2023年01月22日「いつも喜べ、絶えず祈れ」

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聖書の言葉

テサロニケの信徒への手紙一 5章12節~28節

メッセージ

2023年1月22日(日)熊本伝道所 朝拝説教

テサロニケの信徒への手紙1,5章12~22節「喜び、感謝、祈り」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますよう。

今朝は、わたくしがこの教会に赴任してから続けてきましたヨハネによる福音書の連続講解から一旦離れまして、特別に今年度の目標聖句として掲げていますテサロニケの信徒への手紙1,5章の御言葉に聴きたいと思います。わたくしたち熊本教会でも、多くの教会と同様に年間目標聖句を定めて一年を始めようとしています。礼拝堂の中や、毎週の週報に掲げて一年を過ごします。この目標聖句を定めるということは、大切なことであると思っています。今日は会員総会を開催いたしますけれども、過去の記録を見てみますと、これまでは会員総会の議案の中に年間目標聖句の提案という独立した議案があったようです。しかし、今年度は伝道所委員会の報告の中で目標聖句についても報告し、この受け入れをもって目標聖句を定めたいと思っています。それにはわたくしなりの考えがありまして、やはりこの目標聖句というものは、牧師が群れを牧する、牧会的なことであろうと思うからであります。最終的には会員の了解を得る必要があるとしましても、やはり牧師の主導において定めるべきものであろうと思っています。

 伝道所委員会で協議しながら、与えられた今年度の目標聖句は、すでに週報に掲げてありますけれどもテサロニケの信徒への手紙1,5章16節から18節であります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

今朝は、聖句を中心に12節から22節の段落全体の御言葉に耳を傾けてみたいと思います。

12節にこのように書かれています。「兄弟たち、あなたがたにお願いします」。文語訳聖書は「汝らに求む」と訳しています。パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちに宛てた手紙の最後の総まとめとして、強い思いでこれらの勧めの言葉を書いています。多くの勧めがあります中で、16節から18節のみ言葉は、特に多くの人に愛されているみ言葉であります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

パウロは、18節の最後に「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と付け加えています。このような言葉が付け加えられていることは、他にはあまり見られない特別なことであります。「これこそ」と言う言葉が指しているのは、他の多くの勧めではなく16節から18節前半の三つの勧めのことであることは間違いありません。

 神様を信じ、イエス・キリストの福音に生きようとするときに、一体どうすれば、神様に喜んでいただけるのか、そのようなことをわたしたちは考えるのだと思います。神様は、わたしたちに何を望んでおられるのか、その答えがここには明確に示されております。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

ですから、この御言葉について、これを特別なものとして愛する、大切にすることは正しいことであると思います。三つの勧めという配列もまた覚えやすいものであります。

一方で、この三つの勧めが強調され大切にされる、それは決して間違ってはいないのですけれども、実は、この三つは、他の多くの勧めの中の三つであることも忘れてはならないことだと思います。先ほどお読みしました、手紙の総まとめとして示されている12節から22節には、合わせて10項目以上の勧めの言葉があります。その沢山の勧めの中でパウロは「喜ぶ、祈る、感謝する」という三つを選んで、「これこそ神が・・望んでいることです」と強調しています。けれども、他の勧めもまた、決してないがしろにされてはならないものであると思います。「喜べ、祈れ、感謝せよ」と言う三つの言葉だけを額に入れて飾り、他の勧めには関心を寄せないということであってはならないと思います。

2、

 テサロニケと言う町は、現在はテサロニキと言う名で呼ばれています。ギリシャの首都アテニに次ぐ大都市であり、マケドニア州の州都とされています。パウロの時代においてもテサロニケはマケドニアきっての大都市でした。パウロが、アジアからヨーロッパへと初めて伝道を進めた第二次宣教旅行のとき、最初に上陸したフィリピの次に拠点を置いた場所でありました。使徒言行録17章1節から9節には、パウロはテサロニケに入ると、まずユダヤ人の会堂、シナゴーグを訪ねます。巡回の説教者として旧約聖書からメシアである、救い主イエス・キリストの受難と復活を語ったことが記されています。そこではユダヤ人よりも神を崇めるギリシャ人が多く信仰に入り、かなりの数の町の有力な婦人たちも信じたのであります。

パウロは、その後ぺレアからアテネに行き、そこからコリントへ入ります。このテサロニケの信徒への手紙1の3章2節では、パウロはアテネにいる時に協力者テモテをテサロニケに送ったこと、また6節では、そのテモテが、パウロのもとに今帰ってきて教会の様子を伝えたと記されていますから、この手紙の執筆時期が、使徒言行録17章の記事と一致していることが分かります。

このように手紙執筆の時期が明確にわかる手紙は多くはありません。パウロの手紙は、新約聖書の中に13通残されていますが、その中でも、このテサロニケの信徒への手紙1は、最も早い時期、最初期に書かれたものであることがはっきりしています。推定年代は紀元51年とされています。主イエス様の十字架と復活からまだ20年ほどであります。当時のいきいきとした教会の様子を知ることができるという点でも貴重なものです。

先ほど、ここには14の勧告があると言いましたが、その中で、12節に「あなたがたにお願いします」と言う言葉があり、14節には、「あなたがたに勧めます」と言う言葉があります。12節13節だけが一つの独立した「求め」、あるいは「願い」を示していることが分かります。それは、教会の指導者たちを敬ってほしいということです。「愛をもって心から尊敬しなさい」と書かれています。

当時、パウロやテモテのように使徒あるいは伝道者として各地を巡回する人とは別に、教会にとどまって信徒たちを導き、また、育てる役割の人々が存在していました。すでに、ペンテコステの後のエルサレム教会で、使徒とは別に奉仕者、あるいは執事と呼ばれる存在が教会に立てられていました。このテサロニケの群れにおいても、同じように教会が組織として整えられてゆく過程にあったことが分かります。

「主に結ばれているものとして、労苦し導く人」と書かれています。今日の牧師や教会役員もまた、同じように、教会と会員たちのために働きます。それもまたイエス・キリストにあって、すなわち、主イエス・キリストにお仕えするために、その役割を担っているということができると思います。それぞれの役割を尊重し、教会において指導的な地位にあるものが重んじられるようにとパウロは願っているのです。「愛をもって」と付け加えられていることに感銘を覚えます。裏側から見ると、当時のテサロニケの群れは、この点において課題があったのかも知れません。人々は、「重んじ、尊敬する、それも愛をもってそうするように」と求められています。13節の終わりに「互いに平和に過ごしなさい」と付け加えられているのは、その時のテサロニケの教会の中に、平和を妨げるような主導権争いや、指導者への批判や不満が目に見える形で現れていたのかも知れません。群れの一人一人と群れを導く指導者との間に愛の一致があること、平和があることは教会にとっては大切なことであります。

3、

 さて14節と15節は、教会の指導者への態度ではなく、教会員相互の心構えが記されています。そしてこれは、15節の最後に「お互いの間でも、すべての人に対しても」と付け加えられていますので、教会の内部、教会員相互のというだけでなく、わたしたちが接するこの世のすべての人々に対してもそうすべきこととして記されています。怠けている人、気落ちしている人、弱い人という三種類の人々に対して、それぞれ戒めなさい、励ましなさい、助けなさいと勧められます。「戒めなさい」と訳されている言葉は、別の訳では「諭しなさい」です。カトリックのフランシスコ会訳では「けじめのない生活を送る人たちに忠告を与えなさい」と訳されています。

主イエス・キリストの教会では、むしろ、良く働けない人や気落ちしている人、弱さのうちにある人の方にこそ関心を持たれ、必要な励ましや助けが与えられるのです。元気が良い人、良く奉仕する人、強い人が脚光を浴びて賞賛され、そうでない人は打ち捨てられ除外されるというようなことではないのです。

 教会は、礼拝や祈祷会と言った内部の活動だけではなく、福音伝道や慈善の業など多くの働きを致します。この世の企業や様々な団体では、そのようなアクティブな働きに益をもたらす人が重んじられでしょう。能力が高い人、勤勉な人、強い人が求められます。しかし、教会ではそうであってはならず、さまざまな課題を持つ人にこそ関心が持たれ、互いに諭し合い、励まし合い、助け合うのです。主イエス様自身がそのような人であったからです。教会の内部において互いに務めるべきことは、同時に教会の外の人々に対しても求められるであります。

 15節では、「悪をもって悪に報いる」ことが禁止されています。そうではなく、悪に対しても、こちらは善で答えよと命じられています。自分が嫌な思いをした時、相手にも同じ思いをさせて良いということではなく、反対に、善で報いなさいというのです。そんなことをしていたら、損ばかりではないと思うかも知れません。しかし相手がどのような人であっても、こちらは、いつも公平に、正々堂々と良い態度で正しいことをすること、愛し合うことを神はわたしたちに求めているのです。人間的な思いで生きているなら、それは不可能だと思います。しかし、信仰をもって生きて行くなら、それが可能になるのではないでしょうか。

 実のところ、この世のすべての人もまた、そのように生きたいと心の底では願っているのだと思います。しかし、自信もないし確信もないので、いつも迷ってばかりいる、それが神様を知る前の私自身の生きかたでありました。聖書のみ言葉を読めば読むほど、ああ、わたしはこのように生きたかったのだと思い知らされるのであります。

 最後の20節と21節には、良いものを大切にし、悪いものから遠ざかるようにと命じられます。また19節には、預言すなわち神の言葉を重んじることと聖霊の恵みに生きるようにと命じられます。神の言葉と聖霊こそが、わたしたちの力なのです。

4、

 今年度の教会目標聖句として掲げています16節から18節をもう一度お読みします。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 「いつも」とは、元の言葉は「どんな時も」と訳すこともできる言葉です。フランシスコ会訳聖書は「いつも喜びを忘れないようにしなさい」と訳しています。わたしたちには、とても喜ぶことができない時がしばしばあります。そのことは明らかであります。それは大災害や戦争と言った大きなことだけでなく、日常生活においても、弱り目に祟り目、あるいは、泣きっ面にハチと言えるようなことを経験します。

寝坊してしまい、慌てて出かけたのはいいけれど、定期券を忘れてしまう。そこで切符を買っていたら、目の前で電車が行ってしまったというような小さなことでもわたしたちは簡単に動揺してしまいます。そんな時、わたしたちが喜びを取り戻すことができる方法は祈りであります。喜びと祈りとは結びついているのだと思います。本当に短い、短い祈りを心の中で神様に捧げるだけで平安を頂くことができるのではないでしょうか。どんな時も神が共にいてくださる。主イエス様はわたしたちを愛していてくださるので、喜びがあるのです。思いがけない出来事の中でも守られた、道が開かれたという経験をするのです。

ウエストミンスター小教理問答の有名な問いである第一問には「人間の主要な目的は何ですか」「人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです」とあります。その神を喜ぶことの引証聖句は詩編73編の24節から28節です。28節にはこう書かれています。「わたしは神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころをおく」。神が近くにいてくださること、共にいてくださって守ってくださることこそが、どんな時もわたしたちを喜びへと導いてくださるのです。

「絶えず祈りなさい」と訳されている言葉は、「やめることなく祈れ」と訳すことができる言葉です。祈りを止めないのです。わたしたちは祈りを止めてしまうことがあるからです。そうではなく、祈り続けるのです。祈る相手がいてくださる、祈りを聞いてくださるお方がおられることは喜びであります。祈りと喜びとは結びついています。

三つめに、「どんなことにも感謝しなさい」と書かれています。このこともまた喜ぶことと同じように、この世界と私たちの人生は、到底感謝することが出来ないような悲しむべきこと、嘆くべきことで彩られてしまっているように思えます。しかし、そんな中でも感謝するべきことはあると思うのです。なぜでしょうか。神が、主イエス様において、わたしたちに望んでおられるからであります。

18節の後半に、これこそ神が望んでいることですとありますが、「これらのことこそ」と言わずに、「これこそ」と単数形が使われていることには意味があるのではないでしょうか。つまり、三つのことは一つのこととして結合していると言わなければなりません。「いつも」「絶えず」「どんな時でも」という三つの場合、条件というのは、「喜ぶこと」、「祈ること」、「感謝すること」のいずれにもかかっているのです。ちょうど、外側の円に「いつも」「絶えず」「どんな時でも」と書かれていて、内側には「喜べ、祈れ、感謝せよ」と書かれ、そして両方の円がぐるぐると回転しているように、どれにも当てはまるのです。

使徒パウロの手紙は、冒頭に、差出人と宛先があり、それに続いて、多くの場合には祈りがありますが、パウロは、喜びをもって祈り、感謝していますと書いている場合がとても多いことが分かります。そして多くの場合、パウロは牢獄に監禁されていたり、あて先である教会が沢山の課題を抱えていたり、非常に困難な中でも、そうしているのです。むしろ状況が過酷であり、苦しみに満ちているとしても、その中でも主が共にいてくださることを喜び、祈り、感謝しています。神が、キリスト・イエスにおいて、望んでおられることにこの週も従って歩んでまいりましょう。祈りをささげます。

神さま、この熊本教会と私たちに、またこの世界に、どのような辛いことや悲しいことが起こるとしても、必ず神様は道を開き必要な助けをくださることを信じます。それゆえに、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができますよう導いてください。わたしたちの救い主イエス・キリストに言い尽くせぬ感謝をささげます。主の御名によって祈ります。アーメン。