2023年05月14日「ラザロ、出て来なさい」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 11章38節~44節

メッセージ

2023年5月14日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書11章38節~44節「ラザロ、出てきなさい」

1、

今朝、お集まりのお一人お一人の上に、主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

ヨハネによる福音書第11章の「ラザロの復活の物語」を読み進めています。今朝はその4回目です。死んでいたラザロが、いよいよ主イエス様によって、よみがえる、そして自分の足で立って墓から出てくるという劇的な場面となりました。

この11章の物語は、愛する者のための葬儀の中で繰り広げられています。わたくしたちもその人生の中で幾度か愛する者の葬儀に参列します。しかし、わたくしたちが葬儀をするときには、このラザロのように、死んでいた者がもう一度生き返る、棺の中から立ち上がって出てくるというようなことを期待することはないのだと思います。牧師が葬儀の中で、愛する者をもう一度生かしてください、死をなかったものとしてくださいと祈ることはありません。それでは、このラザロの復活の物語はわたしたちの死と葬儀とは全く無縁なものであるとかと言いますと、そのように言うことはできないのであります。どうしてかと言いますと、今この世界に生きている人は、誰でも死んでそれで終わりではないと、わたしたちは信じているからです。わたしたちが葬儀をするとき、このことを忘れてはならないと思うのです。

先ほど、使徒信条を告白しました。わたしたちは終わりの方でこのように声を揃えて告白しました。「かしこより来たりて、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん」

人は、死んでそれで終わりではないのです。主イエス様に関わる使徒信条の最後の項目は、主イエス様がもう一度おいでになること、そして死後の裁きということを語っているのです。この世界の終わりに、主イエス様が再びおいでになり、その再臨の主イエス様が、すべての人をお裁きになるということです。あなたがたは、生きている時に、天の父なる神様の御心にどれほど忠実に従って生きたのですかとわたしたちは問われます。裁きを受けるというのです。

もしも主イエス様がその神の御子の命をもって、わたしたちの罪の贖い、大きな罪、小さな罪のすべてに対する償いをなされなかったとするならば、結果は厳しいものです。誰でも、神様の正しい裁きの結果として永遠の滅びに入るほかはないのです。しかし、主イエス様は、あのクリスマスの夜にこの地上に来てくださいました。そしてそのようなわたしたちのために十字架にお架かりになられた。そして三日目におよみがえりになられました。主イエス様は、わたしたちに死んでも死なない、滅びることのない永遠の命を与えてくださったのです。

このラザロの復活物語の第二回目、11章25節において、主イエス様は、こう宣言しておられます。

「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、けっして死ぬことはない。」

このように宣言なさったあとラザロの姉でありますマルタにこう問いかけられました。「あなたは、このことを信じるか」。「あなたは、このことを信じるか」。マルタだけではなく、この問いかけに、「信じます」と心から告白するよう、その命の信仰へと、主イエス様はわたしたちをも招いておられるのであります。今朝のラザロの復活は、この主イエス様の救いのみ言葉の上に成り立っています。

主イエス様は、ご自分がラザロをよみがえらせる、その目的を今朝の聖書のみ言葉の中の40節と42節の二か所で示しておられます。40節には「信じたなら神の栄光を見られる」とあり、そして42節には「あなたが、ここでは天の父ですが、あなたがわたしをお遣わしになったことを周りの人々が信じるため」と書かれています。主イエス様は、第一に「人々が神の御栄光を目の当たりにする」ために、そして第二に「主イエス様が神からの人であることを人々が信じるため」にこの大きなしるしをなされました。

2,

さて、主イエス様はマリアとマルタに案内されて、ラザロ委が葬られている墓へとやってまいりました。38節には「再び心に憤りを覚えて墓に来られた」と書かれています。主イエス様は、村の入り口でマリアが主イエス様に出会ったときに泣き出し、一緒にいるユダヤ人たちも嘆き悲しんでいる時の心の憤りを再び覚えられたのであります。人は元気に生きていても、思いがけず病気になる、やがては死んでしまう、誰もそれから逃れることはできません。悲しいことです。その悲しみに主イエス様は寄り添って下さり、涙を流されました。ここでは、天の父なる神様に導かれて、その死に戦いを挑んでくださるのです。大きく息を吸い、また、まるで鼻や口からその息を吐きだすようにして、思いを込め、意を決して墓へと向かわれたのです。

主イエス様の目の前には、洞窟、あるいは洞穴の入り口をしっかりとふさいでいる大きな石があります。ラザロの墓をふさいでいます。主イエス様は、その石を取りのけなさいと命じられました。当時、墓の入り口が石でふさがれていた理由は、野の獣や盗賊からなきがらを守るためであったのと、もう一つは、日が経つにつれて強くなる遺体の死臭を閉じ込めるためであったと言われます。寒暖差の激しいパレスチナの気候の中ですでに四日が経ち、遺体はすでに臭い始めていました。マルタが激しく抵抗します。そんな遺体の有様を人々にさらすことに耐えられなかったのでしょう。しかし主イエス様は、マルタを叱責するように強い言葉を語られました。「信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」。マリアだけに放たれたみ言葉ではありません。わたしたちが、誰も残酷な死から逃れることはできない、それで終わりだと思っている、その罪の悔い改めるようにわたしたちを招いておられるのです。

「あなたはこれを信じるかと」と念押しされたこと、すなわち「主イエス・キリストが復活であり命である」ということをあなたは信じなければならない、だから、石を取りのけなさいと言われたのです。わたしたちもまた、心の中の大きな石、不信仰の石を取りのけようではありませんか。

マルタは、喪主ですから、人々に石を取りのけるよう依頼することが出来ました。医師が取りのけられ口が開いた墓の中は、暗くて何も見えなかったかもしれません。しかし、すでにラザロのよみがえりは成し遂げられていたと考えなければなりません。主イエス様の祈りは、感謝の祈りでありました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」そしてこう命じたのです。「ラザロ、出て来なさい」

主イエス様に愛されていた人、ラザロが復活しました。43節と44節をもう一度お読みします。

「43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

「布でまかれまま」とあります。元の言葉は、両足、両手を長い布、包帯で巻かれているという言葉です。そしてラザロが主イエス様の御言葉に従って、墓から出てきたという言葉が続きます。主イエス様は、まるでミイラのように死に装束を着せられたラザロから包帯を取り去るように命じられました。ラザロは、主イエス様のみ言葉通り墓から出てきました。そして「行かせなさい」と言われた主イエス様のみ言葉通りに、これまでの生きていたときの姿に立ち帰ったのです。このあと、ラザロがどうしたのかは、記されていません。もはや葬儀は中止され、主イエス様とラザロ、家族を囲んで歌う、人々の神賛美の声が、この村に響いたことと思います。

3,

主イエス様が、マルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタだけでなく主イエス様以外の誰も、このことを信じませんでした。死者がもう一度生き返るということは、現代のわたしたちの常識においては、普通はあり得ないことです。それは古代の人々にとっても同じでした。生きているときには口うるさかった人、賑やかな人、あるいは、物静かな人、いろいろな違いがあるかとしても、死んでしまったらもうおしまいである。残された者の心の中にはその面影は残るとしても、死んでしまえば、その人自身は全く消え去ってしまうとわたしたちは知らず知らずに考えています。何という不信仰な姿でしょうか。

ラザロの復活のことをあらかじめ聞いたマルタは、「終わりの日の復活のことは存じています」と答えています。将来において起こる復活は、当時のユダヤ教ファリサイ派の教理箇条、いわば信仰の常識だったからです。信仰の教えとしては知っていても、しかし今、目の前で死んだ、愛する家族ラザロが復活する、ましてや、今から主イエス様がそれを行って下さるとは考えていません。ほかの弟子たちも同じでであったと思います。

わたしたちは、主イエス様が、このヨハネよる福音書5章で、弟子たちにご自身の復活のこと教え、さらに死者たちの復活のことについて予め教えてくださったことにもう一度心をとめなければならないと思います。

開きませんけれども、お読みします。今日のラザロの復活と深く関係している御言葉であります。

ヨハネによる福音書5章24節25節「24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

この24節25節は、体の復活と言うよりも霊的に死んでいるものが、信仰によって新しい命を与えられる、そのことによって新しく生まれることを指しています。大切なことは、主イエス様の言葉、主イエス様と言う存在を通して、新しい命が与えられるということです。

同じく5章28節29節

「:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

これは世の終わりの復活です。世の終わり、その時期がいつなのかはわかりません。しかし、信仰者は、ここで告げ知らされている「世の終わり」と、そこでもたらされる「わたしたち自身の復活」についてすでに知らされているのです。ただ知っていると言うだけでありません。信じているのです。

このことは、今生きているわたしたち自身の毎日の生活に関わることです。クリスチャンは、終わりの日に最終的に「身も心も完成された命」を受けます。それが、わたしたちの人生の本当の最終地点、ゴールの地点です。わたしたちは、その最終点から、今という時を見る、生きることが出来るのです。わたしたちは、人生の苦難を通ります。この社会の行く末についての心配事もあります。様々な不安や恐れがある、そうだとしても、わたしたちには、その先に必ず主イエス様ゆえに祝福されたゴールがある、そのことを信じるのです。

このあとの12章、主イエス様はもう一度このベタニアにおいでになりマリアから香りの良い油、香油を注がれます。そしていよいよ最後のエルサレム行き、地上における最後の一週間へと入られます。このあと主イエス様は、エルサレムで捕らえられ、十字架に掛けられます。しかし、今朝の御言葉。ラザロの復活を通して、わたしたちは主イエス様ご自身の復活を先立って見ているのです。そしてもっと大切なことは、わたしたち自身の体の復活をここに見る、そして信じるということです。「ラザロ、出てきなさい」この主イエス様の呼び声をすべてのキリスト者が聞きます。その日は必ず来るのです。

 ヨハネによる福音書には、主イエス様が行われた7つの奇跡、しるしが記録されていますが、今朝のラザロの復活は、その七番目のしるしとなっています。最後のしるしであり「完全数」である7番目のしるしです。いわば主イエス様のしるしのクライマックス、完成。それが、死者をよみがえらせると言う奇蹟でありました。

世の終わりの時、主イエス様は、ラザロに向かって言われたように、わたしたち一人ひとりを呼んで下さいます。「ラザロ出てきなさい」「禰津省一、出てきなさい」「まるまるチャン、××さん、出てきなさい」

ヨハネによる福音書第5章28節の御言葉をもう一度ここでお読みいたします。「:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

 主イエス様は、わたしたちの死に向かって憤り、死と戦い、打ち破って下さいます。罪のため本来は死ぬべきである私たちに、主イエス様のご自身の神の命を与える,十字架の死と言う仕方でそれをして下さるのです。そして主イエス様は三日目におよみがえりになられました。主イエス様は、今生きておられます。そうであるからこそ、わたしたちは今も主イエス様に心を預け、祈ることが出来ます。主イエス様の力と恵みを信じることが出来ます。このお方により頼むことが出来ます。私たちもまた、永遠の命を頂いており、やがて時が来ると復活の体を与えられて、墓の中からよみがえります。

先月の4月9日、わたしたちはイースター、復活祭の礼拝をささげました。主イエス様は今も生きておられます。復活の主、命の主、わたしたちの主イエス様により頼み、このお方にすべてをお委ねしようではありませんか。祈ります。

天におられる主イエス・キリストの父なる神様、御名を崇めます。この世界はおびただしい死に取り囲まれています。しかし、死に打ち勝ってくださる方がおられます。このお方を信じて歩ましめてください。主の名によって祈ります。アーメン。