聖書の言葉 ヨハネによる福音書 13章31節~35節 メッセージ 2023年9月10日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書13章31節~35節「互いに愛し合う群れ」 1、 主イエス様は今朝のみ言葉で、あなたがたに、すなわち、主イエス・キリストの弟子である者たちに、新しい掟を与えると明言しておられます。それは「愛の掟」であります。あなたがたイエス・キリストの弟子である者は、互いに愛し合うようにと命じておられます。しかも、ここが大切なことだと思うのですが、「わたしがあなたがたを愛したように」と前置きなさいました。人間同士の愛、例えば、「あの人の愛、この人の愛に倣って」ということではなくて、主イエス様が示された愛、十字架を成し遂げられた愛、神の愛に倣って愛し合うようにと言われたのです。 今朝の説教題は「互いに愛し合う群れ」といたしました。通りを歩く方々は、この説教題を目にすると思うのですが、この説教題は、この教会は互いに愛し合っている麗しい群れであると言ことを主張しているのではありません。そうではなくて、この世の教会は決して完全なものではないわけですから、主イエス様が、愛し合えないわたしたちに向かって、互いに愛し合う群れであることを絶えず願っておられるという意味なのです。 わたくしの本棚にある本の中でもっとも厚くて重たい部類の本の一つは、コンコルダンスと呼ばれている本です。聖書の中に出て来るいろいろな言葉が、聖書のどの箇所にどんなふうに出ているか、単語別に並べた本です。 この愛という言葉、あるいは愛するという動詞の言葉について、このコンコルダンスを引きますと面白いことが分かります。愛するという言葉は、ギリシャ語ではアガパオーですが、この言葉が最も多く出てくるのはヨハネによる福音書であるということです。マタイによる福音書には7回、マルコは6回、ルカは10回ですが、ヨハネによる福音書には27回出て来ています。聖書の中には手紙も多くありますが、この手紙の中でも、ヨハネの手紙が愛するという言葉をもっとも多く用います。新共同訳聖書で7ページしかないヨハネの手紙1ですけれども、アガパオー、「愛する」という動詞の言葉が20回、アガペー、愛という言葉も18回出ています。その次は、コリントの信徒への手紙です。13章に、愛についての有名な御言葉があります。「愛は忍耐つよい、愛は情け深い、ねたまない、うんぬん」、このパウロの御言葉を記しているコリントの信徒への手紙1、これは手紙の全体では、16章まで合わせて25ページもありますが、でも愛という言葉は、全体では15回出るだけなのであります。 ですから、ヨハネの書きましたものにおいて、いかに愛する、あるいは愛という言葉が多く出ているのかわかります。ヨハネという弟子、使徒は愛に関心があった、愛によって信仰ということを考えていた人であろうと思います。 けれども、聖書はこのヨハネという弟子についてどう呼んでいるかと申しますと、マルコによる福音書3章17節にこう書かれています。主イエス様が12弟子を選んで任命するところです。 「ゼベダイの子、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち「雷の子ら」という名を付けられた。 雷の子らとあだ名を付けられた理由は、書かれていないのですけれども、どうしても、雷の子ですから、すぐに雷を落とす、激高しやすい、あるいは、やかましい、そういうイメージです。どう見ても、愛の人には似つかわしくありません。 ヨハネという人は、やはり主イエス様によって変えられていったに違いないと思います。主イエス様に育てられると「雷の子」も、「愛の人」に変わってしまうのです。 今日のこの礼拝に集まるわたしたちの中にも、主イエス様から雷の子らと呼ばれてしまいそうな方がいるのかいないのか、ほんとうのところは、わたしには分かりません。けれども、主イエス様によって、多少なりとも愛の人になることが出来るし、必ずそうなるだろうと、自分自身のことも含めて信じて祈っております。 2 『互いに愛し合う群れ』、それは誰にとっても素晴らしい響きを持つ言葉だろうと思います。恐らく、この言葉を聞いたり見たりして、「何を言っているのか」と反発を覚えたり、あるいは「これはどこかおかしい」とか思う人はおられないだろうと思います。別の面から見ると誰も反対しないし、反対できない御言葉です。しかし、それだけに、主イエス様の願い、わたしたちへの掟は愛だといいますと、何かある種の建前のようなものであって、実際には何の意味も持たないスローガンのようなものになる恐れがある、そういう御言葉ではないかとも思うのです。誰も反対しないかもしれないけれども、一方で誰も真剣には実行していない、そういう言葉になるのです。 先ほどお読みしました御言葉の34節にこう書かれています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」 同じヨハネの書きました、ヨハネの手紙1,2章7節にはこうあります。「愛する者たち、私があなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなた方が初めから受けていた古い掟です」 そしてまたヨハネの手紙1、3章11節にもこう書かれています「互いに愛し合うこと、これが初めから聞いている教えだからです。」 主イエス様が、弟子たちに互いに愛し合うようにと明確に教えてくださった箇所が、今朝の御言葉であります。主イエス様からだけではない、この愛の戒めは、すでに旧約聖書の至るところに神様の御心として書かれていたことだとヨハネは言います。そんな古い掟ではあっても、しかし、これを決して古びてしまうことのない新しい掟としてわたしたちは聞き直さなければならないのです。それは、愛するということは、わたしたちが、一生涯かかっても、とても極めることができない、それほど深いことだからであります。聖書は繰り返し、このことをわたしたちに命じるのです。従って、この御言葉は、わたしたちが繰り返し聞かなければならない、そのような御言葉なのです。 すでに旧約聖書のレビ記19章18節にこう書かれておりました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」エジプトから神の偉大な御業によって救い出されたイスラエル、神の民は、互いに愛し合うことを命じられています。それは古い掟でありますが、しかし常に新しい掟としてわたしたちに与えられているのです。 3、 さて、今朝の主イエス様の御言葉の直前に起きました事件は、イスカリオテのユダが、主イエス様をユダヤ人たちの手に売り渡すために、夜の闇へと消えて行ったことでした。この後、18章になりますけれども、主イエス様は捕らえられ、大祭司の屋敷へ、そしてローマ総督ピラトの官邸へと引かれてゆきます。 明日の朝には逮捕されるというこの夜です。主イエス様は、ユダ以外の残された11人の弟子たちに対して、告別の説教と呼ばれる長い講話をなさいます。そして17章では大祭司の祈りと呼ばれる重要な祈りをなさいます。それは主イエス様が弟子たちになさった最後の説教であり、父なる神様への祈りです。今朝の御言葉は、それらの序論のような御言葉であります。 31節と32節をもう一度お読みします。 「31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 :32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」 ここで主イエス様は栄光という言葉を4回繰り返しています。最初は、人の子、つまり主イエス様自身がユダの行動によって栄光を受けたということです。ユダの裏切りによって、十字架が確定的になった、それは主イエス様にとってすでに栄光を受けたということだというのです。わたくしたちがハイデルベルグ信仰問答と共に、毎週の礼拝で問答しています、ウエストミンスター小教理問答の問い27と28は、イエス・キリストのへりくだりと高挙、高くあげられると書きますが、この二つの状態について教えています。へりくだりの状態は謙卑の状態、あるいは低い状態と訳されることもあります。また高挙の状態とは高い状態と呼ばれることもあります。へりくだりの状態は低くされ卑しめられた状態であり、高挙とは高くされる、栄光をお受けになる状態であります。これによれば、主イエス様の受難、この世にお生まれになり十字架にお掛りになったのは低くされた状態であり、高挙、栄光の状態は復活と昇天と神の右の座への着座であり、再臨であります。これは通常のものの見方、常識的なきわめて当たり前の考え方によるものです。ところが、今朝の主イエス様の御言葉は、それとは正反対のとらえ方になります。主イエス様が十字架にお掛りになることは、むしろ栄光を受けることであるとされています。 つまり、これは、わたしたちが主イエス様のお姿を外面から観察して見るところの栄光ではなく、神様のご計画、その意味内容に注目して、初めて言うことが出来る栄光です。ついに主イエス様の十字架が成し遂げられる、罪人の救いの道が開かれる、主イエス様が、その救いの業を成し遂げるのだから、これは栄光を受けることだということになります。従って、このことは、御子イエス・キリストをこの地上世界にお遣わしになった父なる神にとりましても、愛する御子の犠牲によって、救いを成し遂げるということでありますから、まさに栄光をお受けになるときであるのです。 32節は、その十字架の栄光の後に起こりくる、もう一つの栄光のことです。十字架を通して父なる神が主イエス様によって栄光をお受けになったのだから、父なる神は、今度は主イエス様に対して栄光を与えてくださると言います。それは十字架とは違う別の栄光です。これは父なる神が、主イエス様を死からよみがえらせてくださるという復活の栄光であります。「すぐにお与えになる」と主イエス様ご自身が確信しておられます。まさしくそれは、十字架の三日後のことでありました。 さて主イエス様は、33節で弟子たちに別れを告げます。「33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 ユダヤ人たちにかつて言ったと言いますのは、ヨハネによる福音書7章34節、仮庵の祭りにおいてであります。このときにも、主イエス様は、ユダヤ人たちに「わたしのいるところにあなた方は来ることができない」といわれました。しかし、今弟子たちに向かって、36節ですけれども、あなたがたは「今はついてくることはできないが、後でついてくることになると」と追加の約束をして下さり、主イエス様を十字架につけた一般のユダヤ人と弟子たちとを区別してくださいます。 4 主イエス様が、ここでわたしたちに与えてくださる新しい掟は、同時に古い掟でもあります。しかし、その古い掟が、これからユダの裏切りをきっかけにして起こる出来事によって、全く新しい意味を与えられる新しい掟となります。 34節にこう書かれています。 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 「わたしがあなたがたを愛したように」 主イエス様は、ご自身の弟子たちをどのように愛されたのでしょうか。 弟子たちを選び、弟子とされたこと、寝食を共にして神の言葉を教えてくださったこと、一人一人を訓練してくださったこと、最後に足を洗ってくださったこと、それはすべてが主イエス様の弟子たちへの愛の表れであります。しかし、主イエス様の愛は、もっと深く大きなものです。もっと決定的なものです。それは「ご自身の命を与える」という仕方で「人々をお救いになる」という愛であります。十字架の愛であります。 ヨハネの手紙1、5章7節から9節にこのように書かれています。 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者はみな神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は一人子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」 さて私たちは、そのような愛の生活、愛に生きる生活は、具体的にはどんなことだろうかと考えを巡らせてゆかなければならないと思うのです。単なる看板の言葉、口先だけの言葉に終わらないためであります。 マザーテレサという有名な修道女が、愛の反対は、冷酷でも怒りでもない、それは無関心だといいました。確かにそうかも知れないと思いますが、しかし「怒りや冷酷さ」が、愛とは反対の思いであり行いであることは間違いないと思います。愛は、怒りや裁きではなく、赦すこと、受け入れることだからです。 主イエス様が、わたしがあなた方を愛したようにとおっしゃったときに、その主イエス様の愛は犠牲を伴う愛、十字架の愛でした。愛は、犠牲を伴うということ、自分が傷つく可能性を持つことであります。自分を抑制する、したいことをしない、忍耐するということも愛であります。あえて、何もしないということもまた愛の現れなのだと思います。無関心ではなくて、愛しているからこそ、そっと見守るということがあると思います。 ヨハネの手紙1、3章14節では、兄弟を憎むことは人殺しと同じだという激しい言葉があります。わたしたちの心の中には、主イエス様が喜んでくださる愛とは違う愛があります。例えば、受けたい、与えられたい、何かしてほしいと望む愛があります。それは結果として怒りや憎しみや憤りを伴うような愛です。それは神の愛ではなく、人間の愛と言ってもよいかもしれません。与えようとする愛ではなく、受けよう、受けようとする愛です。そして、それがかなえられないときには簡単に怒りや憎しみに変わります。 神様から出る霊、聖霊による愛は、それとは反対の愛です。初代教会の伝道者、また教師であったパウロが書きましたエフェソの信徒への手紙、その4章に主イエス様にとらえられた人の新しい生き方について教えているみ言葉があります。30節に「神の聖霊を悲しませてはいけません」と記されています。わたしたちには罪の残りがあります。ですから怒りや憎しみを抱くということもあります。パウロはいうのです。26節をお読みします。「怒ることがあっても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にスキを与えてはなりません」 主イエス・キリストというお方が、わたしの罪汚れをすべて解決してくださり、この私を愛してくださった。今も愛してくださっている。本来まったく罪のない清い神の子が、わたしのために、その愛ゆえに十字架にかかってくださいました。わたしたちに罪の赦しを下さり、しかも永遠に共にいて助けてくださる、神様の子にしてくださったことを知り信じているのがわたしたちです。だからわたしたちは、日が暮れるまで怒ったままでいてはならないのです。主イエス様の愛を受けているからです。 わたしたちは、他の人の為に、家族でも、恩人でもない人のために、そう簡単に犠牲を払うことはできないかもしれません。ただ黙って事柄が通り過ぎるのを待っていたり、心の中で自分自身の責任をまず果たすべきだ、わたしとは関係ないと思ったりします。しかし、主イエス様はそうではなく、神様に敵対していたわたしたちのために完全な犠牲を払ってくださいました。そのお方が、わたしたちに命じてくださるのです。 「34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 さらに、35節では、世の人々は、わたしたちが互いに愛し合うことによって、あなたが、わたしの弟子、つまりイエス・キリストの弟子であることを知ると主イエス様は言われます。 初めに申しましたように、この愛の勧め、愛の御言葉については、誰も反対しません。そして、私たちも含めて、多くの人が自分自身の責任とは別に、この言葉を語るのだと思います。それを咎める気持ちはありません。愛が良いものとして勧められることは、わたしたちが幸福に人生を生き、この世界において平和に生きるために必要なことです。 しかし決定的に幸いなことは、この御言葉を、主イエス様が語られたことです。完全な愛をわたしたちにくださったお方が、命じてくださるのです。主イエス様は、まるで暗い夜空に差し込む光のように、わつぃたちに愛を命じて下さいます。この主イエス様の御言葉をいつも受けながら歩んでいること、それがこの世にあって特別なものとして建てられている教会の姿なのです。祈ります。 祈り 主よ、あなたの愛を受けたものとして、その愛をわたしたち自身のものとして、今度はわたしたち自身が互いに行うことができますよう導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年9月10日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書13章31節~35節「互いに愛し合う群れ」
1、
主イエス様は今朝のみ言葉で、あなたがたに、すなわち、主イエス・キリストの弟子である者たちに、新しい掟を与えると明言しておられます。それは「愛の掟」であります。あなたがたイエス・キリストの弟子である者は、互いに愛し合うようにと命じておられます。しかも、ここが大切なことだと思うのですが、「わたしがあなたがたを愛したように」と前置きなさいました。人間同士の愛、例えば、「あの人の愛、この人の愛に倣って」ということではなくて、主イエス様が示された愛、十字架を成し遂げられた愛、神の愛に倣って愛し合うようにと言われたのです。
今朝の説教題は「互いに愛し合う群れ」といたしました。通りを歩く方々は、この説教題を目にすると思うのですが、この説教題は、この教会は互いに愛し合っている麗しい群れであると言ことを主張しているのではありません。そうではなくて、この世の教会は決して完全なものではないわけですから、主イエス様が、愛し合えないわたしたちに向かって、互いに愛し合う群れであることを絶えず願っておられるという意味なのです。
わたくしの本棚にある本の中でもっとも厚くて重たい部類の本の一つは、コンコルダンスと呼ばれている本です。聖書の中に出て来るいろいろな言葉が、聖書のどの箇所にどんなふうに出ているか、単語別に並べた本です。
この愛という言葉、あるいは愛するという動詞の言葉について、このコンコルダンスを引きますと面白いことが分かります。愛するという言葉は、ギリシャ語ではアガパオーですが、この言葉が最も多く出てくるのはヨハネによる福音書であるということです。マタイによる福音書には7回、マルコは6回、ルカは10回ですが、ヨハネによる福音書には27回出て来ています。聖書の中には手紙も多くありますが、この手紙の中でも、ヨハネの手紙が愛するという言葉をもっとも多く用います。新共同訳聖書で7ページしかないヨハネの手紙1ですけれども、アガパオー、「愛する」という動詞の言葉が20回、アガペー、愛という言葉も18回出ています。その次は、コリントの信徒への手紙です。13章に、愛についての有名な御言葉があります。「愛は忍耐つよい、愛は情け深い、ねたまない、うんぬん」、このパウロの御言葉を記しているコリントの信徒への手紙1、これは手紙の全体では、16章まで合わせて25ページもありますが、でも愛という言葉は、全体では15回出るだけなのであります。
ですから、ヨハネの書きましたものにおいて、いかに愛する、あるいは愛という言葉が多く出ているのかわかります。ヨハネという弟子、使徒は愛に関心があった、愛によって信仰ということを考えていた人であろうと思います。
けれども、聖書はこのヨハネという弟子についてどう呼んでいるかと申しますと、マルコによる福音書3章17節にこう書かれています。主イエス様が12弟子を選んで任命するところです。
「ゼベダイの子、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち「雷の子ら」という名を付けられた。
雷の子らとあだ名を付けられた理由は、書かれていないのですけれども、どうしても、雷の子ですから、すぐに雷を落とす、激高しやすい、あるいは、やかましい、そういうイメージです。どう見ても、愛の人には似つかわしくありません。
ヨハネという人は、やはり主イエス様によって変えられていったに違いないと思います。主イエス様に育てられると「雷の子」も、「愛の人」に変わってしまうのです。
今日のこの礼拝に集まるわたしたちの中にも、主イエス様から雷の子らと呼ばれてしまいそうな方がいるのかいないのか、ほんとうのところは、わたしには分かりません。けれども、主イエス様によって、多少なりとも愛の人になることが出来るし、必ずそうなるだろうと、自分自身のことも含めて信じて祈っております。
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『互いに愛し合う群れ』、それは誰にとっても素晴らしい響きを持つ言葉だろうと思います。恐らく、この言葉を聞いたり見たりして、「何を言っているのか」と反発を覚えたり、あるいは「これはどこかおかしい」とか思う人はおられないだろうと思います。別の面から見ると誰も反対しないし、反対できない御言葉です。しかし、それだけに、主イエス様の願い、わたしたちへの掟は愛だといいますと、何かある種の建前のようなものであって、実際には何の意味も持たないスローガンのようなものになる恐れがある、そういう御言葉ではないかとも思うのです。誰も反対しないかもしれないけれども、一方で誰も真剣には実行していない、そういう言葉になるのです。
先ほどお読みしました御言葉の34節にこう書かれています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」
同じヨハネの書きました、ヨハネの手紙1,2章7節にはこうあります。「愛する者たち、私があなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなた方が初めから受けていた古い掟です」
そしてまたヨハネの手紙1、3章11節にもこう書かれています「互いに愛し合うこと、これが初めから聞いている教えだからです。」
主イエス様が、弟子たちに互いに愛し合うようにと明確に教えてくださった箇所が、今朝の御言葉であります。主イエス様からだけではない、この愛の戒めは、すでに旧約聖書の至るところに神様の御心として書かれていたことだとヨハネは言います。そんな古い掟ではあっても、しかし、これを決して古びてしまうことのない新しい掟としてわたしたちは聞き直さなければならないのです。それは、愛するということは、わたしたちが、一生涯かかっても、とても極めることができない、それほど深いことだからであります。聖書は繰り返し、このことをわたしたちに命じるのです。従って、この御言葉は、わたしたちが繰り返し聞かなければならない、そのような御言葉なのです。
すでに旧約聖書のレビ記19章18節にこう書かれておりました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」エジプトから神の偉大な御業によって救い出されたイスラエル、神の民は、互いに愛し合うことを命じられています。それは古い掟でありますが、しかし常に新しい掟としてわたしたちに与えられているのです。
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さて、今朝の主イエス様の御言葉の直前に起きました事件は、イスカリオテのユダが、主イエス様をユダヤ人たちの手に売り渡すために、夜の闇へと消えて行ったことでした。この後、18章になりますけれども、主イエス様は捕らえられ、大祭司の屋敷へ、そしてローマ総督ピラトの官邸へと引かれてゆきます。
明日の朝には逮捕されるというこの夜です。主イエス様は、ユダ以外の残された11人の弟子たちに対して、告別の説教と呼ばれる長い講話をなさいます。そして17章では大祭司の祈りと呼ばれる重要な祈りをなさいます。それは主イエス様が弟子たちになさった最後の説教であり、父なる神様への祈りです。今朝の御言葉は、それらの序論のような御言葉であります。
31節と32節をもう一度お読みします。
「31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」
ここで主イエス様は栄光という言葉を4回繰り返しています。最初は、人の子、つまり主イエス様自身がユダの行動によって栄光を受けたということです。ユダの裏切りによって、十字架が確定的になった、それは主イエス様にとってすでに栄光を受けたということだというのです。わたくしたちがハイデルベルグ信仰問答と共に、毎週の礼拝で問答しています、ウエストミンスター小教理問答の問い27と28は、イエス・キリストのへりくだりと高挙、高くあげられると書きますが、この二つの状態について教えています。へりくだりの状態は謙卑の状態、あるいは低い状態と訳されることもあります。また高挙の状態とは高い状態と呼ばれることもあります。へりくだりの状態は低くされ卑しめられた状態であり、高挙とは高くされる、栄光をお受けになる状態であります。これによれば、主イエス様の受難、この世にお生まれになり十字架にお掛りになったのは低くされた状態であり、高挙、栄光の状態は復活と昇天と神の右の座への着座であり、再臨であります。これは通常のものの見方、常識的なきわめて当たり前の考え方によるものです。ところが、今朝の主イエス様の御言葉は、それとは正反対のとらえ方になります。主イエス様が十字架にお掛りになることは、むしろ栄光を受けることであるとされています。
つまり、これは、わたしたちが主イエス様のお姿を外面から観察して見るところの栄光ではなく、神様のご計画、その意味内容に注目して、初めて言うことが出来る栄光です。ついに主イエス様の十字架が成し遂げられる、罪人の救いの道が開かれる、主イエス様が、その救いの業を成し遂げるのだから、これは栄光を受けることだということになります。従って、このことは、御子イエス・キリストをこの地上世界にお遣わしになった父なる神にとりましても、愛する御子の犠牲によって、救いを成し遂げるということでありますから、まさに栄光をお受けになるときであるのです。
32節は、その十字架の栄光の後に起こりくる、もう一つの栄光のことです。十字架を通して父なる神が主イエス様によって栄光をお受けになったのだから、父なる神は、今度は主イエス様に対して栄光を与えてくださると言います。それは十字架とは違う別の栄光です。これは父なる神が、主イエス様を死からよみがえらせてくださるという復活の栄光であります。「すぐにお与えになる」と主イエス様ご自身が確信しておられます。まさしくそれは、十字架の三日後のことでありました。
さて主イエス様は、33節で弟子たちに別れを告げます。「33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
ユダヤ人たちにかつて言ったと言いますのは、ヨハネによる福音書7章34節、仮庵の祭りにおいてであります。このときにも、主イエス様は、ユダヤ人たちに「わたしのいるところにあなた方は来ることができない」といわれました。しかし、今弟子たちに向かって、36節ですけれども、あなたがたは「今はついてくることはできないが、後でついてくることになると」と追加の約束をして下さり、主イエス様を十字架につけた一般のユダヤ人と弟子たちとを区別してくださいます。
4
主イエス様が、ここでわたしたちに与えてくださる新しい掟は、同時に古い掟でもあります。しかし、その古い掟が、これからユダの裏切りをきっかけにして起こる出来事によって、全く新しい意味を与えられる新しい掟となります。
34節にこう書かれています。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
「わたしがあなたがたを愛したように」
主イエス様は、ご自身の弟子たちをどのように愛されたのでしょうか。
弟子たちを選び、弟子とされたこと、寝食を共にして神の言葉を教えてくださったこと、一人一人を訓練してくださったこと、最後に足を洗ってくださったこと、それはすべてが主イエス様の弟子たちへの愛の表れであります。しかし、主イエス様の愛は、もっと深く大きなものです。もっと決定的なものです。それは「ご自身の命を与える」という仕方で「人々をお救いになる」という愛であります。十字架の愛であります。
ヨハネの手紙1、5章7節から9節にこのように書かれています。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者はみな神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は一人子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」
さて私たちは、そのような愛の生活、愛に生きる生活は、具体的にはどんなことだろうかと考えを巡らせてゆかなければならないと思うのです。単なる看板の言葉、口先だけの言葉に終わらないためであります。
マザーテレサという有名な修道女が、愛の反対は、冷酷でも怒りでもない、それは無関心だといいました。確かにそうかも知れないと思いますが、しかし「怒りや冷酷さ」が、愛とは反対の思いであり行いであることは間違いないと思います。愛は、怒りや裁きではなく、赦すこと、受け入れることだからです。
主イエス様が、わたしがあなた方を愛したようにとおっしゃったときに、その主イエス様の愛は犠牲を伴う愛、十字架の愛でした。愛は、犠牲を伴うということ、自分が傷つく可能性を持つことであります。自分を抑制する、したいことをしない、忍耐するということも愛であります。あえて、何もしないということもまた愛の現れなのだと思います。無関心ではなくて、愛しているからこそ、そっと見守るということがあると思います。
ヨハネの手紙1、3章14節では、兄弟を憎むことは人殺しと同じだという激しい言葉があります。わたしたちの心の中には、主イエス様が喜んでくださる愛とは違う愛があります。例えば、受けたい、与えられたい、何かしてほしいと望む愛があります。それは結果として怒りや憎しみや憤りを伴うような愛です。それは神の愛ではなく、人間の愛と言ってもよいかもしれません。与えようとする愛ではなく、受けよう、受けようとする愛です。そして、それがかなえられないときには簡単に怒りや憎しみに変わります。
神様から出る霊、聖霊による愛は、それとは反対の愛です。初代教会の伝道者、また教師であったパウロが書きましたエフェソの信徒への手紙、その4章に主イエス様にとらえられた人の新しい生き方について教えているみ言葉があります。30節に「神の聖霊を悲しませてはいけません」と記されています。わたしたちには罪の残りがあります。ですから怒りや憎しみを抱くということもあります。パウロはいうのです。26節をお読みします。「怒ることがあっても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にスキを与えてはなりません」
主イエス・キリストというお方が、わたしの罪汚れをすべて解決してくださり、この私を愛してくださった。今も愛してくださっている。本来まったく罪のない清い神の子が、わたしのために、その愛ゆえに十字架にかかってくださいました。わたしたちに罪の赦しを下さり、しかも永遠に共にいて助けてくださる、神様の子にしてくださったことを知り信じているのがわたしたちです。だからわたしたちは、日が暮れるまで怒ったままでいてはならないのです。主イエス様の愛を受けているからです。
わたしたちは、他の人の為に、家族でも、恩人でもない人のために、そう簡単に犠牲を払うことはできないかもしれません。ただ黙って事柄が通り過ぎるのを待っていたり、心の中で自分自身の責任をまず果たすべきだ、わたしとは関係ないと思ったりします。しかし、主イエス様はそうではなく、神様に敵対していたわたしたちのために完全な犠牲を払ってくださいました。そのお方が、わたしたちに命じてくださるのです。
「34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
さらに、35節では、世の人々は、わたしたちが互いに愛し合うことによって、あなたが、わたしの弟子、つまりイエス・キリストの弟子であることを知ると主イエス様は言われます。
初めに申しましたように、この愛の勧め、愛の御言葉については、誰も反対しません。そして、私たちも含めて、多くの人が自分自身の責任とは別に、この言葉を語るのだと思います。それを咎める気持ちはありません。愛が良いものとして勧められることは、わたしたちが幸福に人生を生き、この世界において平和に生きるために必要なことです。
しかし決定的に幸いなことは、この御言葉を、主イエス様が語られたことです。完全な愛をわたしたちにくださったお方が、命じてくださるのです。主イエス様は、まるで暗い夜空に差し込む光のように、わつぃたちに愛を命じて下さいます。この主イエス様の御言葉をいつも受けながら歩んでいること、それがこの世にあって特別なものとして建てられている教会の姿なのです。祈ります。
祈り
主よ、あなたの愛を受けたものとして、その愛をわたしたち自身のものとして、今度はわたしたち自身が互いに行うことができますよう導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。