2023年08月06日「光として来たイエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 12章36節~50節

メッセージ

2023年8月6日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書12章44節~50節「光として来たイエス」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。御名によって祈ります。アーメン。

 今朝のみ言葉の終わりの方になりますが、46節に「光」という言葉が出てきています。主イエスさまのお言葉です。「46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」

 この福音書の中で、主イエス様はご自分について、ただ一つの言葉ではなく、いろいろな言葉を用いて自己紹介されました。あるときには主イエス様は「よい羊飼い」であり、ある時には「道」であるともおっしゃいました。ヨハネによる福音書では主なものだけで7つの自己紹介があるといわれます。その中の一つが、「光」であります。「わたしは光として世に来た」。「信じる者が闇の中にとどまることがないために光として来た」と言われます。それは、主イエス様は闇に打ち勝つ、そして闇を照らしだす光であるということでもあります。わたしたちが生まれてまいりまして、そして死ぬ時まで生きるこの世界は、いつも光にあふれているわけではありません。それどころか、わたしたちの内側にもわたしたちの外側にも闇がいつもあるのです。しかし、その暗闇のただなかに主イエス様が来てくださったのであります。

実は、この主イエス様が光であるということは、ヨハネよる福音書では幾度も繰り返されています。ヨハネによる福音書を光の福音書と呼ぶことさえあります。

まず、この福音書の最初、第1章4節で宣言されていました。開かずにお聞きください。お読みします。1章4節、「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。」。そして二つ後の章、第3章19節にはこうあります。「光が世に来たのに人々はその行いが悪いので光よりも闇のほうを好んだ」。さらに8章12節で主イエス様ご自身が、もっとはっきりと宣言なさいました。「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

そして今朝の46節です。もう一度12章46節をお読みします。「46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」このように主イエス様の自己紹介のみ言葉で、このように繰り返し言い表されるものは多くはありません。ヨハネによる福音書自体が、主イエス様は光であるという宣言から始まりました。今朝は、このことを心に留めながらご一緒に御言葉を学んでまいります。

2、

先ほどの聖書朗読でもお気づきになったと思いますが、今朝は36節から50節という形で、長く御言葉をお読みしました。ここは43節までの部分とその先の44節から50節までの二つに分枯れます。36節の後半に「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」とあります。実はここで、この福音書の大きな区切りが終わっています。ここが福音書全体の大きな切れ目になっています。主イエス様の公の宣教、ユダヤ人伝道は終わりを告げたのです。この後の13章以降は、弟子たちとの最後の晩餐、そして主イエス様の逮捕と十字架刑、そして復活が描かれます。それまでの1章から12章と言いますのは、一貫して洗礼者ヨハネの証しから始まる主イエス様のユダヤ人伝道の記事が続いていました。しかしそれは終わりを告げたのです。主イエス様はユダヤの民から身を隠し、立ち去って行かれます。ここから先は、人々への公の宣教をなさることはありません。

はっきり言いまして、主イエス様のユダヤ人への伝道は決して成功であったということは出来ません。それどころから失敗でありました。だからこそ捕らえられ、十字架に掛けられたのであります。ユダヤ人たちは、主イエス様の語る御言葉に耳を傾けなかった。これが結論であります。そのことが37節から43節に記されていることであります。そしてそのことこそが、実は旧約聖書の預言者イザヤによって、前もって預言されたいたことなのだというのです。

福音書記者ヨハネは、ここでイザヤ書53章1節と6章10節を引用します。53章は、苦難の僕の預言の一つであります。53章は「苦難の僕を取る救い主はこれまで示されたことはなかった、しかし、今それを明らかにする」と告げ知らせます。6章は、イザヤが神様から預言者の召しを受ける場面であります。イザヤは、形式的には神を信じているかのようなユダヤの民にその偽りと偶像礼拝を厳しく指摘して神に立ち返れと叫びました。神様が語れと命じたからであります。しかし民は耳を傾けない、しかしそれもまた、神様の深いご計画によるものだと結論付けるのです。「神は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた」。だからこそ苦難の僕が現れる、そのような不信仰の民の罪を償い、救うとイザヤは預言したのです。

さて今朝の御言葉の後半部の44節から50節のところは、これを読みますと、少し不思議な思いがする、そういうところです。なぜかと言いますと、どうしても、その前に書かれていることのつながりが悪いからであります。36節後半にこう書かれていました。36節b「36 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」

実際ここから先は、主イエス様は公に福音宣教をすることはなく、姿を隠されます。そして弟子たちだけに語り、弟子たちの前で、弟子たちと世界のために長い祈りを捧げます。そして裁判にかけられ処刑されるのです。

ところが、44節から50節では、姿を消されたはずのイエス様が御言葉をまたお語りになる、それも「叫ばれる」、つまり公の宣教の言葉が出てくるので、不思議な気がするのです。そこで、ここの御言葉は、実は主イエス様が身を隠される前の36節の前のところにおかれていたものが、聖書が書き写されてゆく過程でその場所が変わってしまったのではないかという学者までおります。しかし、そうではなく、ここもやはり、福音書記者ヨハネの言葉が続いていると読むことができるのです。

 端的に言いますと、福音書記者ヨハネは、この福音書の前半部分を閉じるにあたって、ここでもう一度、これまでの主イエス様の教えをまとめなおして書いているということが出来ます。主イエス様が、熱心にわたしたちに語ってくださったことは、こういうことだった、声を張り上げ、叫ぶようにしてこういってくださったことは、これであった、と振り返っているのです。

今朝の段落の前の小見出しにはこう書かれています。「イエスの言葉による裁き」、確かに、48節に「わたしの語った言葉が終りの日にその人を裁く」とありますから、間違いでないかもしれません。けれども、もっと良い見出しの付け方がああります。カトリックのフランシスコ会訳はここにこういう小見出しをつけています。「イエスの教えのまとめ」これがふさわしいと思います。

レオン・モリスという聖書学者はこういっています。「ここには新しい教えはない。」「どの御言葉も、これまで語られてきたものの中で大切なものが選ばれてここに記されている」こう言います。

フランシスコ改訳は、今朝の御言葉の全体を讃美歌のように短いセンテンスに分けて分かち書きしています。すなわち、ここは、ヨハネが聖霊に導かれて、これまで主イエス様が人々に向かって、語られた言葉、熱心に叫ぶようにして語られた言葉を取りまとめて、もう一度、一つのエッセンスとして記したものと解釈しました。いわば教会の壁に掲げて張って置くようにして記された、主イエス様の教えをまとめた御言葉なのであります。

4、

 44節から46節は、主イエス様と父なる神様が決して分けることのできない関係であることを告げています。「わたし」は、主イエス様のことであり、「わたしを遣わされた方」は旧約聖書においていろいろな形で告げ知らされてきた天の父なる神であります。その天の父なる神を信じることと主イエス様を信じることは一つのことである。そう主イエス様は言っておられる。ユダヤ人たちにそう語られたというのです。

 45節に「わたしを見る者」と書かれています。「見る」という言葉は、日本語では少し不明瞭ですけれども、「会う」「お会いする」という意味です。英語や韓国語では見るという言葉が合うという意味で用いられます。ここでは相手は神様であります。見えないお方です。しかし、そのお方が主イエス様を通してみることが出来るようにされた、見えないお方を見る、それは、同時にわたしたちの心、人格が、神様にお会いすることにほかなりません。主イエス様によって見えない神様にお会いするのです。わたしを見るものは神様を見るこうイエス様は宣教なさいました。教会では、聖書の御言葉が告げ知らせられ、人々が共に集って礼拝します。それはわたしたちが神様の言葉を通して主イエスにお会いすることです。そして同時に主イエス様において、天の父なる神様にお会いします。

ユダヤの人々は、肉の目で生きておられる主イエス様を見ました。主イエス様の言葉を聞き、御業を見ました。ところがこのようにして主イエス様を見ること、主イエス様とお会いすることが、実は、天の父なる神様にお会いすること、神様を見ることと同じなのだとわからなかったのです。しかし、ここでは、主イエス様はあからさまに、このことを語られました。

「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」44節45節です。

46節にこうあります。「46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」

主イエス様は光であります。

この世界は、決して天国、理想的な世界ではない、道理に合わないことが起きる世界です。また決して思うようにならない世界だと思います。天国ではないけれども、地獄でもないかも知れませんが、けれども、やはり現実の世界は天国ではありません。ある文学者が、名前を忘れてしまいましたが、こう言いました。「大人になるということは世界の不条理を少しずつ知らされることだ。」

子どもはよく泣き叫びます。自分の思い通りにならないことは、おかしいことだ、泣き叫ぶべきことだと思っているからです。けれども大人になると泣かなくなります。人生と世界の実際を知るようになるからです。世界は不幸で満ちているのです。そして人間を不幸にし、苦しめるのもまた人間です。動物の世界には弱肉強食という原理がありますけれども、動物たちはそのことに苦しんでいるようにはみえません。しかし、人間は動物とは違います。人間の心は動物よりも複雑で深いのです。だからこそ、その闇もまた底なしの深さを持っています。闇の中で光を求めるのです。わたしたちは、一体どうすれば暗闇から救われるでしょうか。自分のうちに光があるのでしょうか。そうではない、闇から光は出てきません。光は外からきます。光は外から来て闇を照らし、闇を吹き払うのです。主イエス様こそが光です。世の光です。この方を信じるなら闇にとどまることはないのです。光は闇に打ち勝つのです。

5、

 47節に「わたしの言葉を聞いてそれを守らない者がいても」とあります。主イエスの言葉、主イエスのご命令がある。それを守るのか守らないのかがここで問題になっています。50節に「父の命令は永遠の命である」と書かれています。命令と訳されている言葉は、掟とも訳すことができます。この後のところで、主イエス様が弟子たちにこうおしえられる。15章12節です。「12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

 主イエス様が、命を捨て、一粒の麦のように死んで、わたしたちに命を与えられたように、あなた方も、つまりわたしたちも、互いに愛し合いなさい、これが主イエス様の掟、主イエス様の命令であり、天の父なる神のご命令です。しかし、どうでしょう、わたしたちはこれができません。主イエス様の言葉を守ることができないのです。しかし、このようなわたしたちを主イエス様は、裁くことはないと言われます。50節の全体をお読みします。「:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」

主イエス様は、互いに愛することができないわたしたちを裁かないと約束されます。

 ところが、48節にこう続きます。

「48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。」

 わたしたちが罪を犯しても、それが裁かれず、赦されるのは主イエス様ご自身が一粒の麦として死んでくださったからです。生きておられる神の子、神ご自身が、わたしたちの身代わりになられた、そして死の苦しみを引き受け、裁きと呪いとをすべて受けてくださった。それゆえ主イエス様を受け入れ、信じるならわたしたちは決して裁かれることはない。闇が光を受けて、もはや闇ではなくなってしまうのです。神様によって闇から光へと引っ張り出されるのであります。

しかし、このお方を拒否し、その言葉を受け入れないならば、話は違う。終りの日に裁かれるのだと言います。終りの日まで、裁きは猶予される。終りの日まで時間がどれほどあるのかわたしたちにはわかりません。しかし、終りの日は誰にでも必ず訪れます。しかし、それまで裁きは行われないのです。しかし、その日はいきなり来る可能性もあるのです。誰にもわからない。ただ神様だけが知っておられます。

主イエス様の言葉を聞かされないものについては、ここでは言われていない。言葉が語られるか否か、それが大きな契機になる。だから終りの日に言葉がその人を裁くとおっしゃられるのです。

 主イエス様がこの世界においでなられたのは、この世を裁き、滅ぼしてしまうためではありませんでした。そうではなく、闇を光に変えてしまわれるため、世を救うために来られました。わたしたちが、光を受け、光に歩むためです。今、御言葉を聞いたこのとき、わたしたちは、神の御子、イエス・キリストを受け入れ、主イエス様によって光を受けようではありませんか。

 お祈りをします。

神様、光を受け、光に歩めと主イエス様は御言葉を下さいます。言葉を聞いて受け入れないものではなく、どこまでも受け入れるものであるように、どうか導いてください。世の光であるお方、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。