2023年05月07日「泣いたイエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 11章28節~37節

メッセージ

2023年5月7日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書11章28節~37節「泣いたイエス」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 5月の第一主日の礼拝を捧げています。5月の連休、ゴールデンウイークも今日が最終日となりますが、連休の間、皆様はどのように過ごされたでしょうか。交代勤務のシフトがあっていつも通り仕事していたという方も少なくないと思います。わたくしも、ほぼいつも通りに一週間を送って今朝の主の日を迎えています。今週もまた主の恵みがありますようお祈りいたします。

さて、今朝のみ言葉は、11章1節から始まりましたラザロの復活物語の第三回目であります。説教題を「泣いたイエス」といたしました。教会の前を通られる地域の方が、この説教題をご覧になってどんなことを思われるかは、わかりません。もしかすると「泣いた赤鬼」という有名な絵本のことを思い起こされたかも知れません。この優れた絵本では、強くて凶暴なはずの「鬼」が泣くという意外性が人々の興味を惹きつけます。しかし、イエス様がお泣きになる、涙を流されるということについては、そんなに以外には感じられないと思うのです。主イエス様は、わたしたちの悲しみに寄り添い、その悲しみを共に背負ってくださるお方であるからです。

今朝の御言葉において主イエス様が涙を流されたきっかけのなりましたのは、愛する友、また弟子でもありましたラザロの死でありました。

 旧約聖書の創世記の最初の方には、エデンの園のことが書かれています。聖書をよく読みますとエデンの園には、本来死と言うものはありませんでした。しかし、そのエデンの園で人間が神様の戒めに背き、罪を犯す存在になってしまってから、死がこの世界に入り込みます。人が死ぬのは、本来の神様の御心、神様が祝福されたこの世界の目的に反することです。人間の罪が、神様の義に反しているために、その贖いをするため人は死ななければならないのです。

創世記第2章の16節のアダムに仰せになった神様の言葉が記されています。最初の人であるアダム、彼はこれから生まれてくる全人類の代表ですけれども、そのアダムに神様はこう言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

その善悪の知識の木の実が何か毒のある木の実であったからというのではなく、死が、神様の御言葉に聞き従わないことの罰則としてあらかじめ人に知らされたということです。その後、アダムには伴侶としてエバが与えられます。そして神と人とを引き離す存在であるサタンの化身であった蛇が、二人を誘惑します。善悪決めることができる、神のようになるという誘惑です。彼らは神様の戒めに背き、禁断の木の実を食べてしまうのです。二人はすぐには死にませんでした。けれども、楽園を追われ、必ず死ぬものとして地上の生活を送ることになりました。まさしく神話のようなこの物語は、実はわたくしたち全人類の罪と悲惨の起源と今現在の状態を表しています。生まれながらのわたしたちは、神の御許を離れ、神に従わず自分の力に頼り、やがて死ななければならないものなのです。けれども、聖書はそこで終わっているのではありません。そうではなく、まさにそこから聖書の壮大な物語が始まっています。神さまは、わたしたちの死の問題を解決するために独り子である主イエス様をわたしたちに賜ってくださったのです。この11章は、主イエス様が人間の死に向き合い、それと対決し、そして死に打ち勝ってくださる物語です。

2.

ラザロの復活物語は、ラザロが死の病にかかったことから始まります。そのことが主イエス様に知らされた時、ラザロは、死の直前、あるいは、すでに死んでいたのです。主イエス様が到着された時、ラザロは死んでから四日間がたち、もう墓に葬られていました。当時のユダヤの葬儀は七日間続きました。しかし主イエス様が、危険を冒してエルサレムから3キロ弱のベタニアまでやって来られたのはラザロの葬儀に出席するためではありません。そうではなくラザロを起こすためでした。完全に死んでいたラザロを生き返らせるという奇跡を通し、ご自身が死に打ち勝つお方であることをはっきりと示されるためでありました。

この新共同訳の小見出しが示しておりますように、11章全体は、五つの部分に分けることが出来ます。最初の段落は、「ラザロが病気で死にそうです」と伝えるベタニア村からの使いが、主イエス様のところへはるばるやってまいります。二つ目の段落では主イエス様がベタニアに到着します。そこではラザロの死が告げられますが、主イエス様は葬儀が行われているラザロの家には入りません。まず村の入り口で、迎えに来たマルタに会います。主イエス様は、マルタに宣言されました。「あなたの兄弟は復活する」。さらにこう言われました。「わたしは復活であり、命である」。これはヨハネによる福音書に七つ現れる「わたしは○○である、」という主イエス様の自己啓示、エゴー・エイミー聖句の五つ目に当たります。

その次の第三段落が今朝のみ言葉です。村の入り口にマリアが呼び寄せられ、一緒にいた葬儀の出席者であるユダヤ人も共にやってきます。これに続いている第四段落では、主イエス様がラザロの葬られている村はずれに向かわれ、主イエス様はそこでラザロをよみがえらせるのです。最後の段落は、その後のエルサレムの最高法院の反応を示しています。

結局、主イエス様は、ラザロの葬儀には出席されないまま、ベタニアを去っておられます。その必要はなかったのです。ラザロが生き返ってしまったからです。主イエス様は、悲しみの場である葬儀を、驚くべき主イエス様の奇跡の場へと変えてしまわれました。主イエス様は、死に打ち勝たれるお方なのです。

3,

マルタは、主イエス様からマリアを呼んでくるように頼まれ、葬儀の会場である家に戻ります。そして、マリアに耳打ちします。「先生がいらして、あなたをお呼びです」。どうして、皆に聞こえないように言ったのかは記されていませんが、一つはそれが葬儀という公の場であったこと、そして、それよりも大きな理由は、主イエス様が、すでにエルサレムではお尋ね者として命の危険にさらされていたことであったからと思われます。

マリアは、そっと立って外に出ました。ユダヤ人たちは、彼女が墓に泣きに行くのだろうと勘違いしてぞろぞろと一緒に家を出たと書かれています。おそらく、村の入り口に近い所にラザロの葬られた墓があったのでしょう。一行は、主イエスのいる場所にやってきます。そこでのマリアと主イエス様の会話が今朝のみ言葉です。

聖書は一貫してマルタとその姉妹マリアというように、マルタの名を先に書いております。そのことからマルタが姉、マリアが妹、そして死んだラザロは三番目の、末っ子の男の子であったと考えられます。両親は先に亡くなっていたので、三人兄弟は、助け合って暮らし、特に姉二人は、ラザロの親代わりとなって大切に面倒を見ていたに違いありません。ラザロが死んでしまったとき、マルタとマリアは、我が子をなくした母のような気持ちさえしたのではないかと思います。そのラザロの病を主イエス様が癒してくださると待っていたのですけれども、間にあわず、ラザロは死んでしまいました。マリアは、主イエス様の姿を見たとたんに、足元にひれ伏しました。主イエス様の足を抱くようにしてこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったことでしょうに」。その前にマルタが言ったことと同じことをマリアも言います。どうしてもっと早く来てくださらなかったのかという恨みがましい響きも感じられますが、マリアの心からの叫びであったことでしょう。マリアが泣きだすと、一緒にいるユダヤ人たちも泣き出したと書かれています。

牧師になりましてから20回以上葬儀を致しました。葬儀の中で残されたご家族が泣きだしてしまうことがあります。特に、なきがらを花で飾るために棺の蓋を開けた時や、家族だけで最後のお別れをするときには、あちらこちらですすり泣きの声が聞こえます。親しい家族の死、それも今もラザロのように若くして召された方のご両親にとっては、葬儀の場は、悲しみが一気に噴き出してくる時でもあります。そして泣くことによって、少しでも気持ちが落ち着くということも事実であります。共に悲しんでくれる、一緒に泣いてくれる人がいるなら、ますますそうだと思います。深い悲しみが底の底まで達した時、人はまた立ち上がろうとする力を与えられるのだと思います。泣くことが大切である時があります。

35節は、短いみ言葉ですけれども貴重な御言葉でもあります。「イエスは、涙を流された」。聖書には主イエス様が笑ったり泣いたりするという記事はほとんどありません。ここ一か所といっても良いのです。これ以外にはヘブライ人への手紙5章7節があります。「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力ある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度ゆえに聞き入れられました」。主イエス様が涙を流して祈られたと記されています。主イエス様の父なる神様に対する真実で従順な態度を表す言葉です。主イエス様が捧げられた祈りは、ご自分のことだけでなく、愛する者への執り成しの祈りも含まれているに違いありません。

この35節で使われている元の言葉は、実は聖書の中で一か所しか出てこないギリシャ語です。そのような言葉が使われています。マリアや他の人々のときには「泣き叫ぶ」、「悲しみ嘆く」と訳さる通常の言葉ですけれども、この35節はそうではありません。聖書の中で多く使われる涙という名詞に、オメガというギリシャ語の一文字を付けて動詞にした言葉です。「涙する」。ある説教者は、ここでは主イエス様の涙の粒が見えると言っております。織田昭という人のギリシャ語小辞典には、「はらはらと涙された」と注釈がつけられています。「落涙」であります。ヨハネの手紙1,4章16節に「神は愛です」と書かれています。悲しむものへの愛が、主イエス様に涙を流させたのだと思います。

4,

わたしたちが涙を流す理由は、悲しみだけではありません。怒りの涙もあります。わたしたちは悔しいときにも泣きます。あるいはまた悔い改めの涙もあります。12弟子のひとり、そのリーダーであったシモン・ペトロは、主イエス様が捕らえられた時、大祭司の屋敷で主イエス様を知らないと大声で言ってしまいましたが、主イエス様の予告通り、鶏が三度泣いたのを耳にして、激しく泣きました。自分が情けなかったのです。

主イエス様がラザロの死を前にして涙された理由について議論があります。涙の理由は、マリアと同じようにラザロを失った悲しみではないか、あるいはまた、病を癒すことができなかった悔しさではないかというのです。しかし、主イエス様は、ベタニア村へ向かうときにすでに、彼を起こしに行くと明言されていますし、事実、このあとラザロはよみがえるのです。主イエス様の涙は、悲しむ者への愛の涙以外にはありません。人が死ぬこと、死ななければならないこと、そのようなわたしたちを憐れんでくださる、愛してくださる、その愛の涙です。わたくしは、特に悲しみに満ちた葬儀の司式をしたとき、こう思ったことがありました。「ここに、わたしたちともに涙してくださる主イエス様が共におられるのだ。」

この思いは、主イエス様が愛に満ちたお方、愛そのものであるお方であるという信仰に基づくものです。小さな聖書とも呼ばれているヨハネによる福音書3章16節には、こう書かれています。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」

35節は、こう言い換えても良い御言葉です。「神は涙を流された」。わたしたちが、決して忘れてはならないことは、この主イエス様というお方が、神の独り子であり、生ける神ご自身であることです。わたしたちが礼拝すべきお方なのです。その神なる方、神ご自身が、わたしたちと共に泣いてくださるのです。神の御子イエスは、多くの親しい人の死に出会い、悲しみを味わわねばならないわたしたちと一緒に、涙を流してくださいます。

初代教会の伝道者、使徒パウロはローマの信徒への手紙12章15節でわたしたちにこう命じています。「喜ぶ者と共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」。

わたしたちの信じている神、父子御霊の三つにして一人なる神は、このことを先立ってなされたのです。

 父なる神は、御子を世に遣わし、世の人々と喜怒哀楽、苦楽を共にさせました。そして、神に背き続けるわたしたち罪びとのために、十字架にお架かりになられ、わたしたちに命を与えてくださいました。ヨハネの手紙4章10節にはこう書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。そして11節の「わたしたちも互いに愛し合うべきです」という御言葉へと続きます。

 わたしたちが、どれほど苦しい時でも、また悲しい時、悔しい時にも、わたしたちを愛し、一緒に涙を流される主イエス様がいてくださいます。わたしたちの肉の目には見えませんけれども、天において、霊において、共にいてくださるので、わたしたちは生きることができます。この後、主イエス様の裂かれた肉と流された血のしるしあります、聖餐の恵み共に与ります。お祈りを致します。

父なる神様、御子イエス様を遣わし、今も共にいてくださるようにされたあなたの恵みを感謝いたします。どうかわたしたちも互いに愛し合うことが出来ますように導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。