聖書の言葉 ヨハネによる福音書 13章36節~38節 メッセージ 2023年9月17日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書13章36節~38節「弟子ペトロ裏切りの予告」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 今朝、わたしたちに与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書13章のまさに終りのところ、36節から38節であります。最後の晩餐の夜に、使徒ペトロが、主イエス様からあなたはわたしを裏切ることになると予告されたというみ言葉であります。 ペトロという人は、主イエス様の12人弟子のリーダーでありました。言い伝えでは、弟子たちの中でペトロは最年長であったそうです。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四つの福音書には、それぞれ12弟子の名を記している弟子のリストがありますけれども、ペトロの名は常に最初に記されていて、弟子の頭としての位置付けが明確にされています。主イエス様の信頼を受け、また弟子たちも皆がペトロを重んじていたのです。 ただいま、お読みしました短い聖書個所に改めて心を向けましょう。この4つの節からなっています短いみ言葉です。み言葉の形としては、本当に単純であります。シモン・ペトロと主イエス様との対話です。ペトロが言った、イエスが答えられた。ペトロは言った、イエスは答えられたというように、言葉のキャッチボールが二回なされています。言ってみれば、それだけです。そして最後に主イエス様は、ペトロにこういうのです。 「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないというだろう」そこで対話は終わります。 最初は、ペトロが主イエス様に質問しています。「主よ、どこに行かれるのですか。」主イエス様は、「あなたがついてくることができないところに行く」とお答えになります。そうしますと、ペトロは、心を高ぶらせて、そんなことはないという想いで「なぜついてゆくことが出来ないと言われるのか」、「承服できません。あなたのためなら命を捨てる覚悟です」というように反応しました。このクライマックスに達したペトロの心に水をかけるかのように、主イエス様は、ペトロの裏切りの予告をされたのです。 2, 裏切りの予告は最後の38節です。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないというだろう」 「鶏が鳴くまでに」といいますのは、明日の朝までにという意味です。実は、新改訳聖書の欄外注の別訳やカトリックのフランシスコ会訳聖書には文字通りの直訳が記されています。実際のギリシャ語は順序が逆になっています。このようなみ言葉です。「あなたが三度わたしを知らないというまで、鶏は決して鳴かないであろう」。この最後の晩餐の夜という時点で、次に鶏がなく時、それは明日の朝と言うことです。ですから、あなたは明日の朝までに私を三度否むということであります。また、三度否むとは、文字通り三回言うということですけれども、それは間違いなく、あなたは明確にそういうという意味であります。 このペトロに対する裏切りの予告は、残った弟子たち全員にはっきりとわかる仕方でなされました。それは、この前に記されています、イスカリオテのユダの裏切り予告と大きく違っている点であります。 13章の中ほど、21節から30節のところでは、同じ弟子のイスカリオテのユダが主イエス様を必ず裏切るということが予告されました。このユダの裏切りの予告は、裏切るのが誰であるかということを、多くの弟子にははっきりとはさせない仕方で行われていました。主イエス様のすぐ横に座っていたヨハネと、このときは主イエス様を挟んでヨハネの反対側にいたユダ本人だけが、分かる仕方でこのことを知らせておられます。 わたしが今からパンを水に浸して与えるものが裏切るとこっそりと言われて、すぐにユダに浸したパンを渡したのですけれども、ほかの者たちはわかりませんでした。他の人たちは、ユダが夜の暗闇に飛び出していったのは、祭りに必要なものを買いにいったか、あるいは貧しい人への施しの仕事のためだと思ったほどでした。これはユダに対する最後の警告としての意味があったのです。 しかし、ペトロの場合には違います。弟子たちを代表するような形で主イエス様と語り始めたペトロは、皆の前で、あなたはわたしを裏切ると明言されてしまうのです。 わたしたちは、このような仕方で、主イエス様の予告の言葉を受けたシモン・ペトロの気持ちを想像することができるでしょうか。もし私たち自身が、この場に居合わせ、かつ、自分がペトロだったらどうしたでしょうか。自信満々のペトロにとって、予想もしなかった言葉が主イエス様から発せられたことに驚いたことでしょう。弟子のリーダーと自任し、他の弟子たちもそう認めていた人物、ペトロが、主イエス様ご自身から、あなたはわたしを知らないという、しかも明日の朝までに三回そのようにいうと皆の前で宣告されるのです。 昔、会社務めをしていました時に管理職の研修を受けました。組織作りのために管理職はどう振舞うかという課題でしたが、そのときに、職場で人をほめるときはみなの前でほめること、叱る時、批判するときは二人だけのところで、まずしなさいと教えられたことが印象に残っています。後になって、マタイによる福音書の18章に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言う言葉を発見して、やはり聖書はすごいと感動したことを思い出します。 しかし、このときペトロは、弟子のリーダーでありながら、皆の前で主イエス様から、叱られている、あるいはマイナスのことを言われているのです。 主イエス様の予告の言葉ですが、どの日本語聖書でも「知らないという」と訳されていますが、英語の聖書では、たいていディナイ、と訳されます。英和辞書で引きますと、ディナイは否定する、否認する、拒否すると出ています。元のギリシャ語もまた、「否定する」とか「拒絶する」とも訳すことが出来る強い言葉です。「主イエスさま、あなたのためなら命を捨てます」こう言って、主イエス様への信仰、主イエス様への愛を弟子たちみんなの前で明言したペトロですが、主イエス様から、あなたはわたしを知らないという、わたしのために命を捨てるどころか、「あんな人などは知らない」としらを切る、愛するどころか、わたしはあの人とは関係ないという、しかも三度いう、こういわれたのですから、きっと憤慨したと思います。 主イエス様は、この言葉を語る前に、「はっきり言っておく」と前置きされています。今からいうことを良く聞きなさい。大事なことだ、そうと前置きして、言われました。「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」 ペトロはどんな顔をしたでしょうか。きっとそんなことはありませんと反発したことでしょう。顔全体をゆがめ、怒った顔で主イエス様を見つめたかもしれません。 主イエス様に対する私たちの信仰が本物かどうか、そのことはおそらく試練の中で試されるものだと思います。試されるということは何かテストに合格点をとるというような試験と同じではありません。試練を受ける中で謙遜になり、信仰が練り清められ、成長してゆくものであります。ペトロは、このとき威勢よく、命がけであなたに従いますと、信仰を言い表しましたが、それが簡単に挫折するものであることを主イエス様は知っておられました。そして、時が起こった時、その通りにペトロは主イエス様を否定し、逃げ出してしまいます。ペトロと他の弟子たちは、みな主イエス様を捨ててしまいます。それでは、ペトロは、主イエス様から捨てられたかのかと言いますと決してそうではないのです。イエス様は最後までペトロを弟子として扱っておられます。 私たちのことを考えてみましょう。わたしたちは、主イエス様、あなたを信じます、いつもありがとうございますと礼拝や祈りの中で幾度も語っています。イエス様への信仰を言い表しています。しかし、祈りから立ち上がるや否や、その信仰とは裏腹なことを思い、語り、行動してしまうことがないでしょうか。間違いなくあるのです。そんなとき、わたしの信仰は口先だけのものだと、心がくじけてしまうかもしれません。しかし、本物の信仰とそうでない信仰とを区別することが出来るかどうか、それは主イエス様だけが知っておられることなのです。わたしたちはその判定をすることはできないし、してはならないことだと思うのです。 ペトロは弟子の代表です。主イエス様が、しばらくはあなたと共にいるけれども、すぐに、あなたたちがついて来ることが出来ないところに行くと言われましたので、ペトロは、主よ、どこに行かれるのですかと尋ねました。それは弟子たちを代表して尋ねているのです。そして主イエス様は、それへの答えを、弟子の代表への答えとして語られ、また。あなたはわたしを否認する、拒否するという予告もまた弟子たち皆に対してなさっているのです。いま、主イエス様のみ言葉を聞いております私たちもまた、そこに含まれています。私たちもまた、時が起きた時、主イエス様を否定し、拒否するようなことを心に想い、またクチン出してしまうことがないでしょうか。感謝の言葉を祈ったそのすぐ後で、主イエス様の愛を疑ったりする、あるいは、互いに愛し合うようにという主イエス様の命令を全く実行できない私たちなのです。 しかし、主イエス様は、そのような私たちのことをすべてご存じの上で、私たちを愛して下さり、私たちが行くことのできない場所、すなわち、十字架にかけられて、罪の贖いをしてくださるのです。 3、 シモン・ペトロが主イエス様にたずねるところから今朝の御言葉が始まりました。「主よ、どこに行かれるのですか」。 「クウォ・ヴァディス」という映画をご存じでしょうか。クウォ・ヴァディスいいますのは、「どこへ行かれるのですか」という今朝のペトロの問いかけをラテン語で言ったものです。映画は紀元2世紀に書かれたと言われるペトロ行伝という新約聖書の外典、教会に伝わる伝説をもとにしています。この伝説は、19世紀にポーランドのノーベル賞作家シェンケヴィッチによって小説になり、またアメリカでベンハーに先立つキリスト教の一大スペクタクル映画になりました。 主イエス様の十字架から二十年三十年たったころ、ペトロは立派な伝道者になってローマで福音を宣べ伝えていました。多くの人たちが回心して主イエス様を信じるようになります。その中にはローマ皇帝ネロや、その家臣たちの妻や愛人たちも含まれていました。ローマの高官たちのもとを彼らの妻たちが信仰を持ち、あるいは愛人たちが回心し乱れた生活を捨て去るようになります。このようなこともあって、ときのローマ皇帝ネロは教会を迫害します。皇帝ネロは自らの部下に命じてローマに放火します。そうしておきながらそのローマの大火がキリスト教徒の仕業であるとしてキリスト教徒への大迫害を引き起こします。教会への迫害が大変激しくなってくる。ペトロは、もうだめだ、もはやローマでは生きてゆけないと思いまして、アッピア街道を通って、逃げ出そうといたします。そこに復活の主イエス様が、あの使徒パウロに現れてくださったように姿を現してくださるのです。主イエス様が逃げ出そうとするペトロに出会ってくださる。ところが、主イエス様は、ローマから逃げ出そうとするペトロとは反対方向、ローマに向かおうとしているではありませんか。ペトロはとっさにたずねます、「主よ、どこへ行かれるのですか」「クウォ・ヴァディス」 主イエス様は、ペトロにこうお答えになるのです。「ローマに行って、あなたの代わりにもう一度十字架にかかる」 これを聞いて、自分の信仰の弱さを恥じたペトロは、直ちに道を引き返してローマにもどり、そこで殉教するのです。ペトロが引き返したとき、主イエス様はペトロの目の前で、天に帰って行かれたといいます。ペトロは十字架にかけられ、「主イエス様が行かれたところ」に行くことになったという言い伝えであります。 「あなたのためなら命を捨てます」。こう言い切ったペトロです。この伝説によるならば、そのペトロが実際に主イエス様のために命を捨てたのは、ペトロがローマで殉教したときです。カトリック教会ではこの伝説は、聖書と同じように信じられています。 さて、最後の晩餐の場面に戻ります。主イエス様は、ペトロの「命を捨てる」という言葉を繰り返して、おそらく、その顔を覗き込むようにして、もう一度ペトロに言いました。「わたしのために命を捨てると言うのか」、「はっきり言っておく、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うであろう」 イスカリオテのユダの裏切りが、つい先ほど告げられたばかりです。それに続いて、はっきり言っておく、原語では、アーメン、アーメンと繰り返して確かさを強調する語り方さえも加えて、主イエス様は、ペトロの裏切りについて予告なさいました。 これを聞いたペトロはどうしたのでしょうか。実は、ここから先、トマスやフォリポ、そしてイスカリオテでない方のユダが、主イエス様の説教の合間に次々と質問しますが、ペトロは全く登場しなくなります。あの元気のよいペトロは、まったく沈黙してしまいます。おそらく、ペトロは、部屋の片隅にじっと座って、何も考えられなくなって呆然としていたのではないかと思います。 この後の18章では、ペトロは、主イエス様が捕らえられた大祭司の屋敷まで入り込みます。そして、「お前もあの人の仲間だ」と言われると、違うと否定し、そして三度、主イエス様との関係を打ち消しました。そして鶏が時を告げたのです。マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書によれば、このときペトロは屋敷の外に出て激しく泣いたとされています。 4, さて、主イエス様がペトロに向かって「あなたたについてくることができない」、そして「後でついてくる」といわれた場所はどこなのか、そのことを考えてみたいと思います。 第一に、その場所は、カトリックの聖伝、あるいは映画クウォ・ヴァディスが、示したように十字架の上だというものです。主イエスがこれからゆかれるところは十字架の上である、そこにペトロは今は行くことが出来ない、けれども、あとになってゆくことが出来る、あくまで伝説によることですが、この言葉通りにペトロもまたローマ帝国によって十字架につけられたのであります。 第二は、もっと深くこの言葉を理解するものです。つまり、主イエス様は、もうすぐ、十字架にかけられ、命を失う、つまり死にます。そして一度は黄泉に下られ、三日後に復活なさいます。この時の主イエス様の体は復活の体であり、天的なあり方に変えられています。40日後に主イエス様は天に昇り、父なる神のもとに行かれます。十字架は、あくまでこの過程の中の一つの場所であります。主イエス様は十字架を通って父なる神のもとへ行かれます。つまりペトロと彼に代表されるすべての弟子たちは、すぐには父のもとに行くことはできず、しばらく地上で暮らすけれども、後になって、父のもとに行くことが出来る、そこで主イエス様にお会いするととるのです。 三つ目は、この後の14章、あるいは17章末までの主イエス様の告別説教と関係付けて、いっそう具体的に理解するものです。まず14章で、主イエス様は「あなたがたのために場所を用意しにゆく」と言われます。「あなた方のために場所を用意したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎える」とも言われます。14章3節の終りで主イエス様はこう明言されます。「わたしのいるところにあなた方もいることになる」 つまり、主イエス様は、弟子たちと一度は離れる、主イエス様は去ってゆきます。けれども、後になって、弟子たちは主イエス様と一緒にいるようになる、その場所は、天の国、父なる神のもとでもよい、あるいは地上のいろいろな場所であってもよい、いずれにせよ、主イエス様と再び一緒になるのです。 次の14章では、父なる神が弁護者、傍らにいてくださる方として聖霊を送ることが主イエス様に依って約束されます。この聖霊なる神が、いつもその人と主イエス様とを結びつけて一つにしてくださる、そして父なる神も同様に、聖霊によって共にいてくださると約束されます。 最後の晩餐を終えて、主イエス様が、弟子たちから離れて、まず行くところは十字架であることは確かです。しかし、その十字架を通して、主イエス様はわたしたちの罪を贖いすべての咎を赦してくださいます。わたしたちは、主イエス様を信じ、主イエス様とつながることで天の父なる神様との関係を回復され、神の子となります。そのために主イエス様は、しばらく弟子たちのもとを離れなくてはならないのです。しかし、十字架と復活という御業が成し遂げられたとき、主イエス様の弟子である者は、もはやこれまでとは違う場所に招かれるのであります。罪を赦され、神のことなり、父なる神と、そして主イエス様といつも一緒にいることが出来るようになります。これは主イエス様の十字架なしにはできないことです。 だからこそ、主イエス様はペトロに言われたのです。「わたしの行くところに、あなたは今はついてくることが出来ないが、後でついてくることになる」 「あなたの為に命を捨てます」という、人間の側の熱心や決心ではなく、たとえ、三度主イエス様を否むという弱さをさらけ出しても、神の側の熱心、神の恵みによる十字架の赦しによって、わたしたちは主イエス様のゆくところに行くことが出きます。神様が恵みによってわたしたちを救ってくださいます。わたしたちもまた、ペトロのように弱い、欠け多い、それどころか罪にまみれたものであります。しかしそうであっても、主イエス様が、その愛によってわたしたちを救い、恵みを与えてくださる、このことを信じ、主イエス様に従ってゆきたいと願います。祈ります。 祈り 私たちを愛し、愛し抜いてくださる主イエス・キリストの父なる神さま。9月第三主日の礼拝を今日も捧げることが出来ました。ペトロのように口先では強いように見えて、現実は、あなたの憐みなくしては立ってゆくことも、ただ悪しく前に進むこともできないもの私たち地です。しかし、後でわたしのゆくところにあなたたちもいるという主イエス様の約束がすでに成し遂げられていることを感謝いたします。どうかこの週も、あなたが共にいてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2023年9月17日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書13章36節~38節「弟子ペトロ裏切りの予告」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
今朝、わたしたちに与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書13章のまさに終りのところ、36節から38節であります。最後の晩餐の夜に、使徒ペトロが、主イエス様からあなたはわたしを裏切ることになると予告されたというみ言葉であります。
ペトロという人は、主イエス様の12人弟子のリーダーでありました。言い伝えでは、弟子たちの中でペトロは最年長であったそうです。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四つの福音書には、それぞれ12弟子の名を記している弟子のリストがありますけれども、ペトロの名は常に最初に記されていて、弟子の頭としての位置付けが明確にされています。主イエス様の信頼を受け、また弟子たちも皆がペトロを重んじていたのです。
ただいま、お読みしました短い聖書個所に改めて心を向けましょう。この4つの節からなっています短いみ言葉です。み言葉の形としては、本当に単純であります。シモン・ペトロと主イエス様との対話です。ペトロが言った、イエスが答えられた。ペトロは言った、イエスは答えられたというように、言葉のキャッチボールが二回なされています。言ってみれば、それだけです。そして最後に主イエス様は、ペトロにこういうのです。
「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないというだろう」そこで対話は終わります。
最初は、ペトロが主イエス様に質問しています。「主よ、どこに行かれるのですか。」主イエス様は、「あなたがついてくることができないところに行く」とお答えになります。そうしますと、ペトロは、心を高ぶらせて、そんなことはないという想いで「なぜついてゆくことが出来ないと言われるのか」、「承服できません。あなたのためなら命を捨てる覚悟です」というように反応しました。このクライマックスに達したペトロの心に水をかけるかのように、主イエス様は、ペトロの裏切りの予告をされたのです。
2,
裏切りの予告は最後の38節です。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないというだろう」
「鶏が鳴くまでに」といいますのは、明日の朝までにという意味です。実は、新改訳聖書の欄外注の別訳やカトリックのフランシスコ会訳聖書には文字通りの直訳が記されています。実際のギリシャ語は順序が逆になっています。このようなみ言葉です。「あなたが三度わたしを知らないというまで、鶏は決して鳴かないであろう」。この最後の晩餐の夜という時点で、次に鶏がなく時、それは明日の朝と言うことです。ですから、あなたは明日の朝までに私を三度否むということであります。また、三度否むとは、文字通り三回言うということですけれども、それは間違いなく、あなたは明確にそういうという意味であります。
このペトロに対する裏切りの予告は、残った弟子たち全員にはっきりとわかる仕方でなされました。それは、この前に記されています、イスカリオテのユダの裏切り予告と大きく違っている点であります。
13章の中ほど、21節から30節のところでは、同じ弟子のイスカリオテのユダが主イエス様を必ず裏切るということが予告されました。このユダの裏切りの予告は、裏切るのが誰であるかということを、多くの弟子にははっきりとはさせない仕方で行われていました。主イエス様のすぐ横に座っていたヨハネと、このときは主イエス様を挟んでヨハネの反対側にいたユダ本人だけが、分かる仕方でこのことを知らせておられます。
わたしが今からパンを水に浸して与えるものが裏切るとこっそりと言われて、すぐにユダに浸したパンを渡したのですけれども、ほかの者たちはわかりませんでした。他の人たちは、ユダが夜の暗闇に飛び出していったのは、祭りに必要なものを買いにいったか、あるいは貧しい人への施しの仕事のためだと思ったほどでした。これはユダに対する最後の警告としての意味があったのです。
しかし、ペトロの場合には違います。弟子たちを代表するような形で主イエス様と語り始めたペトロは、皆の前で、あなたはわたしを裏切ると明言されてしまうのです。
わたしたちは、このような仕方で、主イエス様の予告の言葉を受けたシモン・ペトロの気持ちを想像することができるでしょうか。もし私たち自身が、この場に居合わせ、かつ、自分がペトロだったらどうしたでしょうか。自信満々のペトロにとって、予想もしなかった言葉が主イエス様から発せられたことに驚いたことでしょう。弟子のリーダーと自任し、他の弟子たちもそう認めていた人物、ペトロが、主イエス様ご自身から、あなたはわたしを知らないという、しかも明日の朝までに三回そのようにいうと皆の前で宣告されるのです。
昔、会社務めをしていました時に管理職の研修を受けました。組織作りのために管理職はどう振舞うかという課題でしたが、そのときに、職場で人をほめるときはみなの前でほめること、叱る時、批判するときは二人だけのところで、まずしなさいと教えられたことが印象に残っています。後になって、マタイによる福音書の18章に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言う言葉を発見して、やはり聖書はすごいと感動したことを思い出します。
しかし、このときペトロは、弟子のリーダーでありながら、皆の前で主イエス様から、叱られている、あるいはマイナスのことを言われているのです。
主イエス様の予告の言葉ですが、どの日本語聖書でも「知らないという」と訳されていますが、英語の聖書では、たいていディナイ、と訳されます。英和辞書で引きますと、ディナイは否定する、否認する、拒否すると出ています。元のギリシャ語もまた、「否定する」とか「拒絶する」とも訳すことが出来る強い言葉です。「主イエスさま、あなたのためなら命を捨てます」こう言って、主イエス様への信仰、主イエス様への愛を弟子たちみんなの前で明言したペトロですが、主イエス様から、あなたはわたしを知らないという、わたしのために命を捨てるどころか、「あんな人などは知らない」としらを切る、愛するどころか、わたしはあの人とは関係ないという、しかも三度いう、こういわれたのですから、きっと憤慨したと思います。
主イエス様は、この言葉を語る前に、「はっきり言っておく」と前置きされています。今からいうことを良く聞きなさい。大事なことだ、そうと前置きして、言われました。「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」
ペトロはどんな顔をしたでしょうか。きっとそんなことはありませんと反発したことでしょう。顔全体をゆがめ、怒った顔で主イエス様を見つめたかもしれません。
主イエス様に対する私たちの信仰が本物かどうか、そのことはおそらく試練の中で試されるものだと思います。試されるということは何かテストに合格点をとるというような試験と同じではありません。試練を受ける中で謙遜になり、信仰が練り清められ、成長してゆくものであります。ペトロは、このとき威勢よく、命がけであなたに従いますと、信仰を言い表しましたが、それが簡単に挫折するものであることを主イエス様は知っておられました。そして、時が起こった時、その通りにペトロは主イエス様を否定し、逃げ出してしまいます。ペトロと他の弟子たちは、みな主イエス様を捨ててしまいます。それでは、ペトロは、主イエス様から捨てられたかのかと言いますと決してそうではないのです。イエス様は最後までペトロを弟子として扱っておられます。
私たちのことを考えてみましょう。わたしたちは、主イエス様、あなたを信じます、いつもありがとうございますと礼拝や祈りの中で幾度も語っています。イエス様への信仰を言い表しています。しかし、祈りから立ち上がるや否や、その信仰とは裏腹なことを思い、語り、行動してしまうことがないでしょうか。間違いなくあるのです。そんなとき、わたしの信仰は口先だけのものだと、心がくじけてしまうかもしれません。しかし、本物の信仰とそうでない信仰とを区別することが出来るかどうか、それは主イエス様だけが知っておられることなのです。わたしたちはその判定をすることはできないし、してはならないことだと思うのです。
ペトロは弟子の代表です。主イエス様が、しばらくはあなたと共にいるけれども、すぐに、あなたたちがついて来ることが出来ないところに行くと言われましたので、ペトロは、主よ、どこに行かれるのですかと尋ねました。それは弟子たちを代表して尋ねているのです。そして主イエス様は、それへの答えを、弟子の代表への答えとして語られ、また。あなたはわたしを否認する、拒否するという予告もまた弟子たち皆に対してなさっているのです。いま、主イエス様のみ言葉を聞いております私たちもまた、そこに含まれています。私たちもまた、時が起きた時、主イエス様を否定し、拒否するようなことを心に想い、またクチン出してしまうことがないでしょうか。感謝の言葉を祈ったそのすぐ後で、主イエス様の愛を疑ったりする、あるいは、互いに愛し合うようにという主イエス様の命令を全く実行できない私たちなのです。
しかし、主イエス様は、そのような私たちのことをすべてご存じの上で、私たちを愛して下さり、私たちが行くことのできない場所、すなわち、十字架にかけられて、罪の贖いをしてくださるのです。
3、
シモン・ペトロが主イエス様にたずねるところから今朝の御言葉が始まりました。「主よ、どこに行かれるのですか」。
「クウォ・ヴァディス」という映画をご存じでしょうか。クウォ・ヴァディスいいますのは、「どこへ行かれるのですか」という今朝のペトロの問いかけをラテン語で言ったものです。映画は紀元2世紀に書かれたと言われるペトロ行伝という新約聖書の外典、教会に伝わる伝説をもとにしています。この伝説は、19世紀にポーランドのノーベル賞作家シェンケヴィッチによって小説になり、またアメリカでベンハーに先立つキリスト教の一大スペクタクル映画になりました。
主イエス様の十字架から二十年三十年たったころ、ペトロは立派な伝道者になってローマで福音を宣べ伝えていました。多くの人たちが回心して主イエス様を信じるようになります。その中にはローマ皇帝ネロや、その家臣たちの妻や愛人たちも含まれていました。ローマの高官たちのもとを彼らの妻たちが信仰を持ち、あるいは愛人たちが回心し乱れた生活を捨て去るようになります。このようなこともあって、ときのローマ皇帝ネロは教会を迫害します。皇帝ネロは自らの部下に命じてローマに放火します。そうしておきながらそのローマの大火がキリスト教徒の仕業であるとしてキリスト教徒への大迫害を引き起こします。教会への迫害が大変激しくなってくる。ペトロは、もうだめだ、もはやローマでは生きてゆけないと思いまして、アッピア街道を通って、逃げ出そうといたします。そこに復活の主イエス様が、あの使徒パウロに現れてくださったように姿を現してくださるのです。主イエス様が逃げ出そうとするペトロに出会ってくださる。ところが、主イエス様は、ローマから逃げ出そうとするペトロとは反対方向、ローマに向かおうとしているではありませんか。ペトロはとっさにたずねます、「主よ、どこへ行かれるのですか」「クウォ・ヴァディス」
主イエス様は、ペトロにこうお答えになるのです。「ローマに行って、あなたの代わりにもう一度十字架にかかる」
これを聞いて、自分の信仰の弱さを恥じたペトロは、直ちに道を引き返してローマにもどり、そこで殉教するのです。ペトロが引き返したとき、主イエス様はペトロの目の前で、天に帰って行かれたといいます。ペトロは十字架にかけられ、「主イエス様が行かれたところ」に行くことになったという言い伝えであります。
「あなたのためなら命を捨てます」。こう言い切ったペトロです。この伝説によるならば、そのペトロが実際に主イエス様のために命を捨てたのは、ペトロがローマで殉教したときです。カトリック教会ではこの伝説は、聖書と同じように信じられています。
さて、最後の晩餐の場面に戻ります。主イエス様は、ペトロの「命を捨てる」という言葉を繰り返して、おそらく、その顔を覗き込むようにして、もう一度ペトロに言いました。「わたしのために命を捨てると言うのか」、「はっきり言っておく、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うであろう」
イスカリオテのユダの裏切りが、つい先ほど告げられたばかりです。それに続いて、はっきり言っておく、原語では、アーメン、アーメンと繰り返して確かさを強調する語り方さえも加えて、主イエス様は、ペトロの裏切りについて予告なさいました。
これを聞いたペトロはどうしたのでしょうか。実は、ここから先、トマスやフォリポ、そしてイスカリオテでない方のユダが、主イエス様の説教の合間に次々と質問しますが、ペトロは全く登場しなくなります。あの元気のよいペトロは、まったく沈黙してしまいます。おそらく、ペトロは、部屋の片隅にじっと座って、何も考えられなくなって呆然としていたのではないかと思います。
この後の18章では、ペトロは、主イエス様が捕らえられた大祭司の屋敷まで入り込みます。そして、「お前もあの人の仲間だ」と言われると、違うと否定し、そして三度、主イエス様との関係を打ち消しました。そして鶏が時を告げたのです。マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書によれば、このときペトロは屋敷の外に出て激しく泣いたとされています。
4,
さて、主イエス様がペトロに向かって「あなたたについてくることができない」、そして「後でついてくる」といわれた場所はどこなのか、そのことを考えてみたいと思います。
第一に、その場所は、カトリックの聖伝、あるいは映画クウォ・ヴァディスが、示したように十字架の上だというものです。主イエスがこれからゆかれるところは十字架の上である、そこにペトロは今は行くことが出来ない、けれども、あとになってゆくことが出来る、あくまで伝説によることですが、この言葉通りにペトロもまたローマ帝国によって十字架につけられたのであります。
第二は、もっと深くこの言葉を理解するものです。つまり、主イエス様は、もうすぐ、十字架にかけられ、命を失う、つまり死にます。そして一度は黄泉に下られ、三日後に復活なさいます。この時の主イエス様の体は復活の体であり、天的なあり方に変えられています。40日後に主イエス様は天に昇り、父なる神のもとに行かれます。十字架は、あくまでこの過程の中の一つの場所であります。主イエス様は十字架を通って父なる神のもとへ行かれます。つまりペトロと彼に代表されるすべての弟子たちは、すぐには父のもとに行くことはできず、しばらく地上で暮らすけれども、後になって、父のもとに行くことが出来る、そこで主イエス様にお会いするととるのです。
三つ目は、この後の14章、あるいは17章末までの主イエス様の告別説教と関係付けて、いっそう具体的に理解するものです。まず14章で、主イエス様は「あなたがたのために場所を用意しにゆく」と言われます。「あなた方のために場所を用意したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎える」とも言われます。14章3節の終りで主イエス様はこう明言されます。「わたしのいるところにあなた方もいることになる」
つまり、主イエス様は、弟子たちと一度は離れる、主イエス様は去ってゆきます。けれども、後になって、弟子たちは主イエス様と一緒にいるようになる、その場所は、天の国、父なる神のもとでもよい、あるいは地上のいろいろな場所であってもよい、いずれにせよ、主イエス様と再び一緒になるのです。
次の14章では、父なる神が弁護者、傍らにいてくださる方として聖霊を送ることが主イエス様に依って約束されます。この聖霊なる神が、いつもその人と主イエス様とを結びつけて一つにしてくださる、そして父なる神も同様に、聖霊によって共にいてくださると約束されます。
最後の晩餐を終えて、主イエス様が、弟子たちから離れて、まず行くところは十字架であることは確かです。しかし、その十字架を通して、主イエス様はわたしたちの罪を贖いすべての咎を赦してくださいます。わたしたちは、主イエス様を信じ、主イエス様とつながることで天の父なる神様との関係を回復され、神の子となります。そのために主イエス様は、しばらく弟子たちのもとを離れなくてはならないのです。しかし、十字架と復活という御業が成し遂げられたとき、主イエス様の弟子である者は、もはやこれまでとは違う場所に招かれるのであります。罪を赦され、神のことなり、父なる神と、そして主イエス様といつも一緒にいることが出来るようになります。これは主イエス様の十字架なしにはできないことです。
だからこそ、主イエス様はペトロに言われたのです。「わたしの行くところに、あなたは今はついてくることが出来ないが、後でついてくることになる」
「あなたの為に命を捨てます」という、人間の側の熱心や決心ではなく、たとえ、三度主イエス様を否むという弱さをさらけ出しても、神の側の熱心、神の恵みによる十字架の赦しによって、わたしたちは主イエス様のゆくところに行くことが出きます。神様が恵みによってわたしたちを救ってくださいます。わたしたちもまた、ペトロのように弱い、欠け多い、それどころか罪にまみれたものであります。しかしそうであっても、主イエス様が、その愛によってわたしたちを救い、恵みを与えてくださる、このことを信じ、主イエス様に従ってゆきたいと願います。祈ります。
祈り
私たちを愛し、愛し抜いてくださる主イエス・キリストの父なる神さま。9月第三主日の礼拝を今日も捧げることが出来ました。ペトロのように口先では強いように見えて、現実は、あなたの憐みなくしては立ってゆくことも、ただ悪しく前に進むこともできないもの私たち地です。しかし、後でわたしのゆくところにあなたたちもいるという主イエス様の約束がすでに成し遂げられていることを感謝いたします。どうかこの週も、あなたが共にいてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。