2023年02月05日「命をくださるキリスト」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 8章48節~59節

メッセージ

2023年2月5日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書8章48節~59節「命をくださるキリスト」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 ヨハネによる福音書の御言葉を聴き続けて、今朝はようやく8章の終りのところに至りました。8章の終りと言いましたけれども、8章だけではなくて、実は7章8章と二つの章をまたがって記録されている主イエス様とユダヤ人たちの長い論争が、ここでやっと終わりを迎えています。初めに「ようやく」と言いましたのは誇張でもなんでもなくて、わたくしの正直な思いであります。

ヨハネによる福音書には、主イエス様とユダヤ人たちとの対話や論争が多く記されます。そしてそれらは非常に神学的であります。それだけによく注意して読まなければならないし、このような論争の御言葉は、正直言いまして説教に骨が折れる、そう言う印象を持っています。それで、ようやく8章の終りに来たという言い方をいたしました。

8章30節には「多くの人々がイエスを信じた」と書かれていました。ここに集まっているユダヤ人たちは、一度は主イエス様を信じた、そう書かれているのです。けれども、主イエス様が次第に、ご自分の本質、つまりご自身が神の子であるということを明らかにしてゆくと共に、彼らは主イエス様から離れてゆきます。それだけでなく、敵意さえも抱くようになってゆくのです。

先ほど、お読みしました御言葉の最後の8章59節にはこう書かれています。

「59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」

ユダヤ人たちは、ここでは単に感情に振り回されるようにして激しく怒りたまたまそこにあった石をおもわず投げつけようとしたということではありません。これはユダヤ人の律法に定められた行為です。7章の終りと8章の本文の間に姦淫の女の物語が、間奏曲のようにおかれていました。あのサマリヤの女は、ユダヤ人たちから「この女は、モーセの律法に従って石打の刑に処せられるべきだ」といわれて、主イエス様のもとへと連れて来られました。石打の刑は、当時のユダヤに於いては死刑であり、最高刑でありました。姦淫の女と同じように、主イエス様もまた神の律法に違反し神を冒涜したという罪で処刑されようとしているのです。

初めは好意的に迎え入れられていた主イエス様ですけれども、ここでは激高したユダヤ人たちから裁かれ、石打の刑を受けて殺されそうになっています。8章の最後は、まさしくそう言う場面です。主イエス様とユダヤ人たちの関係はここでもう決定的なものとなった、そう言ってよいのです。

もちろん、主イエス様は、ここで殺されてしまってはなりません。まだ主イエス様の時は来ていないからであります。主イエス様はすぐに姿をくらまし、神殿の外へと出て行かれました。父なる神さまが主イエス様を守ってくださったであります。

2、

さて今朝の48節からの御言葉は、ユダヤ人たちが主イエス様に向かって、実に侮辱的な言葉を投げかけたところからはじまっています。

「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」

ユダヤ人たちが「あなたはサマリヤ人だ」と言いましたのは、主イエス様がガリラヤのナザレ出身のユダヤ人であることを知らなかったということではありません。サマリヤ地方は、もともとは北王国イスラエルの首都でありましたが、北王国は南王国ユダに先だって、北の大国アッシリアに侵略されて、混血が進みました。それだけでなく、彼らの信仰は、正統的なユダヤ教から大きく変わってしまい、エルサレム神殿ではなくゲリジム山の独自の神殿で異教の礼拝とまじりあったような信仰生活をしていました。

エルサレム神殿にきているユダヤ人にとって、「あなたはサマリヤ人だ」と呼ばれることは、まことに人格を破壊されるようなことでありました。それに加えて、「悪霊に取りつかれている」と言うのですから、これ以上の侮辱のことばはないというような決定的なことを言っている、そのような言葉であります。

さて、わたしたちは、このように教会に通っている、イエス・キリストを信仰しておりますけれども、そうではない人たちから世の人々からどのように見られているのでしょうか。周りの人たちはいつもわたしたちの信仰についてはあまり気にしてしないで普通に付き合って下さると思います。けれども、人々の関心が信仰とか宗教に向けられました時に、わたしたちが教会に通っていることから、何か、意見を求められるということがあると思います。あるいは、キリスト教の先進国ではキリスト教が非常に大きな存在になっていますので、これを批判する思想や意見とかいうものを大変発達しています。そういう欧米のキリスト教批判、教会批判の言葉をどこかで、聴きまして、これはいいと、日本のキリスト者にぶつけて来ると言うこともあると思います。日本人は同調圧力が強い、違ったものを排斥する傾向があると言われます。そういう意味で、わたしたちは世の人々から一種批判的と言いますか、ときには侮辱的な言葉をかけられるということがあるかもしれません。

今朝の御言葉では、すでに主イエス様がわたしたちに先だって、不当な悪口を投げかけられておられます。「あなたはサマリヤ人だ」「あなたは悪霊に取りつかれている」、主イエス様にとっては全く見当違いな不当な言葉です。

主イエス様は、お答えになります。49節ですが「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。」

そして50節では、「 8:50 わたしは、自分の栄光は求めていない。」とお答えになりました。同じようなやり取りは、この後、52節から54節にも繰り返されています。54節の主イエス様の御言葉をもう一度お読みします。

「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、」

人々から侮辱されたとき、主イエス様は自分の栄光は求めないとお答えになりました。主イエス様は、はっきりと彼らの誤りに反論なさいますけれども、それはご自身の栄光を求めるためではないと言うのです。わたしたちもまた自分の信仰を侮辱されたときには、きちんと反論することが必要です。けれども、それは自分自身がひとびとから辱められたくないからでもないし、名誉を受けるためでもない、そうではなくて、ただ神様に栄光が帰せられるようにというという思いから出るものであるべきなのです。神様は、わたしたちをきちんとそれに見ていて下さいますし、そして最後に神様が正しい裁きをしてくださいます。わたしたちの側に何か悪いことがないのであれば、ここで主イエス様が答えられたように、誤りがあれば販路司、その上で、わたしたちもまた神様にすべてをゆだねれば良いと思います。

わたしたちは、福音の恵み、喜びについて証しを致します。しかし、それは自分自身の栄光を求め、人々から自分が何か偉い人であるかのように思われるためではありません。そうではなく、こんなわたしを主イエス様が救って下さった、助けてくださった、私たち自身が小さくされればされるほど、神さまの御名が崇められる、そういう仕方で証しをするのです。そして人々と自分とを比較して、どちらが優れているかということではない、そこに何かよりどころを求めるべきではないのです。最後の神さまの正しい裁きにこそ、心を向けるべきです。世の人々がどんなに私たちを侮辱し蔑むと言うことがありましても、神さまはわたしたち大切に思い、わたしたちのことをきちんと見ていてくださいます。その神様にご栄光を帰すべきだと思うのです。

 さて、今朝の御言葉の中で「はっきり言っておく」という主イエス様の言葉が二度出てまいります。一度目は、51節です。主イエス様はこう言われました。

「51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」

二度目は58節です、こう言われます。

「58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

この「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、前にもふれたことがありますが、「アーメン、わたしはあなたたちに言う」こう言う言葉です。58節の原文では「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」と書かれていて、アーメンと言うヘブライ語がギリシャ語に音訳されて、二度も重ねられています。

こういうところをどう訳すのか、新改訳聖書は直訳的に、「まことにあなた方に告げます」あるいは、「まことにまことにあなた方に告げます」と訳します。カトリックのフランシスコ会訳は「よくよくあなた方に言っておく」と訳します。

 いずれにせよ、主イエス様が、大切なことを宣言なさる、あなたがたに特に聴いてほしいという言葉をこれから語るから、そういう言葉です。

まず、第一のものですが、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」

このような約束の言葉です。主イエス様は父なる神とご自分との深い結びつきを言われた後に、わたしの言葉を守りなさい、そうすれば決して死ぬことがないと宣言されました。この言葉は、その後の52節でユダヤ人たちによって繰り返されます。「「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。」

 「決して死ぬことはない」、これは不老不死の体を得ると言うことではありません。もしそうであるなら、もはや、この世に生きる普通の人間ではなくなってしまいます。元の言葉は「死を見ることはない」という言葉です。死を見ない、つまり体験しないというのです。もちろん確かに死ぬことは間違いないのですけれども、それは本当の死ではない。主イエス様を信じる人は、死においてひと時、肉体と魂、霊魂と分離しますけれども、霊魂はただちに主イエス様のもとにゆき、やがて、終わりの日にもう一度体と結ばれるのです。これまでとは違う命、新しい命を得るということです。もちろん死ぬと言うことを知っているし、認識しています。けれども、それに囚われてしまって、どうしよう、苦しい、つらいといつも、それに囚われてはいません。なぜなら、主イエス様は、わたしたちが本来担うべきであった、罪の刑罰、裁きとしての死を、十字架の上ですでに、味わってしまわれたからです。わたしたちは主イエス様の十字架、そしておよみがえりにおいて、罪を赦された、それで、死は、もはや神の怒りや呪いを受けることではなくて天国の入り口になりました。私たちは主イエス様への信仰によって、満ち足りて、平安の内に死ぬことが出来ます。死と言うものの背後にあった、恐怖や不安や恐れはもはやないのです。主イエス様が新しい命をわたしたちにくださったのです。空しい命ではなく、死ぬことのない命、永遠の命をくださったのです。

 「わたしの言葉を守るなら」と言われていますので、それでは主イエス様の御言葉を完全に行えないわたしたちは、やっぱり苦しみながら死ぬのかと思うかも知れませんが、そうではありません。この「守る」の意味は、見張っているとか閉じ込めておく、逃がさないと言う意味です。主イエス様の御言葉、教え、そしてまた主イエス様についての教え、これは教会の教理といってもよいかもしれませんが、これらの主イエス様の言葉のすべてを心の中にしっかり閉じ込めて、離すことがないそう言う人は、決して死を見ない、こう言っておられます。

御言葉と共に、お働きになる聖霊がわたしたちのうちに住んでいて下さいます。聖霊の神様が、主イエス様の御言葉をしっかりと心に蓄えていてくださるので、わたしたちの肉体は医学的に死ぬと言うことはありましても、わたしたちは死を見ない、死を味わわない、これが主イエス様の大切な約束です。

4、

 さて、二度目の「はっきり言っておく」の後に続いていますのは、「『アブラハムが生まれる前から『わたしはある』』という主イエス様の宣言であります。56節で、アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた、そしてそれを見て喜んだ」と主イエス様が言われました。そうしますと、聖書に精通しているユダヤ人たちは、それはおかしい、あなたは50才にもならないのみアブラハムを見たのか、アブラハムにあったのかと反論致しました。

 50歳にもならないのにと言うのは、当時の50歳はレビ人が神殿で奉仕する努めを終える、つまり定年引退の年齢です。今で言うなら牧師の定年70歳に匹敵します。神に仕える勤めを十分に達成していない、そんなあなたに何が分かるのか、そう言いたいのですね。

 しかし、主イエス様は、わたしはアブラハムと言うユダヤ民族、イスラエルの創始者、最初の先祖よりも前に、すでに存在していたものだとおっしゃいました。それは神の子としての主イエス様の超越性、神のご性質をここでお語りになったのです。

アブラハムが世界の祝福の源となるという、この約束は、ユダヤ人であり、アブラハムの子孫としてお生まれになった主イエス様によって実現致しました。また、霊的イスラエルであるキリストの教会が世界の祝福の源となると言うことであります。アブラハムが何か具体的な意味で主イエス様の日を見た、味わったということではなく、主イエス様の救いのご計画の中にアブラハムは巻き込まれていた、そしてそのことを知っていたということであります。

わたしたち熊本教会もまた主イエス様の救いのご計画のうちにおかれています。アブラハムと同じように、神の祝福を頂き、その祝福をこの世界に及ぼす源となっています。アブラハムと同じように主イエス様を見ており、主イエス様に期待しているのです。

 58節の「わたしはある」ということばが二重括弧にいれられているのは、これが旧約聖書出エジプト記3章で神様がモーセにお語りになった言葉であることを表わします。出エジプト記3章14節、神さまは、こうモーセに告げられました。「わたしはある、わたしはあるというものだ」。

 主イエス様もまた、このお方と同じお方である、わたしはある、時間を超え、歴史を超えてあるものである。決していないものではなく、ある、おられるお方であると言うのです。

 ユダヤ人たちは、この出エジプト記3章を思い出し、この人は自分を神と等しいものとしていると怒りました。そして神を冒涜するものだとして、石打の刑にしようとしたのです。ここで主イエスさまは、エルサレム神殿を去ってゆきます。このあと、9章では主イエス様は、うまれつき目の見えない独りの人のところへ行かれます。この9章の「見えない人が見えるようになる」という恵みの奇跡を通して明らかになりますことは、見えないのにもかかわらず見えると主張するユダヤ人の姿であります。ヨハネによる福音書の著者ヨハネは、ここで一見信心深そうに見えるエルサレム神殿のユダヤ人と、このあとの9章に登場する目の不自由な人とを対比することによって、ユダヤ人の霊的な盲目を際立たせようとしています。

5、

最後に、54節と55節の御言葉に注目したいと思います。アブラハムを約束の地へと導き出した父なる神様について、主イエス様は、「あなたたちユダヤ人はそのお方を知らない」と言い切っています。ユダヤ人たちは旧約聖書に記されている神の民であり、アブラハムの子孫です。それにも関わらず、主イエス様は、あなたたちはその父なる神を本当には知らないと言われたのです。なぜなら、彼らは主イエス様が神の御子であることを断固として受け入れないからです。主イエス様の父であり、天地万物の造り主である神ご自身が、その独り子である主イエス様を世にお遣わしになられた、このことを抜きにして、天の父なる神様について本当に知ったとは言えないのです。主イエス様が神であることを悟らずして、本当の意味で聖書の神を知ったということはできません。わたしたちは、ユダヤ教の神様も、イスラム教の神様も実は同じお方だ、わたしたちは共通の神を信じているという言い方を時々いたします。けれども、彼らの神は、主イエス・キリストの父である神ではないと言う点で、わたしたちが信じております神様とは違っているということをはっきりと知らなければならないと思います。わたしたちの信じる神様は、主イエス・キリストの父である神です。御子を世に遣わし、罪の償いとなさる、そういう仕方で、わたしたちを愛し救ってくださるお方なのです。

わたしたちは、神の御子である主イエス様を受けいれないものではなく、受け入れるものになりたいと思います。主イエス様の恵みによって、新しい命を頂いて、死の苦しみ、不安、恐れから解き離される平安と喜びをいただきたいと思います。歴史を超えて生きて働かれる神にのみ栄光を帰し、この世の人々にではなく、神様から賜る恵みに心をむけて過ごそうではありませんか。祈りを致します。

祈り

天の父なる神様、あなたは父、子、御霊の三位一体なるお方です。天地の創られる前から永遠におられる方です。その三位一体の愛の交わりの中へとわたしたちを招き入れてくださる恵みの神です。このお方が注いでくださる豊かな愛、祝福の中で、この週も、この月も歩むことが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン