2023年02月19日「メシアのしるし」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

ヨハネによる福音書 9章13節~34節

メッセージ

2023年2月19日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書9章13節~34節「メシアのしるし」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 今朝、わたしたちに与えられました御言葉は、主イエス様が生まれつき目の見えない一人の人によってご自身の尊い御業を現わされたと言う物語の第二回目であります。

 ヨハネによる福音書は9章の全体を当てて、一人の目の見えない人の癒しの物語を書き記しています。実は、一人の人の癒しの物語が、こんなに長く大きく扱われるということは、新約聖書の中でも、それほど多くありません。むしろ珍しいと言ってもいいのであります。主イエス様のいない場面が長く続いているのには、大切な理由がありました。それは、目の見えない人の目が開かれて見えるようになったという奇蹟が、主イエス様と言うお方が一体何者であるのか、主イエス様は誰なのかを示すための非常に重要な出来事であったからです。

 当時のユダヤ人たちは旧約聖書の御言葉を信じて、「救い主の到来」を待ち望んでいました。そのメシア、救い主のしるしの一つが、この目の見えない人の目を開く、見えるようにするという奇蹟でありました。

 旧約聖書の中には、世の終わりの救いの時に、メシア、救い主がおいでになり、目の見えない人の目を開けて見えるようにして下さるという、そういうメシア預言が少なくとも四か所、告げられています。そして、主イエス様ご自身も、その内の一か所でありますイザヤ書42章をナザレの会堂で説教された際に語っておられました。

 ルカによる福音書によりますと、主イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったあと、ガリラヤから伝道を始められたのですが、初めにナザレにあるユダヤ教の会堂、シナゴーグでイザヤ書を説教なさいました。ナザレの会堂に入ると、おそらく人々から求められて講壇に立たれます。そして、まさしくこれは、その日に読むべき個所であったと思われますが、預言者イザヤの巻物を受け取り、それを朗読なさいました。こう書かれています。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」

20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。ルカによる福音書4章16節から21節です。

 実はこのときの聖書朗読は、イザヤ書61章1・2節と42章7節の両方を合わせて読まれたものであります。ここで告げ知らされている「目の見えない人の視力回復」というメシア預言は、ここで主イエス様がお読みなったイザヤ書42章7節のほかに、旧約聖書全体で少なくとも三か所あります。まず、同じイザヤ書の35章5節です。「「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」、同じくイザヤ書29章18節「18 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。」

そして詩編146遍8節です。この御言葉はイザヤ書の引用であると思われます。7節からお読みします。

「とこしえにまことを守られる主は 7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。」

 このように、盲人の眼が開かれると言う奇蹟は、三度も四度も旧約聖書に示されているメシアのしるしでありますから、主イエス様が本当にこれを行われたのかどうかということは、当時の人々にとっては切実な問題でありました。

 そう言う背景がありますので、主イエス様が、昨日まで道端に座って物乞いをしていた目の見えない人を、人々の見ている前で見えるようにされたのを見た人々は、直ちにこの人をファリサイ派の人々のところへ連れて行ったのです。ファリサイ派の人々といいますのは、当時のユダヤの議会を構成する有力な人々であります。またその中には、律法に精通している律法学者もおりました。

3章にニコデモというファリサイ派の教師が夜こっそりと主イエスのもとを訪ねて教えを乞うと言う物語がありました。このときファリサイ派の多くの人は、主イエス様について、自分たちのよって立つ基盤を覆してしまう危険人物とみていましたが、少数の人々は、主イエス様を旧約聖書の預言している救い主ではないかと真剣に考えておりました。

 人々は、とにかく、大変なことが起きた、単に奇跡的なことが起きたということではなく、メシアが到来したのではないかとどよめきたったのです。彼らは、主イエスという人物は本当にメシアではないだろうかと思い、当時の宗教指導者であるファリサイア派の人々にはっきりと判断してもらいたいと願ったのであります。

これは一種の裁判ですけれども、主イエス様を裁判にかけるというのではなく、目の見えない人が見えるようになると言う奇蹟、しるしが、主イエス様によって本当に起こされたのかどうかをはっきりさせるための証拠調べでありました。

 わたしたちは、この裁判が初めから主イエス様を否定するための結論ありきのものであったと考えてはなりません。それは16節に「彼らの間で意見が分かれた」とありますように、少なくとも裁判の初めでは、ファリサイ派の人々も真剣に真実を知りたいという思いがあったのです。しかし、審議の中で、そのような声は打ち消されてしまいます。この盲人の目が開かれるという奇跡がなされる以前に、彼らは一度は、主イエス様をメシアではないと否定していました。22節にこう書かれています。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」

 けれども、今朝の個所ではもう一度議論が再燃いたしました。これは主イエス様の評価を巡って、ユダヤ教の中に深刻な対立があったことを現わしています。主イエス様は、もしかしたらメシアではないか、神の遣わす救い主ではないかと言う声があったのです。しかし、そうだとすれば自分たちの立場からしますと大きな変革を求められる出来事になります。だからこそ、ユダヤ教の指導者たちは、激しい議論や葛藤の中で、一度はこう決めていたと言うことです。それにはやはり政治的な思惑があったと思います。イエスが、メシアであるという考えをユダヤ教の教会から一掃しなければならない、その声が大きくならないうちに、芽の段階から摘み取らねばならないと決めていたのであります。そう言うときに、大変なことが起きた、あのイエスという人間が目の見えない人の目を開けたという情報が寄せられたのです。人々は見えるようになった人をファリサイ派の人々に連れて行ったのであります。もう一度、主イエス様についての評価を行うためであります。そして先ほどお読みしまた御言葉の通りですが、裁判の結果、これまで通りの方針通りでよい、改めて、そう決めたのであります。そして、目が見えるようになった人をユダヤ教の会堂から追放して事柄を隠ぺいしようとしたのであります。

2、

 今朝の20節に及ぶ長い箇所には、主イエス様は登場しておられません。主イエス様を主語とする言葉はありません。けれども、やはり陰の主役は主イエス様であることは間違いありません。

12節までのところですが、主イエス様は、見えない人の眼をお開きになられる際に、ご自身の唾で泥をこねてその人の目に塗り、シロアムの池で洗うように命ずることによってそれを行われました。それは、このことが決して偶然でなく間違いなく主イエス様の業であり、このお方を信じて従ったときに恵みが与えられるという仕方で奇蹟を行われたことを示すためです。けれども残念ながら、この人は主イエス様を実際に見ることがないままファリサイ派の人々のところへ連れて行かれました。また、主イエス様ご自身もその奇蹟の結果を確かめることがないまま、そこを立ち去って行ってしまわれたのであります。従って、今朝の御言葉では、ファリサイ派の人々と目を明けてもらった人、その両親とのやり取りだけが語られています。

 主イエス様は、このあとの35節から再び登場されます。目を開けていただいた人は、ユダヤ人たちの前で、主イエス様とその御業について証しをしました。そして、それを決して曲げなかったのでユダヤ教の会堂から追い出されることとなりました。34節に「彼を外に追い出した」と記されています。これは、すなわち、会堂からの追放です。ユダヤ教から破門されたということであります。28節の「お前はあの者の弟子だが我々はモーセの弟子だ」という彼らの言葉もそれを裏付けています。このことがはっきりしたあとで、主イエス様はその人を訪ねて下さるのであります。目が見えるようになった人は、このとき、初めて主イエス様のお顔を見て、話をする、そして明確に主イエス様への信仰を告白するのであります。

目が見えるようなったとたんにファリサイ派から尋問され、両親までもがそこに引き出されましいた。自分を癒してくれた人がイエスという名であることは知っていましたが、彼はまだそのお方に会ったことはなかったのです。彼は、主イエス様にお会いすることを願っていたでしょう。この間まで、道端で座って物乞いをしていた人が、突然、恵みをいただきました。しかし、ことはそれでは終わらずに、彼はユダヤ教の権威者たちの前に引き出され、証言するようにと命じられたのであります。この人は主イエス様に召し出されて訓練を受けて来た12弟子のような人ではありません。主イエス様に目を留めていただき、特別な恵みを受けた人ですけれども、この時はまだ主イエス様を見たこともなければ、教えを受けたこともなかったのです。

わたしたちは、彼の信仰が少しずつ成長してゆく有様を見ることが出来ます。お前は、あの人をどう思うのか、こう問われて、彼は答えます。「あの方は預言者です。」次に彼の両親が呼び出され、そして三度目の裁判でもう一度、本人が呼び出されます。

「神の前で正直に答えなさい。」主イエスによる奇蹟は本当にあったのか、そしてお前はあの人をどう見るのか」

主イエス様のことを否定するまで、この尋問は限りなく続くように、この人には思われたはずです。それでも、彼は「もう何度も話した通りです。間違いありません、なぜまた聞こうとされるのですか。」と真実を証しし続けたのです。

注目しなければならないのは27節の最後の言葉です。彼はこう言っています。「なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」

あなたがたも、と言っているのは、「わたしは、あの方には弟子たちがいるのを知っています。あなたがたがこれほどしつこく聞くと言うことは、あなたがたもそうなりたいのですか。」という意味であります。同時に、自分は、主イエス様について確信を持っているので、「このわたしのように弟子になる」という意味でもあったと思います。この人は、もうここでは、モーセの弟子と自称するファリサイ派と対抗するイエスの弟子、キリスト教会の代表のように語っているのです。

彼は、この間、心細かったに違いないのです。彼の味方をするものは誰もいないのです。しかし、この人は、確かにイエスと言う人に目を留めていただき、唾で作った泥を塗っていただき、シロアムへ行きなさいと御言葉を頂きました。その通りにしたときに、彼の眼が見えるようになった、この誰も否定できない事実を語り通しました。主イエス様は、確かにこの場に見える形ではおられなかったのですが、しかし、彼の体験、彼の受けた恵みにおいて主イエス様は、確かにおられたのです。その心のうちに見えない仕方でいて下さり、彼を支えて下さったのです。どうして、これまで打ちひしがれたような人生を送ってきた人が、これほどに強くなれたのか、主イエス様が彼の心の内に共にいて下さった、それ以外には無いのです。

3、

 最初に、主イエス様がこの人に目を留められた時、弟子たちがこの人について、こう尋ねました。

「。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 「神の業が現れる」これは単に、見えない人の眼が肉体的、物理的に見えるようになるということだけではないと思います。むしろ、道端に座り込んでいて、希望も光も見失っていた一人の人が、主イエス様によって、癒され、肉の目だけでなく霊的な意味でも神の恵みをいただいたことを指すのです。神の恵みを受け、心に救い主がいて下さるように変えられたのです。ファリサイ派の人々の前で主イエス様について真実の証しをする、自分が主イエス様の弟子と言われることを恥としないようにまでなった、これこそが神の御業の中心ではないでしょうか。

 この人は世の人々には見えるものが見えなかった人でした。しかし今や、それが見えるようになったのですが、そればかりではなく主イエス様の恵み、神の御業という、普通の人々が見えないものも見えるようにされたのです。

一方で、ファリサイ派の人々は、その中には本当のことを見ようとした人も少数ながらいたようですけれども、しかし結果として、目を開かれることはなかったのです。主イエス様の真実が見えない、神の御業が見えない。言い換えますと、自分たちの霊的盲目に気がつかなかったのです。

 今、わたしたちは、主イエス様を直接見ることは出来ません。わたくしたちが天のみくにに召された時には、必ず私たちは主イエス様にお会いできます。けれども、地上では主イエス様と顔と顔とを合わせてお会いすることはできません。しかし、聖書の御言葉を告げ知らせられ、聖霊によって心の眼を開かれ、教会の礼拝において伏し拝まれている主イエス様を信じています。信仰の目で確かに見ております。このお方は、わたしたちの心も体も癒し救って下さるお方です。私たちの罪の赦しを十字架と言う仕方で完成されたお方です。わたしたちはこのお方によって罪の赦しを受け、救いを受け、力をいただきました。私たちもまた、この目が見えなかった人のように、人々の前で、ときにはこの世の権力を持つ人、上に立つ人々の前で主イエス様とその御業を証しすることを求められることがあるかもしれません。

 しかし、どんなときでも、わたしたちには主イエス様が見えない仕方で共にいて下さいます。誰もこのことを否定することは出来ません。そして主イエス様は、今、そのお姿は実際には目には見えませんけれども、神の業をはっきりと私たち一人一人に現わしてくださいます。主イエス様は決して不在ではないのです。主イエス様はインマヌエルとも呼ばれるお方です。わたしたちと共にいてくださる、このことは決して変わることがないのであります。感謝を致します。祈ります。

天地万物の造り主にして。御子イエス・キリストの父である恵みの神、御名を崇めます。今年一年の間のあなたの御業を一つ一つ数えて、一年を終えようとしています。感謝を致します。新しい年が明けて二か月が過ぎようとしていますが、銅かこの年も、真実の悔い改めと新しい心を持って主に従ってゆくことが出来ますよう、恵みを与えて下さい。光であり、生きた水であり、命の源である主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。