言えば、父なる神と子なるイエス様の「相互内在」、両方のものはぴったりと重なって一つであると言ったのであります。今朝の20節は、本当に驚くべきことですが、この相互内在の中にわたしたちが巻き込まれてしまいます。「かの日には、わたしが父の内におり、あなた方がわたしの内におり、わたしもあなた方の内にいることが、あなた方には分かる」 かの日とは、これは、世の終わりの最後の審判のときということではなく、聖霊の神が、送られてくるときであります。具体的には、ペンテコステの聖霊降臨の出来事が起こって、この世にキリスト教会が姿を現した、その日であります。つまり、今の時代であり、この教会の中で、そのことは起こっているのです。 4, わたしたちの隣りにいて、賛美歌を歌っている人には主イエス様が聖霊の神さまにおいて宿っていてくださる。祈りをしている人、献金をしている人は、すでに主イエス様の内にいる神様の内にいるのだというのです。 だから、わたしたちは主の掟を行うようにすでに導かれている。つまり互いに愛し合うことがそこには起こっているのです。聖霊によって神を愛し、人を愛するよう導かれている人は、主イエス様に愛されています。それだけではない、当然、天の父なる神様からも愛されています。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人に私自身を現わす。」 主イエス様の姿が、少しずつ、次第、次第にわたしたちの姿に現れてくる。これは聖霊の神様のお働き以外にはありません。もちろん、わたしたちは地上に生きている間は、罪の残りに堪えず悩まされていますから、完全に神様の形になってしまうことはありません。しかし、少しずつ変えられてゆく、作り変えられてゆく。そして地上の生涯を終えて主イエス様の身許にゆくときには、完全に清められ変えられて主のもとに行きます。 わたしたちの祈りにおいて、そこに主イエス様のお姿が現れているか、今はまだまだであるかもしれない、しかし、そこに向かって、少しずつ進んで行きます。三歩進んで二歩下がるという仕方かも知れません。それでも結果として前に進めばよいのです。 すでにわたしたちに与えられている助け主、弁護者、真理の霊、聖霊なる神様により頼みましょう。祈ります。 祈り 神さま、主イエス様を与えて下さり、さらに聖霊の神様を与えて下さってありがとうございます。神を愛し、隣人を愛し、とりわけ主にある兄弟姉妹として互いに愛し合うことが出来ますように。また、わたしたちの祈りが御心にかなったものでありように導いてください。
2023年10月1日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書14章8節~21節「聖霊を送る約束」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。先週から、主イエス様の告別説教と呼ばれております14章に入っております。今朝はその二回目であります16章の終わりまで続きます。先週の週報の予告では聖書の御言葉を24節までといたしましたが、21節までといたします。
この告別説教の御言葉は、大切なものですけれども、新約聖書の全体と言うことを考えてみましても、とても重要なものです。弟子たちにお語りになったものですけれども、実際には、のちの世の弟子たち、つまり教会に向けてお語りになるということを主イエス様は明確に意識しておられました。その上、この個所と同じみ言葉、よく似たみ言葉は他の福音書にはないのであります。ほかの福音書は、最後の晩餐のときの主イエス様による聖餐式制定の御言葉を記しますが、主イエス様の、この長い告別の説教についてはマタイもマルコもルカも全く記録していません。
8節からお読みしました。15節以降のみ言葉が、その前の8節からのトマスへの答えの言葉と深いつながりがあり、特に12節から14節の御言葉と深い関係があるからです。
そして13節14節15節という三つの節は、元の言葉を見ますと文章の構造が共通していることがわかります。主語が「あなた方」であるという点です。12節から14節は、キリスト者が主イエス様の名によって祈る祈りは、すべてかなえられるという約束の御言葉です。大変、うれしい、ありがたい主イエス様の約束ですが、わたしたちはこれだけを取り出して読んではならないのであります。
2,
さて13節にこう書いてあります。「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうして父は子によって栄光をお受けになる」
ここの主語は実は「あなた方」ですし、また14節にもこうあります。「わたしの名によって何かを願うなら、わたしがかなえてあげよう。」、これも「あなた方が願うことを」という言葉です。そして15節「あなたがたはわたしを愛しているならば、私の掟を守る」。あなた方が祈ること、願う、あなた方が愛する、そうすればこうであるというみ言葉であります。
わたしたちが、神様にお祈りをするときには、いつもこの主イエス様の約束、御言葉を信じ、これに望みを置いて祈ります。半信半疑で、あわよくば叶えられるだろうといった、いやしい心で祈るのではない、信じて祈る、二心ではなく、一つの心で祈る、これがキリスト者の祈りであります。
ところが、わたしたちの祈りが、なんでも願うとおりにそのまま叶えられるということをわたしたちは実際には経験していないのではないでしょうか。そうではなく、思うようにはならない、なかなか願った通りにはならないということの方を多く経験するのです。そういう中で、このような困難な祈りが聞かれた、かなえられたという「証し」がありますとわたしたちは光を見たような気持になるのです。裏を返しますと、わたしたちの祈りは聞かれないことの方が多いとさえ言いえるのです。ある人は、祈りというものはすぐに叶えられると思うからがっかりするのであって、そうではなく時間をかけて多くのことがなるのだといます。しかし、そうでないこともまたあるわけであります。つまりいくら待っても祈って道が開けない。祈りが聞かれないという体験が多くあるということです。そうしますと、この13節14節の御言葉は、どう解釈されるべきなのでしょうか。わたしは、もうそのままに読めばよいと思います。しかし、それだけに、この後の15節からの聖霊の神様についての御言葉、聖霊様が来てくださる、共にいてくださるということと、この祈りの約束とを切り離すことが出来ないのであります。
それはわたしたちの信仰の深さといますか、真実さということと関係がある、そういわなければなりません。
神戸改革派神学校の前身であります神戸中央神学校を卒業なさいました、わたしたちの大先輩にあたる牧師でもありましたけれども、旧日本キリスト教会出身の島村亀鶴という先生がおりました。この先生が若いころに、自分の信仰を試そうと思って、目の前に見える山を動かしてやろう、あるいは川の水をせき止めてやろうと思って祈りをささげました。
祈りが聞かれるということ、今朝の箇所もそうですが、そのことをもっと直接的に書いてあるところがあるんですね、マタイによる福音書21章21節22節です。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、イチジクの木に起こったようなことが出来るばかりでなく、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』といっても、そのとおりになる。信じて祈るなら、求めるものは何でも得られる」
そこで島村青年は、故郷の高知県の山から川を見渡して、こう祈りました。「山よ立ち上がれ」「川の水よ、とまれ」大きな声で怒鳴ったそうです。しかし、川はいつもと変わりなくとうとうと流れていたので、俺の信仰はまだまだ本物ではないと反省したということです。
これは、祈りについての大きな誤解であると思います。その祈りは、本当に聖霊、神様の霊によって導かれた、御心にかなう祈りであったかどうかということです。主イエスを愛する祈りであったのかということです。そうでない祈りは、自分勝手なわがままな祈りであって、聞かれることはないのです。たまたま実現しても決していいことはない、そういう祈りです。
しかし、祈っている本人は、その祈りが御心にかなう祈りであるか、そうでない祈りであるのか、普通はなかなか見分けがつきません。これは明らかに違うなあという祈りもあるかもしれませんが、けれども私たちは、信仰を働かせて、良かれと思って祈ります。しかし、祈るときに、考える、この祈りは本当に御心にかなう祈りかどうかということです。そういう中で、実は私たちの信仰が鍛えられていく、成長してゆくのです。祈りは神様との対話であり、交わりであるということはまさしくその通りなのであります。
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15節では、主イエス様は、いつでもどこでもこれだけは間違いないという主の御心を教えてくださいます。「あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」
「わたしの掟」、これは主イエス様の下さる新しい掟であり、すでに13章34節に言われていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」
「わたしがあなたがたを愛したように」とは、そのすぐ前にある洗足、神である主イエス様がしもべとなって弟子たちの足を洗われたようにということです。そしてそのことは主イエス様の十字架に示された愛を示したものであることはすでに学んだところです。
この15節では、わたしたちが主イエス様を愛することと、わたしたちが互いに愛し合うことが結びつけられています。主イエス様を信じている、主イエス様を愛している、そうであるなら、その愛するお方が命じられた新しい掟を守るはずだというのです。
わたしたちが二人三人いるとします。あるいはもっと多くのキリスト者がいる、その上に主イエス様がおられます。主イエス様はわたしたちを愛してくださる、わたしたちもまた主イエス様を信じる、信じると言うだけでなく、ここでは愛すると言われています。神を愛することは旧約聖書申命記以来の神様の掟です。どの場合にも「あなた方は主イエス様を信じる」という言葉ではなく「主イエス様を愛する」と言われています。主イエス様を愛する。そのうえで、わたしたちは主イエス様の掟に従って、わたしたち同志も互いに愛し合うのであります。愛の三角形と言うべきだと思いますが、このように、私たちが神である主イエス様を愛し、主イエス様もまたわたしたちを愛してくださる、愛しぬいてくださる。そしてわたしたちは、また互いに愛し合うのです。この愛の三角形にかなう祈り、その原理にかなう祈りは、すべて御心にかなう祈りであるとあります。単に「川の水よ止まれ」などという祈りに愛は感じられません。
愛しているなら、あの人を病気にしてくださいとなどいう祈りが出てくるはずがない。癒してくださいと祈る。神様の愛を本当に信じていたら、たとえ病が癒されなくとも御国に招かれるということは間違いなく信じていますので、すべてを御心におゆだねしますと祈ることが出来ます。その祈りの時に、主イエス様は、わたしはあなたがたに聖霊を送ると約束してくださるのです。
聖霊の導きに従うなら、わたしたちは互いに愛し合うことが出来る、そして愛による祈りを祈ることが出来るようになるのです。
16節をお読みします。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。」
これから、主イエス様は去ってゆく、十字架にお掛りになってこの世のものではなくなると言われました後で、主イエス様と入れ替わるようにして別のお方を送ると言われる、そのお方を父なる神様が遣わすのであります。17節の初めに「この方は真理の霊である」とあります。また、この後の26節には、もう少し詳しくこう書かれています。「しかし弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる」
弁護者と訳されている言葉は、実に珍しい言葉です。新約聖書の中では、4回出るのですが、このヨハネによる福音書、しかも、今読んでいます告別説教に三回でてきます。あと一回は、ヨハネの手紙1,2章21節です。パラクレートス、傍らに呼ばれるものという意味です。しかし、主イエス様の時代には、この言葉はもっぱら裁判の時に助けてくれる弁護士のような人を指す言葉でありました。もちろん、弁護士という資格や制度が当時にあるわけでない、とにかく、裁判にかけられる人のために付き添って、助けてくれる人のことです。以前の口語訳聖書や新改訳聖書では「助け主」と訳されていました。これが新共同訳では、本来的な意味に訳しなおされています。このお方は、霊であると言われます。目に見える姿かたちを持たない霊的な存在です。真理の霊と呼ばれ、そして聖霊と呼ばれるのです。
ここで約束された聖霊の神の働きは、第一に、わたしたちと共にいてくださるということです。共にいるその在り方は、わたしたちの内にいてくださるのだと書かれています。わたしたちの心、わたしたちの霊とぴったり寄り添って一緒にいてくださるのです。
第二に、信仰をもつものだけにこのお方は送られてくる。いやそうではなくて、このお方がお働きになるので信仰を持つようになるという方が正確かもしれません。そうでない人、信仰を持たないこの世の人には、送られることはない。17節にこうあります。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることが出来ない」、
聖霊の神のお働きは、この世の人と、主イエス様にある人を区別してしまうということです。信仰者とそうでない人はどう違うのか、それはこの聖霊をいただいているかどうかということであります。そして、一度、この方に導かれたなら、このお方は途中で離れて行ってしまうことはなく、「永遠に」共にいてくださると書かれています。
コリントの信徒への手紙1、12章3節に「神の霊によって語る人は、誰も、「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、「また聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言えないのです」と書かれています。今朝の箇所では、それだけでなく、聖霊は永遠に共にいてくださるというのですから、イエスは主であると一度は告白したけれども、聖霊の神はいつの間にかどこかに行ってしまって、元の木阿弥になってしまうと言うことがない。永遠に共にいてくださって、わたしたちの信仰を守り導いてくださるのです。まさしく、聖霊は助け主であり、わたしたちを導く弁護者です。
聖霊の神のもう一つのお働きは、父なる神と子なる神である主イエスとの深い関係、切っても切れない関係の中に、わたしたち自身が招かれるということであります。先週読みました11節に「私が父の内にあり、父が私の内におられる」という主イエス様の御言葉がありました。これは神学的に言えば、父なる神と子なるイエス様の「相互内在」、両方のものはぴったりと重なって一つであると言ったのであります。今朝の20節は、本当に驚くべきことですが、この相互内在の中にわたしたちが巻き込まれてしまいます。「かの日には、わたしが父の内におり、あなた方がわたしの内におり、わたしもあなた方の内にいることが、あなた方には分かる」
かの日とは、これは、世の終わりの最後の審判のときということではなく、聖霊の神が、送られてくるときであります。具体的には、ペンテコステの聖霊降臨の出来事が起こって、この世にキリスト教会が姿を現した、その日であります。つまり、今の時代であり、この教会の中で、そのことは起こっているのです。
4,
わたしたちの隣りにいて、賛美歌を歌っている人には主イエス様が聖霊の神さまにおいて宿っていてくださる。祈りをしている人、献金をしている人は、すでに主イエス様の内にいる神様の内にいるのだというのです。
だから、わたしたちは主の掟を行うようにすでに導かれている。つまり互いに愛し合うことがそこには起こっているのです。聖霊によって神を愛し、人を愛するよう導かれている人は、主イエス様に愛されています。それだけではない、当然、天の父なる神様からも愛されています。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人に私自身を現わす。」
主イエス様の姿が、少しずつ、次第、次第にわたしたちの姿に現れてくる。これは聖霊の神様のお働き以外にはありません。もちろん、わたしたちは地上に生きている間は、罪の残りに堪えず悩まされていますから、完全に神様の形になってしまうことはありません。しかし、少しずつ変えられてゆく、作り変えられてゆく。そして地上の生涯を終えて主イエス様の身許にゆくときには、完全に清められ変えられて主のもとに行きます。
わたしたちの祈りにおいて、そこに主イエス様のお姿が現れているか、今はまだまだであるかもしれない、しかし、そこに向かって、少しずつ進んで行きます。三歩進んで二歩下がるという仕方かも知れません。それでも結果として前に進めばよいのです。
すでにわたしたちに与えられている助け主、弁護者、真理の霊、聖霊なる神様により頼みましょう。祈ります。
祈り
神さま、主イエス様を与えて下さり、さらに聖霊の神様を与えて下さってありがとうございます。神を愛し、隣人を愛し、とりわけ主にある兄弟姉妹として互いに愛し合うことが出来ますように。また、わたしたちの祈りが御心にかなったものでありように導いてください。