聖書の言葉 ヨハネによる福音書 11章17節~27節 メッセージ 2023年4月30日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書11章17節~32節「主イエスは復活であり命」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 先週は、11章1節から始まりましたラザロの復活の物語の二回目です。先週の週報には27節までと予告していましたが、32節までお読みしました。さて今朝の御言葉には、このラザロの復活物語の急所とも言うべき中心聖句が記されています。それは、ただ今お読みしました25節と26節の主イエス様のみことばであります。 25節26節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 ラザロの一家は、おそらく両親が先になくなっていたと想定されますので、マルタ、マリア、ラザロという三人兄弟は、親のいない貧しい中をこれまで助け合って暮らしてきたのだと思います。おそらく年長のマルタには、わが子をなくした母のような気持ちもあったことと思います。主イエス様は、愛する者の死に直面し、そしてその愛する者の死を嘆き悲しんでいるマルタに向き合ってくださいまして、この御言葉を語って下さいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 わたくしは教会に通い始めてすでに46年が経ちます。その間に、自分の両親をはじめ、幾人かの身内の死に直面しました。また、教会の兄弟姉妹の葬儀にも参列しました。牧師になってからは葬儀の司式をすることになりました。そこでは人々の前で、ご遺族の前で、聖書の言葉に向き合って説教をしなければなりません。これまで以上に、死というものをまじかに体験することになりました。詳しく数えたわけではありませんが、20回以上は葬儀の司式をしていると思います。多くの方の死を目の前にし、そして自分自身の死も決して遠くはないという年齢になってきました。 けれども、正直に言いますけれども、いまだに、「死ぬ」ということが良くわからないというのが正直な気持ちであります。もちろん聖書の教えはわきまえております。けれども、死が何かということは、経験して見なければわからないのではないかと思うのです。いたずらに恐れても仕方がないし、一方で、見えをはって、わたしは死ぬことなんか少しもこわくない、主イエス様に早く会いたいなどと言ってみましても、本当にそう思っているかと問われると心もとないのです。死ということ、いつかは死ぬということを、何となくやり過ごして今に至っているのが現実です。しかし、主イエス様にとりまして、私たちの死は、決してひとごとではなかったのです。わたしたち自身が思う以上に差し迫ったことであります。それは主イエス様にとって、まなじりを決して対処される出来事であります。 先ほどお読みしました御言葉のすぐ先、33節には、主イエス様はラザロの死を前にして、「心に憤りを覚え興奮された」と記されています。ここで「憤りを覚え」と訳されている言葉は、鼻息、あるいは馬がいななくような激しい怒りを現わすという言葉です。興奮されたという言葉は、もともとは体を震わすという言葉です。 わたしたちは、自分の知っている人の死だけでなく、多くの人の死を目の当たりにしました。たとえば神戸や東日本の震災、あるいは熊本地震も含めて多くの災害や戦争や疫病があり、何千何万という方が一度に亡くなられました。それだけではない、この世界の歩み、わたしどもの知りうる限りの世界ですけれども、一体何名の方が、死なれたのでしょうか。そして実は、その死の一つ一つには数では現わすことのできない固有の悲しみがあります。主イエス様は、ここでその一人一人の死、わたしの死、あなたの死に立ち向かってくださるのです。憤り、体を震わせ、力を込めて、そしてはっきりと宣言なさいます。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 2、 17節にこう書かれています。 「17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」 ここベタニア村から東に30キロ離れたヨルダン川の向こう側から、主はおいでになりました。17節の時点では、未だ主イエス様は、ベタニア村には入っておられません。おそらく村の入り口がすぐ目に見えるところにおられます。そこに、ラザロの姉妹であった、マルタという女性が出迎えます。家には、マルタの姉妹のマリアがいて、葬儀に来る客の相手をしていたのでしょう。 ここで当時のユダヤの葬儀の様子をお話しします。葬儀は、大体、七日間を費やしたそうです。死んだその日に、行列を作って遺体を墓に葬りに行きます。そのとき、泣き女や笛や太鼓の楽隊などを伴い、棺を先頭にして墓地へ行きます。崖や丘をくりぬいて作った穴に安置する仕方の墓地です。墓に葬った後、皆がもう一度、家に帰って来て、近親者を囲み、何日間も家族を慰めるのです。そのとき、家族のものたちは、もてなしは他の人に任せて、皆に囲まれて座って泣いているのが普通であったようです。 ユダヤの人々が当時普通に持っていた考え方は、死後三日間は、再び生き返る可能性があるということでした。魂が、元の体に帰りたいと三日間は死者の遺体のまわりから離れない、そう考えていたそうであります。そして四日目になると、もう生き返らない、それが明確になる。主イエス様が来られたのはちょうど、その四日目で、遺体は腐敗が始まって臭くなってくる、そういう時でありました。 ラザロの住んでいた家には、ユダヤ人たちが大勢集まっています。ベタニア村は、エルサレムから、15スタディオン、2.7キロです。都エルサレムからも人々が集まっています。このユダヤ人たちは必ずしも主イエス様の弟子であるとかいうわけではありません。ユダヤのお葬式には特別に深い関係でない人、ときには通りがかりの人も集まってくるのです。45節ですが、このあとラザロの復活、蘇生を自ら見たユダヤ人たちの多くは主イエス様を信じたとあります。それまでは、彼らは主イエス様を信じていなかったのです。そして彼らの中に、この死人の蘇りという奇跡の一部始終をエルサレムの指導者であるファリサイ派に知らせた者がいて、結局、これが主イエス様の十字架刑につながってゆきます。 さてマルタは、四日遅れで到着された主イエス様にこう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 これは主イエス様が四日目になってやっと訪れたことを非難している言葉のようにも聞こえます。しかし、ここは単純に受け取って、主イエス様には病を癒す力があると信じていましたし、今でも信じています、そういう意味にとって良いのではないかと思います。ラザロは死んでしまいました。けれども、しかし、それでも、あなたが神様に願って下さるなら願うことは何でも適うという信仰に変わりがありません、そう言っているのです。彼女は、すでに主イエス様を前にして、自分は、ラザロの死を受け入れている、すくなくとも主イエス様にはそう言いたい、そう言う気持ちでありました。 この後、主イエス様は、姉妹のマリアをも呼びよせ、悲しんでいるマリアに会って下さいます。マリアもまた、主イエス様に同じことを言っています。32節の後半です。 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」 そう言いながら、マリアは主イエス様の足元に平伏して礼拝の姿勢を取りました。マルタは、さらに言葉を続けています。22節です。「22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」このような悲しいことが起こっても、主よ、わたしはあなたを信じます。信じ続けますというのです。愛する者が死んでしまったあとで主イエス様がやって来られた。確かにそれは、すぐに受け入れることができない現実であったと思います。信仰そのものが揺らいでしまうかもしれない危機がそこにあります。しかし人間の側は、それを何とかして受け入れようとします。マルタもマリアも、今一度自分の心に向かってこう言っていおるのかも知れません。 しかし、わたしたちは主イエス様が、ベタニアに向かうとき、12弟子にこう言われたことを思い起こさなければならないと思います。「わたしたちの友ラザロが眠っている、わたしは彼を起こしに行く」 主イエス様は、わたしたち誰もが立ち向かうことが出来ない、降参するしかない死、わたしたちの最大の恐れや苦しみの源である「死」にいま立ち向かっておられるのです。しかし、マルタもマリアも、主イエス様、あなたを信じますと言いながらも、目の前で死者を生き返らせるというようなこと、まさかそこまでは出来ないだろうと思っていました。「彼を起こしに行く」といわれた主イエス様を目の前にしても、やはりこの世の常識にとらわれておりました。主イエス様は、そのようなわたしたちの心を打ち破ってくださいます。 3、 23節で主イエス様はマルタに告げます。 「あなたの兄弟は復活する」 マルタは、いいます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」 旧約聖書のダニエル書12章1節2節にこのような御言葉があります。「1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」 そして次の3節に続きます。 「3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」 しかし当時の祭司階級や裕福な人々に支持されていたサドカイ派は、「復活はない」と主張し、一方ユダヤ教の主流派であり学者の中心であったファリサイ派は「復活はある」と主張しました。 そして多くのユダヤ人たちは、世の終わりに信仰をもって死んだものは永遠の命を受け、必ずよみがえる、復活すると信じていました。 マルタが、主イエス様の言葉を聞いて思ったこともそうでした。今は無理でも、終わりの日には復活する、そのときまで、信仰を守って待たなければならない。そう思いました。 わたしたちは、主イエス様が「わたしは死者を復活させる、復活させることが出来る」とおっしゃられないで、「わたしは復活である」「わたしは命である」と言われたことに注意しなければなりません。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 わたくしたちが、毎週唱えております使徒信条の終わりの方に、こうあります。主イエス様の再臨と最後の審判の箇条です。「かしこより来られて生きるものと死ねるものとをさばきたまわん死んだ者もまた裁かれる、つまり神様の裁きは、死ぬということでは終わらない、死を超えた裁きがあります。それは永遠の滅びであります。 死を超えた永遠の滅びに対して、死を超えた永遠の命があります。霊魂と肉体の両方が、永遠の命に至るのか、永遠の滅びに至るのか、そのカギは、わたしたちの罪がきちんと償われたか、贖われたという一点にかかっています。主イエス様は、十字架にかけられ、三日後にお蘇りになられました。主イエス様が「わたしは復活であり命である」と言われたのは、その三日後の復活のこと、つまり、わたしは将来、復活するといっているのではありません。主イエス様は、今、現在、わたしは復活であり命だと言われました。聖書にある手紙を13通も書いた初代教会の指導者の使徒パウロも「主イエス様を信じる者は、新しく生まれる」と、繰り返し言っています。 主イエス様を信じるものは、もうすでに新しく生まれているというのです。主イエス様を知らない命、死んで滅びてしまう命ではなく、死んでも滅びることのない命を持っているのです。そそして、この命、また復活は、主イエス様ご自身なのです。 4、 ヨハネの手紙1、4章8節と16節に「神は愛です」と書かれています。愛そのものである神、愛そのものであられる主イエス様を信じる人は、すでに神の愛を受けています。そしてその愛がその人のうちにもあると、ヨハネの手紙1には書かれています。同じように、復活そのもの、命そのものである主イエス様を信じ受け入れる人は、すでに新しい命、復活をその内に頂いているのです。 このことは、主イエス様が、十字架によってわたしたちの罪の贖いをなされたことと切り離すことが出来ません。主イエス様を信じるならすべての罪は許されます。わたしたちの心は罪から命へと方向を変えます。悪ではなく善に向かうように変えられます。この世で生きる人生が新しくされるのです。神様の子供となり、たとえ死んでも罪の刑罰としての滅び、死を味わうことがありません。魂、霊に関わる命が新しくなったということは、体もまた新しくされていると言うことです。魂と体は一体だからです。わたしたちは、滅びに至る体でなく、永遠の栄光、永遠の命に至る体をすでに頂いているのです。 けれどもマルタもマリアも、まだそのことに気づいていません。この後のラザロが甦らされた奇跡は、主イエス様が復活であり、命であることを人々に知らせるためのしるしであったのです。 死は、わたしたちの本当に身近なところにあります。その死に向かって、主イエス様は宣言されます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」そしてわたしたちに問いかけます。「あなたはこのことを信じるか。」 イエス・キリストは、死の意味、性質を根底から変えて下さるお方です。主イエス様は、復活です。命です。「死んでも生きる」とは、わたしたちが肉体の死の、そのあとに新しい命、永遠の命を受けていることです。「生きていて、わたしを信じるものは、決して死ぬことがない」とは、今、生きているわたしたちの内にすでに新しい命、永遠の命が息づいていることを示します。主イエス様はわたしたちに問うておられ、また新しい命へとにわたしたちを招いておられます。「あなたはこのことを信じるか」 祈ります。 天におられる尊き主イエス・キリストの父なる神。感謝いたします。主イエス様はイースターの日にお蘇りになられ、今も生きておられます。どうか、わたしたちが、また一人でも多くの人が復活であり命である主イエス様と深く結ばれるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2023年4月30日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書11章17節~32節「主イエスは復活であり命」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
先週は、11章1節から始まりましたラザロの復活の物語の二回目です。先週の週報には27節までと予告していましたが、32節までお読みしました。さて今朝の御言葉には、このラザロの復活物語の急所とも言うべき中心聖句が記されています。それは、ただ今お読みしました25節と26節の主イエス様のみことばであります。
25節26節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ラザロの一家は、おそらく両親が先になくなっていたと想定されますので、マルタ、マリア、ラザロという三人兄弟は、親のいない貧しい中をこれまで助け合って暮らしてきたのだと思います。おそらく年長のマルタには、わが子をなくした母のような気持ちもあったことと思います。主イエス様は、愛する者の死に直面し、そしてその愛する者の死を嘆き悲しんでいるマルタに向き合ってくださいまして、この御言葉を語って下さいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
わたくしは教会に通い始めてすでに46年が経ちます。その間に、自分の両親をはじめ、幾人かの身内の死に直面しました。また、教会の兄弟姉妹の葬儀にも参列しました。牧師になってからは葬儀の司式をすることになりました。そこでは人々の前で、ご遺族の前で、聖書の言葉に向き合って説教をしなければなりません。これまで以上に、死というものをまじかに体験することになりました。詳しく数えたわけではありませんが、20回以上は葬儀の司式をしていると思います。多くの方の死を目の前にし、そして自分自身の死も決して遠くはないという年齢になってきました。
けれども、正直に言いますけれども、いまだに、「死ぬ」ということが良くわからないというのが正直な気持ちであります。もちろん聖書の教えはわきまえております。けれども、死が何かということは、経験して見なければわからないのではないかと思うのです。いたずらに恐れても仕方がないし、一方で、見えをはって、わたしは死ぬことなんか少しもこわくない、主イエス様に早く会いたいなどと言ってみましても、本当にそう思っているかと問われると心もとないのです。死ということ、いつかは死ぬということを、何となくやり過ごして今に至っているのが現実です。しかし、主イエス様にとりまして、私たちの死は、決してひとごとではなかったのです。わたしたち自身が思う以上に差し迫ったことであります。それは主イエス様にとって、まなじりを決して対処される出来事であります。
先ほどお読みしました御言葉のすぐ先、33節には、主イエス様はラザロの死を前にして、「心に憤りを覚え興奮された」と記されています。ここで「憤りを覚え」と訳されている言葉は、鼻息、あるいは馬がいななくような激しい怒りを現わすという言葉です。興奮されたという言葉は、もともとは体を震わすという言葉です。
わたしたちは、自分の知っている人の死だけでなく、多くの人の死を目の当たりにしました。たとえば神戸や東日本の震災、あるいは熊本地震も含めて多くの災害や戦争や疫病があり、何千何万という方が一度に亡くなられました。それだけではない、この世界の歩み、わたしどもの知りうる限りの世界ですけれども、一体何名の方が、死なれたのでしょうか。そして実は、その死の一つ一つには数では現わすことのできない固有の悲しみがあります。主イエス様は、ここでその一人一人の死、わたしの死、あなたの死に立ち向かってくださるのです。憤り、体を震わせ、力を込めて、そしてはっきりと宣言なさいます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
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17節にこう書かれています。
「17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」
ここベタニア村から東に30キロ離れたヨルダン川の向こう側から、主はおいでになりました。17節の時点では、未だ主イエス様は、ベタニア村には入っておられません。おそらく村の入り口がすぐ目に見えるところにおられます。そこに、ラザロの姉妹であった、マルタという女性が出迎えます。家には、マルタの姉妹のマリアがいて、葬儀に来る客の相手をしていたのでしょう。
ここで当時のユダヤの葬儀の様子をお話しします。葬儀は、大体、七日間を費やしたそうです。死んだその日に、行列を作って遺体を墓に葬りに行きます。そのとき、泣き女や笛や太鼓の楽隊などを伴い、棺を先頭にして墓地へ行きます。崖や丘をくりぬいて作った穴に安置する仕方の墓地です。墓に葬った後、皆がもう一度、家に帰って来て、近親者を囲み、何日間も家族を慰めるのです。そのとき、家族のものたちは、もてなしは他の人に任せて、皆に囲まれて座って泣いているのが普通であったようです。
ユダヤの人々が当時普通に持っていた考え方は、死後三日間は、再び生き返る可能性があるということでした。魂が、元の体に帰りたいと三日間は死者の遺体のまわりから離れない、そう考えていたそうであります。そして四日目になると、もう生き返らない、それが明確になる。主イエス様が来られたのはちょうど、その四日目で、遺体は腐敗が始まって臭くなってくる、そういう時でありました。
ラザロの住んでいた家には、ユダヤ人たちが大勢集まっています。ベタニア村は、エルサレムから、15スタディオン、2.7キロです。都エルサレムからも人々が集まっています。このユダヤ人たちは必ずしも主イエス様の弟子であるとかいうわけではありません。ユダヤのお葬式には特別に深い関係でない人、ときには通りがかりの人も集まってくるのです。45節ですが、このあとラザロの復活、蘇生を自ら見たユダヤ人たちの多くは主イエス様を信じたとあります。それまでは、彼らは主イエス様を信じていなかったのです。そして彼らの中に、この死人の蘇りという奇跡の一部始終をエルサレムの指導者であるファリサイ派に知らせた者がいて、結局、これが主イエス様の十字架刑につながってゆきます。
さてマルタは、四日遅れで到着された主イエス様にこう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
これは主イエス様が四日目になってやっと訪れたことを非難している言葉のようにも聞こえます。しかし、ここは単純に受け取って、主イエス様には病を癒す力があると信じていましたし、今でも信じています、そういう意味にとって良いのではないかと思います。ラザロは死んでしまいました。けれども、しかし、それでも、あなたが神様に願って下さるなら願うことは何でも適うという信仰に変わりがありません、そう言っているのです。彼女は、すでに主イエス様を前にして、自分は、ラザロの死を受け入れている、すくなくとも主イエス様にはそう言いたい、そう言う気持ちでありました。
この後、主イエス様は、姉妹のマリアをも呼びよせ、悲しんでいるマリアに会って下さいます。マリアもまた、主イエス様に同じことを言っています。32節の後半です。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」
そう言いながら、マリアは主イエス様の足元に平伏して礼拝の姿勢を取りました。マルタは、さらに言葉を続けています。22節です。「22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」このような悲しいことが起こっても、主よ、わたしはあなたを信じます。信じ続けますというのです。愛する者が死んでしまったあとで主イエス様がやって来られた。確かにそれは、すぐに受け入れることができない現実であったと思います。信仰そのものが揺らいでしまうかもしれない危機がそこにあります。しかし人間の側は、それを何とかして受け入れようとします。マルタもマリアも、今一度自分の心に向かってこう言っていおるのかも知れません。
しかし、わたしたちは主イエス様が、ベタニアに向かうとき、12弟子にこう言われたことを思い起こさなければならないと思います。「わたしたちの友ラザロが眠っている、わたしは彼を起こしに行く」
主イエス様は、わたしたち誰もが立ち向かうことが出来ない、降参するしかない死、わたしたちの最大の恐れや苦しみの源である「死」にいま立ち向かっておられるのです。しかし、マルタもマリアも、主イエス様、あなたを信じますと言いながらも、目の前で死者を生き返らせるというようなこと、まさかそこまでは出来ないだろうと思っていました。「彼を起こしに行く」といわれた主イエス様を目の前にしても、やはりこの世の常識にとらわれておりました。主イエス様は、そのようなわたしたちの心を打ち破ってくださいます。
3、
23節で主イエス様はマルタに告げます。
「あなたの兄弟は復活する」
マルタは、いいます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」
旧約聖書のダニエル書12章1節2節にこのような御言葉があります。「1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」
そして次の3節に続きます。
「3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」
しかし当時の祭司階級や裕福な人々に支持されていたサドカイ派は、「復活はない」と主張し、一方ユダヤ教の主流派であり学者の中心であったファリサイ派は「復活はある」と主張しました。
そして多くのユダヤ人たちは、世の終わりに信仰をもって死んだものは永遠の命を受け、必ずよみがえる、復活すると信じていました。
マルタが、主イエス様の言葉を聞いて思ったこともそうでした。今は無理でも、終わりの日には復活する、そのときまで、信仰を守って待たなければならない。そう思いました。
わたしたちは、主イエス様が「わたしは死者を復活させる、復活させることが出来る」とおっしゃられないで、「わたしは復活である」「わたしは命である」と言われたことに注意しなければなりません。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
わたくしたちが、毎週唱えております使徒信条の終わりの方に、こうあります。主イエス様の再臨と最後の審判の箇条です。「かしこより来られて生きるものと死ねるものとをさばきたまわん死んだ者もまた裁かれる、つまり神様の裁きは、死ぬということでは終わらない、死を超えた裁きがあります。それは永遠の滅びであります。
死を超えた永遠の滅びに対して、死を超えた永遠の命があります。霊魂と肉体の両方が、永遠の命に至るのか、永遠の滅びに至るのか、そのカギは、わたしたちの罪がきちんと償われたか、贖われたという一点にかかっています。主イエス様は、十字架にかけられ、三日後にお蘇りになられました。主イエス様が「わたしは復活であり命である」と言われたのは、その三日後の復活のこと、つまり、わたしは将来、復活するといっているのではありません。主イエス様は、今、現在、わたしは復活であり命だと言われました。聖書にある手紙を13通も書いた初代教会の指導者の使徒パウロも「主イエス様を信じる者は、新しく生まれる」と、繰り返し言っています。
主イエス様を信じるものは、もうすでに新しく生まれているというのです。主イエス様を知らない命、死んで滅びてしまう命ではなく、死んでも滅びることのない命を持っているのです。そそして、この命、また復活は、主イエス様ご自身なのです。
4、
ヨハネの手紙1、4章8節と16節に「神は愛です」と書かれています。愛そのものである神、愛そのものであられる主イエス様を信じる人は、すでに神の愛を受けています。そしてその愛がその人のうちにもあると、ヨハネの手紙1には書かれています。同じように、復活そのもの、命そのものである主イエス様を信じ受け入れる人は、すでに新しい命、復活をその内に頂いているのです。
このことは、主イエス様が、十字架によってわたしたちの罪の贖いをなされたことと切り離すことが出来ません。主イエス様を信じるならすべての罪は許されます。わたしたちの心は罪から命へと方向を変えます。悪ではなく善に向かうように変えられます。この世で生きる人生が新しくされるのです。神様の子供となり、たとえ死んでも罪の刑罰としての滅び、死を味わうことがありません。魂、霊に関わる命が新しくなったということは、体もまた新しくされていると言うことです。魂と体は一体だからです。わたしたちは、滅びに至る体でなく、永遠の栄光、永遠の命に至る体をすでに頂いているのです。
けれどもマルタもマリアも、まだそのことに気づいていません。この後のラザロが甦らされた奇跡は、主イエス様が復活であり、命であることを人々に知らせるためのしるしであったのです。
死は、わたしたちの本当に身近なところにあります。その死に向かって、主イエス様は宣言されます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」そしてわたしたちに問いかけます。「あなたはこのことを信じるか。」
イエス・キリストは、死の意味、性質を根底から変えて下さるお方です。主イエス様は、復活です。命です。「死んでも生きる」とは、わたしたちが肉体の死の、そのあとに新しい命、永遠の命を受けていることです。「生きていて、わたしを信じるものは、決して死ぬことがない」とは、今、生きているわたしたちの内にすでに新しい命、永遠の命が息づいていることを示します。主イエス様はわたしたちに問うておられ、また新しい命へとにわたしたちを招いておられます。「あなたはこのことを信じるか」
祈ります。
天におられる尊き主イエス・キリストの父なる神。感謝いたします。主イエス様はイースターの日にお蘇りになられ、今も生きておられます。どうか、わたしたちが、また一人でも多くの人が復活であり命である主イエス様と深く結ばれるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。