聖書の言葉 創世記 12章34節~56節 メッセージ 2023年7月2日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書12章27節~36節「心を騒がせるイエス」 1、 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 ある方から、毎朝行っている早天祈祷会ではどんなことを祈っていますかと聞かれました。早天祈祷会では、賛美歌を歌い、使徒信条を唱え、そして評価の定まった聖書日課に従って御言葉を読んで祈りを捧げています。その時に、わたくしが判で押したように祈りますことは、今日も一日、教会に連なるお一人お一人が、主イエス様の光の中で、主イエス様の光に照らされ、光を浴びながら歩むことが出来ますようにと言うことです。主イエス様は、わたしは光である、世の光であるといわれたからです。ヨハネによる福音書の第1章4節と5節にはこう書かれていました。 「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」 今朝は、ヨハネによる福音書12章27節から36節前半までの御言葉をご一緒に聞いております。その中で、最後に結論のように置かれている36節のみ言葉が、心に聞こえて来ました。それは、主イエス様が、光であられますご自身へとわたしたちを招いてくださる御言葉です。 「36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」「36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」 「光を信じなさい」これは主イエス様を信じなさいということであります。光の子となるといますのは、神の子となるということであります。そして主イエス様ご自身が、8章12節でこうおっしゃられました。「わたしは世の光である」「わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」 主イエス様が、今朝の御言葉を語られたのは、12章の初めに、エルサレムにロバの子に乗ってお入りになった日、あるいは、その直後のことであります。主イエス様の十字架まで、もう一週間もありません。35節で、主イエス様が「光は今しばらく、あなた方のあいだにある」と言われたのは、そのことを示しています。主イエス様と地上でお会い出来なくなる日まで、もう時間がない。主イエス様が十字架の上で死んでしまい。もう生きている主イエス様とはお会いできなくなる、そのときは、もうすぐなのです。闇が世界を再び支配するかのような時が来る、そうなる前に、今、あなたがたは、光を信じなさい、光の子となりなさいと、主イエス様は招いてくださるのです。 世の闇、暗闇は、この世の光といつも対極、正反対の位置にあるものです。もし、この世界に神様がおられないならば、正しく言いますと神様はおられないのだと思ってしまうならば、この世界は、全くの暗闇であります。いつのことであったか、忘れましたけれども、教派を超えた牧師の勉強会のときに、日本でも有名な神学者、また説教者であります、加藤常昭先生と一緒に食事をしていたことがあります。加藤先生は、まだお若いときに一度だけ、あるいは一瞬だけ、神様が一緒にいてくださるということに疑いを持った時があるとおっしゃられました。ああ、加藤先生でもそんなことがあるのかと驚いたのですが、そうだとおっしゃるのです。どこかの建物の屋上から景色を眺めていたときに、不意にそんな思いが心をよぎったというのです。これはサタンの不意打ちなのかもしれないと思ったが、神様が遠くに行かれてしまったという気持ちがした、そうしますと、もうすべてのものが一瞬に光を失い、色彩を失って、色のない世界になった、そういうような気がしたとおっしゃいました。その瞬間にお祈りをした、そうしますと、神様との交わりが回復されて、世界はまた色彩を取り戻したとおっしゃいました。 主イエス様は、今朝のみ言葉の冒頭で「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃいました。そして直ちに「何と言おうか」、言い換えると「何と祈ろうか」と自問自答なさっておられます。心が掻き立てられ、不安になる、ちっとも平安でなくなる、そのようなことは誰にでも起こることです。人間としてお生まれになった神の御子、主イエス様でも起こることなのです。大切なことは、その時にこそ神に祈る、お祈りをすることだと思います。ヤコブの手紙の最後の章、5章13節はわたしたちにこう命じているのです。 「あなたがたの中で、苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」 2, 主イエス様は、十字架という試練を前にして心を騒がせられました。そして、なんと祈ろうと自問自答なさいました。このヨハネによる福音書には、主イエス様が十字架にかかられる前夜にゲッセマネの園で、弟子たちと世を徹して祈られたというゲッセマネの祈りの記事がありません。マタイ、マルコ、ルカのどれにもある、そのオリーブ山での祈りの戦いは、まさに、私たちの祈りの模範です。けれども、ヨハネによる福音書にはこのゲッセマネの場面はありません。ちょうどそれに匹敵する祈りの戦いが、今朝の御言葉の冒頭の御言葉であると言って良いと思います。 人間が痛みや苦しみを恐れ、命に執着し、死を避けようと欲する、そのことは決して罪ではありません。主イエス様は真の神であると同時に真の神であられる、人性と神性の二つの性質をお持ちになられます。しかしそれは全く一つの人格において統合されています。神学の言葉では、このことを「二性一人格」と呼びます。主イエス様は、完全な人間の性質、お体を持つお方として、ここでは死を恐れて祈っておられます。マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書、共観福音書に記録されている主イエス様のゲッセマネの祈りでは、はじめに、「父よ、できることなら、この盃をわたしたから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。今朝の御言葉では、主イエス様の心のうちに、こう祈るべきかと、まず心に浮かんだのは「父よ、わたしをこのときから救ってください」という救いを求める祈りでした。 ゲッセマネでは、主イエス様は直ちに、心を一歩進めてこう祈られました。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」 今朝の御言葉においても、主イエス様は、祈りの中で神様と交わり、そして「わたしはまさにこの時のために来た」とご自身の使命に改めて心を留められまして、こう祈られるのです。「父よ、御名の栄光を現してください」 ハイデルベルク信仰問答の116問から129問に祈りについて教えているところがあります。その117問は、神に喜ばれる祈りは何かと問いかけます。その答えの第一は、こうであります。「神様が私たちに求めておられるすべてのことを私たちが心から請い求めるということです。」 すなわち神様の御心と私たちの心が祈りにおいて一致する、そのことを神様は求めておられるのです。わたしたちが、心を神様の前に打ち開いていろいろなことを祈る、それはまだ、本当に未熟な祈りであり、自分の都合の良いことばかり祈っているかもしれません。けれども、祈りの中で私たちの心が変えられてしまう。その祈りは本当に神様の愛の教えにかなうことなのか、神様の喜んでくださる祈りなのか、祈りの中で心が整えられてゆき、最後には、あなたの御心のままにしてくださいと祈るのです。祈っているうちに、本当に大切なものとそうでないものとが見えてくる、神様、どうかあなたの栄光を現してくださいと祈るときに私たちの心は平和で満たされ、感謝が湧き起ってきます。 祈りの初めから、そのような境地が与えられるということではなく、まず、苦しみや恐れや、心の不安をわたしたちは包み隠さずに神様に打ち明けるのです。そこを通り抜けてこそ神様との本当の対話、祈りにおける神と人の交わりがなされてゆくのです。 3、 主イエス様が、ここで心を騒がせて祈らざるを得ない苦しみ、それは十字架の苦しみでありました。しかし、そこにこそ、神様がこの世を愛してくださる愛の頂点があります。人間の身勝手な心、罪や汚れ、それに対する義なる神様の怒り、裁きを全く罪のない神の子羊である主イエス様が負ってくださるのです。主イエス様が、私たちの身代わりに神の裁きを受けられて苦しくないはずがありません。本来は、それらこそがわたしたちが味わうべき死の苦しみ、滅びの苦しみだからです。神の御子がそれをお受けになること、実は、そこに神のご栄光があります。 主イエス様が、祈りを終えられた時、天から声が聞こえました。その声は、ずいぶんと大きな声であったようです。そばにいた群衆は大変驚いたのです。「雷がなった」雷のように思えた。あるいは、「天使がこの人に話しかけた」、天からの御声は、こう語られました。 「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」 この神様の御声の中身が、そこにいた弟子たちや群衆にどこまで判別できたか疑問です。ある人には雷のように聞こえた、ある人は天使の声に聞こえたと書いてあるからです。主イエス様が、人々に向かって解説してくださいます。 「この声が聞こえたのは、私のためでなく、あなた方のためだ」「今こそ、この世が裁かれるとき、今この世の支配者が追放される」 天の神様、父なる神様が、私の祈りにお答えくださった。それは、まさしく私の祈りが聞かれることのしるしである。そして同時に、あなた方の救いが確かになされることを示しているのだと言われたのです。 こう約束なさいました。32節をお読みします。 「32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 地上から上げられるとは、主イエス様が復活された後に天に昇ってゆくこととも考えられます。しかし、ここでは、まずはそれ以前のこととしての主イエス様の十字架のことを指します。 ヨハネによる福音書には、「上げられる」という言葉が四回使われていますが、どれもが十字架のことです。この32節と、すぐ後の34節のほかには、あと二か所です。その一つは3章の主イエス様とファリサイ派の指導者、ニコデモとの対話です。3章14節「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を持つためである。」 もう一つは8章28節、仮庵の祭りの終りの日の主イエス様とユダヤ人たちとの問答の中です。主イエス様は、ここで「わたしはある」、つまりモーセが初めて神様から民の救いの使命を受けた時に、父なる神様ご自身が、モーセにご自分の名前を教えてくださった時の言葉を語られました。「わたしはあるというものだ」。ユダヤ人たちは主イエス様が「わたしはある」というもの、すなわち神ご自身であることをまったく信じることがないのですけれども、このときに主イエス様はこうおっしゃったのです。 ヨハネによる福音書8章28節「そこでイエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて「わたしはある」ということ、またわたしが自分勝手には何もせず、ただ父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう』」 4, この「上げる」と訳される言葉は、ヨハネ福音書以外の福音書では、「高くする」という物理的な位置の移動、あるいは「高ぶる」という、心の位置の移動のために使われることが多い言葉です。主イエス様の十字架は、主イエス様が苦難を受け死ぬことを意味します。主イエス様にとっては、実は、この世における最低の場所、最も貧しい位置にほかなりません。しかし一方で、十字架は、神様の救いのわざを主イエス様ご自身がその身において担われるという、最も崇高な、栄光に満ちた場所でもあります。そこに神様の愛とご栄光が現わされています。 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と32節に書かれています。「引き寄せる」という言葉は、例えば、ダイコンやニンジンを抜くとか、地引網の網を引くというよう時にも使われます。主イエス様が強い意思と力でわたしたちをグググっと引き寄せて下さることです。十字架の恵みのもとへと引き寄せてくださるのです。 主イエス様はわたしたちにこう呼びかけてくださいます。「「36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」 「暗闇の中を歩くものは自分がどこに行くのかわからない」とあります。暗闇の中を歩くことそのこと自体がわたしには恐ろしいことです。自分がどこにいるのかもわからない、ましてはどこに向かっていくのか見えないし、想像することもできないのです。ただ不安だけがあるのです。しかし、今、この暗闇に光が差し込みます。主イエス様という光です。 主イエス様は、自分を取り囲んでいる人々に、この光は今、あなたがたの間にあるといわれました。この光を受けて欲しいと言われたのです。これは、2000年前のエルサレムで主イエス様を取り囲んでいる群衆だけに向けて語られているみ言葉ではありません。今、この御言葉を聞いておりますわたしたちもまた、光を信じるようにと招かれています。 「光があるうちに、」「闇に追いつかれないように」と言われます。 のんびりしている時ではない。時間がない、暗闇が追いつくともいわれました。今、それができるうちに、光を受け、光を信じ、光のもとに来て、光の子となりなさい。 主イエス様を信じ受け入れるという決断、決心が、まだ出来ていないと思われる方を主イエス様は招いておられます。十字架のもとへと引き寄せて下さいます。 またすでに信仰を頂いて信仰生活を歩んでおられる方々にも、改めて、光であるお方が語りかけてくださいます。わたしたちは、信仰を頂いたと言いながらも、いつもいろいろな罪によって心が翻弄されてしまいます。光が来ていること、光の中にいることを忘れてしまうのです。しかし、今、十字架においてわたしたちを救ってくださる主イエス様のもとに行こうではありませんか。光であるお方のもとに行きましょう。もっと主イエス様に近づき、救いを確かなものとしようではありませんか。祈りをいたします。 祈り 主イエス様、あなたの御名を賛美します。光であられるあなたが、今朝、わたしたちをご自身のもとへ招いてくださることを感謝します。信じることが出来ますよう。また心騒ぎ、不安で心が一杯になってしまう時にこそ、あなたに心を向け、光であるあなたのもとへ立ち帰ることが出来ますよう導いてください。祈りの中であなたに立ち帰ることができますようお願いいたします。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2023年7月2日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書12章27節~36節「心を騒がせるイエス」
1、
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
ある方から、毎朝行っている早天祈祷会ではどんなことを祈っていますかと聞かれました。早天祈祷会では、賛美歌を歌い、使徒信条を唱え、そして評価の定まった聖書日課に従って御言葉を読んで祈りを捧げています。その時に、わたくしが判で押したように祈りますことは、今日も一日、教会に連なるお一人お一人が、主イエス様の光の中で、主イエス様の光に照らされ、光を浴びながら歩むことが出来ますようにと言うことです。主イエス様は、わたしは光である、世の光であるといわれたからです。ヨハネによる福音書の第1章4節と5節にはこう書かれていました。
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」
今朝は、ヨハネによる福音書12章27節から36節前半までの御言葉をご一緒に聞いております。その中で、最後に結論のように置かれている36節のみ言葉が、心に聞こえて来ました。それは、主イエス様が、光であられますご自身へとわたしたちを招いてくださる御言葉です。
「36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」「36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
「光を信じなさい」これは主イエス様を信じなさいということであります。光の子となるといますのは、神の子となるということであります。そして主イエス様ご自身が、8章12節でこうおっしゃられました。「わたしは世の光である」「わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」
主イエス様が、今朝の御言葉を語られたのは、12章の初めに、エルサレムにロバの子に乗ってお入りになった日、あるいは、その直後のことであります。主イエス様の十字架まで、もう一週間もありません。35節で、主イエス様が「光は今しばらく、あなた方のあいだにある」と言われたのは、そのことを示しています。主イエス様と地上でお会い出来なくなる日まで、もう時間がない。主イエス様が十字架の上で死んでしまい。もう生きている主イエス様とはお会いできなくなる、そのときは、もうすぐなのです。闇が世界を再び支配するかのような時が来る、そうなる前に、今、あなたがたは、光を信じなさい、光の子となりなさいと、主イエス様は招いてくださるのです。
世の闇、暗闇は、この世の光といつも対極、正反対の位置にあるものです。もし、この世界に神様がおられないならば、正しく言いますと神様はおられないのだと思ってしまうならば、この世界は、全くの暗闇であります。いつのことであったか、忘れましたけれども、教派を超えた牧師の勉強会のときに、日本でも有名な神学者、また説教者であります、加藤常昭先生と一緒に食事をしていたことがあります。加藤先生は、まだお若いときに一度だけ、あるいは一瞬だけ、神様が一緒にいてくださるということに疑いを持った時があるとおっしゃられました。ああ、加藤先生でもそんなことがあるのかと驚いたのですが、そうだとおっしゃるのです。どこかの建物の屋上から景色を眺めていたときに、不意にそんな思いが心をよぎったというのです。これはサタンの不意打ちなのかもしれないと思ったが、神様が遠くに行かれてしまったという気持ちがした、そうしますと、もうすべてのものが一瞬に光を失い、色彩を失って、色のない世界になった、そういうような気がしたとおっしゃいました。その瞬間にお祈りをした、そうしますと、神様との交わりが回復されて、世界はまた色彩を取り戻したとおっしゃいました。
主イエス様は、今朝のみ言葉の冒頭で「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃいました。そして直ちに「何と言おうか」、言い換えると「何と祈ろうか」と自問自答なさっておられます。心が掻き立てられ、不安になる、ちっとも平安でなくなる、そのようなことは誰にでも起こることです。人間としてお生まれになった神の御子、主イエス様でも起こることなのです。大切なことは、その時にこそ神に祈る、お祈りをすることだと思います。ヤコブの手紙の最後の章、5章13節はわたしたちにこう命じているのです。
「あなたがたの中で、苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」
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主イエス様は、十字架という試練を前にして心を騒がせられました。そして、なんと祈ろうと自問自答なさいました。このヨハネによる福音書には、主イエス様が十字架にかかられる前夜にゲッセマネの園で、弟子たちと世を徹して祈られたというゲッセマネの祈りの記事がありません。マタイ、マルコ、ルカのどれにもある、そのオリーブ山での祈りの戦いは、まさに、私たちの祈りの模範です。けれども、ヨハネによる福音書にはこのゲッセマネの場面はありません。ちょうどそれに匹敵する祈りの戦いが、今朝の御言葉の冒頭の御言葉であると言って良いと思います。
人間が痛みや苦しみを恐れ、命に執着し、死を避けようと欲する、そのことは決して罪ではありません。主イエス様は真の神であると同時に真の神であられる、人性と神性の二つの性質をお持ちになられます。しかしそれは全く一つの人格において統合されています。神学の言葉では、このことを「二性一人格」と呼びます。主イエス様は、完全な人間の性質、お体を持つお方として、ここでは死を恐れて祈っておられます。マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書、共観福音書に記録されている主イエス様のゲッセマネの祈りでは、はじめに、「父よ、できることなら、この盃をわたしたから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。今朝の御言葉では、主イエス様の心のうちに、こう祈るべきかと、まず心に浮かんだのは「父よ、わたしをこのときから救ってください」という救いを求める祈りでした。
ゲッセマネでは、主イエス様は直ちに、心を一歩進めてこう祈られました。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」
今朝の御言葉においても、主イエス様は、祈りの中で神様と交わり、そして「わたしはまさにこの時のために来た」とご自身の使命に改めて心を留められまして、こう祈られるのです。「父よ、御名の栄光を現してください」
ハイデルベルク信仰問答の116問から129問に祈りについて教えているところがあります。その117問は、神に喜ばれる祈りは何かと問いかけます。その答えの第一は、こうであります。「神様が私たちに求めておられるすべてのことを私たちが心から請い求めるということです。」
すなわち神様の御心と私たちの心が祈りにおいて一致する、そのことを神様は求めておられるのです。わたしたちが、心を神様の前に打ち開いていろいろなことを祈る、それはまだ、本当に未熟な祈りであり、自分の都合の良いことばかり祈っているかもしれません。けれども、祈りの中で私たちの心が変えられてしまう。その祈りは本当に神様の愛の教えにかなうことなのか、神様の喜んでくださる祈りなのか、祈りの中で心が整えられてゆき、最後には、あなたの御心のままにしてくださいと祈るのです。祈っているうちに、本当に大切なものとそうでないものとが見えてくる、神様、どうかあなたの栄光を現してくださいと祈るときに私たちの心は平和で満たされ、感謝が湧き起ってきます。
祈りの初めから、そのような境地が与えられるということではなく、まず、苦しみや恐れや、心の不安をわたしたちは包み隠さずに神様に打ち明けるのです。そこを通り抜けてこそ神様との本当の対話、祈りにおける神と人の交わりがなされてゆくのです。
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主イエス様が、ここで心を騒がせて祈らざるを得ない苦しみ、それは十字架の苦しみでありました。しかし、そこにこそ、神様がこの世を愛してくださる愛の頂点があります。人間の身勝手な心、罪や汚れ、それに対する義なる神様の怒り、裁きを全く罪のない神の子羊である主イエス様が負ってくださるのです。主イエス様が、私たちの身代わりに神の裁きを受けられて苦しくないはずがありません。本来は、それらこそがわたしたちが味わうべき死の苦しみ、滅びの苦しみだからです。神の御子がそれをお受けになること、実は、そこに神のご栄光があります。
主イエス様が、祈りを終えられた時、天から声が聞こえました。その声は、ずいぶんと大きな声であったようです。そばにいた群衆は大変驚いたのです。「雷がなった」雷のように思えた。あるいは、「天使がこの人に話しかけた」、天からの御声は、こう語られました。
「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」
この神様の御声の中身が、そこにいた弟子たちや群衆にどこまで判別できたか疑問です。ある人には雷のように聞こえた、ある人は天使の声に聞こえたと書いてあるからです。主イエス様が、人々に向かって解説してくださいます。
「この声が聞こえたのは、私のためでなく、あなた方のためだ」「今こそ、この世が裁かれるとき、今この世の支配者が追放される」
天の神様、父なる神様が、私の祈りにお答えくださった。それは、まさしく私の祈りが聞かれることのしるしである。そして同時に、あなた方の救いが確かになされることを示しているのだと言われたのです。
こう約束なさいました。32節をお読みします。
「32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
地上から上げられるとは、主イエス様が復活された後に天に昇ってゆくこととも考えられます。しかし、ここでは、まずはそれ以前のこととしての主イエス様の十字架のことを指します。
ヨハネによる福音書には、「上げられる」という言葉が四回使われていますが、どれもが十字架のことです。この32節と、すぐ後の34節のほかには、あと二か所です。その一つは3章の主イエス様とファリサイ派の指導者、ニコデモとの対話です。3章14節「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を持つためである。」
もう一つは8章28節、仮庵の祭りの終りの日の主イエス様とユダヤ人たちとの問答の中です。主イエス様は、ここで「わたしはある」、つまりモーセが初めて神様から民の救いの使命を受けた時に、父なる神様ご自身が、モーセにご自分の名前を教えてくださった時の言葉を語られました。「わたしはあるというものだ」。ユダヤ人たちは主イエス様が「わたしはある」というもの、すなわち神ご自身であることをまったく信じることがないのですけれども、このときに主イエス様はこうおっしゃったのです。
ヨハネによる福音書8章28節「そこでイエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて「わたしはある」ということ、またわたしが自分勝手には何もせず、ただ父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう』」
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この「上げる」と訳される言葉は、ヨハネ福音書以外の福音書では、「高くする」という物理的な位置の移動、あるいは「高ぶる」という、心の位置の移動のために使われることが多い言葉です。主イエス様の十字架は、主イエス様が苦難を受け死ぬことを意味します。主イエス様にとっては、実は、この世における最低の場所、最も貧しい位置にほかなりません。しかし一方で、十字架は、神様の救いのわざを主イエス様ご自身がその身において担われるという、最も崇高な、栄光に満ちた場所でもあります。そこに神様の愛とご栄光が現わされています。
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と32節に書かれています。「引き寄せる」という言葉は、例えば、ダイコンやニンジンを抜くとか、地引網の網を引くというよう時にも使われます。主イエス様が強い意思と力でわたしたちをグググっと引き寄せて下さることです。十字架の恵みのもとへと引き寄せてくださるのです。
主イエス様はわたしたちにこう呼びかけてくださいます。「「36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
「暗闇の中を歩くものは自分がどこに行くのかわからない」とあります。暗闇の中を歩くことそのこと自体がわたしには恐ろしいことです。自分がどこにいるのかもわからない、ましてはどこに向かっていくのか見えないし、想像することもできないのです。ただ不安だけがあるのです。しかし、今、この暗闇に光が差し込みます。主イエス様という光です。
主イエス様は、自分を取り囲んでいる人々に、この光は今、あなたがたの間にあるといわれました。この光を受けて欲しいと言われたのです。これは、2000年前のエルサレムで主イエス様を取り囲んでいる群衆だけに向けて語られているみ言葉ではありません。今、この御言葉を聞いておりますわたしたちもまた、光を信じるようにと招かれています。
「光があるうちに、」「闇に追いつかれないように」と言われます。
のんびりしている時ではない。時間がない、暗闇が追いつくともいわれました。今、それができるうちに、光を受け、光を信じ、光のもとに来て、光の子となりなさい。
主イエス様を信じ受け入れるという決断、決心が、まだ出来ていないと思われる方を主イエス様は招いておられます。十字架のもとへと引き寄せて下さいます。
またすでに信仰を頂いて信仰生活を歩んでおられる方々にも、改めて、光であるお方が語りかけてくださいます。わたしたちは、信仰を頂いたと言いながらも、いつもいろいろな罪によって心が翻弄されてしまいます。光が来ていること、光の中にいることを忘れてしまうのです。しかし、今、十字架においてわたしたちを救ってくださる主イエス様のもとに行こうではありませんか。光であるお方のもとに行きましょう。もっと主イエス様に近づき、救いを確かなものとしようではありませんか。祈りをいたします。
祈り
主イエス様、あなたの御名を賛美します。光であられるあなたが、今朝、わたしたちをご自身のもとへ招いてくださることを感謝します。信じることが出来ますよう。また心騒ぎ、不安で心が一杯になってしまう時にこそ、あなたに心を向け、光であるあなたのもとへ立ち帰ることが出来ますよう導いてください。祈りの中であなたに立ち帰ることができますようお願いいたします。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。