2023年05月28日「聖霊が降った日」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

使徒言行録 2章1節~12節

メッセージ

2023年5月28日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録 2章1~12節「聖霊が降った日」

1、

 今朝、わたしたちはペンテコステ記念礼拝をささげております。ペンテコステという言葉は、ギリシャ語で50日目、あるいは50番目という意味です。元来、ユダヤ教では出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」の翌日の初穂の祭りから数えて49日目に行う祭りとしてシャブオットの祭りがおこなわれていました。シャブワ―は「週」の複数形で、7週の祭りのことでした。7週、つまり49日目ですが、過ぎ越し祭から数えると50日目です。この日を日本語では、五旬祭、五旬節とも呼びます。ユダヤでは、この日は、春の収穫の記念の日であり、またモーセがシナイ山で十戒を始めとする様々な律法を授かったことを記念する祭りでした。

先ほどお読みしました使徒言行録の御言葉によりますと、この日、エルサレムで弟子たちに聖霊が降ったのであります。今朝のみ言葉は、その有様とその後の出来事をわたくしたちに伝えています。キリスト教会では、この日を聖霊降臨日と呼んでいます。

クリスマス、イースター、ペンテコステは、キリスト教会の三大記念日です。クリスマスとイースターは、世の人々にとってもなじみのある言葉ですけれども、ペンテコステはそうではありません。ペンテコステは、どちらかと言いますと地味な存在、クリスマスやイースターの陰に隠れてしまいそうな印象も致します。けれども、この聖霊降臨という事件こそは、キリスト教会にとって決定的に大切なものです。キリスト教会の誕生日であり、弟子たちが、この世界に向かって公に福音を宣べ伝え出した日であるからです。ペンテコステは、現代まで続く全世界のキリスト教会の出発点であります。ペンテコステ、聖霊降臨日に、わたしたちがペンテコステの出来事を繰り返し学ぶ、このみ言葉を繰り返し聞き続けることは大切なことです。

2,

2章1節をお読みします。「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」。この1節から41節までに、ペンテコステの日の一日の間に起こったことが順に語られています。キリスト教会にとって長い一日でありました。

1節のはじめに「五旬祭の日が来て」とあります。五旬祭と訳されている元のギリシャ語がペンテコステであります。この日は、古くからシャブオットと呼ばれるユダヤ教の「五旬祭」、別名は「7週の祭り」です。シナイ山でモーセに律法が与えられた日でした。同時に季節の実りを感謝する収穫感謝祭でもありました。

最後の41節をお読みします。

「41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」

ここまでが、この日一日の出来事であります。

 2章4節に「一同は聖霊に満たされ」と書かれています。聖霊は、弟子たち全員の上に降りました。そして、このエルサレム神殿に集まって来た人々のそれぞれの国の言葉で、弟子たちが福音を語り始めたのです。最後に、ペトロが、一同を代表してメッセージを語りました。そして3000人ほどが洗礼を受けて、この日に仲間に加えられました。

すべてのことは聖霊によって起こったことです。しかし、一方では、始めから終わりまで、弟子たちの動き、働きが中心となっていることに気が付くと思います。言い代えるなら教会が中心となっていることです。そしてそれはすべて聖霊の働きによるものでした。つまり聖霊が弟子たちを導いてペンテコステの日に教会を生み出し、その教会がここから伝道し始めたということです。

 ここでペトロが語った説教は重要なものだと思います。いわば、教会創立時の記念伝道説教ともいうべきものだからです。サッカーで言えば、キックオフであります。私たちがいつも立ち返るべき原点、そのメッセージが、ここにあるのです。わたしたちもまた、このことを自分のこととして聞き、また世に対しても語り続けます。

 この出来事のあと、いよいよキリスト教会は働きを始めて行きます。聖霊を受けた教会が、この日に人々に宣べ伝えたメッセージは、二つのことです。一つは「イエス・キリストこそ旧約聖書の預言した救い主である」ということ、そして二つ目は、「旧約聖書が預言していた十字架による罪の赦しと新しい命が、今、与えられた」ということです。二つに共通していることは、イエス・キリストこそが旧約聖書の預言、約束の実現であると言うことです。イエスキリストを信じて救われるという、まことにはっきりした救いの道が今開かれましたと言っているのです。聖霊を受けた教会は、2千年間、このことを証しし続けたのであります。今朝のみ言葉の中の使徒ペトロの説教もまた、このことを語っています。

さて、この日までの時間を遡ってみますと、ペンテコステの日に至るまで、この日に向けてのイエス様の約束あるいは命令がなされていました。

約束は、二つあります。その一つは十字架の前の晩、最後の晩餐の後にイエス様が弟子たちに約束なさったことです。ヨハネによる福音書14章と16章に記されている、「別の助け主、弁護者として聖霊を送る」。天に昇って行かれた主イエス様と入れ替わるようにして聖霊を送るということであります。

そして二つ目は、使徒言行録1章に記されています。主イエス様が天に上ってゆかれる直前の約束です。「あなた方は地の果てまで私の証人となる」。

初めのほうの「聖霊を送る」と言う約束、これは間違いなく主イエス様ご自身が実現してくださる約束です。あとのほうは、これは私たちにかかわることです。「あなたがたは聖霊によって力を受けて私の証人となる」。これは、いわば約束のような、命令のようなどちらとも取れる言葉でではないでしょいか。正確に言うなら預言かもしれません。しかしこれは約束であり、同時に命令であるということができるのではないか、そのように思います。

聖霊を送る約束、それは主イエス様の約束です。そして主イエス様は、最後の晩餐の夜にだけではなく、復活の後でも、つまり天に昇ってゆかれる前にも、この約束について忘れないようにともう一度確認してくださいました。今開いているページの前のページの上の段です。使徒言行録1章4節5節をお読みします。

「1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

この「前に私から聞いた約束」というのは、ヨハネによる福音書の14章15節からのイエス様のみ言葉です。それは聖霊を送るという約束でした。

3、

今は開きませんが、ヨハネによる福音書14章15節から、延々と16章の終わりまで、途中、ぶどうの木のたとえ話などが入り込んできますが、ずうっと聖霊についてイエス様が教えてくださっております。

イエス様は、聖霊の神は「弁護者、真理の霊」であるといわれます。その霊はイエス様が共にいてくださることを表すものであり、信じるもののうちに永遠に住むとも言われています。14章14節から19節をお読みします。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

「 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 わたしは、あなたがたをみなしごには、しておかない。あなたがたのところに戻って来る。」

「 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

 イエス様は、世の終わりの再臨の時には、もう一度誰にでも見える仕方で世においでになります。それがイエス様の再臨の日です。けれども、信じるものには、今のときでも、この世がまだ見ていないイエス様のお姿が、わたしたちの心の目で見えるようにしてくださる、それが聖霊の神様の働きなのです。なぜなら、イエス様は、死んでいる方ではなく、生きている方、力ある方であるからです。

18節に「あなたがたをみなしごにはしておかない。」とあります。

何という暖かい恵みに満ちた言葉でしょうか。「天国で」というのではないのです。この世で、たとえ世の人々がそのことを受け入れないとしても、あなた方には、真理の霊を授けてイエス様が今共にいることが分かるようにしてくださるというのです。つまりイエス様を信じるということは、あたかも生きながらにして天国にいるようにしてくださるということであります。

 そのあとの所、少し飛ばしましてヨハネによる福音書14章26節から28節をお読みします。

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」

 ここでは、聖霊なる神様がわたしたちと共にいてくださってイエス様のことを決して忘れないようにしてくださるということが約束されています。

「わたしの平和」、すなわちキリストの平和を与えるとあります。平和を与えるというこの平和は、社会的、あるいは政治的なことではなく、十字架による神との平和であります。たとえ戦争が起きようと捕虜になろうと決して失われない真実の平和であります。

 弟子たちは、このイエス様の約束を信じて、イエス様の言うとおりにエルサレムから一歩も動かずに、いつもの2階座敷にとどまって祈りを続けていました。そして、イエス様の昇天から10日が経ったとき、それはまた過ぎ越しの祭りから50日目の日、ペンテコステの日であったのですけれども、主イエス様と父なる神様から送られた聖霊の神様が信じるものたちの只中においでくださいました。その様子が、使徒言行録2章の箇所であります。

4、

聖霊の降臨という出来事は、ただ神様の側の約束と恵みによって起こされていると言って良いよ思います。まず家の外に天地の異変が生じました。激しい風のような音が天から聞こえたと記されています。その音は天から聞こえましたが、同時に、彼らのいた家の中いっぱいに響き渡りました

 もうひとつの異常現象は、炎のように分かれた舌、舌の形をしたもの、あるいは舌そのものが現われて一人一人の上にとどまったことであります。火や炎というものは神のご臨在のしるしでですけれども、舌というのは非常に特殊であります。それは、このときに降った聖霊なる神様の働きが「語る」ということと深く結びついていることを示しているのです。従って、この聖霊降臨のしるしとして舌のようなものが一人一人に分かれて現れたことは、あのイエス様の昇天前の預言、約束、同時に命令である、「あなた方は地の果てまでイエス・キリストの証人になる」という御言葉がいよいよ実現する、そのしるしなのであります。

 聖霊が私たちのうちに与えられとき、神様の愛と慈しみが分かります。主イエス・キリストのはかり知れない恵みがはっきりと分かるのです。そして、わたしたちは、このことを喜び、感謝し、証をするように導かれるのです。使徒言行録の2章4節をお読みします。

「2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

キリストの復活の証人であり、復活の主の昇天を見送った使徒たち、弟子たちは、約束の聖霊が与えられるや否や、主イエス様の救いについて語りだしたというのです。

わたしたちは、彼らが、霊が語らせるままに、一斉にほかの国々の言葉で語りだしたことに注目しなければなりません。五旬祭には、広く地中海世界に散らされて住んでいたユダヤ人たちが、巡礼をしてエルサレムにやってきております。また、ユダヤ人以外の異邦人の改宗者もこの都エルサレムへとやってきていました。そのあちらこちらの土地の言葉で、弟子たちは語りだしました。彼らが語った言葉は決して異言のようなわけの分からない言葉ではありません。それは11節にありますように、神の偉大な業の証でありました。

彼らは、霊の導かれるままに語りました。それは自分の知らないほかの国の言葉であるということですから、まさしく、神の語られる言葉を、除くことも加えることも曲げることもせずに語ったということができます。

 聖霊によって教会が生まれ、その働きを続けてゆく。世の終わりまで、主イエス様がもうこれまでという時まで、教会は働き続けます。教会が、人間的なものに左右されることなく、聖霊によって与えられた恵みに忠実に歩んでゆくことができるように、絶えず祈ろうではありませんか。

6、祈り

 主イエス・キリストの父なる神、あなたの永遠のご計画によって地上に聖霊が降り、わたしたちが救われる道を戴き感謝をいたします。今も働く全世界の教会を、わたしたちの教会を守り導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。