聖書の言葉 ヨハネによる福音書 13章21節~30節 メッセージ 2023年8月27日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書13章21節~30節「弟子ユダの裏切り」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 今朝、私たちに与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書13章の中ほどのところ、主イエス様がイスカリオテのユダの裏切りについて弟子たちに、また本人に予告をなさった、そういう場面であります。また、それだけではありませんで、今朝の御言葉では、最終的に裏切りを決心してしまっているユダ本人に対して、主イエス様が「今すぐ、それをしなさい」と促されています。これは、主イエス様の十字架というものが、ユダの裏切りによって、不意打ちのように全く受動的になされたということではないことを表しています。十字架は、主イエス様のご自身のリーダーシップと言いますか、主体的な、あるいは明確なご意志によって、覚悟を持ってなされたことを物語っております。 ただ今、お聞きしました御言葉の終りのところです。27節、主イエス様はイスカリオテのユダにだけわかるような仕方でこう言われました。 「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」 おそらく、小さな声であったことでしょう。またほかの弟子たちに聞こえていても、その内容は主イエス様とユダ本人しかわからない、そういう言い方であります。また、この主イエス様の言葉の雰囲気は、どこまでも冷静な言い方ではなかったかと思います。あなたの心の中はすべてわかっている、それをするがよい、もうわたしは止めない、今すぐしなさい、こういわれたのであります。しかし、同時にこれを語ることによって、ユダに対して最後の警告をされたということもできるのです。あなたの心の中はすでに見られているよ、そういう言葉でもあります。 この主イエス様の決定的なみ言葉は、4つの福音書の中でヨハネによる福音書だけが記しています。おそらく、このとき、主イエス様のすぐ隣に座っていたヨハネだけが明確に聞き取ることができた言葉でありましょう。 イスカリオテのユダは、弟子たちの会計係を務めておりました。お金を預かるということは、主イエス様の信頼が厚かった、そういう弟子のひとりであります。そのユダが、当時、主イエス様と敵対しておりました神殿祭司長たちや律法学者たちの手先になり、このあと主イエス様の居場所を知らせに行く、という働きをいたします。そのためにユダは食事会を中座して、夜の闇へと消えてゆくのであります。 今朝の御言葉の最後のところ13章30節をお読みします。 「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」 わたしたちはここで「夜であった」とわざわざ記されているのを読みます。この小さな言葉を目にし、また耳にするときに、わたしたちには、ついに暗い闇の世界へと飛び出してゆくユダの後ろ姿が浮かび上がってくるようであります。 2, このようにして、イスカリオテのユダが主イエス様と弟子たちを裏切った、その直接の理由は、聖書を読む限りは、お金のためであったとしか思われません。ユダは、お金に困っておりました。今朝の御言葉に先立つ12章6節です。こう書いてあります。ナルドの香油という大変高価な香油を主イエス様に注ぎかけたマリアに対してユダはこういいました。「なぜこの香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」これに続けて、ヨハネはこう記します。 「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」 預かっていたお金を定められたもの以外に使ってしまった、ユダは、おそらく自分の個人的な目的のために使い込んでしまったのかもしれません。この金銭に関する彼の隠されていた罪が、主イエス様やほかの弟子たちにいつ発覚するか、彼は、とても心配していたのです。 また、他の福音書には記されていて、このヨハネによる福音書にだけ記されていないことですけれども、すでにユダは動いておりました。ベタニアの香油注ぎの出来事が起きたころ、ユダは敵側である神殿祭司長たちのところへ単身乗り込んで、こう尋ねていたのです。 たとえば、マタイよる福音書26章14節15節です。 「このとき12人の一人でイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、いくらくれますか」と言った。そこで彼らは銀貨30枚を支払うことにした。」 銀貨30枚と言いますと、当時、奴隷一人を買うことができる金額と言われます。当時の銀貨には神殿で用いるシェケル銀貨と、ローマの銀貨であるドラクメ銀貨、あるいはデナリオン銀貨がありました。シェケル銀貨は銀5.6グラム、デナリオン銀貨とドラクメ銀貨は4.3グラムです。これとは別にツロの銀貨と呼ばれるものがあり、この銀貨は4デナリに当たります。要するに、一か月分の賃金、最も高く見積もっても120日分の賃金と同じくらいです。主イエス様の命を引き換えにするにはわずかな金額というほかはないのですが、ユダにとっては、その心を狂わせてしまうお金であったようです。 3, 時々、福音を伝えるべく召しだされた伝道者、牧師が不祥事を起こして、その務めから去ってゆきます。その理由の大きなものは女性問題、姦淫の罪と、金銭問題、盗みと貪欲の罪です。ユダの裏切りの理由も大きな違いはないのです。弟子たちの中で主導権争いがあったとか、嫉妬心、あるいは主イエス様への失望など、ユダの裏切りの理由をまことしやかに説明する説は枚挙にいとまがありません。しかしどうであっても、主イエス様を裏切ったというその現実は変わりません。サタンはいつも私たちを誘惑しているのです。誘惑に陥らないためには、わたしたちは、どうすればよいのでしょうか。いつも心を引き締めていること、そしてこの時のユダのように、必ず心を変える神様からの警告と云うものがあるはずなのです。さっと方向を変えなければなりません。そのためには常に主イエス様により頼むほかはありません。しかし、ユダには心の隙があり、サタンはそこを狙ってきました。 最終的に主イエス様に促されるようにして、その場から去って行ったユダです。しかし、彼の責任は決して消えることはないのです。主イエス様から12弟子のひとりに選ばれ、会計係を任せるほどの信頼を勝ち得たユダです。それほど、主イエス様から信頼され、愛されていました。それにもかかわらず、彼の、このときの行動は、誠実でも忠実でもありませんでした。悪へと走りました。その責任は重いのであります。 夜の暗い闇へと走り出していったユダは、どこへ向かったのでしょう。彼は、まっすぐにエルサレム神殿にいる祭司長やファリサイ派の人々のところへと走りました。取り返しがつかない闇がそこにあります。それはまた光に背を向ける人間の罪、弱さ、悪そのものの闇であります。 さて、ここに至るまで、主イエス様がこのユダをも愛し、立ち返りの機会をどれほど与えておられたかを見たいと思います。 まず、洗足、すなわち主イエス様が弟子たちの足を洗ってくださった時のことです。すでにユダの心は裏切りへと傾いていました。しかし、主イエス様は、それを知りつつ、ユダの足をも洗ってくださいました。弟子たちの前にかがみこんで、ユダに対しても、奴隷の姿になって、ひとりひとり直接足に手を触れてくださいました。そのときに一番弟子のペトロが、びっくりして、主イエス様に向かって、そんなことをしないでくださいと言ったときに、主イエス様はこう言われました。「わたしが洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもなくなる」。このことはペトロだけでなく、他の弟子たちについても同じです。主イエス様がご自身から進んでわたしたちとかかわりを持ってくださるのです。これを受け入れることが主イエス様の弟子であるということです。これはユダに対しても同じでありました。 そして、あなた方はすでに清い者であると言われたときに、全員が清いわけではないとおっしゃられて、ユダに対して、メッセージを送られました。わたしは知っている、あなたを見ているという警告であります。 さらに、食事が始まりますと、「わたしのパンを食べている者がわたしを裏切ったという聖書の言葉は実現しなければならない」と弟子たちに言われました。これは旧約聖書、詩編41編10節の引用です。これは誰に向かってということではなく、弟子たちの皆に言われました。もう一度ユダに立ち返りの機会を与えられたということができます。 そして今朝の御言葉の21節でも、重ねてそのことを言われます。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」 今朝の御言葉の全体を読みますと、結局、他の弟子たちはユダの裏切りについて何もわからなかったようであります。主イエス様は、ユダにだけ、わかるようにしてメッセージを送り続けられたのです。 そして、もっとも決定的なことは、このとき、主イエス様の隣に座っていたのがユダであったらしいということです。 この日は、過ぎ越し祭りの食卓です。いつもと違うハレの席と言ってもよいのです。馬蹄形に席が配置されていて、その中心と言いますか、馬蹄形のUの字のちょうど底のところに主人である主イエス様が座ります。最後の晩餐というレオナルド・ダビンチの絵が有名ですが、あれは、まったくもって当時のローマ式の座り方でありますし、また一直線に全員がこちらを見ているという、およそ食事の席にはあり得ない、絵画的にデフォルメされたものです。当時の食事は全くユダヤ式であり、低い机に料理や飲み物が並んでいます。その前に弟子たちは床に左肘をつけて、体を厚いクッションのようなものに置くようにして体を斜めにして食事をしました。そのとき、足は斜め後ろの方に投げ出されていますから、上半身は隣の人のほうに傾くということになります。 23節に「イエスのすぐ隣りには、イエスの愛しておられた者が食事の席についていた」とあります。この弟子は、伝統的に福音書記者のヨハネとされておりますが、直接聖書に記されているわけではありません。「イエスが愛しておれられた弟子」、「愛(まな)弟子」、この呼び名はヨハネによる福音書では、この個所を含めて5回使われますけれども、いずれも一番弟子のペトロと関わるところに使われます。この個所もまたそうです。ペトロとヨハネは、いつも主イエス様の側にいる最側近の弟子ですから、これはヨハネを指す呼び名であると考えられています。シモン・ペトロは、そのヨハネにだけわかる仕方で、一体だれが裏切るのか、主イエス様に聞いてくれと合図するのです。ヨハネとペトロ、それとヤコブが三人衆といいますが、主イエス様の側近の弟子です。特にヨハネとペトロはツートップと言ってもよい最側近、そしてペトロは弟子のリーダー、かしらの弟子です。つまりこのような席では、ヨハネと並んで当然主人のである主イエス様の隣に座るはずのペトロは、そのときは、隣の場所にはいなかったということです。主イエス様からは離れていて、ヨハネには近い位置に座っていました。そうすると、ヨハネは主イエス様の胸元に寄り掛かるようにして、つまり主イエス様の右に座っていますが、主イエス様の左に座っているのは、誰でしょうか。それは主イエス様が、本当に親しい仕方で、パンを水に浸してお与えになり、そしてすぐ横のヨハネは別にして、他の誰にもわからないように、「わたしのパンを食べている者がわたしに逆らった」と詩編の御言葉を告げていただいたものではないかと思われるのです。主イエス様のそのパンを受け取ったユダであると言うことになります。この日、主イエス様は自分を裏切る決心をしてしまっているユダをあえてご自分の左に座らせたのではないか、そう考えらます。そして最後の翻意を促したのであります。 しかし、主イエス様がパンを与えた時、ユダは最終的にサタンを自分の中へと招き入れ、裏切りを決心します。主イエス様が、それなら、しようとしていることをするがよいと言われたのは、この時でありました。 4, わたしくしは、今朝の御言葉をききながら、わたしたちに一人一人に与えられている自由ということを考えます。初代教会の指導者であるパウロは、第一コリント10章で「すべてのことが許されているしかし、すべてのことが益になるわけではない」と書きました。一時の利益、目先の快楽の為に、あるいは目先の憤りによって、わたしたちは少しも益にならないことをしてしまいます。それどころか、身の破滅を招くようなことをわたしたちはしてしまう、あるいはしてしまう危険にさらされるようなことをするのです。パウロは、ローマの信徒への手紙7章では、わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と自身のうちに内在する罪について告白します。しかし、パウロは、このようなわたしを主イエス・キリストが救ってくださる、感謝するほかはないと書いています。 ユダにはユダの事情があったということはできます。しかし結局は、罪の誘惑、悪への抵抗ができなかったというほかはありません。そして同時に、そのユダの罪の行為を通して、主イエス様の十字架が過ぎ越し祭りのさなかに成し遂げられることになります。主イエス様が、この過ぎ越しの祭りに屠られる子羊として、しかも真の子羊として、命を与えられることとなるのです。神のなさる御業は不思議というほかはありません。 このあと、14章から17章まで、主イエス様は弟子たちに対して、告別の説教と呼ばれる長い話をなさり、17章では「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りをなさいます。すでに13章から、その告別説教の段落に入っていますけれども、13章といいますのは、場面は同じですが、その前段階であります。13章の最後におかれている御言葉に注目したいと思います。そこにあるのは、ユダだけでなく、一番弟子のペトロもまた主イエス様を裏切るという予告です。新共同訳の小見出しでは「ペテロの離反を予告する」と書かれていますが、これもまた一種の裏切りであります。ペトロは、この後の18章で、その御言葉通りに、人々の前で主イエスを知らないと言います。マタイによる福音書やマルコによる福音書によれば、呪いの言葉までを吐くことになります。主イエス様を敵に売り渡すというユダの裏切りに比べるならば、心は主イエス様を信じていたけれども、言葉や態度では反対のことをしてしまったという意味で、確かにユダよりはましであると言える、言い合えるなら、それは相対的に小さな裏切りかもしれません。 けれども、会計係のイスカリオテのユダが裏切り、かしらの弟子であるペトロもまた主イエス様を人々の前で否定し、呪う、そして、いずれの場合も、あらかじめ、主イエス様の予告があり、警告がされているのです。 しかし、それにもかかわらず、わたしたちは罪を犯してしまうのです。だからこそ、主イエス様は、私たちのために十字架にかかって、罪の赦しを与えてくださいました。 ここでは、主イエス様を裏切ったユダが最終的に神に赦されたのか、救われたのかということを考えているのではありません。マタイによる福音書27章には、ユダが自分の罪に気付き、エルサレムの祭司長や長老たちにお金を返そうとして拒まれ、最後には神殿にそのお金を投げ込んで立ち去り首をつって死んだという顛末が記されています。わたしたちは、誰が最終的に救われるのか、あるいは滅びるのかというようなことに関心を持ってはならないのだと思います。それは神様の主権にかかわることだからです。考えなければならないのは、なによりも自分自身のことです。 5, さて、次週、扱いますけれども13章31節にはこう書かれています。 「31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」 「31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」 主イエス様が、神の子として栄光をお受けになる、それは、神様の警告にもかかわらず、罪を犯し続けるわたしたちを救ってくださるという栄光の姿、愛のお姿です。それは、罪びとに恵みを与えてくださり、そのことによって、わたしたちと神様との正しい関係を回復してくださるということです。そのような愛の関係に主イエス様のほうから入ってくださるということにほかなりません。 人間は裏切ります。罪を犯します。しかし、そのすべてを知ってなおかつ、私たちを愛してくださる主イエス様を見上げたいと思います。そして罪に陥ることなく、最後の最後であっても主イエス様の愛の中に踏みとどまりたい。そう願います。そして、わたしたちもまた愛を行うことが出来るようにと祈ります。そのことによって、わたくしたちは、この神様の愛、主イエス様の最高度の愛にお答えしたいと思うのであります。祈りを捧げます。 祈り 天の父なる神様、御名を讃美します。あなたは最後までユダに警告を与えてくださいました。しかし、彼は自分の立場を守るため、お金のために主イエス様を売り渡しました。しかし、そのことによって過ぎ越しの祭りのまことの子羊、最終的な神の子羊として主イエス様の命が捧げられました。わたしたちの罪の赦しのためであることを思い起こさせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2023年8月27日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書13章21節~30節「弟子ユダの裏切り」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
今朝、私たちに与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書13章の中ほどのところ、主イエス様がイスカリオテのユダの裏切りについて弟子たちに、また本人に予告をなさった、そういう場面であります。また、それだけではありませんで、今朝の御言葉では、最終的に裏切りを決心してしまっているユダ本人に対して、主イエス様が「今すぐ、それをしなさい」と促されています。これは、主イエス様の十字架というものが、ユダの裏切りによって、不意打ちのように全く受動的になされたということではないことを表しています。十字架は、主イエス様のご自身のリーダーシップと言いますか、主体的な、あるいは明確なご意志によって、覚悟を持ってなされたことを物語っております。
ただ今、お聞きしました御言葉の終りのところです。27節、主イエス様はイスカリオテのユダにだけわかるような仕方でこう言われました。
「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」
おそらく、小さな声であったことでしょう。またほかの弟子たちに聞こえていても、その内容は主イエス様とユダ本人しかわからない、そういう言い方であります。また、この主イエス様の言葉の雰囲気は、どこまでも冷静な言い方ではなかったかと思います。あなたの心の中はすべてわかっている、それをするがよい、もうわたしは止めない、今すぐしなさい、こういわれたのであります。しかし、同時にこれを語ることによって、ユダに対して最後の警告をされたということもできるのです。あなたの心の中はすでに見られているよ、そういう言葉でもあります。
この主イエス様の決定的なみ言葉は、4つの福音書の中でヨハネによる福音書だけが記しています。おそらく、このとき、主イエス様のすぐ隣に座っていたヨハネだけが明確に聞き取ることができた言葉でありましょう。
イスカリオテのユダは、弟子たちの会計係を務めておりました。お金を預かるということは、主イエス様の信頼が厚かった、そういう弟子のひとりであります。そのユダが、当時、主イエス様と敵対しておりました神殿祭司長たちや律法学者たちの手先になり、このあと主イエス様の居場所を知らせに行く、という働きをいたします。そのためにユダは食事会を中座して、夜の闇へと消えてゆくのであります。
今朝の御言葉の最後のところ13章30節をお読みします。
「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」
わたしたちはここで「夜であった」とわざわざ記されているのを読みます。この小さな言葉を目にし、また耳にするときに、わたしたちには、ついに暗い闇の世界へと飛び出してゆくユダの後ろ姿が浮かび上がってくるようであります。
2,
このようにして、イスカリオテのユダが主イエス様と弟子たちを裏切った、その直接の理由は、聖書を読む限りは、お金のためであったとしか思われません。ユダは、お金に困っておりました。今朝の御言葉に先立つ12章6節です。こう書いてあります。ナルドの香油という大変高価な香油を主イエス様に注ぎかけたマリアに対してユダはこういいました。「なぜこの香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」これに続けて、ヨハネはこう記します。
「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」
預かっていたお金を定められたもの以外に使ってしまった、ユダは、おそらく自分の個人的な目的のために使い込んでしまったのかもしれません。この金銭に関する彼の隠されていた罪が、主イエス様やほかの弟子たちにいつ発覚するか、彼は、とても心配していたのです。
また、他の福音書には記されていて、このヨハネによる福音書にだけ記されていないことですけれども、すでにユダは動いておりました。ベタニアの香油注ぎの出来事が起きたころ、ユダは敵側である神殿祭司長たちのところへ単身乗り込んで、こう尋ねていたのです。
たとえば、マタイよる福音書26章14節15節です。
「このとき12人の一人でイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、いくらくれますか」と言った。そこで彼らは銀貨30枚を支払うことにした。」
銀貨30枚と言いますと、当時、奴隷一人を買うことができる金額と言われます。当時の銀貨には神殿で用いるシェケル銀貨と、ローマの銀貨であるドラクメ銀貨、あるいはデナリオン銀貨がありました。シェケル銀貨は銀5.6グラム、デナリオン銀貨とドラクメ銀貨は4.3グラムです。これとは別にツロの銀貨と呼ばれるものがあり、この銀貨は4デナリに当たります。要するに、一か月分の賃金、最も高く見積もっても120日分の賃金と同じくらいです。主イエス様の命を引き換えにするにはわずかな金額というほかはないのですが、ユダにとっては、その心を狂わせてしまうお金であったようです。
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時々、福音を伝えるべく召しだされた伝道者、牧師が不祥事を起こして、その務めから去ってゆきます。その理由の大きなものは女性問題、姦淫の罪と、金銭問題、盗みと貪欲の罪です。ユダの裏切りの理由も大きな違いはないのです。弟子たちの中で主導権争いがあったとか、嫉妬心、あるいは主イエス様への失望など、ユダの裏切りの理由をまことしやかに説明する説は枚挙にいとまがありません。しかしどうであっても、主イエス様を裏切ったというその現実は変わりません。サタンはいつも私たちを誘惑しているのです。誘惑に陥らないためには、わたしたちは、どうすればよいのでしょうか。いつも心を引き締めていること、そしてこの時のユダのように、必ず心を変える神様からの警告と云うものがあるはずなのです。さっと方向を変えなければなりません。そのためには常に主イエス様により頼むほかはありません。しかし、ユダには心の隙があり、サタンはそこを狙ってきました。
最終的に主イエス様に促されるようにして、その場から去って行ったユダです。しかし、彼の責任は決して消えることはないのです。主イエス様から12弟子のひとりに選ばれ、会計係を任せるほどの信頼を勝ち得たユダです。それほど、主イエス様から信頼され、愛されていました。それにもかかわらず、彼の、このときの行動は、誠実でも忠実でもありませんでした。悪へと走りました。その責任は重いのであります。
夜の暗い闇へと走り出していったユダは、どこへ向かったのでしょう。彼は、まっすぐにエルサレム神殿にいる祭司長やファリサイ派の人々のところへと走りました。取り返しがつかない闇がそこにあります。それはまた光に背を向ける人間の罪、弱さ、悪そのものの闇であります。
さて、ここに至るまで、主イエス様がこのユダをも愛し、立ち返りの機会をどれほど与えておられたかを見たいと思います。
まず、洗足、すなわち主イエス様が弟子たちの足を洗ってくださった時のことです。すでにユダの心は裏切りへと傾いていました。しかし、主イエス様は、それを知りつつ、ユダの足をも洗ってくださいました。弟子たちの前にかがみこんで、ユダに対しても、奴隷の姿になって、ひとりひとり直接足に手を触れてくださいました。そのときに一番弟子のペトロが、びっくりして、主イエス様に向かって、そんなことをしないでくださいと言ったときに、主イエス様はこう言われました。「わたしが洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもなくなる」。このことはペトロだけでなく、他の弟子たちについても同じです。主イエス様がご自身から進んでわたしたちとかかわりを持ってくださるのです。これを受け入れることが主イエス様の弟子であるということです。これはユダに対しても同じでありました。
そして、あなた方はすでに清い者であると言われたときに、全員が清いわけではないとおっしゃられて、ユダに対して、メッセージを送られました。わたしは知っている、あなたを見ているという警告であります。
さらに、食事が始まりますと、「わたしのパンを食べている者がわたしを裏切ったという聖書の言葉は実現しなければならない」と弟子たちに言われました。これは旧約聖書、詩編41編10節の引用です。これは誰に向かってということではなく、弟子たちの皆に言われました。もう一度ユダに立ち返りの機会を与えられたということができます。
そして今朝の御言葉の21節でも、重ねてそのことを言われます。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」
今朝の御言葉の全体を読みますと、結局、他の弟子たちはユダの裏切りについて何もわからなかったようであります。主イエス様は、ユダにだけ、わかるようにしてメッセージを送り続けられたのです。
そして、もっとも決定的なことは、このとき、主イエス様の隣に座っていたのがユダであったらしいということです。
この日は、過ぎ越し祭りの食卓です。いつもと違うハレの席と言ってもよいのです。馬蹄形に席が配置されていて、その中心と言いますか、馬蹄形のUの字のちょうど底のところに主人である主イエス様が座ります。最後の晩餐というレオナルド・ダビンチの絵が有名ですが、あれは、まったくもって当時のローマ式の座り方でありますし、また一直線に全員がこちらを見ているという、およそ食事の席にはあり得ない、絵画的にデフォルメされたものです。当時の食事は全くユダヤ式であり、低い机に料理や飲み物が並んでいます。その前に弟子たちは床に左肘をつけて、体を厚いクッションのようなものに置くようにして体を斜めにして食事をしました。そのとき、足は斜め後ろの方に投げ出されていますから、上半身は隣の人のほうに傾くということになります。
23節に「イエスのすぐ隣りには、イエスの愛しておられた者が食事の席についていた」とあります。この弟子は、伝統的に福音書記者のヨハネとされておりますが、直接聖書に記されているわけではありません。「イエスが愛しておれられた弟子」、「愛(まな)弟子」、この呼び名はヨハネによる福音書では、この個所を含めて5回使われますけれども、いずれも一番弟子のペトロと関わるところに使われます。この個所もまたそうです。ペトロとヨハネは、いつも主イエス様の側にいる最側近の弟子ですから、これはヨハネを指す呼び名であると考えられています。シモン・ペトロは、そのヨハネにだけわかる仕方で、一体だれが裏切るのか、主イエス様に聞いてくれと合図するのです。ヨハネとペトロ、それとヤコブが三人衆といいますが、主イエス様の側近の弟子です。特にヨハネとペトロはツートップと言ってもよい最側近、そしてペトロは弟子のリーダー、かしらの弟子です。つまりこのような席では、ヨハネと並んで当然主人のである主イエス様の隣に座るはずのペトロは、そのときは、隣の場所にはいなかったということです。主イエス様からは離れていて、ヨハネには近い位置に座っていました。そうすると、ヨハネは主イエス様の胸元に寄り掛かるようにして、つまり主イエス様の右に座っていますが、主イエス様の左に座っているのは、誰でしょうか。それは主イエス様が、本当に親しい仕方で、パンを水に浸してお与えになり、そしてすぐ横のヨハネは別にして、他の誰にもわからないように、「わたしのパンを食べている者がわたしに逆らった」と詩編の御言葉を告げていただいたものではないかと思われるのです。主イエス様のそのパンを受け取ったユダであると言うことになります。この日、主イエス様は自分を裏切る決心をしてしまっているユダをあえてご自分の左に座らせたのではないか、そう考えらます。そして最後の翻意を促したのであります。
しかし、主イエス様がパンを与えた時、ユダは最終的にサタンを自分の中へと招き入れ、裏切りを決心します。主イエス様が、それなら、しようとしていることをするがよいと言われたのは、この時でありました。
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わたしくしは、今朝の御言葉をききながら、わたしたちに一人一人に与えられている自由ということを考えます。初代教会の指導者であるパウロは、第一コリント10章で「すべてのことが許されているしかし、すべてのことが益になるわけではない」と書きました。一時の利益、目先の快楽の為に、あるいは目先の憤りによって、わたしたちは少しも益にならないことをしてしまいます。それどころか、身の破滅を招くようなことをわたしたちはしてしまう、あるいはしてしまう危険にさらされるようなことをするのです。パウロは、ローマの信徒への手紙7章では、わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と自身のうちに内在する罪について告白します。しかし、パウロは、このようなわたしを主イエス・キリストが救ってくださる、感謝するほかはないと書いています。
ユダにはユダの事情があったということはできます。しかし結局は、罪の誘惑、悪への抵抗ができなかったというほかはありません。そして同時に、そのユダの罪の行為を通して、主イエス様の十字架が過ぎ越し祭りのさなかに成し遂げられることになります。主イエス様が、この過ぎ越しの祭りに屠られる子羊として、しかも真の子羊として、命を与えられることとなるのです。神のなさる御業は不思議というほかはありません。
このあと、14章から17章まで、主イエス様は弟子たちに対して、告別の説教と呼ばれる長い話をなさり、17章では「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りをなさいます。すでに13章から、その告別説教の段落に入っていますけれども、13章といいますのは、場面は同じですが、その前段階であります。13章の最後におかれている御言葉に注目したいと思います。そこにあるのは、ユダだけでなく、一番弟子のペトロもまた主イエス様を裏切るという予告です。新共同訳の小見出しでは「ペテロの離反を予告する」と書かれていますが、これもまた一種の裏切りであります。ペトロは、この後の18章で、その御言葉通りに、人々の前で主イエスを知らないと言います。マタイによる福音書やマルコによる福音書によれば、呪いの言葉までを吐くことになります。主イエス様を敵に売り渡すというユダの裏切りに比べるならば、心は主イエス様を信じていたけれども、言葉や態度では反対のことをしてしまったという意味で、確かにユダよりはましであると言える、言い合えるなら、それは相対的に小さな裏切りかもしれません。
けれども、会計係のイスカリオテのユダが裏切り、かしらの弟子であるペトロもまた主イエス様を人々の前で否定し、呪う、そして、いずれの場合も、あらかじめ、主イエス様の予告があり、警告がされているのです。
しかし、それにもかかわらず、わたしたちは罪を犯してしまうのです。だからこそ、主イエス様は、私たちのために十字架にかかって、罪の赦しを与えてくださいました。
ここでは、主イエス様を裏切ったユダが最終的に神に赦されたのか、救われたのかということを考えているのではありません。マタイによる福音書27章には、ユダが自分の罪に気付き、エルサレムの祭司長や長老たちにお金を返そうとして拒まれ、最後には神殿にそのお金を投げ込んで立ち去り首をつって死んだという顛末が記されています。わたしたちは、誰が最終的に救われるのか、あるいは滅びるのかというようなことに関心を持ってはならないのだと思います。それは神様の主権にかかわることだからです。考えなければならないのは、なによりも自分自身のことです。
5,
さて、次週、扱いますけれども13章31節にはこう書かれています。
「31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
「31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
主イエス様が、神の子として栄光をお受けになる、それは、神様の警告にもかかわらず、罪を犯し続けるわたしたちを救ってくださるという栄光の姿、愛のお姿です。それは、罪びとに恵みを与えてくださり、そのことによって、わたしたちと神様との正しい関係を回復してくださるということです。そのような愛の関係に主イエス様のほうから入ってくださるということにほかなりません。
人間は裏切ります。罪を犯します。しかし、そのすべてを知ってなおかつ、私たちを愛してくださる主イエス様を見上げたいと思います。そして罪に陥ることなく、最後の最後であっても主イエス様の愛の中に踏みとどまりたい。そう願います。そして、わたしたちもまた愛を行うことが出来るようにと祈ります。そのことによって、わたくしたちは、この神様の愛、主イエス様の最高度の愛にお答えしたいと思うのであります。祈りを捧げます。
祈り
天の父なる神様、御名を讃美します。あなたは最後までユダに警告を与えてくださいました。しかし、彼は自分の立場を守るため、お金のために主イエス様を売り渡しました。しかし、そのことによって過ぎ越しの祭りのまことの子羊、最終的な神の子羊として主イエス様の命が捧げられました。わたしたちの罪の赦しのためであることを思い起こさせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。