聖書の言葉 ヨハネによる福音書 13章12節~20節 メッセージ 2023年8月20日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書12章12節(朗読1節~)~20節「弟子の足を洗うイエス」2 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 前回に引き続きまして、主イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったという出来事の御言葉をご一緒に聞きました。先週に引き続いて、今朝も1節から20節までを通して読みました。今朝、中心に聞こうとしている12節からの御言葉が、その前の、主イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったという12節までの御言葉と強く結びついているからであります。 今朝改めて感じましたことは、13章1節の素晴らしい御言葉をもう一度読み、また聞くことができて良かったという思いであります。 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」 前回もお話ししましたことですけれども、「この上なく愛し抜かれた」というところは、他の聖書ではいくつもの違った仕方で翻訳されています。新改訳聖書は「最後まで愛し抜かれた」、フランシスコ会訳聖書は「終わりまで愛し抜かれた」としています。先週、ご紹介した文語訳聖書は「極みまでこれを、つまりご自分の者を、愛し給えり」。「テロス」、終わり、完成、というギリシャ語を、時間的な意味と取るのか、それとも質的な意味にとるのかという違いがあります。どちらも可能ですけれども、ここは内容的、質的な意味で理解したいと思うのです。 主イエス様が愛される対象は「世にいる弟子たち」ですが、元の言葉は、文語訳と新改訳聖書、そして2018年に新しく出ました聖書協会共同訳がその通りに訳していますが、「世にいるご自分のものたち」です。つまり、その場に居合わせた12弟子だけでなくて、世にいるすべての主イエス様の弟子のことです。わたしたちを含めて信じる者の全員を主イエス様が愛してくださる、そしてこの御言葉によれば、この上なく、極みまで、愛してくださる、というのです。 主イエス様のこの上ない愛、極みに至る愛は、十字架以外にはないこと明らかです。福音書記者ヨハネは、他の福音書では聖餐式制定のみ言葉が記されているこの場所に、主イエス様の洗足の出来事を記しました。使徒ヨハネが聖餐式制定の御言葉を知らなかったはずはありません。しかし敢えて、その場所に主イエス様が弟子たちの足を洗われたことを記しました。このことが聖餐式制定の御言葉にまさるとも劣らない主イエス様の大切な出来事であったからだと思います。ここには、主イエス様の十字架の深い意味が記されていると言っても過言ではないのです。 聖餐式制定の御言葉にある、「あなたがたのために与えられるわたしの体」、「あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」、これは、主イエス様の十字架が代々に渡るキリスト者たちに与える恵みを示します。わたしたちの命のために主イエス様は十字架にお架かりになりました。このヨハネによる福音書だけに記される主イエス様の洗足のみ言葉もまた、すべての信仰者が覚えておくべき主イエス様の十字架の深い意味を私たちに示すものなのです。主イエス様がわたしたちのために、その考えられる最も低い所まで降りてきてくださったからです。 12節から20節の御言葉には、主イエス様から極限の愛をいただいた、十字架の愛をいただいたわたしたちは、どう生きるのか、何をするのかということが記されます。わたしたちもまた「しもべ」となり、互いに足を洗い合う、そのようにして、主イエス様の教えに従ってゆくということであります。もちろん、それはわたしたちが実際に足を洗うことではなくて、そこにある精神、心のことです。キリストの弟子たちは、互いに謙遜になり、しもべとなって仕えあうのです。宴会に招かれた客たちの汚れた足を洗う、「しもべ」のようになり、互いに尊敬し合うのです。大切なことは、それを言葉だけでなく現実の態度や行いで示すことです。 2、 12節からの後半部分は、主イエス様が、12弟子の足をすべて洗い終えてくださったところから始まります。この後、主イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダを含めて、主イエス様は12人全員の足を洗われました。当時の奴隷の姿のように上半身裸になっておられたのかもしれません。改めて服を着て、そして居住まいを正して弟子たちに言われました。 「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」 弟子たちは、主イエス様から、今わたしがあなたたちにしたことが分かりますか、何を意味しているのか分かりますかと尋ねられました。ここは質問というよりも、今からわたしがそれを語るから、その意味をよくわかりなさい、知りなさい、という思いのこもった主イエス様の言葉です。そして、これらのことは、あなた方に対して模範を示したのだとおっしゃいました。 模範と言いますのは、モデルであり、お手本であります。わたくしが、模範と聞いて思い浮かべるのは小学生の時に習った書道のことです。書道では、はじめは必ず、お手本があって、これを見ながら書きます。あらかじめ、うすい墨で手本が書いてあって、その上をなぞってゆくように練習するということも致します。 主イエス様が16節で「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」とおっしゃったのは、およそしもべというものは、この手本と違ったことをしないという意味であります。その通りに、なぞるようにするのです。主イエス様が、弟子たちの「先生であり主である」、あるいは「主であり師である」ということを繰り返しておられるのは、わたしがしたとおりにあなた方もしなさいということにほかなりません。 17節に「17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」とあります。 「幸いである」という言葉は、新約聖書全体腕では、50回以上出て来るのですが、このヨハネによる福音書では二回しか使われません。復活した主イエス様が、疑い深い弟子であったトマスに現われてくださって「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と言われた20章29節と、この13章17節です。その貴重な「幸いである」「祝福される」がここに出てきています。復活の主イエス様に会ったトマスに対する「見ないで信じるもの」への祝福と、主イエス様を信じる者が、主イエス様のしもべとしてのお姿を、今度は自分が実際に行う、その両方のものが幸いであると祝福されています。信仰と行い、その両方がまさに幸いなのです。 今朝の13章の前の12章には、主イエス様が、ベタニア村の三兄弟の一人マリアから、非常に高価なナルドの香油を足にそそがれる場面が記されていました。マリアは、自分の髪の毛で主イエス様の足をぬぐったのであります。このマリアの行いと主イエス様の洗足の奉仕には共通点があります。対価を求めない、無償の奉仕であるということです。マリアが主イエス様の足をぬぐったとき、その家は香油の香りで一杯になったと12章3節に書かれていました。今朝の場面では、主イエス様の足ではなく弟子たちの足を主イエス様が洗ってくださいました。わたしたちは、12章のナルドの香油の御言葉を聞いて、嗅いだことがないにも関わらず、その香しい香油の香りを思い浮かべましたが、この13章では、主イエス様がたらいの水を弟子たち一人一人の足にそそぎかけ、手拭いで拭われる、その美しい水の音を心に思い浮かべて良いのだと思います。 聖書は、別の箇所で、弟子たちに礼拝や賛美、また主イエス様の名による熱心な祈りを命じていますけれども、ここでは教会の兄弟姉妹たちがお互いに仕え、愛しあうことが命じられます。弟子同士が互いに張り合い、名声を求め合い、自分の思いや感情や主張にこだわって、その結果、争いや分裂を起こすとうことではない、そうではなく、助け合うこと、互いに低くなって仕えあうことが求められます。これが主イエス様から愛された、この上なく愛されたものの務めであります。互いに助け合うこと、赦しあうこと、愛し合うこと、それは、実は本当に幸いなことなのです。 3、 さて、主イエス様は、弟子たちに対して幸いの宣言をなさったすぐ後で、こういわれます。18節です。 :18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。 主イエス様は、弟子の一人で後に主イエス様を裏切るユダの足をも洗われたのですが、すでにそのユダの心は主イエス様に対する裏切りへと向かっていました。主イエス様ご自身が選んで12弟子として任命したものたちでありましたが、サタンは、そのうちの一人、イスカリオテのユダを狙っており、すでに誘惑を始めていたのです。主イエス様によって足を洗ってもらった弟子たちは、食事を始めています。主イエス様が、一家の長のように、パンを裂いて弟子たち一人一人に与えてくださいます。そのパンを食べている親しいものが、主イエス様を裏切るのです。 18節の「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という旧約聖書の引用は詩編第41編10節の御言葉です。旧約聖書詩編41編10節、「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足蹴にします。」。「逆らう」と「足蹴にする」、実はどちらも直訳は両方とも、「かかとを上げる」と言う言葉です。この後のイスカリオテのユダの裏切りを表しています。自分にとって主であるお方、先生である主イエス様を蹴飛ばすのです。旧約聖書詩編41編は、ダビデとされる一人の詩人が父なる神の憐みを願い求める詩編です。弱い者がさらに苦しみを受けるという苦難が今わたしに実現している、しかし父なる神は決して捨てることはないというのです。 ユダの裏切りについては、この後の21節から30節に、いっそうくわしく記されていますので、次回、取り扱います。夜の町へ出て行ったユダ、そのユダによって主イエス様の居場所が、エルサレム神殿の祭司長たちやファリサイ派のところに伝えられ、翌朝には主イエス様は捕らえられて裁判にかけられます。その結果、死刑を宣告され十字架におかかりになるのです。 4、 さて、19節から20節は、主イエス様が、改めて弟子たちにご自分の真実の身分について明かされる御言葉です。 最後の20節をまずお読みします。 「20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 この御言葉は、主イエス様と天地をおつくりなった天の父なる神とが、同じ方、一人の神であることをもう一度言い表すものです。このことは、すでに12章44節で、言われていました。12章44節 「イエスは叫んで、こういわれた。わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」、さらに45節「わたしを見るものはわたしを遣わされた方を見るのである」 よく見てみますと、今朝の主イエス様のみ言葉では、「信じる」あるいは「見る」という部分が、「受け入れる」に置き換えられています。信じることは、主イエス様と人格的に出会うこと、そして受け入れることだからです。 20節の初めに、「はっきり言っておく」と書かれています。実はその前の16節17節の「僕は主人にまさらず、その通りに実行するなら幸いである」というところでも、主イエス様は「はっきり言っておく」と前置きされました。また20節の直前の19節にも「今、言っておく」と前置きしておられます。これから大切なことをお語りになるというしるしです。 19節は、事が起こった時、言い換えますと、主イエス様の十字架と復活が起こったとき、あなたがたは、「わたしはある」ということを信じるようになる、今前もってこのことを言っておくというものです。そして20節の「天の父と主イエス様との一体性」の言葉が続くのです。 この「わたしはある」という謎のような言葉は、明らかに出エジプト記3章のモーセの召命の箇所と関係しています。神が、燃える柴のあいだからモーセに向かって語りかけ、イスラエルをエジプトから解放するために、あなたをファラオのもとに遣わすと言われた時に、モーセはあなたの名を教えてほしいと願ったのです。そのとき、神様は「わたしはある」「わたしはあるというものだ」と答えられました。 この「わたしはある」エゴー・エイミーという言葉が、神ご自身のお名前でした。「『わたしはある』ということをあなたがたが信じるために、今、改めて言っておくと言われたのです。 5, 「この上なく」「極みまで」、わたしたちを愛し、愛し抜いてくださるお方、主イエス様ご自身が、天の父である神、と同一であり、一体であることとは、天の父ご自身が、わたしたちを極みまで愛し抜いてくださることと一つのことです。 わたしたちは、ここで、このヨハネによる福音書の3章16節の主イエス様の御言葉を思い出さなければならないと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を受けるためである」。 神であるお方が、尊い身分にもかかわらず、弟子たちの、そして主イエス様を信じる者の一人一人の足を洗って下さるのです。そして、わたしの弟子であるあなたがたは、すでに全身が清い、なぜなら、わたしのものとなっているからだ。だから足だけ洗ってあげようと言ってくださったことは、決して最後の晩餐に居合わせた2弟子だけが受ける恵みではないと思います。 最後に新約聖書のフィリピの信徒への手紙2章3節から11節をお読みしたいと思います。この手紙を書いた使徒パウロは主イエス様の洗足には与りませんでした。しかし、主イエス様の十字架と、その恵みに与った私たちキリストの弟子であるものの「へりくだり」との深い関係をよく知っておりました。こう書いています。 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」。 そしてあの有名な「キリスト賛歌」を歌い上げるのです。「キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」 主イエスがなさったように、互いに足を洗い合う、キリストの弟子の皆が仕えあう、これこそは主イエスの模範に従うことだと悟り、これを実行することが命じられます。「互いに足を洗い合わなければならない」という主イエス様の御言葉の、元の言葉には、「義務」「負い目」「借金」という言葉が使われていることを知りました。そして、改めて新鮮な驚きを覚えました。 「互いに愛し合う」ということは、それによってわたしたちが何か報酬を期待する善行、良い行いではないのです。そうではなく、負債、借金を返すことがそうであるように、当然しなければならないことなのだと改めて思いました。 今朝のみ言葉の中ほどの17節で、主は祝福を宣言されます。「このことが分かり、その通りに実行するなら幸いである」。主イエス様は、「あなたを喜び、祝福する」というのです。「しもべ」が当然のこととしてなす働きは地味で目立たないものです。しかし、結果として、神である主イエス様の祝福を頂きます。祈りをいたします。 主イエス・キリストの父なる神、三一体の恵みの神、御名を賛美します。愛し合うことのできないわたしたちに、ご自身の模範と御言葉によって愛することを教えて下さりありがとうございます。十字架の愛を受けたわたしたちにあなたの聖霊を続けて送り、わたしたちを清めて、教会が愛に満ち、また隣人を愛する愛が増し加えられますよう、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年8月20日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書12章12節(朗読1節~)~20節「弟子の足を洗うイエス」2
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
前回に引き続きまして、主イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったという出来事の御言葉をご一緒に聞きました。先週に引き続いて、今朝も1節から20節までを通して読みました。今朝、中心に聞こうとしている12節からの御言葉が、その前の、主イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったという12節までの御言葉と強く結びついているからであります。
今朝改めて感じましたことは、13章1節の素晴らしい御言葉をもう一度読み、また聞くことができて良かったという思いであります。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
前回もお話ししましたことですけれども、「この上なく愛し抜かれた」というところは、他の聖書ではいくつもの違った仕方で翻訳されています。新改訳聖書は「最後まで愛し抜かれた」、フランシスコ会訳聖書は「終わりまで愛し抜かれた」としています。先週、ご紹介した文語訳聖書は「極みまでこれを、つまりご自分の者を、愛し給えり」。「テロス」、終わり、完成、というギリシャ語を、時間的な意味と取るのか、それとも質的な意味にとるのかという違いがあります。どちらも可能ですけれども、ここは内容的、質的な意味で理解したいと思うのです。
主イエス様が愛される対象は「世にいる弟子たち」ですが、元の言葉は、文語訳と新改訳聖書、そして2018年に新しく出ました聖書協会共同訳がその通りに訳していますが、「世にいるご自分のものたち」です。つまり、その場に居合わせた12弟子だけでなくて、世にいるすべての主イエス様の弟子のことです。わたしたちを含めて信じる者の全員を主イエス様が愛してくださる、そしてこの御言葉によれば、この上なく、極みまで、愛してくださる、というのです。
主イエス様のこの上ない愛、極みに至る愛は、十字架以外にはないこと明らかです。福音書記者ヨハネは、他の福音書では聖餐式制定のみ言葉が記されているこの場所に、主イエス様の洗足の出来事を記しました。使徒ヨハネが聖餐式制定の御言葉を知らなかったはずはありません。しかし敢えて、その場所に主イエス様が弟子たちの足を洗われたことを記しました。このことが聖餐式制定の御言葉にまさるとも劣らない主イエス様の大切な出来事であったからだと思います。ここには、主イエス様の十字架の深い意味が記されていると言っても過言ではないのです。
聖餐式制定の御言葉にある、「あなたがたのために与えられるわたしの体」、「あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」、これは、主イエス様の十字架が代々に渡るキリスト者たちに与える恵みを示します。わたしたちの命のために主イエス様は十字架にお架かりになりました。このヨハネによる福音書だけに記される主イエス様の洗足のみ言葉もまた、すべての信仰者が覚えておくべき主イエス様の十字架の深い意味を私たちに示すものなのです。主イエス様がわたしたちのために、その考えられる最も低い所まで降りてきてくださったからです。
12節から20節の御言葉には、主イエス様から極限の愛をいただいた、十字架の愛をいただいたわたしたちは、どう生きるのか、何をするのかということが記されます。わたしたちもまた「しもべ」となり、互いに足を洗い合う、そのようにして、主イエス様の教えに従ってゆくということであります。もちろん、それはわたしたちが実際に足を洗うことではなくて、そこにある精神、心のことです。キリストの弟子たちは、互いに謙遜になり、しもべとなって仕えあうのです。宴会に招かれた客たちの汚れた足を洗う、「しもべ」のようになり、互いに尊敬し合うのです。大切なことは、それを言葉だけでなく現実の態度や行いで示すことです。
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12節からの後半部分は、主イエス様が、12弟子の足をすべて洗い終えてくださったところから始まります。この後、主イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダを含めて、主イエス様は12人全員の足を洗われました。当時の奴隷の姿のように上半身裸になっておられたのかもしれません。改めて服を着て、そして居住まいを正して弟子たちに言われました。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」
弟子たちは、主イエス様から、今わたしがあなたたちにしたことが分かりますか、何を意味しているのか分かりますかと尋ねられました。ここは質問というよりも、今からわたしがそれを語るから、その意味をよくわかりなさい、知りなさい、という思いのこもった主イエス様の言葉です。そして、これらのことは、あなた方に対して模範を示したのだとおっしゃいました。
模範と言いますのは、モデルであり、お手本であります。わたくしが、模範と聞いて思い浮かべるのは小学生の時に習った書道のことです。書道では、はじめは必ず、お手本があって、これを見ながら書きます。あらかじめ、うすい墨で手本が書いてあって、その上をなぞってゆくように練習するということも致します。
主イエス様が16節で「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」とおっしゃったのは、およそしもべというものは、この手本と違ったことをしないという意味であります。その通りに、なぞるようにするのです。主イエス様が、弟子たちの「先生であり主である」、あるいは「主であり師である」ということを繰り返しておられるのは、わたしがしたとおりにあなた方もしなさいということにほかなりません。
17節に「17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」とあります。
「幸いである」という言葉は、新約聖書全体腕では、50回以上出て来るのですが、このヨハネによる福音書では二回しか使われません。復活した主イエス様が、疑い深い弟子であったトマスに現われてくださって「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と言われた20章29節と、この13章17節です。その貴重な「幸いである」「祝福される」がここに出てきています。復活の主イエス様に会ったトマスに対する「見ないで信じるもの」への祝福と、主イエス様を信じる者が、主イエス様のしもべとしてのお姿を、今度は自分が実際に行う、その両方のものが幸いであると祝福されています。信仰と行い、その両方がまさに幸いなのです。
今朝の13章の前の12章には、主イエス様が、ベタニア村の三兄弟の一人マリアから、非常に高価なナルドの香油を足にそそがれる場面が記されていました。マリアは、自分の髪の毛で主イエス様の足をぬぐったのであります。このマリアの行いと主イエス様の洗足の奉仕には共通点があります。対価を求めない、無償の奉仕であるということです。マリアが主イエス様の足をぬぐったとき、その家は香油の香りで一杯になったと12章3節に書かれていました。今朝の場面では、主イエス様の足ではなく弟子たちの足を主イエス様が洗ってくださいました。わたしたちは、12章のナルドの香油の御言葉を聞いて、嗅いだことがないにも関わらず、その香しい香油の香りを思い浮かべましたが、この13章では、主イエス様がたらいの水を弟子たち一人一人の足にそそぎかけ、手拭いで拭われる、その美しい水の音を心に思い浮かべて良いのだと思います。
聖書は、別の箇所で、弟子たちに礼拝や賛美、また主イエス様の名による熱心な祈りを命じていますけれども、ここでは教会の兄弟姉妹たちがお互いに仕え、愛しあうことが命じられます。弟子同士が互いに張り合い、名声を求め合い、自分の思いや感情や主張にこだわって、その結果、争いや分裂を起こすとうことではない、そうではなく、助け合うこと、互いに低くなって仕えあうことが求められます。これが主イエス様から愛された、この上なく愛されたものの務めであります。互いに助け合うこと、赦しあうこと、愛し合うこと、それは、実は本当に幸いなことなのです。
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さて、主イエス様は、弟子たちに対して幸いの宣言をなさったすぐ後で、こういわれます。18節です。
:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
主イエス様は、弟子の一人で後に主イエス様を裏切るユダの足をも洗われたのですが、すでにそのユダの心は主イエス様に対する裏切りへと向かっていました。主イエス様ご自身が選んで12弟子として任命したものたちでありましたが、サタンは、そのうちの一人、イスカリオテのユダを狙っており、すでに誘惑を始めていたのです。主イエス様によって足を洗ってもらった弟子たちは、食事を始めています。主イエス様が、一家の長のように、パンを裂いて弟子たち一人一人に与えてくださいます。そのパンを食べている親しいものが、主イエス様を裏切るのです。
18節の「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という旧約聖書の引用は詩編第41編10節の御言葉です。旧約聖書詩編41編10節、「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足蹴にします。」。「逆らう」と「足蹴にする」、実はどちらも直訳は両方とも、「かかとを上げる」と言う言葉です。この後のイスカリオテのユダの裏切りを表しています。自分にとって主であるお方、先生である主イエス様を蹴飛ばすのです。旧約聖書詩編41編は、ダビデとされる一人の詩人が父なる神の憐みを願い求める詩編です。弱い者がさらに苦しみを受けるという苦難が今わたしに実現している、しかし父なる神は決して捨てることはないというのです。
ユダの裏切りについては、この後の21節から30節に、いっそうくわしく記されていますので、次回、取り扱います。夜の町へ出て行ったユダ、そのユダによって主イエス様の居場所が、エルサレム神殿の祭司長たちやファリサイ派のところに伝えられ、翌朝には主イエス様は捕らえられて裁判にかけられます。その結果、死刑を宣告され十字架におかかりになるのです。
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さて、19節から20節は、主イエス様が、改めて弟子たちにご自分の真実の身分について明かされる御言葉です。
最後の20節をまずお読みします。
「20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
この御言葉は、主イエス様と天地をおつくりなった天の父なる神とが、同じ方、一人の神であることをもう一度言い表すものです。このことは、すでに12章44節で、言われていました。12章44節
「イエスは叫んで、こういわれた。わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」、さらに45節「わたしを見るものはわたしを遣わされた方を見るのである」
よく見てみますと、今朝の主イエス様のみ言葉では、「信じる」あるいは「見る」という部分が、「受け入れる」に置き換えられています。信じることは、主イエス様と人格的に出会うこと、そして受け入れることだからです。
20節の初めに、「はっきり言っておく」と書かれています。実はその前の16節17節の「僕は主人にまさらず、その通りに実行するなら幸いである」というところでも、主イエス様は「はっきり言っておく」と前置きされました。また20節の直前の19節にも「今、言っておく」と前置きしておられます。これから大切なことをお語りになるというしるしです。
19節は、事が起こった時、言い換えますと、主イエス様の十字架と復活が起こったとき、あなたがたは、「わたしはある」ということを信じるようになる、今前もってこのことを言っておくというものです。そして20節の「天の父と主イエス様との一体性」の言葉が続くのです。
この「わたしはある」という謎のような言葉は、明らかに出エジプト記3章のモーセの召命の箇所と関係しています。神が、燃える柴のあいだからモーセに向かって語りかけ、イスラエルをエジプトから解放するために、あなたをファラオのもとに遣わすと言われた時に、モーセはあなたの名を教えてほしいと願ったのです。そのとき、神様は「わたしはある」「わたしはあるというものだ」と答えられました。
この「わたしはある」エゴー・エイミーという言葉が、神ご自身のお名前でした。「『わたしはある』ということをあなたがたが信じるために、今、改めて言っておくと言われたのです。
5,
「この上なく」「極みまで」、わたしたちを愛し、愛し抜いてくださるお方、主イエス様ご自身が、天の父である神、と同一であり、一体であることとは、天の父ご自身が、わたしたちを極みまで愛し抜いてくださることと一つのことです。
わたしたちは、ここで、このヨハネによる福音書の3章16節の主イエス様の御言葉を思い出さなければならないと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を受けるためである」。
神であるお方が、尊い身分にもかかわらず、弟子たちの、そして主イエス様を信じる者の一人一人の足を洗って下さるのです。そして、わたしの弟子であるあなたがたは、すでに全身が清い、なぜなら、わたしのものとなっているからだ。だから足だけ洗ってあげようと言ってくださったことは、決して最後の晩餐に居合わせた2弟子だけが受ける恵みではないと思います。
最後に新約聖書のフィリピの信徒への手紙2章3節から11節をお読みしたいと思います。この手紙を書いた使徒パウロは主イエス様の洗足には与りませんでした。しかし、主イエス様の十字架と、その恵みに与った私たちキリストの弟子であるものの「へりくだり」との深い関係をよく知っておりました。こう書いています。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」。
そしてあの有名な「キリスト賛歌」を歌い上げるのです。「キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」
主イエスがなさったように、互いに足を洗い合う、キリストの弟子の皆が仕えあう、これこそは主イエスの模範に従うことだと悟り、これを実行することが命じられます。「互いに足を洗い合わなければならない」という主イエス様の御言葉の、元の言葉には、「義務」「負い目」「借金」という言葉が使われていることを知りました。そして、改めて新鮮な驚きを覚えました。
「互いに愛し合う」ということは、それによってわたしたちが何か報酬を期待する善行、良い行いではないのです。そうではなく、負債、借金を返すことがそうであるように、当然しなければならないことなのだと改めて思いました。
今朝のみ言葉の中ほどの17節で、主は祝福を宣言されます。「このことが分かり、その通りに実行するなら幸いである」。主イエス様は、「あなたを喜び、祝福する」というのです。「しもべ」が当然のこととしてなす働きは地味で目立たないものです。しかし、結果として、神である主イエス様の祝福を頂きます。祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる神、三一体の恵みの神、御名を賛美します。愛し合うことのできないわたしたちに、ご自身の模範と御言葉によって愛することを教えて下さりありがとうございます。十字架の愛を受けたわたしたちにあなたの聖霊を続けて送り、わたしたちを清めて、教会が愛に満ち、また隣人を愛する愛が増し加えられますよう、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。