聖書の言葉 ヨハネによる福音書 11章45節~56節 メッセージ 2023年5月21日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書11章45節~57節「代わりに死ぬイエス」 1、目撃者たち 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。御名によって祈ります。アーメン。 わたしたちは、一昨年の終わりから、このヨハネによる福音書をご一緒に読み進めてきました。11章の全体はラザロの復活の物語です。今朝、ご一緒に聞きます御言葉は、ヨハネによる福音書第11章、ラザロの復活の物語の5回目、最後の部分です。 ヨハネによる福音書は全部で21章までありますので、11章を終えるということは、章の数で言いますと全体の半分を超えるということになります。ページ数と言う点から計算してみますと、ちょうど今日で全体の53%になりました。そして、内容と言う点からも、実は今朝の御言葉は、ヨハネによる福音書全体の大きな切れ目になっております。 ただ今お読みしました御言葉の初めの45節にこう書かれています。「45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」 ヨハネによる福音書には、このような「人々」が、あるいは「弟子たち」が、「イエスを信じた」、「み名を信じた」という言葉が合わせて7回出てきます。そして主イエス様がなさった奇跡、しるしもまた7つ記されています。最初のしるしは、カナの婚礼、主イエス様が水をぶどう酒に変えるというしるしでした。ここで7つ全部を詳しく辿ることはできませんが、次には病の癒しが二つ、五千人養い、湖上歩行、盲人の目を開かれる、そして最後のラザロの復活です。これが7つ目、最後のしるしです。そしてそれ欄も終わりに、人々や弟子たちが主イエス様を信じたと記されるのです。今朝の11章45節は、その7つ目、最後の場所になっています。 また興味深いことですが、ヨハネによる福音書には、またヨハネによる福音書に独特の主イエス様の自己紹介、わたしは何々である、聖書のもとのことば、ギリシャ語でエゴーエイミーと言いますが、これも7つあります。このように7つずつになっていることは決して偶然ではなく、意図的なことだと思います。当時のユダヤでは、7が完全数だからです。 11章までに、わたしは何何であるという6つの宣言がなされて来ました。その六つ目が、11章25節「わたしは復活であり命である」という大切な御言葉でした。最後の7つ目は、これは最後の晩餐の時に語られます。15章1節、「わたしは真のブドウの木である」です。 まとめてみますと、この11章で、7つの自己紹介のうちの6つが終わり、7つのしるしが記録され、そして、「それによって人々が信じた」ということが7回繰り返されています。主イエス様が、教えとしるしによって、人々に福音を宣べ伝えてゆく、そういう福音宣教の物語は、今日の11章で終わりを迎えていると言って良いと思います。 11章の終わり、主イエス様の七つの奇跡、しるしの七番目は、ラザロの復活、つまり死んだ人間を生き返らされるという最高のしるしでした。この後、12章からは主イエス様のエルサレム入城、十字架、復活の物語になります。主イエス様は、ラザロの復活によって、死んだ人に命を与えられました。そして今度は、ご自分が反対に命を捨てる、十字架への道を歩み始めるのです。 2, さて53節にこう書かれています。「53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」 エルサレムの宗教指導者たち祭司長、大祭司、ファリサイ派は、主イエス様を死刑にすることをはっきり決めています。これは正式の裁判に先立つ、事実上の死刑判決だったという説教者もおります。そしてこのことを通して、神様の救いのご計画が成し遂げられて行きます。 さて、ラザロの復活を目の当たりにしたユダヤ人たちの多くは、主イエス様を神の子、神と信じましたが、そうでない者もいたとヨハネは記しています。実は、彼らもまた、マリアとマルタのところにいて、死者のよみがえりという主イエス様の鮮やかなしるしを見ました。けれども、しかしその人たちは、およそ、主イエス様を信じる者とは、反対の行動をとっています。エルサレム神殿にいるファリサイ派のところへ駈け込んで、大変なことが起こりましたと知らせたのであります。 この日本と言う国では、多くの人々は、わたしは、神などは信じないと公言しているように思えます。残念なことですけれども、本当に力のある神様がおられる、神様が生きておられる、そういうことを前提にしない生き方をしているように見えるのです。そして、ひょっとしたら心の中でわたしたちに向かってこう言っているかもしれません。もし本当に神様がおられる、イエス・キリストが、救い主だと言うのならば、そのしるしを見せてほしい。証拠はあるのか、本当に人生に、この世界に希望があるのか、そういうのです。 けれども、今朝の御言葉では、人々は、しるしを見ても信じなかったということに心を向けたいと思います。しるしが偽物だと思ったのではないのです。むしろ、しるしが本物だと認めたからこそ、エルサレム神殿に駆け込みました。人は、証拠があれば必ず信じるとは限らないのです。証拠によって信じるというなら、それは、結局は、その人自身の理性の働きであり、人間の力によることです。あくまで人間が中心と言うことになります。けれども、神様を信じる、信仰を与えられるのは、理性だけの働きだけでは決してありません。それは霊的なこと、魂に関わること、わたしたちの人格の深いところによってなされることです。父なる神と主イエス様が送って下さる聖霊によることです。 ラザロの復活のことを聞いて、急ぎ最高法院が招集されました。最高法院の議員たちはこう言ったのです。 「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。」 ラザロの復活だけではない、多くのしるしを行っている、そのことが分かっているのなら、素直に主イエス様を救い主と信じれば良いと思うのですが、そうはゆかないようです。皆が主イエス様を信じるなら、十字架もなされませんでした。けれども、結局ユダヤ人たちは、主イエス様を十字架にかけて殺してしまうのです。 最高法院の議員たちが恐れていたことは、ローマ帝国の機嫌を損ねてしまうことでありました。ローマ帝国は、ユダヤ教に基づくユダヤ人の民族主義、独立志向に警戒していました。ユダヤにはローマから総督が派遣され、反乱が起きないように常に警戒していました。ユダヤ教の祭司長たち、ファリサイ派の人々の多数意見は、そのローマ帝国の許容する範囲で自分たちの信仰を維持することです。ユダヤ教の信仰の建前として、救い主を待ち望んでいるのですが、本当に救い主が来てしまうと困るのです。自分たちの地位や立場が第一でありました。 政治と宗教が一つの組織によってなされることは、誤った政治を引き起こすもとでもあります。そして、一方で、それによって宗教も信仰もまた曲げられてしまうのです。政治も宗教も神様の前にあるものですけれども、それぞれが互いの目的、領域に従って神様から主権を委ねられております。どちらかが一方的に支配するといったことがあってはならないのです。互いに独立していてこそ真理が守られます。 48節後半の「ローマ人が来て」といいますのは、「ローマから軍隊が来て」と言う意味であります。本物のメシアであるお方が立ち、この世の権威を超えて神の御国を起こすというようなことがあってはならない、そうなったら、ローマはユダヤの自治を認めず、滅ぼすだろうと考えました。 反対意見もあったに違いないのですが、最後に、最高法院の議長である大祭司カイアファが演説して議論を取りまとめました。カイアファと言う人は、23年間大祭司の地位にあった人で、政治的な手腕に長けていた人であったようです。その年の大祭司とありますのは、「主イエス様が十字架におかかりになった、その年の」と言う意味です。彼はこう言いました。 49節の後半からです。「あなたがたは何も分かっていない。:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 こうして、最高法院は主イエス様を死刑にすることを決定したのであります。 3、 51節52節は、このヨハネによる福音書の著者であるヨハネが、ここで不意に顔を出して語っているところです。著者のコメントとして次のように言います。 「51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」 もちろん、カイアファは、間違いなく自分の考えを語ったのですけれども、今から考えると実はそうではない、これは神の預言の言葉であったのだとヨハネは言いたいのです。ここでカイアファの口を通して主イエス様が十字架にお掛かりなったことの本当の意味が告げ知らされていたのだというのです。神がカイアファをして真理を語らせたのです。 カイアファの実際の言葉は、50節にあります。ユダヤ人が滅びないためには、イエスを生かしておいてはならない、殺すべきだというのです。しかし、聖書記者ヨハネに言わせますと、これは聖霊による言葉だったのです。主イエス様の十字架の真の目的は、散らされている神の子、つまりあらゆる国の人々の中に散らされている神の選びの民が一つになるためだったというのです。 カイアファは、無意識にそう言ったのだと思いますが、「一人の人間が民の代わりに死ぬ」といい、その上で「国民全体が滅びないですむ」と言っています。この民と言う言葉と、国民と言う言葉は違うギリシャ語であります。聖書において民と言う言葉が使われる時には、ユダヤ人、ギリシャ人とか日本人、中国人とかいう民族を越えて、神の選びの内にある人々、神の国の民と言う響きを持つのです。ユダヤ民族のためだけでなく、散らされている神の子たちが一つになる、いいかえると教会が立てられることを、彼自身は全く意識しないという仕方ですが、ここで預言したというのです。「神の民が集められる」言い換えれば「教会が立つ」。それが実際に成し遂げられるのだと言っているのです。「教会が立つ」、ここでいう教会は、改革派教会とかカトリック教会とか、日本キリスト教団と個別の教派教団のことではありません。神様の目から見た一つの見えない教会、集められる神の民であります。それは、世の終わりまでは天と地の両方にあります。すでに召された神の民は天上に、生きている神の民は地上にいますが、実は一つの神の民、主イエス様を頭としている見えない教会です。 4月に、西部中会の30個余りの教会の代表が集まって定期会、会議を致しました。会議に先立って礼拝が捧げられ、聖餐式も行われました。それによって、イエス・キリストにあって一つであることを表しました。また6月には、定期大会も予定されています。全国から牧師長老が集まります。わたしたちは、一つ一つの建物に集まる各個教会を教会と呼ぶのですけれども、実は、一つの信仰告白、一つの政治によって治められる群れが集まって日本キリスト改革派教会というひとつの教会を形作っています。日本には沢山の教団教派があります。聖書を正典とし、歴史的に教会の信仰の基本とされる使徒信条を告白するならば、教団教派はちがっても、主イエス様にあって一つであるということが出来ます。そして実は、神様の目から見れば、すべての教会、教派はそれらを超えてたった一つの群れに見えるのです。散らされている民は主イエス様によって一つとされます。 4, 49節でカイアファはこう言います。「一人の人間が民の代わりに死ぬ」。主イエス様の十字架の死が、散らされていた神の子を一つに集めるためになされました。このあと使徒言行録で教会が生まれます。今朝の説教題は「代わりに死ぬイエス」です。主イエス様は、罪人の罪の赦しのためにわたしたちの代わりに死なれました。代償的贖罪という言葉があります。借金ならば代わりに返済することが合法的なことです。けれども、罪のための死を代わりに担う、言い換えると、代わりに死刑になるということは、反社会的集団の世界なら別ですが、普通は認められないことです。神様もそれをお認めになることはないと思います。けれども、主イエス様の救いの御業に限って、神様は特別にそれを良しとされたのです。わたしたちの罪の解決のために主イエス様が代わりに死なれました。そして、神様はそのことをお認めになって、三日後に主イエス様は復活されたのです。 さて、54節には、主イエス様は荒れ野に近いエフライムという町に身を潜めたと書かれています。主イエス様を処刑することが決められ、さらに主イエス様のいどころが分かった者は届け出よと命令が出されました。おたずねものになった主イエス様は弟子たちと共に荒れ野の方へと姿を隠したのです。まだ神様が定めときは来ていなかったからです。 しかし、次の55節に、過越し祭が近いたと書かれています。エルサレムは巡礼の客でごったがえしてきました。神様の時が来たのです。人々は、もうあの人、つまり主イエス様は来ないだろうと噂していました。さすがに命が大事なはずだ、だから来ることはないだろう。しかし、主イエス様は、ベタニアで香油を注がれ、葬りの備えをしたうえで、エルサレムに入城なさいます。民の身代わりに神の裁きを受け、信じる者の罪が赦されるためです。十字架にお掛かりになるためであり、散らされている神の選びの民が命を得て、一つになるためでありました。 主イエス・キリストにおいて、特にその十字架とご復活とにおいて、神の民は一つです。教会の交わりはこの世の交わりと違うものです。どこが違うかと言えば、それはキリストにある交わりであるという点です。そしてそれは個別の教会や、教団教派を超えた広がりを持つものであります。散らされている神の子たちは主イエス様の十字架によって、主イエス様の命によって一つであります。 お祈りを致します。 天の父よ、あなたは主イエス様の十字架と復活によって、民の罪を赦し、恵みを与え、一つの神の民としてくださいました、地上にあって、この見える教会が終わりの日を目指して前進して行くことが出来ますよう導いてください。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。
2023年5月21日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書11章45節~57節「代わりに死ぬイエス」
1、目撃者たち
主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。御名によって祈ります。アーメン。
わたしたちは、一昨年の終わりから、このヨハネによる福音書をご一緒に読み進めてきました。11章の全体はラザロの復活の物語です。今朝、ご一緒に聞きます御言葉は、ヨハネによる福音書第11章、ラザロの復活の物語の5回目、最後の部分です。
ヨハネによる福音書は全部で21章までありますので、11章を終えるということは、章の数で言いますと全体の半分を超えるということになります。ページ数と言う点から計算してみますと、ちょうど今日で全体の53%になりました。そして、内容と言う点からも、実は今朝の御言葉は、ヨハネによる福音書全体の大きな切れ目になっております。
ただ今お読みしました御言葉の初めの45節にこう書かれています。「45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」
ヨハネによる福音書には、このような「人々」が、あるいは「弟子たち」が、「イエスを信じた」、「み名を信じた」という言葉が合わせて7回出てきます。そして主イエス様がなさった奇跡、しるしもまた7つ記されています。最初のしるしは、カナの婚礼、主イエス様が水をぶどう酒に変えるというしるしでした。ここで7つ全部を詳しく辿ることはできませんが、次には病の癒しが二つ、五千人養い、湖上歩行、盲人の目を開かれる、そして最後のラザロの復活です。これが7つ目、最後のしるしです。そしてそれ欄も終わりに、人々や弟子たちが主イエス様を信じたと記されるのです。今朝の11章45節は、その7つ目、最後の場所になっています。
また興味深いことですが、ヨハネによる福音書には、またヨハネによる福音書に独特の主イエス様の自己紹介、わたしは何々である、聖書のもとのことば、ギリシャ語でエゴーエイミーと言いますが、これも7つあります。このように7つずつになっていることは決して偶然ではなく、意図的なことだと思います。当時のユダヤでは、7が完全数だからです。
11章までに、わたしは何何であるという6つの宣言がなされて来ました。その六つ目が、11章25節「わたしは復活であり命である」という大切な御言葉でした。最後の7つ目は、これは最後の晩餐の時に語られます。15章1節、「わたしは真のブドウの木である」です。
まとめてみますと、この11章で、7つの自己紹介のうちの6つが終わり、7つのしるしが記録され、そして、「それによって人々が信じた」ということが7回繰り返されています。主イエス様が、教えとしるしによって、人々に福音を宣べ伝えてゆく、そういう福音宣教の物語は、今日の11章で終わりを迎えていると言って良いと思います。
11章の終わり、主イエス様の七つの奇跡、しるしの七番目は、ラザロの復活、つまり死んだ人間を生き返らされるという最高のしるしでした。この後、12章からは主イエス様のエルサレム入城、十字架、復活の物語になります。主イエス様は、ラザロの復活によって、死んだ人に命を与えられました。そして今度は、ご自分が反対に命を捨てる、十字架への道を歩み始めるのです。
2,
さて53節にこう書かれています。「53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」
エルサレムの宗教指導者たち祭司長、大祭司、ファリサイ派は、主イエス様を死刑にすることをはっきり決めています。これは正式の裁判に先立つ、事実上の死刑判決だったという説教者もおります。そしてこのことを通して、神様の救いのご計画が成し遂げられて行きます。
さて、ラザロの復活を目の当たりにしたユダヤ人たちの多くは、主イエス様を神の子、神と信じましたが、そうでない者もいたとヨハネは記しています。実は、彼らもまた、マリアとマルタのところにいて、死者のよみがえりという主イエス様の鮮やかなしるしを見ました。けれども、しかしその人たちは、およそ、主イエス様を信じる者とは、反対の行動をとっています。エルサレム神殿にいるファリサイ派のところへ駈け込んで、大変なことが起こりましたと知らせたのであります。
この日本と言う国では、多くの人々は、わたしは、神などは信じないと公言しているように思えます。残念なことですけれども、本当に力のある神様がおられる、神様が生きておられる、そういうことを前提にしない生き方をしているように見えるのです。そして、ひょっとしたら心の中でわたしたちに向かってこう言っているかもしれません。もし本当に神様がおられる、イエス・キリストが、救い主だと言うのならば、そのしるしを見せてほしい。証拠はあるのか、本当に人生に、この世界に希望があるのか、そういうのです。
けれども、今朝の御言葉では、人々は、しるしを見ても信じなかったということに心を向けたいと思います。しるしが偽物だと思ったのではないのです。むしろ、しるしが本物だと認めたからこそ、エルサレム神殿に駆け込みました。人は、証拠があれば必ず信じるとは限らないのです。証拠によって信じるというなら、それは、結局は、その人自身の理性の働きであり、人間の力によることです。あくまで人間が中心と言うことになります。けれども、神様を信じる、信仰を与えられるのは、理性だけの働きだけでは決してありません。それは霊的なこと、魂に関わること、わたしたちの人格の深いところによってなされることです。父なる神と主イエス様が送って下さる聖霊によることです。
ラザロの復活のことを聞いて、急ぎ最高法院が招集されました。最高法院の議員たちはこう言ったのです。
「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。」
ラザロの復活だけではない、多くのしるしを行っている、そのことが分かっているのなら、素直に主イエス様を救い主と信じれば良いと思うのですが、そうはゆかないようです。皆が主イエス様を信じるなら、十字架もなされませんでした。けれども、結局ユダヤ人たちは、主イエス様を十字架にかけて殺してしまうのです。
最高法院の議員たちが恐れていたことは、ローマ帝国の機嫌を損ねてしまうことでありました。ローマ帝国は、ユダヤ教に基づくユダヤ人の民族主義、独立志向に警戒していました。ユダヤにはローマから総督が派遣され、反乱が起きないように常に警戒していました。ユダヤ教の祭司長たち、ファリサイ派の人々の多数意見は、そのローマ帝国の許容する範囲で自分たちの信仰を維持することです。ユダヤ教の信仰の建前として、救い主を待ち望んでいるのですが、本当に救い主が来てしまうと困るのです。自分たちの地位や立場が第一でありました。
政治と宗教が一つの組織によってなされることは、誤った政治を引き起こすもとでもあります。そして、一方で、それによって宗教も信仰もまた曲げられてしまうのです。政治も宗教も神様の前にあるものですけれども、それぞれが互いの目的、領域に従って神様から主権を委ねられております。どちらかが一方的に支配するといったことがあってはならないのです。互いに独立していてこそ真理が守られます。
48節後半の「ローマ人が来て」といいますのは、「ローマから軍隊が来て」と言う意味であります。本物のメシアであるお方が立ち、この世の権威を超えて神の御国を起こすというようなことがあってはならない、そうなったら、ローマはユダヤの自治を認めず、滅ぼすだろうと考えました。
反対意見もあったに違いないのですが、最後に、最高法院の議長である大祭司カイアファが演説して議論を取りまとめました。カイアファと言う人は、23年間大祭司の地位にあった人で、政治的な手腕に長けていた人であったようです。その年の大祭司とありますのは、「主イエス様が十字架におかかりになった、その年の」と言う意味です。彼はこう言いました。
49節の後半からです。「あなたがたは何も分かっていない。:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
こうして、最高法院は主イエス様を死刑にすることを決定したのであります。
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51節52節は、このヨハネによる福音書の著者であるヨハネが、ここで不意に顔を出して語っているところです。著者のコメントとして次のように言います。
「51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」
もちろん、カイアファは、間違いなく自分の考えを語ったのですけれども、今から考えると実はそうではない、これは神の預言の言葉であったのだとヨハネは言いたいのです。ここでカイアファの口を通して主イエス様が十字架にお掛かりなったことの本当の意味が告げ知らされていたのだというのです。神がカイアファをして真理を語らせたのです。
カイアファの実際の言葉は、50節にあります。ユダヤ人が滅びないためには、イエスを生かしておいてはならない、殺すべきだというのです。しかし、聖書記者ヨハネに言わせますと、これは聖霊による言葉だったのです。主イエス様の十字架の真の目的は、散らされている神の子、つまりあらゆる国の人々の中に散らされている神の選びの民が一つになるためだったというのです。
カイアファは、無意識にそう言ったのだと思いますが、「一人の人間が民の代わりに死ぬ」といい、その上で「国民全体が滅びないですむ」と言っています。この民と言う言葉と、国民と言う言葉は違うギリシャ語であります。聖書において民と言う言葉が使われる時には、ユダヤ人、ギリシャ人とか日本人、中国人とかいう民族を越えて、神の選びの内にある人々、神の国の民と言う響きを持つのです。ユダヤ民族のためだけでなく、散らされている神の子たちが一つになる、いいかえると教会が立てられることを、彼自身は全く意識しないという仕方ですが、ここで預言したというのです。「神の民が集められる」言い換えれば「教会が立つ」。それが実際に成し遂げられるのだと言っているのです。「教会が立つ」、ここでいう教会は、改革派教会とかカトリック教会とか、日本キリスト教団と個別の教派教団のことではありません。神様の目から見た一つの見えない教会、集められる神の民であります。それは、世の終わりまでは天と地の両方にあります。すでに召された神の民は天上に、生きている神の民は地上にいますが、実は一つの神の民、主イエス様を頭としている見えない教会です。
4月に、西部中会の30個余りの教会の代表が集まって定期会、会議を致しました。会議に先立って礼拝が捧げられ、聖餐式も行われました。それによって、イエス・キリストにあって一つであることを表しました。また6月には、定期大会も予定されています。全国から牧師長老が集まります。わたしたちは、一つ一つの建物に集まる各個教会を教会と呼ぶのですけれども、実は、一つの信仰告白、一つの政治によって治められる群れが集まって日本キリスト改革派教会というひとつの教会を形作っています。日本には沢山の教団教派があります。聖書を正典とし、歴史的に教会の信仰の基本とされる使徒信条を告白するならば、教団教派はちがっても、主イエス様にあって一つであるということが出来ます。そして実は、神様の目から見れば、すべての教会、教派はそれらを超えてたった一つの群れに見えるのです。散らされている民は主イエス様によって一つとされます。
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49節でカイアファはこう言います。「一人の人間が民の代わりに死ぬ」。主イエス様の十字架の死が、散らされていた神の子を一つに集めるためになされました。このあと使徒言行録で教会が生まれます。今朝の説教題は「代わりに死ぬイエス」です。主イエス様は、罪人の罪の赦しのためにわたしたちの代わりに死なれました。代償的贖罪という言葉があります。借金ならば代わりに返済することが合法的なことです。けれども、罪のための死を代わりに担う、言い換えると、代わりに死刑になるということは、反社会的集団の世界なら別ですが、普通は認められないことです。神様もそれをお認めになることはないと思います。けれども、主イエス様の救いの御業に限って、神様は特別にそれを良しとされたのです。わたしたちの罪の解決のために主イエス様が代わりに死なれました。そして、神様はそのことをお認めになって、三日後に主イエス様は復活されたのです。
さて、54節には、主イエス様は荒れ野に近いエフライムという町に身を潜めたと書かれています。主イエス様を処刑することが決められ、さらに主イエス様のいどころが分かった者は届け出よと命令が出されました。おたずねものになった主イエス様は弟子たちと共に荒れ野の方へと姿を隠したのです。まだ神様が定めときは来ていなかったからです。
しかし、次の55節に、過越し祭が近いたと書かれています。エルサレムは巡礼の客でごったがえしてきました。神様の時が来たのです。人々は、もうあの人、つまり主イエス様は来ないだろうと噂していました。さすがに命が大事なはずだ、だから来ることはないだろう。しかし、主イエス様は、ベタニアで香油を注がれ、葬りの備えをしたうえで、エルサレムに入城なさいます。民の身代わりに神の裁きを受け、信じる者の罪が赦されるためです。十字架にお掛かりになるためであり、散らされている神の選びの民が命を得て、一つになるためでありました。
主イエス・キリストにおいて、特にその十字架とご復活とにおいて、神の民は一つです。教会の交わりはこの世の交わりと違うものです。どこが違うかと言えば、それはキリストにある交わりであるという点です。そしてそれは個別の教会や、教団教派を超えた広がりを持つものであります。散らされている神の子たちは主イエス様の十字架によって、主イエス様の命によって一つであります。
お祈りを致します。
天の父よ、あなたは主イエス様の十字架と復活によって、民の罪を赦し、恵みを与え、一つの神の民としてくださいました、地上にあって、この見える教会が終わりの日を目指して前進して行くことが出来ますよう導いてください。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。