2023年06月11日「ロバの子に乗るイエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 12章12節~19節

メッセージ

2023年6月11(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書12章12節~19節「ロバの子に乗るイエス」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。御名によって祈ります。アーメン。

 今朝の御言葉は、主イエス様が、イスラエルの都、エルサレムにロバの子に乗ってお入りになる場面です。大勢の群衆がナツメヤシの枝を手にとり、それを打ち振りながら主イエス様を歓迎しました。

イースターのちょうど一週間前の日曜日のことをパーム・サンデーと呼びます。日本語では棕櫚の日曜日であります。昔の文語訳、また口語訳や新改訳聖書は、今朝のヨハネ12章13節で人々が手に持っている枝を「棕櫚の枝」と訳しておりました。カトリックのフランシスコ訳と今回の新共同訳聖書は一層正確にナツメヤシの枝と訳しました。ギリシャ語ではフォイニクスと書かれています。

 このギリシャ語からもわかりますように、ナツメヤシのことを英語ではフェニックスといいます。ナツメヤシ、フォイニクスは、パレスチナに育つ貴重な緑であります。また、一年を通して枯れることのない常緑樹でありますので、イスラエルではお祝いごとに使われたのであります。

イスラエルの人々がナツメヤシの枝を持って、神を賛美するのは神様への信仰の表現であります。旧約聖書レビ記23章に仮庵の祭りについての規定があります。イスラエルの人々が経験したエジプトの奴隷生活とそののちの40年の荒れ野の天幕の生活という苦難を忘れないための祭りです。やがてイスラエルの民は、神の恵みを得て、母国帰還を果たします。乳と蜜の流れる約束の地に住まいを得ることができたことを喜び祝いましたが、レビ記の規定では、そのときナツメヤシや柳やいろいろな木の枝を手に持って七日間祭りを行えと命じられているのです。

 主イエス様の時代になりますと、ナツメヤシの枝を振って祭りを祝うということは、この後の13節に引用されている詩編118編にあるように、救い主の到来を願い望む信仰を結びつきました。つまりメシアが来られる時の祝いの先取りのようなっていました。仮庵の祭りだけでなく、過ぎ越しの祭り等いろいろの祭りにおいてもこのナツメヤシによる祝いが行われていたのです。

2、

 先週の御言葉は、このすぐ前の12章の初め、ナルドの香油の箇所でした。そこで主イエス様は、マリアはわたしの葬りのためにこれをとって置いたのだと言われました。主イエス様は、ご自身の葬り、葬式を経験されてから、いよいよエルサレムにお入りになり、十字架から復活に至る地上生活の最後の一週間に突入なさいます。

最初の節、12節に、「その翌日」とあります。今朝の御言葉は、その最後の一週間の最初の日、日曜日のことであります。ナルドの香油注ぎがエルサレムから三キロのベタニアで行われましたのは、過ぎ越し祭りの六日前です。過ぎ越し祭りは、ニサンの月、イスラエルの第一の月、お正月の14日に行われます。その六日前は、土曜日、安息日に当たる日であります。その翌日といいますから、今日はイスラエルの暦では第一の月の九日、ちょうど日曜日になります。のちのキリスト教会がパーム・サンデー。棕櫚の日曜日を祝ういわれがここにあります。

 ナツメヤシの枝を手にした群衆は、こう叫び続けます。「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」

 この大勢の群衆は、祭りに来ていた信仰深い巡礼のユダヤ人と現地イスラエルと近郊に住んでいるユダヤ人です。ファリサイや律法学者、祭司長たちは主イエス様を殺すことを決め、指名手配していました。しかしそれにも関わらず、たくさんのユダヤ人が集まりました。主イエス様がラザロを生き返らせたことをきっかけにして、多くのユダヤ人たちが主イエス様を信じるようになってしまったのであります。そして、その話を聞いた巡礼のユダヤ人たちも、この主イエス様歓迎の行列に加わったのです。

 わたしたちは、このあと、幾日も立たないうちに、多くのユダヤ人たちが、今度は主イエス様を十字架につけよ、十字架につけよと騒ぎ出すことを知っております。死人が生き返るというような奇跡目当ての信仰、あるいは人目を引くものに動かされた信仰というものが、結局は自己中心的な心、信仰とも呼べないものに変わってしまう恐れがあるということを、わたしたちは、よくわきまえる必要があります。

 けれども人々は、この日曜日に主イエス様を出迎えた時には、彼らは、心から主イエス様を救い主、メシアと信じ期待していました。当時のユダヤの議会や指導者の意に反して、彼らは主イエス様に期待したのです。

 このホサナという掛け声は、現在でも時々使われます。「わたしたちをお救いください」という意味です。旧約聖書の詩編118編25節に「どうか主よ、わたしたちに救いを」と二度繰り返されます。そして、次の詩編118編26節には「祝福あれ、主の名によって来る人に、わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」と書かれています。113編から118編の詩編をハレル詩編、賛美の詩編と呼びます。イスラエルの祭りのときには必ず歌われていました。詩編は、昔から、読むものではなく歌うもの、暗唱するものでした。詩編113編から118編はハレルの詩編、神賛美の詩編として歌い継がれてきました。そこで、人々は、主イエス様をお迎えするときに、今こそ、この歌を歌わなければならないと、この神賛美の歌を歌ったのです。

 詩編118編の「わたしたちに救いを」これはアラム語で「ホサーナー」、ヘブライ語で「ホシャーナー」、あるいは「ホザーナー」です。各福音書は、このヘブライ語の音をそのままギリシャ語で書き写しています。

「ホサナ」「ホサナ」、「我らを救いたまえ」、人々は、ナツメヤシの枝を振って主イエス様を迎えます。主イエス様は、救い主として都エルサレムに凱旋帰国する神である王様として迎えられているのです。エルサレムは神の都であり、主イエス様が神であり神の子であるならば、当然エルサレムこそが主イエス様の故郷であり、実家にも等しい街なのです。人々が、帰国凱旋する王を迎えるようにふるまうのは当然のことでした。

3、

 14節と15節とをもう一度お読みします。

「イエスは、ろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてある通りである。『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ロバの子にのって』」

 ここのところと次の16節は、主イエス様の言葉というのではなく、この福音書を書いていますヨハネ自身による解説の言葉です。

 イスラエルだけでなく、どこの国でも、強くて権威ある王の凱旋の際に用いられるのは、ロバではありません。それは必ず軍馬であります。王様は、軍隊の最高指揮官、力あるものとして凱旋しなければなりません。しかし、主イエス様は、格好のよい馬ではなく、ロバに乗って、しかもロバの子とありますので、小さなロバ、チイロバに乗っておいでになりました。

「次のように書かれている通り」とヨハネが解説しているのは旧約聖書ゼカリヤ書9章9節です。

そのヨハネが引用したゼカリヤ書をお読みします。9章9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられたもの。高ぶることなく、ロバに乗ってくる。雌ロバの子であるロバに乗って。」

 ゼカリヤという人は紀元前6世紀から5世紀、エルサレム神殿がバビロン捕囚から解放された人々によって再建されるころの預言者です。彼は神殿建設のために戒めと励ましの予言を語ったのです。ゼカリヤの預言によれば、やがて都に凱旋されるこの王は、この世的な軍事力によって世を治める王ではありません。ゼカリヤ書の9章10節はこう続きます。ここが大切です。

「わたしはエフライムから、戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」力ではなく、柔和と平和、愛と慈しみによる統治を行う王であります。

 主イエス様は、ゼカリヤ書のみ言葉通り、軍馬ではなく、ロバの子に乗ってエルサレムにお入りになりました。

 聖書記者ヨハネによりますと、主イエス様の弟子たちは、なぜ主イエス様が格好の良い軍馬ではなく、格好の悪いロバに乗っておられるのかわからなかったと言います。しかし、主イエス様が栄光を受けられたときに、このゼカリヤの預言を思い起こし、主イエス様が王様であるということは、この世の王様とは全く違うということが分かったのであります。

 しかし、ロバの子ではあっても、主イエス様は、この世の王の凱旋のように堂々とエルサレムに入られました。そして、おそらく主イエス様のご生涯において最も多くの同胞ユダヤ人たちに支持され、ホサナ、ホサナと歓喜の声で迎えられました。この世的な感覚からすれば、主イエス様が最高の栄光をお受けになった時であるような思いがいたします。しかし、主イエス様は、このような人々の期待を裏切るように、当然そうあるべき軍馬、この世の王の乗り物ではなく、柔和で優しい、そして忍耐強いロバの子に乗ってエルサレム入られたのです。。

このときの人々の賞賛、打ち振られる棕櫚の葉、しかしそれは実は見せかけの栄光です。決して真実の栄光の時ではなかったのです。主イエス様が受けられた賛美と誉れ、それは人間による栄光、栄誉であり、神からいただく本当の栄光ではありませんでした。主イエス様ご自身がそのことをはっきりと知っておられました。だからこそ、主イエス様は、この世の王様のパレードの栄光を、まるで真っ向から否定されるように、この世の王が好む馬ではなく、農耕や労働に用いられるロバ、柔和と平和のしるしであるロバ、それもロバの子に乗られたのであります。

 教会は、この主イエス様の心を受け継いでいます。人々から栄誉や賞賛を受けるときには、わたしたちは、この時の主イエス様を思い起こすのです。もしわたしたちが、多くの人々からホサナホサナと迎えられるような、この世的な栄誉や誉れを目当てとして、その働きをするのであれば、それは教会がこの世の団体、組織に成り下がってしまったということであります。わたしたちは、決して格好の良い馬に乗って凱旋し、人々のホサナの声を聴くことを目当てにしてはならないのだと思います。主イエス様にとって本当の栄光は、この時ではありません。ご自身が最もみじめな低い場所におりてくださったとき、すなわち十字架の時こそが主イエス様の本当の栄光の時でありました。そして、そのことを通して、人類の罪の赦しの道を開かれたのであります。私たちが目当てとするのは、そのような栄光、神様によって与えられる栄光なのであります。

4、

 しかし、このエルサレム入城のとき、主イエス様は、やはり普通の人としてではなく、力あるお方、王としてふるまっておられるということにも注目しなければならないと思います。主イエス様は、ロバに乗り、この世的な王、この世の王ではないと言うことをはっきりとお示しになりました。しかし、ここでは、主イエス様は間違いなく王、王様なのであります。わたしたちは、主イエス様がわたしたちにとって本当の王であるということを決して忘れてはならないのです。

ウエストミンスター小教理問答の26問は、こうです。「キリストは、どのようにして王職、王の職務を果たされますか」、答えは「わたしたちをご自身に従わせ、治め、守ってくださること、またご自身と私たちのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。」

わたしたち一人ひとりの人生において、また人類の歴史において最大の敵はなんでしょうか。それは私たちが犯す罪の報いとしての死であります。罪びとの死の先には完全な滅びがあり、そのことによって死は私たちの滅亡となり、わたしたちは死によって、生きているとき以上の暗闇へと押しやられる身分でありました。

けれども、イエス・キリストが神様の貴い命を持って、わたしたちの身代わりになってくださり、罪の赦しを勝ち取ってくださいました。私たちのあらゆる敵、その大将、司令官である死が征服されたのです。まさしく、王なるイエスの十字架と復活の勝利によって、私たちの救いが成し遂げられたのであります。

 ヨハネが引用しました、ゼカリヤ書の9章9節は「シオンの娘よ、恐れるな」とされますが、本来のゼカリヤ書の9章9節には「恐れるな」はありません。「シオンの娘よ、大いに踊れ」と書いてあります。「恐れるな」という言葉は、ゼカリヤ書の9章全体を探しても出ていないのであります。そこで、イスラエルの救いを語るもう一つの予言書であるゼファニア書が重要になってきます。ゼファニア書3章14節に「娘シオンよ、喜び叫べ、娘イスラエルよ、喜び踊れ」とあり、その後の16節に「シオンよ、恐れるな」とあるからです。ゼファニア書は、ゼカリヤ書よりもだいぶ前に書かれたものです。これは「イスラエルの滅亡、神の裁きと救い」を予言しています。救いの源は、人間の王ではなく、生きておられる神がイスラエルと共にいてくださることによります。

 主イエス様をホサナ、ホサナと出迎えた群衆は、主イエス様を、この世の王として、民族の独立や自分たちの生活の向上を信じて歓呼の声をあげました。しかし、主イエス様のまなざしは、都エルサレムの王の住まい、王宮やローマ総督の官邸ではないところに向かっています。それは死の征服であり、十字架、そしてその先の復活という最後の霊的な戦いに向かって、主イエス様は進んでゆかれるのです。

 この先の一週間の間に、主イエスは、弟子たちの足を洗って下さり、最後の晩餐を共になさり、ゲッセマネで祈り、そして捕らえられて死にます。神の御子の命によって、信じる者のすべての罪が赦されて、永遠の命に生きるようになるためであります。主イエス様の勝利は確実です。そして今日の教会は、その命に与っている者たちの共同体であります。わたしたちの救いが、そこにあります。祈りを捧げます。

神さま、今日もまた礼拝に集い、御言葉を聞いて一週間を始める幸いを感謝いたします、この世的な栄光、栄華に心を奪われるわたしたちです。しかし、主イエス様は、それらをすべて打ち消すようにみすぼらしい姿で、しかし自信に満ちたお姿で、十字架へと向かわれました。死に打ち勝つ王、神の国の王として、おいでになられたことを感謝します。今週一週間の歩みもまた導いていてください、主イエス・キリストの御名によっていのります。アーメン。